4.気恥ずかしかった日

 





彼がいないこの世界は、白々しく、まるで現実世界のよう。

「今日、深層派の少女が彼に色々と吹き込んだみたいですね」
「…ああ」
「何の手も打たなくてよろしいんですか」

あるはずもない月明かりのような弱々しい光だけが、薄い闇に包まれた空間を描き出す。
色彩の狂いかけた奇妙な世界。けれど確かに彼の内側にある世界。
人格を持った自分たちの色が正常なだけ、彼に感謝するべきなのだろうか。
無論既に染められた後で、気付いていないだけということも有り得るが。

藍色の髪の青年を振り返りもせず、レモは窓に映る自分の姿を見た。
いつのまにか記憶があって、いつのまにか彼の理想とする『他人(友人知人恋人etc)』という修正を受けながら年月を重ねて。
「キョウコがどう動いたところで何の影響もないさ」
「しかし、」
「現時点で克也の信頼を勝ち得ているのはこちらだからな」
どう聞いたところで良心的とは思えないであろう台詞を吐いた。
彼の右腕ともいえる青年は「…そうですね」と笑いもせずかといって気分を害するわけでもなく、ただ相づちを打って話を切り替えた。
「その深層派の…首領とのことですが」
深層派の首領、という単語を聞いただけでレモは苦虫を潰したような顔をした。
一瞬にして、唇に触れた感触がよみがえってくる。
「……見てたのか」
「いざというときにフォローに入るのも私の役目ですから」
今回のは一瞬でしたので入る暇もありませんでしたが、と青年は至って真面目な顔で宣った。
レモはソファに腰掛けて、足を組んだ。
「陥落させようとする手には乗らないさ。…心配しなくてもな」
「そうですか」
「それより、理性派のことが気になる」
ネオと名乗った女。
彼の体内に属する派閥であるからには、目的は同じだろう。
しかし女性が首領だということになると、その動きは読みにくくなる。
いったいどうやって個体である克也にアプローチを掛けてくるつもりか。
「お手並み拝見、と言ったところでしょうか」
「…ああ」
あくまでも、その方法が読めるまでは。











教科書に赤線を引くレモの姿を見て、ボクは少し微笑ましくなる。
だって初日に彼は英語の授業で予習もせず、顔色一つ変えずペラペラと先生を受け答えをしていたのだ。
それが化学の授業では必死に聞いているだなんて、すごいギャップ。
「ではこの問題を境」
とか言って呑気にうふふっていたら当てられてしまった。
もう、レモのせいだからね!…うそ、冗談。
だけれど、黒板の前に立たされたボクはチョークを握りしめたまま棒立ちとなっていた。
エチルアルコールの生成熱が……二酸化炭素の燃焼熱があれだから…
ああ、ボクこういう計算とか組み立ててするの、全然得意じゃない。むしろ苦手。
よりによって………先生はどうして真面目に聞いていないときに限って当てるんだろう。
聞いてないから当てるんだ、とは言われるけど、ボクはそんなあからさまに聞いてませんよ、って態度してるわけじゃないのに。
「では、そのつぎは志賀」
!志賀君。
先生に当てられた志賀君は、動揺した様子もなくボクの隣で黒板と向き合った。
カリカリとチョークを考える間もなく動かしている。速いよ!
そして志賀君がちらりとこちらを見た。
教室内は暇そうな学生同士がおしゃべりしてざわついている。
「左下」
そう言って彼は先生の目を盗んでボクの手からボクのノートを引ったくり、代わりに彼自身のノートを押し付けた。
え、…。
そのまま志賀君はボクに背を向けて自分の席に戻って行った。
ボクは手にある彼のノートを見た。…左下、ボクが当てられている問題の答えが書いてある。
もしかして、否、もしかしなくとも……助けてくれたんだろうか?
あれ、…なんか…優しいのかな。
この間あんなこっぴどいことされたから、実は裏があるんじゃないかとも思わなくもないけど、…なんだろう。
彼がボク自身だからなのかな、どうも彼のこと怒れない。
どうなんだろう。分かんなくなってきた。夾子もああ言ってて。
……志賀君って優しいの?

休み時間。
ボクが授業中にレモに関して思ったことを言ったら、レモは、
「どうやら克也の中で僕は理数系が得意でないイメージがあるらしいのさ」
と、愚痴った。そう言われてしまうと、ボクはそんなつもりは、と言いながら目を泳がせるしかない。
…正直、あるのだ。
本当に軽いイメージだけれど、「レモって国語とか英語とかが得意そう〜」という発想が。
つまりそれは逆に別に理数系はそれほど優れていそうにないというわけで。
でも普通にこなせる程度だとは思ってるよ!
「…だから、うん、まあ普通には出来てるよ」
…レモの微笑が何か物言いたげなのは気のせいかな。
と、そこへ、夾子と志賀君がやってきた。
夾子の手は、志賀君の手首を握っている。
きっと無理矢理連れて来た結果なんだろうけど、ボクは内心穏やかじゃない。
いや、でも志賀君と夾子は同じ、あれ、深層派だから、そういう意味で仲が良いはずなんだ!
決して恋愛とかそういう…わけではないと思う、思いたい。
「克也、さっきの化学のノート見せてくれない?」
ええ、ボクの汚いノートを!?
「そうなの、さっきうっかり寝ちゃって…。志賀に言ったら、ないって言うし」
ああそれはボクがまだノートを返してないからです。
志賀君のノートはすごく無駄がなくてすっきりしていて、そのせいなのか必要最低限しか書いてなくて、途中の計算式とかすっ飛んでてボクには理解出来ない部分もあったのだけれど。
ボクの中に、志賀君は理数系が得意そうだなってイメージでもあるんだろうか。
でも志賀君は理数系というよりは、あまり苦手がなさそうな感じだ。まあ家庭科とか技術とかは駄目そうだけど。
「……」
…、…うん、そんな感じ。ということは、多分、志賀君も実際そんな感じのステータスなんだろうな。
言葉にしてみると、なんだろうこの摩訶不思議。ふわふわした漂っているような感じ。
「…志賀君、これ。ノート有難う」
とりあえずボクは志賀君にノートをお返しした。
彼は黙って受け取った。あ、なんか背中からレモの視線が痛い。
「なんだ、志賀ってば克也に貸してたからなかったのね」
夾子はあっけらかんとしている。そしてなんとなく機嫌が良さそうだ。
夾子の機嫌が良いと、ボクも嬉しい。
「そうだ、もうすぐテストだし、今度勉強会でもしない?」
魅惑の瞳。
いやいや、別に夾子にそんなつもりはないのだろう。
ただなんだか勉強会、に甘い響きを感じる。
あれかな、普段の学校以外でも会えるってことだからかな。
放課後。休日?どちらにせよ、美味しいシチュエーションだ。
ボクは有頂天になりそうなのをぐっと堪えて、「そうだね」と相づちを打った。
薄ら分かってるんだ。この流れは確実に志賀とレモも来るんだってことは。
映画のときみたいに二人で行くつもりであれば、夾子は始めっからボク一人に告げるはずだもの。
こんな二人の前で言い出すことはない。
「志賀もよ、分かってる?」
ああ、ほろ苦い。志賀君はうんともすんとも言わなかったけれど、あれは了承ってことなんだろうな。
レモはちらりとボクを見る。…いいよ、レモ、分かってるよ。いいんだよ。
「志賀が行くなら僕も参加させてもらおうか」
そしてレモと夾子の睨み合い。よくよく考えてみれば、この二人は仲が悪いのかな。
…だよね。夾子はレモのことを信用するなって言ってたわけだし…。
とにかくボクはこの剣呑な空気を切り替えようと、話を強引に変えた。
「ところでさ、その三人はやっぱり名前って偽名なの?」
そもそも名前までボクが付けたとか言わないよね。
「まあ、偽名…というよりは当て字かしらね」と、夾子が話に乗ってきた。
「そもそも名前ばっかりは克也が付けるものじゃないの。何となく仲間同士でああだこうだ言って付けるものなのよ」
「夾子はどうして夾子なの?」
「語呂が良かったのよ。それか、克也の幼稚園とか小学校の頃の友人にいたとかね。要するに、その『名前』が克也の中に入ってこないといけないわけだから」
「ああ…」
意外と適当なんだ。
志賀君もレモ情報では正式には『シガ』だからそれほど当て字には無理はない。
でも、その寸法でいくと。
「レモはどうして麗斗なの」
「どうしてって」
「どうせなら檸檬の方が良かったんじゃ…」
……うわ、レモの微笑が引きつってる。ボクは何かいけないことを言ったんだろうか。
「…確かにな」そして珍しく志賀君の同意が得られた。…やっぱり、言ったのかな。





ふわふわふわ、と夢を見た。
だけれど目覚めたら覚えていなくて、真夜中だったこともあり、ボクは二度寝した。
「そこまでは、僕らの干渉範囲じゃないよ、克也」
それでボクって何の夢を見ていたのか気になって、…なんとなく気分の良い夢だったのは覚えていたから、レモに聞いてみたらこの返事。
夢幻派って名前だからもしかしたらボクの見た夢くらい知ってるかと思ったんだけど…。
「まあ覗こうと思えば覗けるけど、それじゃあ克也の気分が良くないだろう」
そうだね。でもやっぱり、覗けるんだね…。ボクのプライバシーっていったいどこに行ってしまったのやら。
え?レモはボクでしかないんだから問題ない?
うぅん、でもさ、やっぱり人格を持っちゃったらしい時点でボク的にアウトだと思うんだけど。
いくら小さい頃から一緒にいたとはいえ、そのボクもお年頃だから隠したいことも色々とあるわけで。
……まだないけどさ。
「夢幻派がボクの夢を覗けるのは分かったけど、ボクはレモ達が何かしてるのを覗いたりは出来ないんだよね」
「今こうして見てるじゃないか」
「そうじゃなくて、なんていうか、ボクが此処にいない間の此処のこと」
「まあ外から中を見るのは無理だね」
…なんだか今、すごく当たり前のことを言われたような気がする。レモの顔にもそう書いてあるし。
でも外にしても中にしてもボクがボクを見ようとして見れないってどういう理屈なの?
「体内が見れないのと同じことだよ。克也の眼球は外側しか見れないような位置にあって、眼球は眼球自身の内側を見ることはない。」
ボクの頭はそういうことを聞かされて一瞬パンクしそうになる。
…まあ、なんとなく分かったけど、レモ達はそういう物質的なものと同じ説明でいいの?
体内に属する彼が言うのだから事実なのだろうけれど。
…同じ体内派だとしても、もし心臓とか胃袋に意思があってこんなふうに会話することになったりしたらシュール極まり無い。
「ところで、志賀君のことなんだけど」
そろそろ話を切り替えよう。だけれど、レモは志賀君という単語が出ただけで目をつり上げる。
夾子とレモの関係から薄々気付き始めた。というよりボクが鈍過ぎただけで、夢幻派と深層派ってかなり仲悪いの?
散々レモから注意は受けて来たし、なんだっけ?「深層派は克也を飲み込もうとしている」とも言っていたし。
そもそも志賀君はボクにその…二度ほど手を出そうとしてきたわけなのだけれど、それでどうやってボクの身体を飲み込もうって言うの?
「飲み込むというのはあくまでも比喩表現であって…」
レモがまごつき始めた。こうなると確実に曖昧模糊るんだよね。
そう言いたげなボクの視線を受けてか、レモは二、三度瞬きをして考える素振りを見せた。
うん。レモは少し考えてから話した方がいいよ。自然に任せるままに喋るともやもやになるみたいだから。
「現在、克也の中の派閥間の勢力は拮抗した状態にあるんだ。それで安定しているのなら我々も文句はないのだけれど、どうやら深層派はそうではないらしくて、体内の優先権を得たがっている」
「優先権?」
「…。克也の世界の言葉で言えば支配権かな。…とにかくそう、僕はあまり生々しいことは言いたくないのだけれど、克也の…その…精液に触れると、精神体の活力が高まって…内側から克也の身体を支配することが可能になるという、ね」
ぶは!ちょ、ちょっといきなりそんなセクシュアルな単語出さないでよ!気恥ずかしくなるじゃない。
と、ボクはそう言おうとしたのだけれど、レモの表情は至って真面目。
ていうか支配されるって、ボクすごい困るよそれ。
ていうか、ちょっと待って。
「そそそそそれって、出すだけで駄目ってこと?」
「……まあそういうことかな」
出すだけで駄目って、困る、すごい困る!
だって将来もし夾子とってちょぉっとボク何考えてんの冷静になれわああ。
「…そこのところは心配しなくとも、そういう影響が生じるのは各派閥の首領だけなんだよ、克也。まあ、持ち帰られたら同じことかもしれないけれど」
あ、……それはよかった。いや、全然よくないけど。
持ち帰る持ち帰らないとかレモも生々しいからやめてよ!今日に限ってなにその具体性。
「僕だって本当はもう少しぼかしたいさ」
うう分かってるよ、はっきりした説明を求めたボクのせいだっていうことは。
「ところで、シガのことで別に聞きたいことがあるんだろう?」
「あ、うん」
そうだよ、こんな露骨な話をしようと思ったわけじゃないんだった。
ああでも、今の話を聞いた後だとなんだか言い出しにくいかも…。
「その…志賀君って本当にそんな…悪い人なの?」
そらまた目がつり上がった。
多分レモにしてみれば、今説明しただろうってことなんだろうけど。
つまりは、レモが気分を害するような人なんだよってこと…志賀君が。
「あいつは深層派の首領だ。良いわけがない」
ボクを支配したがる派閥の代表ってことだもんね……そりゃそうか。
「でも、夾子も志賀君もそんなに悪い人には思えないんだけど…」
「でなければ、どうしてシガは克也を襲おうとなんてする?」
う。それもそう。
だけど、ならどうして今日とか彼は優しくしてくれたんだろう。
ボクを油断させようとかそういう寸法なのかな。




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