3.心臓がうるさかった日

 



夏の日差し照りつける教室の窓辺。
夏服の少年少女達。
溶けかかっているアイスバー。
ボクの視界に映る世界のどこを切っても張っても夏色だけれど、
ボクの心だけは春爛漫。可憐な花々が一面に咲きこぼれている。
あ、ちょっとレモ、そんな変な目で見ないでよ。
別にボクはおかしくなんてなってないよ。
「分かってるさ。彼女からのデートのお誘いがあったんだろう」
うわやだ見てたの恥ずかしいなぁ。
でも、そう、何を隠そう今朝方、ボクの想い人である夾子が放課後映画に行かないかと誘ってくれたのだ。
当然ボクの心はその約束した瞬間から浮き足立ち、昼休み現在も地面に全く足がついていない状態だ。
ああ、早く放課後にならないかな。
「克也、ほら…弁当箱が落ちたよ」
レモはそう言って落ちそうになった弁当箱を拾ってくれた。
ごめんレモ、ボクはどうもはしゃぎ過ぎちゃっているみたいだ。
だけど、みんな恋したらこんなもんじゃないかな。





おどろおどろしい映像が連続する。
「克也、ホラー大丈夫よね?」
夾子は映画が始まって以来黙りこくったままのボクを気づかってか、囁いた。
ボクは肯定の意味として頷き、映画に集中したふりをした。夾子も「そう」と画面に視線を向けた。
本当は映画よりも夾子が気になって仕方がないのだ。
横顔がまた魅力的で、ボクの胸は高鳴る。
…志賀君もレモもいないんだから、これってデートでいいんだよね?
横に置かれた彼女の手。手とか繋いでみたりしたほうがいいんだろうか。
そう思っても手を伸ばせないのは、嫌われてしまったらどうしようとか考えているからで。
ボクってつくづく意気地のない男だなぁ…。
「…克也」
そんなことを考えているボクの挙動が怪しかったのだろうか。
夾子がボクを見つめていた。
大きくて真ん丸な瞳。吸い込まれてしまいたいくらいだ。
心臓がどっくんどっくん脈打っているのを押さえ込みながら、
「なに?」とボクは視線を合わせた。
「…志賀のことなんだけど」
「うん」
心臓が少し静かになった。ちょっとボクの心臓極端にがっかりし過ぎるよ。
でも志賀君のことって、…まさか「好きなの、協力してくれない」とか、そういう。あああ。
「志賀が克也にやったこと…」
「え」
「ちょっと訳があって、怒らないでやってほしいの」
志賀君がやったこと…ボクに。あれだよね。放課後の教室で襲ったことだよね。
力が強くて、同じ男なのに突っぱね返すことも出来なくて。
レモも殴られて相当痛そうだった。
それでその後殴り返したから、結局二人とも次の日に同じとこに痣出来ちゃってて。
クラス内で転校生二人は殴り合いでもやったんじゃないか、っていう実は当たってる噂が流れたりもしたんだ。
でも。
「夾子がどうして志賀君がボクにやったことを知ってるの?」
あのときボクと志賀君以外は誰もいなかったはずなのに。
すると夾子は、逡巡したのち、
「あたしも志賀と同じなの」
と、言った。同じって…、もしかしなくとも、あの志賀君が属する『深層派』だって言うこと?
夾子は頷く。だって同じって言われて他にボクに思い当たる節がないんだもの。
あ、でも今更ながらこの問いかけって気軽にしていいものじゃなかった気がする。
深層派とか夢幻派とか、全く関係ない人が聞いたら何こいつ?とか思うかもしれないし。
今回はたまたま夾子がそうだっただけで運が良かったのかも。
…ああ、それにしても驚いた。
まさか夾子までボクの中の人だったなんて。
…中の人?つまりあれボク?ボクの中にある派閥ってイコールボクってことなのかな?
ああこんな土壇場(?)で混乱するくらいなら、もっとレモにちゃんと聞いておけばよかった!
聞いたところでわけが分からないのは同じかもしれないけれど。
ボクは俯いた。ボクの恋心にとって大きな問題が発生したことに気付いたからだ。
「…夾子は、レモや志賀君みたいに人とは断言し難い存在なの?」
「…そうね」
ボクは夾子が好きなのに?という言葉はぐっと堪えた。
むしろこんな状況になってもまだ言う勇気がない。
「…!」
そんなとき、心臓が再び飛び跳ねた。
手に感じた温もり。夾子がボクの手を握ったのだ。
ボクはハッと夾子の顔を見上げた。
「でもね克也。あたしいつかは人間になってみたいの」
どうしてこんな温かいのに人間じゃないなんて言うんだろう。
「出来るの?」
「分からない。出来るかもしれないし…無理かもしれない」
夾子の瞳が揺れる。哀しみを映し出した横顔。
彼女のそんな表情を見たのは初めてで、ボクは胸が苦しくなった。
「ねぇ克也……」
なに?
「あいつを信用しないで」
あいつって、レモのこと?と聞き返すと、夾子は肯定した。
どうして?
…ボクは頷けなかった。











部活動をする生徒達の声が飛び交う放課後。
レモはベランダから昇降口を歩く小柄な二人の男女の姿を見送ると、くるりと後ろを振り返った。
「克也が日々楽しそうで何よりだ」
「……」
「深層派は克也を誘惑させるためにあの少女を送り込んだのか?」
微笑んでいた口元を皮肉げに歪める。
シガは無表情のまま、醒めた眼で瞬きした。
「あれが勝手に個体の身辺に潜り込んだだけだ。俺は何も言っていない」
「彼女の動きが深層派にプラスになると踏んで止めなかっただけじゃないのか」
「…さあな」
全く興味なさげに、シガは窓枠に寄りかかった。教室の中には誰もいない。
でなければ、このような会話を堂々と繰り広げられるはずもないのだ。
レモはシガの微動だにしない表情を不快げに眺めた。
「…先日のような克也を強引に押さえつける方法は、どうあっても許容出来ない」
……今日、彼がシガに対し妙に辛辣な態度なのはその件のせいらしい。
シガはゆっくり瞬きを返した。
「なら夢幻派のように個体を懐柔するほうが『良心的』だと言いたいのか?」
「!……」
痛いところを突かれ、レモは言葉を詰まらせた。
その無表情な眼差しときたら、なんて忌々しいのだろう。
「…『良心的』だとかそういった問題じゃあない。克也の心にかける負担の話だ」
「こちらは心までは必要としていない。ましてや、良心的なものでないというのなら、キョウコの手段を非難する理由もあるまい」
「彼女のやり方は…!」
言葉が続かない。
決して夢幻派だからといって説明が苦手なわけではない。
単純に規制事項が多いだけなのだ、己を含めた派閥内の感情論的に。
そこにシガが追い打ちをかけた。
「所詮懐柔も誘惑も同じことだ」
「っ僕は誘惑なんてするつもりはない!」
そして「我々は」ではなく「僕は」という個人的な面が出てしまったのも、己自身の感情論的な面が大きい。
レモは舌を噛んで死にたくなった。
「それは残念だな」
「何が、……っ!」
顔を上げた瞬間、唇を塞がれた。
何が起こっているのかが分からず、眼を見開く。
下唇を、湿った何かがなぞる。
途端に自分が何をされているのか理解して、レモは思い切りシガの身体を突き飛ばした。
シガは、血の滲んだ唇を舐めながら、
「じゃじゃ馬だな」
と、レモの顔を見た。相変わらずの無表情でだ。忌々しい。
レモは乱暴に自分の唇を制服の袖で拭いながら、吐き捨てた。
「…いきなり気色の悪いことをしてくるお前が悪いんだろう」
「個体とするのはこれ以上のことだ」
「だからって、どうして僕がお前とこんなことをしなくちゃいけないんだ」
シガに背を向け、ベランダから教室内へ戻る。
ぴたりと足を止めた。教室のドアに寄りかかり、こちらを見ている生徒がいたのだ。
真っ直ぐ伸びた髪がさらりと揺れる。
「驚いたな、二人がそんな関係だったなんて」
長身の女子生徒、だが同類が見れば普通の人間ではないと分かったろう…はレモとシガに微笑みかけた。
「はじめまして。今度から君たちの先輩になることになった理性派のネオだ。よろしく」











眠りについたボクは、いつものようにレモの隣に腰掛けた。
「克也、夾子とのデートはどうだった?」
レモはボクが夾子と映画に行く際、見送ってくれたんだ。
まあ結果くらいは報告しておかなきゃかな。
「楽しかったよ。…手は繋げなかったけど」
「そう」
夾子が深層派だということをレモは知っているのだろうか。
志賀君のことを前もって知っていたくらいだから、知っているのかもしれない。
でもそれならどうして、ボクと夾子の仲を応援してくれるんだろう。
あまり都合が良さそうには思えないけれど。
そんなボクにレモは、 「…何か夾子に言われた?」と、一言。う…鋭い。
「ど、どうして?」
「何か考えてます、って顔に書いてあるからさ」
長い付き合いだからかな、レモには隠し事は出来ないや。
ボクはわざとらしくため息をついた。
「ずるいよレモ。ちょっとはボクにも悩み事くらい抱えさせてよ」
「ああ、ごめん」全然そんなこと思ってないって、レモこそ顔に書いてあるんだけども。
「でもレモ。何でもないんだ」
ボクは誤摩化した。
レモは「そう」とそれ以上追及してくることはなかった。
ボクはレモが曖昧な受け答えをするともどかしく感じたりするけど、
レモはボクがそういう答え方をしてもあまり気にならないみたい。
でも…なんで誤摩化したんだろう。多分…、最後に夾子に言われたことが気になったからだ。

___あいつを信用しないで。

ボクは頷けなかった。志賀君のことは、うん、とりあえず普通に接してみるけど。
…夾子のことは入学した時から、好きだよ。
だけれどレモとは子供の頃からの付き合いで、信頼もしている。
それをいきなり信用するな、と言われたところで、出来るはずもない。
「…ねぇレモ。ちょっと肩借りてもいい?」
「勿論。眠いなら寝てもいいよ」
「…じゃあ、ちょっとだけ」
夢の中で眠るのがおかしいだなんて今更思わなくなった。
瞼を閉じる前に見たのは、彼の微笑み。
……ねぇ、ボクはレモを信じてるからね。


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