2.戸惑った日

 

SHR前。
ボクは歯痒い憂鬱。
視界右七十五度約一メートルの距離にあるのは、志賀君に話し掛ける夾子の姿。
ボクの隣席のレモは志賀君には気をつけろ、と言っていたけれど、
正直ボクより夾子が気をつけたほうがいいんじゃないかと思う。あくまでボクの主観。
でも志賀君は印象としては控えめな人だし、そんな危険とされるようなことはしなさそうなんだけれど……。
そもそも「危険」だの「飲み込まれる」だの、レモの言い方は抽象的過ぎて分からないよ。
なんだろう、昨日聞いた話によれば、レモは夢幻派で志賀君は深層派なんだっけ?
文字通りレモは夢の中の人だから、話し方も自然とそうなるのかな。
夢って朧げなものだ。
「レモ、昨日のあれってどういう意味?」
だけど、現実世界にいる今なら、もっと具体的に言えるんじゃないのかな。
と、ボクは自由なる勝手な発想をレモに押し付けた。
彼は、缶のストレートティーを飲みながら、ボクに流し目をくれてやった。
……それ女の子にやったらメロメロになっちゃいそうだからやっちゃ駄目だよ。特に夾子とかにはね!
それにしても、レモに紅茶類ってボクのイメージに沿い過ぎていて笑いたくなる。
やっぱりレモは『ボクの人』なんだな、と。
「その話はまた今度。此処じゃあ話せないから」
此処ってのは教室のこと?それとも、現実世界ではタブーなのかな。
どちらにせよ、彼はボクの淡い期待をあっさりかわしてみせた。
「今度って?」
「夢の中で。」
何処でもいいけれど、今度はもうちょっとはっきり言ってね。





レモに『危険』がどういうものを指しているのか追及する前に、機会はやってきてしまった。
なんの機会かって、ボクと志賀君が二人きりになるような。
ボクはてっきりもうちょっと先のことかと思っていたんだけれど。
「〜〜っ」
黒板消しから生まれるチョークの粉に噎せ返る。
これは錯覚なんだけれど、黒板消しに蓄積しきった粉って際限がないように思えてしまう。
簡単に言うと、はたいてもはたいても出てくるみたい。
ボクが軟弱だから、余計に時間がかかるせいもあるのかな。
第一、いまどき黒板消しをベランダではたく学校も珍しいよ。類い希なる存在だよ。重要文化財だ。
それでもどうにかボクが教室に戻ると、志賀君は箒を片手に真面目に掃除をしていた。
つまりあれ……掃除当番。
ボクの名字は「境」だし、志賀君はそのまま「志賀」だし、やむを得ないよレモ。
レモも「瀬川」だからサ行で近いはずなんだけれど、運悪くというか……。
他の掃除当番に人たちは掃除もせずに帰ってしまい教室にはボクと志賀君の二人だけだ。
危険、なのかな。
ボクは机を並べながら、志賀君とは適度に距離を保っていたつもりだった。
のに。
「▲◯$っっっ!」
いつのまにか志賀君が真後ろにいた。
怖いよ素早いよぎょっとするよ。背が高いからなんか圧力もあるし。
彼はボクの肩に触れた。せめてウンとかスンとか言ってよ!
「粉。」
はっ。
ボクは自分の肩周りを見た。点々と白く染まっている。
志賀君はそれをはたいてくれていたのだった。
「あ、ありがとう」
結局その後は何もなくて、ボクは普通に家に帰ったんだ。

だからレモ、その何もなかったんだよ、うん、拍子抜けするくらい何もなかった。
「そんな一回こっきりで油断するなんて駄目だよ、克也」
こっきり。
レモは自分をボクの中にある存在だと言うけれど、ボクはそんな言い回しはしないんじゃないかな。
もしかしてレモ自身の”個性”ってやつ?そりゃすごい。
「でもさレモ、志賀君って悪い人には見えないよ。ボクの中の存在だってのなら尚更。」
「シガは克也の中にある存在だけど、シガは克也とは違う。」
出たよまた曖昧モコモコな発言が。
そんなボクの視線を受けてか、レモはごほんと咳払いした。
なんだかムキになっている彼も珍しい。
「確かに僕らは克也の思想や願望を強く反映するけど、一人一人にはちゃんと明確な人格があるんだ。」
「一人一人って、他にもいるの?ボクの中の人が。」
「勿論。一人で派閥なんて名乗ったりはしない。」
うあ……ボクの体どうなってるのかな。開けてみたくないな。
「開けても何も見えないよ。僕らは物質的な存在じゃない。」
でも、現実世界での君は触れるよ?
ボクの言葉にレモは頭(かぶり)を振った。
「触れるようにしているのさ。でも紛い物には相違ない。」
紛い物。
ボクはふと、胸に寂しさを覚えた。
物心ついた頃からこの世界で一緒にいて、やっと現実世界でも会えたのに。
それが紛い物だなんて言い方、悲し過ぎる。
「ごめん克也。でも僕は……」
レモは何が言いたげにしていたけれど、結局口を噤んだ。
そしてボクを抱き寄せて、
「時間だ。シガには気を許してはいけないよ、絶対に」







レモには何も聞けずじまい。
ボクはもやもやとしたものを抱えながら、日直としての仕事に精を出していた。
精を出す、とは言っても、所詮日誌を書いて窓の開閉、カーテンをまとめる程度だ。
けれど、ボクは背中をぴんと伸ばし、緊張を体全体に張り付けていた。
「し、志賀君。」
日直は二人一組なのだ。
志賀君は窓の鍵を閉め終えると、振り向いた。
無表情で、注視してくる。
「志賀君は、レモとは転校してくる前から知り合いなの?」
「……否。」
違うらしい。
でもレモはすぐに志賀君が『危険』だって分かったんだよね。
……結局、何がどう『危険』なのだろう。
ボクは日誌をぱたりと閉じた。自然と逃げ腰になる。
「レモは志賀君のことを危険だって言ってたよ。」
「……」
「危険って、どういうこと?」
危険に何が危険なのかと聞くのは危険だということは承知しているけれど、
やはり危険がどう危険なのかボクは知っておく必要がある。
志賀君はボクをじっと見た後、無感動に、
「……なんだ、もうあいつから聞いてたのか。」
突然襲いかかって来た。……これじゃ描写が怪獣みたいじゃない。覆い被さってきた、に修正。
せっかく整頓した机が、ガタガタンっと音をたてて倒れ、ずれていく。
ものすごく近くに、志賀君の鋭くてそれでいて感情の読み取れない眼があった。
ボクは息を飲んだ。掴まれた手首が、ものすごく痛かったのだ。
彼は澄ました顔のまま、骨が折れるほどの力を入れている。
レモと同じ、ボクの中にある存在だっていう話なのに、随分人間味に、欠ける。
ボクは悲鳴じみた声を上げた。
「志賀君、痛いよっ」
「お前は俺になり、俺はお前になるんだ。」
意味分かんない。これってボクの頭が足りないとかそういう問題じゃないと思う。
いたいよ、いたい、酷い。
ひん剥かれてる。制服。
志賀君の瞳は、ボクを見ているけれど見ていない。
義務的に行っているだけで、無関心だ。
「志賀く……」
ボクは名前を呼べなかった。
志賀君の体が、不意にボクから離れた、否、引き離されたからだ。
「全く、人が職員室に言っている間に……油断も隙もないな」
レモだった。レモは志賀君の襟首を掴み、今にも殴らんばかりだ。
助けてくれて嬉しいけど、ちょっとそれはまずいよ!
だけれどボクがそう言った隙に、志賀君がレモの頬を殴った。
そりゃもう綺麗に右ストレート命中。痛い!ごめんレモ!
「貴様……」
言葉遣いが悪い以前に、レモは相当な怒りを覚えたようだった。短気は損気だよ!
だけれど、腫れた頬が痛々しい。
そしてボクが止める間もなく、志賀君を殴り返してしまった。
志賀君は勢いよく机に突っ込んだ。頭とか打たなかったかな……。
「行くぞ、克也!」
レモはボクの腕を掴み、教室から連れ出した。
怒っているからなのか、彼は夢の中とは口調が違う。
もし此処があの世界であったなら、「行くよ」って言ったはずだろうに。
「あの世界には深層派はいないから。」
レモはぷりぷりしながらボクを家まで連れて帰る。
きっとあの世界なら、レモの苛々する理由がない。そう言いたいのだろう。
「でも……」
夕日がぽっかりと空に浮かんでいる。
夕日が上がるのは西の空だっけ東の空だっけ、とボクは考えながら、必死に歩調をレモに合わせた。
「どうして志賀君はボクを襲ったりなんてしたのかな。」
怖かったし痛かったし。
……ごめんレモも痛いよね。志賀君すごい力だったから。
レモは眉間に皺を寄せたまま、少し歩くペースを落とした。
「あいつらは克也の体が目当てなんだ。」
喉の奥から絞り出したような声。
気のせいなのかな、少し辛そうに見えた。
ボクは、レモの学ランの袖を掴んだ。
「レモは?」
「え」
「レモは何のためにボクの夢の中から出て来てくれたの?」
そんな戸惑ったような眼で見ないで。
「勿論、克也を守るためにだよ。」
彼はボクの眼を見ながら、その戸惑いを打ち消すように、しっかりと唇に微笑みを刻んだ。









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