1.越えた日

 

現実とは一線を引く紫色の澄んだ空気。
紫なんて見方によっては汚い色に思えるけれど、此処では他のどんな色よりも綺麗だ。
ボクは現実世界にこの空気を持って帰りたくて、何度も何度も諦め悪く手を伸ばし空を切らせた。
「克也、いくら頑張ったって形のないものは掴めないよ」
ボクの隣で大人びた青年が笑う。彼の名前はレモ。
レモのことは物心ついたときには既に知っていた。
だから多分、幼馴染みだ。ただし、この世界限定の。
現実世界に、彼はいないから。
「じゃあビニール袋に詰めれば持って帰れるかな。」
「出来るけど、色は残らないよ」
彼は細くて白い指で、ボクの手を下ろさせた。
そしてそのまま、ボクの手に唇を寄せる。
本来男同士なら嫌悪なり抵抗なりを覚えるものだろうけれど、不思議とそんな感情は湧き上がって来ない。
触れるか触れないかという軽い口付けをし、彼はボクの手を放した。
そう、例えるならレモは『王子様』だ。
おとぎ話を信じている子供でもあるまいし、何を言っているのかと思われそうだけれど、
ボクにとっては他にピタリと当てはまる単語が見つからない。
いいじゃないか、所詮此処は現実世界じゃないのだから。
彼をどう形容しようとボクの勝手だ。
「レモ、今日ね、学校の友達から聞いたんだけど、転校生が来たんだってさ。」
「……転校生?」
「ボクは学校休んだからどんな人なのかは見てないんだけど、電話では男子だって聞いたよ。」
レモは親指を唇に当て、真面目な顔をしていた。
なんだろう。転校生のことが気になるのかな。
彼がボク以外の人間に興味や突っ掛かりのようなものを持つなんて初めてだ。
「レモ、どうしたの。」
尋ねても、彼は柔らかく微笑むだけだった。
「……なんでもない。それより、克也もう朝だよ。帰らないと。」
「あ、もうそんな時間なんだ。」
彼はボクの額に口付けを落とした。
帰らなければならないのは、ボク自身が一番分かっていて、ボクの意識は急浮上を始める。
「気をつけて。」






教室に入って席に着くなり、夾子がボクのところへやってきた。
夾子はクラスメートで、知り合ったのは高校一年生のとき。
「これ、昨日休んだ分のノート。もう大丈夫なの?」
「うん、有難う。」
借りたノートを開けば、彼女の色づいた文字が今にも踊り出しそうに並んでいる。
女の子のノートなんて夾子のしか見たことないから分からないけど、皆こんなふうにカラフルな色遣いをしているのだろうか。
板書なんてゆっくり書かれているわけでもないのに、大変じゃないんだろうか。
「で、昨日の転校生ってのがあれよ。」
夾子は遠慮なく廊下の方向を指差した。
人を指差すときは、もうちょっと遠慮しようよと思ったけれど、そんな率直さは彼女らしさの一つだ。
「あの身長の高い人?」
「そうね。あたしの読みでは180はあるわね。」
夾子によって紹介されているとも知らずに、転校生は廊下で担任の亜崎先生と話していた。
腰くらいまでありそうな真っすぐで長い髪を後ろで一つに結んでいて、ボクとは違ったシャープな顔立ち。
先生と話していても無表情でちょっと近寄りがたそうな雰囲気を醸し出している。
そして何故なのか、今日の夾子はどこか生き生きとしている。
もしかして夾子は彼みたいな人がタイプなのかな。ボクは溜め息をついた。
……実はボクは夾子が好きだ。今の関係が壊れるのが嫌で、気持ちは伝えていない。
それなのに、夾子が他の男子と仲良くなるのは嫌だなんて、自分勝手なことを考えたりする。
……ボクは彼と比べて小さいし童顔だし髪もストレートじゃないし、勝ち目ないだろうな。
「あ、話終わったみたいね。」
亜崎先生は教室へ入らずどこかへ行ってしまい、彼だけが教室へ入って来た。
誰にも挨拶せずに、無言で席に着く。席が少し近い。
夾子は飛び跳ねる兎の如く、軽々とした足取りで彼の席へ向かった。
もしかしたら、ボクの一年越しの恋は、一日休んだだけで終わったかもしれない。
ちらりと視線を送れば、二人は昨日出逢ったばかりのはずなのに、妙に仲睦まじげだ。
……亜崎先生が戻って来た。すらりとした長身の男子生徒を連れて。
「静かに。今日『も』転校生を紹介する。」
二日連続同じクラスに転校生とかどうなの?
とか、そんなことどうでもよくなるくらいに、ボクは驚いてしまった。
「レモ!?」
その男子生徒は、ボクの夢の中でしかいない彼だったのだ。



突然立ち上がって叫んだボクを、クラスの皆が注目していた。
満場の人間すべての視線が自分に向けられるなんて今までなかったから、ボクはうわあと再び叫び赤面してしまった。
レモは、ボクに微笑みかけるように自己紹介した。
「瀬川麗斗です。よろしく。」
ボクは思わず床にぶっ倒れそうになるくらい、ズギューンと胸を貫かれた。
すごいや、本当にレモなんだろうか。
彼はボクの隣の席に座るよう指示された。先生、有難う!
レモを目の前にしたボクは、授業なんかてんで耳に入らなかった。
休み時間になるなり、
「本当にレモなの?」
と、詰め寄る始末。
普通なら信じられないけど、夢の中の存在でしかなかったレモが、この現実世界で、ボクの横に座っていた。
もともと現実世界にいたとかいうことはない、決して。
だとしたらどうやってボクの夢に入ってくるというのだろう。
確かに、夢の中から出てくる、っていうのも同じくらい非現実的だけれども。
「そうだよ、克也」
夢の中と同じ微笑み。呼び方といい、(変な言い方だけど)ボクのレモに間違いない。
レモはあの世界と違って、ボクの学校の制服である学ランを着ている。
なのに……なんだろう、やっぱり普通の感じがしなかった。
顔がいいからかな。そこらの男子生徒とは質が違うもの。さすがボクの王子。
「なになに?知り合いなの?」
夾子だ。ああどうしよう、もしレモまで夾子のタイプだったら。
昨日の転校生……名前なんだっけ、そうだ志賀君だ。
彼も他の男子生徒とは一線を逸してる。
女の子って、やっぱり凡人よりは非凡人のほうが惹かれるんだろうな。
レモは夾子に視線を向けた。
「……分かってるくせにさ」
爽やかに微笑む。だけど長い付き合いで分かる。レモにしては少し意地悪い口調だった。なんで?
そして彼はボクの袖を掴んだ。
「昨日転校して来た奴ってどいつ?」
「え、あそこの……志賀君。」
レモの席の斜め前だ。ボクらの席が中央だとすると、彼の席は廊下側だけど。
夾子に注意したくせに、ついついボクも指差してしまった。
志賀君は気付いたみたいだった。
彼はボク達を見ていたし、レモもニヤリと微笑んだように見えたから。
その間、レモ、夢の中より強引だなあ、なんてボクはどうでもいいことを考えていたけど。
……もしかして、彼は夢から出て来れてはしゃいでいたのかな。



授業中、ボクは黒板も見ずにレモばかり眺めていた。
無理もないじゃないか、だって嬉しいんだもの。
カッコいいなあ。これどんなマジック?
頬杖つくだけで”さま”になってる。
ボクの夢の中でしか会えないと思っていたのに、本当に夢みたいだ。
ボクはちゃんと起きているんだろうか?
彼の夢を見ているんじゃないだろうか?
でもこれが夢なら、現実のボクは何処に行ってしまったの?
「克也、落ちたよ。」
「っえ?」
消しゴムだ。レモが拾ってくれたみたい。
その消しゴムを受け取って、手のひらで転がした。
おかしい。夢の中じゃこんなことなかったのに。
なんだかレモを見るだけで、ドキドキしてしまう。
恋とは少し違うような……ドキドキよりキュンキュンというか……
表現が気持ち悪いのは自分でも分かってるけど、それしか言い様がない。
「じゃあここを瀬川。」
と、英語教師の……名前忘れちゃった。
瀬川?瀬川ってレモのことだよね先生。
レモ英語大丈夫なのかな。……ボク英語なんて教えた覚えないよ。ボク自身苦手だし。
けれどボクの心配は杞憂に終わった。
レモは先生顔負けの発音で、教科書を読んでのけたのだ。
「レモすごいね!」
小声で言う。だってボクの夢の中から出て来たわりに、英語が得意だなんて反則じゃないか。
するとレモは唇に笑みを乗せ、
「克也のおかげだからさ。」




昼休み。
もうボクはどうしたらいいんだろう。
夾子が志賀君を連れて、ボクの席までやってきた。
もし「付き合う事にしたの!」とか宣言されたらどうしよう。
一週間くらい立ち直れないかもしれない。
「志賀 一君よ!克也、よろしくしてあげてね!」
うう、どうしてボクに言うんだろう。でも、彼は悪くない。よろしくしないと駄目だよね。
志賀君はボクを見ただけで、何も言わなかった。
「もう、無愛想なんだから!」
夾子はそんな志賀君の頭を叩いた。
ボクの隣でレモがくっくと笑っている。
「二人は仲がいいみたいだね、克也。」
やっぱりレモにもそう見えるんだね……。
すごい複雑だ。
将来、ボクは二人の仲人をしなければいけなくなるんだろうか。
ボクは、仲のいい二人を見ているのが辛くて、レモを連れて教室を出た。
彼は、へこんでるボクを気遣ってか、学校を案内してくれないかと言った。
「でも」
それだと、志賀君が夾子に学校案内を頼んだりするかもしれない。
それならいっそ、ボクが志賀君もレモもまとめて案内しちゃった方が無難というか。
「そうだな。彼も一緒の方が手間が省けるし、そうしようか。」
「レモ……」
どうしてボクの言いたいことが分かったのだろう。
長い付き合いだからかな。
もしかしたら、夢の中でボクはレモに夾子のことが気になるって言ったかもしれないし。
「うん、じゃあ放課後に。」
昼休みじゃ短過ぎるから。
本当なら正面切って、ボクが夾子に気持ちを言えればいいのにね。
でも星の数ほどいる男の中で、彼女がボクを選んでくれると思えるほど、自惚れられないし傲慢じゃない。
だからまだ、友達でいられたらいいな。



放課後になって、ボクは志賀君とレモに学校案内をすることになった。
けれどどうしてか、夾子も一緒に来てしまった。
夾子は、志賀君の隣を歩いている。
「……克也、ごめん。」
しょうがないよレモ。
うーん、やっぱりボクはレモに夾子のこと言ったのかなあ。
音楽室を案内したのち、ボクはトイレに行きたくなってしまった。
「行って来たら?待ってるから。」
と、夾子。
ちょっと不安だけど、大丈夫だよね。






「なら俺も。」
と、言って克也に続こうとした志賀を、レモが呼び止めた。
「待てよ。それで、はいそうですか、と、簡単に行かせると思うのか?」
「……」
「深層派」
レモは唇を笑みの形に歪め、腕を組んでいる。
志賀は表情をぴくりとも変えず、抑揚の感じられない声色で、
「夢幻派はわざわざ大将のお出ましか。」
「ああ、どうも初めまして?だがそれはお互い様だ。深層派の大将こそ、本当は僕が出てくる前にさっさと克也をやろうとしたんだろう。」
人気のない廊下に、三人の影が夕日に照らされて伸びる。
動かない二つの長い影の間で、小柄な影が一つ揺れる。
「なにこいつ、夢幻派の首領なの?シガ。」
「そうだ。」
レモに視線を固定したまま、シガは口だけ動かした。
「なら呑気にしていられないじゃない、さっさと__!」
昂る夾子にレモが冷や水を浴びせた。
「勘違いしてもらっちゃ困る。我々は君たちと違って荒々しい手段を取るつもりは毛頭ない。」
「躯だけでは物足りないということか。貪欲だな。」
「なんとでも言えばいい。それが我々夢幻派の方針だ。」
張り詰めた空気。
レモの挑発的な態度に、夾子は唇を噛み締めてシガを横目で睨んだ。
彼は至って澄ました顔で、その沈着さは、昔から彼女を酷く苛つかせた。
深層派の首領として必要な要素だとは分かっていても、彼女の中の幼い部分が、言われっぱなしは面白くないという反発を抱くのだ。
「な、によ__!」
そしてレモの胸ぐらを掴もうとしたが、ぴたりと腕を止めた。
聞き覚えのある声が、右耳から流れ込んで来たのだ。
「何やってるの?」
それはトイレから早々と戻って来た、克也のものだった。







気のせいか、ボクがトイレから戻って来た後、三人の空気が微妙におかしかった。
まさかほんの数分で三人の関係は三角関係に発展してしまったとか。
それかレモが志賀君に、夾子には手を出すなとボクのために言ってくれちゃったりしたとか。
考え過ぎだ、きっと。
多分まだ親しくないから、ぎこちなかっただけだよね。うん。
だけど紫色の世界に行ったら、レモは少し真面目な顔でボクを待っていたんだ。
この世界では、レモは学ランではなく白いブラウスを着ている。
制服よりは、この世界の格好の方がレモは大人びて見える。当たり前か。
「どうしたの、レモ」
ボクはレモの三つ編みに結ってある髪を軽く引っ張った。
ほどけそうになって慌てる。もったいない。
別に三つ編みが珍しいわけじゃない。彼はボクの記憶にある限りずっと前からこの髪型だから。
「今日は克也に話があるんだ。」
「改まっちゃって、なに?」
いきなり学校に転校して来て、この上、まだボクを驚かせるつもりなのだろうか。
「シガのことなんだ。」
シガって志賀君のこと?発音が違うからボクはちょっとばかし戸惑った。
「この世界と克也の世界の違いさ。この世界では、志賀はシガだ。」
「でもボクのことは『克也』のままなんだろ?」
レモは眉を寄せ、困ったように口に手を当てた。
どうすればボクにも分かるように説明出来るのか、悩んでいるみたいでもあった。
ごめん困らせるつもりはなかったんだけど。
そう言おうとして、レモが視線を上げた。
「克也とシガは違う。シガはこちらの世界の人間なんだ。」
「え?」
「彼奴は危険だ……二人きりにはなるな。」
危険って何?こっちの世界の人間ってどういうこと?
理由も教えず危険だなんて言われても分からないよ。
ボクの困惑を分かっているかのように、レモも困った顔をしている。
……そうだ、レモは昔から抽象的な物言いばかりする。
どうにも、具体的な説明とか、得意じゃないみたいで。
彼はしばし逡巡したのち、ぎこちなく、口を開いた。
「僕とシガは両方、克也の中にある存在なんだ。僕は夢の中、夢幻派に所属し、彼は君の深層意識、深層派に属している。」
レモがボクの中にある存在だってのは、なんとなく分かるよ。
今日まで、この世界にしかいなかったんだから。
けどさ……。
彼は説明を続けた。
「夢は深層意識の現れ、と世間は言うらしいから、この名称は少しおかしいのかもしれない。克也が気に食わないのなら、意識Aと意識Bと呼んでくれてもかまわない。」
いや、いいよ。余計ややこしい。夢幻派、と深層派、だね?
すごいな、いつのまにボクの中にそんな派閥が出来上がっていたのだろう。
正直信じ難い話。
だけれど、レモはボクに嘘をついたりはしない。昔から。
だからボクは、彼の言う事を疑いもせずも信じた。
「でもどうしてそれで志賀君が危険なの?」
レモは渋い顔だ。
そしてまたもや、ボクを悩ませるような曖昧な言葉をその形の良い唇から紡ぎ出した。
「彼ら…深層派は克也を飲み込もうとしている___」




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