39.炎




















小さな子供がいる。
泣き腫らした目と服が水気の多い塗料に塗りたくられたように赤い。よくよく見れば、髪先までそれは滴っている。
子供はこちらを凝視していた。
瞬き一つせず、大きな瞳が一人の少年の姿を映し出している。
その少年の視線の先にいる…月の光に透ける銀の髪が、朱色を混じらせ風に吹かれて揺れた。
子供は手を伸ばした。傍に転がる遺体にではなく、目の前に立ちすくむ少年に。
少年はその手が触れる前に一歩後ずさる。その夜に溶け込む闇の如き深き瞳は、驚きや後悔ではなく、僅かに恐怖の色を覗かせていた。だが、いったい何に恐怖したというのだろうか。己のした所行かそれとも子供の危うき幼さか。
子供は先程まで弄っていた鈍い輝きを放つ指輪を指先で持ち上げ、意味もなく捨てた。ぴちょ、と地面を覆う水面がへこみ、それを飲み込んだ。子供は笑った。空想の世界に浸り、現実等まるで見えてないとでも言うように。濡れた遺体が何なのかも分かっていないように思われた。
遺体は脆く崩れさり、原型もほどんどなかった。
子供は無邪気に、水溜まりに浸かって天使のような微笑みを浮かべている。少年はおののいた。いつのまにか居なくなってしまった自分とよく似た少年に戻って来て欲しかった。凍てついた精神が嫌な音をたてて軋む。気味の悪さから生じる悪寒が全身を駆け巡った。それほどまでに、子供の微笑みは、この現状に似つかわしくなかったのである。そして子供が清らかで美しい笑みを見せるほど、少年は己の汚れや罪をいったものを思い知らされずにはいられなかった。身体を突き動かしていた激情も、跡形もなく消え去っている。少年はただただ立ち尽くしていた。立ち去ろうにも、足先まで意識が到達しない。
空を見上げ、月が奇麗だと思った。そうすれば、目の前に繰り広げられる無邪気で不気味な光景を見なくても済むとでも言うように。

すると、にこやかに微笑んでいた子供の顔が止まった。

ぷつりと神経が切り替わったかのように、子供の細く、それでいて健康そうな腕が落ちた。子供はぼんやりとした様子で少年を見上げている。空虚で、魂の抜け落ちたかのような眼差し。少年は胸に異様な圧迫感を感じ、耐え切れずにその場から逃げるように駆け出した。ように、ではなく実際に逃げたのだ。






びっしょりと衣服の濡れた感覚が気持ち悪い。






血の匂いが鼻につく。それもそうだ、こんなにもシャツが濡れているのだから。彼に気付かれないように、早く洗い流してしまわないと。けれど染み付いた色と雨にでも触れられたかのようにぐしょぐしょに濡れた服を見て、彼が何も思わないわけはなかった。なのに彼は何も言わなかった。黙ってそれを再び洗濯機に入れて回した。色や匂いが他の衣服に移りそうで嫌だったが、彼は自分は何も知らないのだと云わんばかりに自分に背を向けていた。

「如月さん!」

誰かが呼んでいる。蛍光灯の光が視界に飛び込んでくる。そして、遠い昔に見た子供と同じ顔。何故なのか、視界は左半分しか映らなかった。
指先に力を入れた。身体を起こそうとして、腹部に鋭い痛みがあった。突っ伏して、低い呻きを漏らした。すべてを思い出した。
白い床。白いベッド。吐き気がした。泣きたくなって、やはり涙が出ないことに気がついて、余計に泣きたくなった。込み上げて来た感情の行き場が見つけられなかった。いつものことだった。胸に慣れ親しんだ鈍い痛みを感じて、落ち着いた。

その如月の様子をあのときの子供すなわち陽炎が静かに見下ろしていた。

「よかった、意識が戻ったんですね」

声は嬉しさに満ちていた。少年はすべてを知っているのに笑っていた。何故?喉がひくついた。罪の意識と恐怖に心臓がひやりとした。…恐怖?だが、いったい何に恐怖したというのだろうか。彼の、反応。読めない感情。得体の知れない歪な現実。握られていた手も、冷たくなる。濡れた衣服が。

「魘されていたから、どうしようかと思ってたんです」

ほら、すごい汗。少年の手が如月の頬をなぞる。着替えも月咲さんが持って来てくれてるし、後で着替えた方が良いですよ、彼は言う。冷えが治まらない。意識が現実に追いついていない。近頃は追いついている方が少ないのではないかとさえ思う。ただ、少年の言動や仕草を目で追う。言葉が口をついて出て来ない。されるがままに流されている。どうしてこの病院はこれほどまでに静かなのだろう。喧騒とはほど遠く、蟋蟀の鳴き声と風の音だけが聞こえた。
少年は微笑している。

「知ってました?白夜さんもこの病院に入院してるんですよ。部屋はまあ…もちろん別室なんですけど」
「…か、げろうくん」やっと声が喉を突く。しかし、くぐもっていて聞き取れるものではない。
「それで、白夜さんから如月さんがもし目覚めたら伝言があるって言われてて。聞きたいですか?」

頷く。
気絶させてから彼がどうなったのか気にしていないわけではなかった。いま、こうして付き添っていないところを見ると、まだベッドに寝かされているのかもしれない。…それも当然だろう。あまりに色々なことが有り過ぎて、もう何日も経ったかのような錯覚に囚われていたが、おそらくまだ一日二日経っているか否かという程度なのだ。

「『そういうことは正面切って言え』だそうです。俺には何のことかさっぱり分かりませんけど」

思い当たる節がないわけではなかった。寧ろ聞かれているとは思ってもいなかったものだから、頬が熱を持つのを感じた。してやられた、と思う反面、胸が生娘のように温かくなった。我ながら単純だと内心呟く。少年はそんな如月の手を握りながら、にこりと微笑んだ。

「如月さん、俺が以前に言ったこと、覚えてますか?」
「陽炎君が言ったこと…?」
「そう、俺の言ったこと」

頭が上手く働かない。
少年は如月の手…そういえば手袋をしていない…を撫で、指を絡ませている。確かこれは恋人繋ぎと言うんじゃなかったか、と考えながら、記憶をのろのろと遡らせる。触れられる手がこそばゆい。彼の言ったことを思い出したのは、その指先に少年の唇が触れたのと同時だった。
罪悪感と戸惑いが混じって記憶の中から押し溢れる。手を引こうとしたが、見た目以上にしっかりと掴まれていて引くことが出来ない。

「まだ、あなたの返事を聞かせてもらってませんよ」
「あれ、は、勢いで」
「勢い任せに出た言葉って、案外本音が多いものなんですよ。知らなかったんですか?」

思考は冷静を保とうと奮起になっている。しかし指と指の間を舐められて、身体が震えた。舌先から透明な唾液がつうっと糸を引く。そのまま、手のひら、手首の裏側と口付けが移っていく。微々とした快楽がもどかしく、神経にか細い電流を走らせる。如月はやり過ごそうと意識を別に向けようとした。…けれど、考えがまとまらない。
少年は以前如月のことが好きだと言ったのだ。それに対する返答はNOであった。彼は何も知らないのだから、応えたところで彼が不幸になるだけであり、それは有ってはならぬことだと考えた。だがいま、少年は如月が己の父親を殺した人間であると知りながらも返事を求めたのだ。
…如月は困惑した。真意が、読めない。
少年のことをそういった対象として見ていないのだから素直にそう言えば良い、と考えるのは容易い。だが、果たして自分に彼の意見に反する言葉を口にする権利があるだろうかとも考えてしまう。そのことに関して一切の言及をしない少年はいったい何を想っているのか。

「…それとも、やっぱり白夜さんの方が良いんですか?」

少年の手がシーツの中を潜り、衣服の上から太腿の内側をするりと撫で上げる。さわさわと内側を揉みこまれて、断続的に腰がびくついてしまう。しかし、逃れようとすると腹部に激痛が走った。つい数時間まで穴が空いていたのだから当然である。甘美なる快楽を強要しながら、少年は裏も表もなさそうな微笑みを浮かべている。

「あんまり動くと傷口開きますよ」

少年の指は太腿の内側を愛撫し続ける。頬が熱い。認めたくはなかったが、身体の中心もまた、少年によって与えられるもどかしい快楽に反応しかけているようだった。気付かれたくないと思いながら、早くそこに触れて欲しいという浅ましく、貪欲な感情が胸の奥底に燻る。思考がまともな形を成さずに分散していく。急いている。
少年は、あなたでもそんな顔するんですね、と口調に笑みを含ませる。
そして布越しに中心を撫でられて、声が漏れた。焦らされただけそこに熱が集中しているかのような錯覚に襲われた。余裕も何もかも消し飛んだ。取り出され、裏筋を舐め上げられ、尿道口を指で刺激され、怒濤のような快感にただひたすら悶え、喘いだ。

「ねえ、如月さん。キスしてよ」

欲望を吐き出させたのち、荒い息の最中、少年がぐっと顔を寄せてきた。彼の瞳は爛々と輝きながらも、危うい炎を滾らせているように見えた。おそらく、してもしなくても大した違いはないのだと如月は分かっていた。けれど敢えて彼はその唇に己の唇を寄せた。ほんの一瞬の出来事であった。
少年は、はにかむように微笑んだ。






あの青年を犯したとき、キスはしなかったことを思い出す。
彼の目敏さに苛立ちを催して、その手の自由を奪った。荒々しく抵抗する彼の身体をそれ以上に荒々しく押さえつけて、押し開かせた。快楽など欠片もなかった。傷を残すように噛みついて、痣が克明に残るほどの力で手首の骨を圧迫した。痛かった。腕を捻り上げて視界に映った項にも口付けず噛みついた。慣らしもせずに入り込んで、中が切れて血が肌と衣服を汚した。まともに息をする余裕もなかった。何故なのか、彼に目元を拭われた。涙など一滴も出ていなかったのに。
無性に彼に逢いたくなった。
けれど彼の後ろ姿は霞んで消えかかっていた。その腕を掴みたいのに、身体が怠く重かった。塞がっているはずの傷がすうすうと空洞となって風を通すようだった。力もすべて抜けていくような気がした。そしてようやく、この少年に謝罪していないことに気付いた。その事実だけがぽとんと意識の真ん中に落ちて来た。

「かげろうくん」

「なあに、如月さん」

陽炎は子供のように微笑んでいる。何事もなかったかのように、周辺を奇麗に整えて。
それでも強張った股間が視界に映り、目眩を感じた。彼は無邪気に、だって傷口が開いたら困るでしょう、と言う。
それに病み付きになっても困るから。彼は言う。…どこかその言葉が遠くに感じる。本格的に意識が置いてけぼりをくらっているのかもしれない。

「もしかして、俺の父さんを殺したことを謝ろうとしてくれてるんですか?」

「あ、の…」

「だとしたら、もうそんな必要なんてないんです」

彼は何を言っているのだろう。
彼はこの十年、ずっとそれだけを思って生きて来たはずだろうに。
いつのまにか、彼の手は青白く燃え盛る炎を握りしめていて。
腹部の穴が再び口を開いて、その手首を飲み込んでいた。

体内の焼け付く匂いがした。

熱く傷口は焼け爛れて、脳はぐわんと血流に翻弄され視界を星が散った。その手が引き抜かれて、ずぷんと液体が溢れた。絶叫の代わりに再び身体の奥底から込み上げて来た液体が、喉を通り口内を突いた。その唇を少年は愛おしげに己の唇で塞いで舌を差し込んでは舐め回し、流れ込んで来た血さえ飲み下した。恍惚とした表情。

「きれいだよ、如月さん。生きてくれていてよかった」

それから少年の手は左胸を撫で。
うっとりとした声色をその唇から紡ぎ出し。



「愛してるよ」








青年の瞳からは血の色ではない、透明な涙が零れ落ちた。