38.別離












激痛が意識を苛む。
押し殺した息を吐いて、自由な右手で顔の皮膚に触れる。
彼が縫い合わせた傷跡。彼は素人で麻酔さえ使わなかったから、痛くて仕方がなかったことを覚えている。けれど、今日ほどではなかった。
今は、手足の痛みも然ることながら、胸が疼いて吐く息さえ霞んだ。脆弱な人の身体。軟弱な精神は容易に悲鳴を上げる。それがどれほど些細なことであっても、精神は揺らぎ、情けなく悲鳴を漏らしながら避けようもない現実を耐え凌ぎ、結果生じた傷が奥深くに沈んでいくのを待つことを繰り返す。消えるわけではない、掘り下げればそれは再び顔を出し、周囲を抉っては深く深く潜らんとする。完全なる抹消はかなわない。
そんなことは当の昔に知っていたことだ。実際、響も己の内側に生じた傷を消せるとは思っていなかった。ただ、放っておけばいつかは意識の端にも上らなくなって、痛みも麻痺していくものだとばかり思っていた。矛盾している。けれど理解と沈殿する感情は必ずしも同一線上には並ばない。感情は時に願望を抱え込み、まやかしの答えを植え付けていく。人はそれに気付きながらも次第に違和感を薄れさせていく。
そのことに気付くのは、痛みと云う名の現実を焼き付けられた後のことである。
しかし響の場合は、自身の傷がそれほど大それたものだとは思っていなかったのである。一時的な感傷だと思っていた。それにも関わらず、彼はその傷口を突かれて激昂してしまった。これは実に彼らしくないことだった。だが何故それほどにも激したのかと聞かれれば、痛かったのだと答える他あるまい。忘れていたにも関わらず、痛かったのだ。遠い昔に沈下していったと思っていた傷は、数年振りに掘り起こされてその存在を煩わしいほどに主張したのである。大したことではないのに、何故こんなにも気になるのだろう。響は疑問に思った。父親とは特に交流があったわけではないのに、殺したことを気にするなど実にらしくない。仮にも父親だったからか、と自問すれば、父親とは一体なんなのだろうと別の自分が問い返した。たかだか血が繋がっていただけなのに、特別だとでも感じていたのだろうか。だとしたら無意識とは恐ろしいものだ、なのに傷は生々しく表に出てくるのだから厄介極まり無い、と響は半ば諦めに似た気持ちを抱いた。月咲という男に何度も掘り返されて、さすがに彼もその傷の出現には慣れ始めていたのである。彼はもとより物事に対する順応は早い男だった。特に自分のこととなれば尚更である。
だが今回の展開はそんな彼を戸惑わせるには十分過ぎるものだった。ようやく一つの傷に慣れてきたかと思えば、別の傷をざくりと負わされたのである。そしてまたもや、自分が傷を負った理由がよく分からない。しかも今回の傷は前回の傷よりも酷い。息苦しくて仕方がない。以前父親を殺したときも若干の息苦しさは感じたが、今日に限っては怪我のせいもあるだろうが息が詰まりそうな心境であった。月咲の姿と声が脳裏に焼き付いて離れない。
彼はあのような人間ではなかった。果たしてそうなのだろうか。自分は彼の表面しか見ていなかったのではないか。
しかしそう思ってみたところで、結局何一つ変わることなどないのである。ただ、自分は強いショックを受けている、と響は思う。驚き、それもあるが少し違う。己の半身である彼は項垂れて、まるでこの世の終わりのような顔をしていたが、もしかしなくとも自分も彼と同じような顔をしていたのかもしれない。それほどまでに、自分たちはあの月咲という男に信用を置いていたということなのだろう。…信用?
その単語が思い浮かんだ時、響は声もなく一人笑った。傷を負った日を境に月咲には自分を心配するなと吐き捨てたにも関わらず、こちらは未だ信用していたというのだからとんだお笑いぐさだ。乾いた笑い声が部屋に虚しく消え、響は右手でシーツを握りしめた。乾いている。
今更ながらどうして彼をあの少年のもとへ送り出してしまったのだろうと思う。縋り付いてでも止めれば良かった。けれどきっと彼は思い留まってくれることはなかったろう。例え五体満足の状態で無理矢理捩じ伏せたとしても、彼は足掻いてあの少年のもとへ行ってしまうのだ。義理堅いと云えば聞こえは良いが、彼は己の罪状が増えることを厭ったのだ。そして彼にとってはあの少年を護ることが存在意義のようになってしまっていて、見捨てようものなら彼は自害するかもしれない。これ以上の罪を重ねれば彼は、彼自身を支え切れないのだ。彼は愚かで弱い人間なのである。開き直ろうにも良心とやらが邪魔をする。彼は人を殺めることに罪の意識を感じる。…人を殺さねば、生きてはいけないというのに。
…月咲はその行為を取り除こうとしたわけだが、実際殺せなくなればなったでどうなるか分かったものではない。手足が使えなくとも素質は残っているのだ。果たして素質は大人しくしていてくれるのだろうか。それとも、手足がなくとも暴走するのだろうか。しかしどうやって。
「  」
月咲の名を呼ぶ。彼が怖いのだろうか、と響は自問する。
凶行に及んだ彼は恐ろしいのだろうか。響とて恐怖心が全くないわけではない。しかし今は危害が加えられると云う恐れよりも、喪失感が大きい。そう、喪失感なのだ。今この胸を苛んでいるのは。彼がかつての彼ではないような、もうかつての彼はいないとでも云うような。寂しさ。そう思った瞬間、目頭がじわりと熱くなった。ようやく、思考が感情に追いついたような気がして、響は身を起こした。
こんなとき、弟である彼に逢いたくなるというのに、彼は別の人間のところへ向かっている。けれども、忌々しいまでにあった苛立ちはなく。
「私も、いい加減に弟離れをしなければいけないんだろうね…」
静かな微笑みとともに、響は脳裏に浮かぶともしれぬ彼の姿を見た。












何故来たんです、と電話の彼は怒っていた。そう、怒っていた。
声を荒げるわけでもなく、感情もろとも押し殺しそうとして押し殺せなかったとでもいうような声色で。彼は静かに憤怒していた。
陽炎は「時間切れです」とだけ告げて、その電話を切ろうとして、やめた。彼の声を聞いていたかった。切ろうとした彼にも「切らないでよ」と意思を押し付け、この繋がりを断ち切らぬよう強要した。彼は陽炎が切るなと言えば切らなかった。…切れなかったのだろう。
彼は陽炎が期待した通りの優しい人間だった。否、期待以上。それが負い目から来るものであっても、陽炎には何ら変わりなかった。
沈黙の向こう。彼が走っているのか布の擦れるような音が聞こえる。そして現在居る暗闇の通路の向こうからも、誰かの足音が聞こえる。
彼か、それとも別の人間か。以前一度此処に来て…それが幻覚だとも思わないこともなかったのだが…憔悴していくような感覚を覚えたものだった。その感覚は、今なおこの身体に張り付いている。起きているのに夢を見そうだ。此処の空間自体が夢なのかもしれない、否…こうして自分が旅をしていること自体がまるで夢だったのではないか、とさえ思える。本当の自分は今も母親と暮らしている小さな子供でしかないのではなかろうか、と。
無論夢にしては長過ぎる。けれどまるで現実味のない現実。もしかしたらこの不可思議な感覚すらもこの空間の影響によるものなのかもしれない。だとしたら、いくら考えても仕方がないのだ。此処にいる自分は紛い物でしかないのかもしれないのだから。
いつのまにか儚い感情は置いて来てしまった。父が仇に殺された憤りも、悲しみも、寂しささえも遠い彼方へ消えていってしまった。生温い自分自身が未だ腕を引くのに、その力はとても弱い。きっとそれらの感情は正しいものだったのに、自分はいつだったか正しいものを必ずしも求めなくなってしまった。間違っていてもいい、と肯定した。己の望む道を選んでいければ良かった。そして望んで此処まで来た。自分から自分を引き剥がした。
足音。一つではなく、二つ。
自分は立ち止まっている。彼が来るのを待っている。だから自分の足音ではないのだ。
忍び寄る違和感。軋む空気。この空間は禍々しい物達の巣窟であり、止まるも進むも危険な場所なのだ。
蝕まれるのは自分の身体だろうか。べたりと足に何かが絡み付いて離れない。恐怖におののくこともない。見下ろせば、黒く粘着質なものがこちらを見上げて笑っている。嗚呼、踏みつぶしたくとも足が動かない。彼が来るまで保つだろうか。炎で焼き尽くしてしまおうか…それは焼けたらとても嫌な匂いがしそうだった。
「如月さん」
繋がったままの電話。彼は今頃懸命に陽炎を捜しているのだろう。人間らしく…彼はとても人間らしい人だった。
彼は自分の父親を殺した人間だというのに、陽炎よりも余程まともに思えた。
「俺が以前、あなたに言ったことを覚えていますか」
あのときはこんな邪な気持ちで言ったわけではなかったのだけれど。
背後で足音がぴたりと止まる。不穏過ぎる気配。振り向くまでもない。自分が待っているのは彼なのだから、振り向く必要もなかった。


鮮やかな赤色が視界の端で飛び散った。








月咲樹乃は、己の従兄弟である青年がベッドで横たわっているのを見下ろしていた。
意思の強さを感じさせる瞳は閉じられ、色素の薄い髪色は彼の存在を希薄にする。怪我は大したことはないから、林檎でも剥いて待っていればそのうち目覚めるだろうと思っていたのだが、彼は眠り続けている。塩水もないから、林檎が傷んでしまう。月咲は仕方ないなと一人ごちてその林檎のひとかけらを己の口に放り込んだ。甘味は十分過ぎるほどだった。
白夜が目覚めないので彼は自然と退屈を持て余すことになり、物思いに耽った。今頃あの二人はどうしているのだろうか、と。もとよりそのうち戻ってくるだろうから追う気はなかったし、けれど陽炎に場所を聞かれたから事が丸く収まることはないだろうとも思っていた。
手足の自由を奪おうとしたとき、響の瞳は恐怖を映し出していた。無論骨を砕かれて痛くないわけはないから申し訳ないなと思いながら砕いた。確かに、彼の軽やかな身のこなしを今後見られなくなるかと思うと残念でならなかったが、人の命には変えられない。寧ろ今まで普通に接して来られたのだから有難かったと思うべきなのだ。見納めだと思えば諦めもつく。動けなくとも響は響なのだから何の問題もない。無論慣れるまでは不便な生活だろうが、彼は適応能力が高いから大丈夫であろう。楼闇術者の瞬間移動術は本来己自身よりも他者を転移させるに適しているものだが、自分自身にも適用出来ないわけではないから、それを上手く使い分けていけば生活も出来ないことはない。それに月咲も彼より早く寿命を全うすることはないから、他者からのアプローチという面でも心配はいらないのである。ここに如月が加わればより退屈も緩和すると思ったのだが、彼はあの様子では大人しく聞いてくれそうにない。とはいえ、欲求に思い悩んでいるのは知っているから、保護者代わりとしてはどうにかしてやりたいところではある。









せっかく陽炎を見つけたと思ったのに、彼は何者かの刃に囚われんとしていた。
だから、手を伸ばした。こんなことをしたら、また、あの樹林の彼に怒られるなと思いながら、陽炎の小柄な身体を腕の中に抱き込んだ。途端に背中に焼けるような激痛が走って、呼吸が一瞬止まった。腹部を何かが貫通している。…陽炎には、刺さっていない、良かった。
それが引き抜かれて、逆らう力もなく背中が弓のようにしなって、そのまま膝をついた。辺り一面、血の海と化している。陽炎が自分の名前を呼んだ気がした。彼は眼を見開いている。その頬を撫でて、一言でも良いから謝りたかった。なのに喉から血が込み上げてきて、ただただ噎せ返った。喉に血が絡む。陽炎の手が伸びてきて、震えながら肩を掴む。






彼の肩を掴んだ。その背後から彼の心臓を貫こうとする刃が蠢いていた。
奴らにとって素質は貴重なものだから、目の前の青年の素質をも見逃したくないのだろう。
けれど奴らにくれてやる義理などなかった。くれてしまえば、彼は死んでしまうではないか。
冗談じゃない。此処で彼が死んでしまうだなんて、耐えられるようなことではない。彼は、








またも血飛沫が派手に舞って、名も知らぬ術者が崩れ落ちた。否、正確には術者であった男だろうか。
響は男の胸から引き抜いた素質をそこいらに投げ捨て、不便な片足を引きずりながらも血塗れた二人の前にしゃがみこんだ。
陽炎は大きな眼を見開いたまま、こちらを見上げている。一方、如月は眼を閉じ、動かない。胸が浅く上下していることからまだ息があるのは分かる。ぬらぬらと血が溢れ続ける腹部。血が流れ過ぎている、とこれまで見て来た死体と比べて思う。思考は酷く冷静に働くのに、焦燥が胸を掻きむしる。彼を死なせるわけにはいかない。きっと彼にしてみれば少年を庇って死ぬことが出来て満足しているのかもしれないが、そうは問屋が下ろさないというものだ。少なくとも響は、そしておそらく目の前の少年も納得していない。
華奢な身体を右手で抱え、左手…ああ手首が全く言うことを利かない。やむを得ず腕を突き出して、陽炎に掴まるよう促す。
「転移する。掴まらないなら置いていくよ」
「響さん…」
陽炎は恐る恐る響の腕に掴まる。けれどその瞳は空虚で、響の姿を見てはいない。彼は、現実ではない夢を視ている。視てはならない夢を。例えその頬を張ろうとも、この少年が戻ってくることはないような気がして、響は眼を瞑った。


担架に如月が乗せられ、運ばれていったのが数分前のこと。
響は陽炎をベンチに座らせてから、自分自身の姿が血まみれだということに気付いた。そして不意に、込み上げてくる吐き気。慣れた感覚。口を押さえた指の隙間から、幾筋もの血が滴り落ちて真っ白い廊下を汚した。三者の同時転移。慣れない真似をするとすぐこれだ…と、術の反動に呻いた身体を他人事のように受け止める。もしかしたら、如月が腹部に損傷を受けた影響もあるのかもしれない。
時間の感覚がよく分からないが、今は夜なのだろうか。窓の外は暗く、病院内には人気がない。煌煌と薄暗い明かりだけが灯っている。響は陽炎の横に腰掛け、使い物にならぬ足首を押さえた。神経がいかれたか、もう感覚がない。しかし医者には間違いなく気付かれよう。…おそらく、如月の素質のことも。
「…陽炎君」
「何ですか」
「…いや…なんでもない」
少年は先程までとは違い、響を見ている。一見、こちらの世界に戻って来ているように思える。おそらく他の人間ならば気付かぬ程度の違い。違和感。響はじっと佇む少年を見つめ、
「…君は……」

だが彼の言葉は第三者によって遮られる。
長身の、色素が薄く茶色い髪の男。
「二人ともこんなところに居たのか」
彼は陽炎の肩を抱き、気遣う。まるで何事もなかったかのように。自分のした行いを忘れてしまったかのように。
そして、…彼にとってこれは日常の延長に過ぎないのだ、と響は悟る。もはや悪寒は感じない。けれど…目の前の男が酷く遠く感じた。
男だけではない、少年も、また彼とは違う人間なのだ。もともと同じではなかった。人間が同じはずはない。しかし現在の響の眼には、彼らの存在はこれまでとは全く違った、得体の知れないもののように映った。
悲しいのか、と自問する。分からない。彼は彼なのだ。ただ、記憶が、過去の彼を求める。現実を拒絶したがっている。彼は壊れてなどいない。…彼は、彼だ。彼は何一つ変わってなどいないのだ。これまで気付かなかったことに、気付いてしまっただけで。そして彼の気付いてしまったことは、間違っているのに正しいのだ。そうだ、彼はいつでも正しい。間違った存在である自分たちが粛正されるのは、当然のことであると彼は。
けれど彼はかつては多数の人間のために一人を犠牲にすることは出来ないという考え方を持っていた。それはつまり、そう…今回のことは彼にとって犠牲ではないのだ。彼にとっての犠牲とは人間の肉体・精神問わずの死であり、完全に救いのないことだ。彼に世話をされることは救いを与えられていると云うことになるのか。そして多数の人間が助かる。そうなのかもしれない。
だが。響は自己犠牲が美しいことだとは思わない。自分が廃人になりそれで誰かの命が救われるなら、などと奇麗事を吐くつもりは毛頭ない。彼にとっては優先すべくは自分自身であるし、そんな見知らぬ他人のために命を投げ出すなどと馬鹿げている。無論それでは殺された人間が報われないではないかという意見も分からなくはないが、ならば命の重みは数で決まるのか。殺さなければ死ぬのだ。…命が足らなければ素質は己の命を食わんとする。食わんとする手足がなければ。…過去には発狂する者もいた。自分自身がそうなりたいと望む人間がいるものか。
したがって、月咲の考え方に響は賛同はしかねた。だが…もはや身体の自由が半ば利かないのも事実だった。片腕片足に一部不自由があるだけで、人とはこれほどまでに生き難いのか。それとも…気がつけば慣れているのか。手首がまともに動かないことも、まっすぐ歩けもしないことも、…彼に労られて生きていくことも。
もしかしたらそれはきっと楽しいことなのかもしれない。彼とくだらぬ戯言を言い合って過ごしていくことは、幸せなのかもしれない。
…けれど。
「実はさっき、連絡があったんだ」
くるりと振り返った月咲の表情は冴えない。彼の言い出そうとしていることは大体想像がつく。
「望のこと…かい」
「そうだ。最近になって、楼闇術者の取り締まりは厳しくなっている。発見次第…即抹殺が原則だ」
響は顔色一つ変えず、月咲を見返す。彼は家族が殺されそうになっている現状を憂いている。更に。
「…ただ、それは健常者の場合であって、身体に欠陥を抱えた者は除外される場合もある」
「それは暗に、私は発見されても拘留される程度で済むと言いたいのかい。それとも、望の身体に欠陥を作るとでも」
「否定はしない。望のことも最悪の場合はそうやらざるを得ない。そして今、院長を始めとして、この病院の方々は困っているんだ」
手術をするべきか。それとも呼吸を止めてしまうべきか。または警察に連絡するべきか。
「彼らは僕が望の関係者であると知って打診してきたんだ。普通なら事件性を考慮してまず警察に連絡がいく」
例えとち狂っていると思ったところで、これが現実だ。このままでは如月は殺されるか身体に欠陥を抱え込まされる。楼闇術者に人権などない…法がご立派に定めている。響は右手で砕けた左手首を軽く撫でながら、ちらりと陽炎の様子を窺った。何も言わないが、彼はこちらを見据えている。
「…今は保留しているんだろう?」
「ああ」
「警察への連絡は手術が終わるまでは現状維持、一旦保留させる。君は親代わりだし専門家でもあるんだから多少の権限はあるんだろう。さすがにこの件を揉み消すことまでは出来なくとも、手術さえさせれば如何様にでもなるさ。私が彼らの口を塞いでもいい」
生憎砕かれなかった右手は残っていることだしね…と響は月咲を見遣る。
すると途端に彼は、苦しげな顔をして響を見た。…彼は響が人を殺さぬようにと手首足首の骨を砕いたのだ。如月が妨害したがために、四カ所全てを潰すには至らなかったが。もしかすると、きっちり全て潰しておけば良かったと後悔しているのかもしれない。
響は声色から皮肉げな調子を打ち消し、静かに言った。

「樹乃。君とはこれでお別れだ。君が私のことで気に病むなら、もう二度と君の前には現れない」

月咲の顔色が変わる。
「ひ…びき、お前…そんな身体で何を言っているんだ」
「本当に、おかげで不便極まり無いさ。迂闊に医者にもかかれやしないし。でもそうなんだ、口を封じてしまえば何の問題もない」
封じるにも腕が残ってなければ出来なかっただろうけれど。響は笑みを浮かべ、月咲の顔をじっと見つめた。無性に可笑しく、そして悲しかった。
所詮もう先は長くはない。人を殺せば殺すほど、術は身体を蝕む。けれど殺さずにはいられない。響自身、当の昔に血に魅せられていた人間であるし、やめようとしても身体の中心で素質は喚き立て、身体の全てを支配する。もしも周囲に人がいなければ、自らの身体をもって血を補うのだ。とてもではないが、彼の望むような人間にはなれそうもない。
月咲は人の命を割り切ることは出来ない。だからこそ、彼を思い煩わせるのも、終わりにしなければならない。
「君だって専門家なんだ。無理だなんてこと、分かっていたはずだろう」
彼は堪えるように眼を伏せている。口が初め音もなく何度か動いてから、やがて掠れた声が漏れ出た。
「…それでも、僕はお前達を守ってやりたかったんだ」
人殺しだと世間から冷たい眼を向けられないように、これ以上罪に塗れることがないように、そして良心の呵責に悩まされることのないようにと。例えそれが、危ういバランスの上に成り立つものだとしても。
月咲は弱々しく微笑する。泣いているようにも見えた。
「結局僕は、お前達に何もしてやれなかったんだ。近くに居ても、心配くらいしかしてやれなかった」
「…十分だよ、多分望もそう思ってるさ。…、…もう行くよ、君と知り合えて良かった」
月咲はもう何も言わなかった。そして響も、吐き出した血の一滴も残さずにその場から姿を消した。