34.醜態







ふと意識が浮上した。瞼を持ち上げると、蛍光灯の光が眼(まなこ)を射った。
思わず目を伏せて視線を反らした先には白夜が座っていた。考え事をしているのか陽炎が目覚めたことにも気付かない。
白夜さん、と声を掛けると彼は我に返ったようにこちらを向いた。翡翠の瞳がぎこちなく緩む。
「やっと起きたのか」
「俺………」
何だ。頭が痛い。脳裏にあの青年の姿が散らつく。その白い喉元から血が噴き出す。ひどく喉が渇き、堪え難い光景だったにも関わらず、眼を反らすことは出来なかった。涙が流れ、呼吸が引き攣った。身体中の神経が熱く過剰なまでに昂っていた。
あの瞬間、間違いようもなく陽炎は興奮していた。彼の皮膚が裂け、淫らな血が流れ出すことに。
「そんな馬鹿な…」
額を押さえ、低く呻いた。己の感覚が信じ難い。
確かに以前彼の意思を無視して口付けたことはあったがそれとこれとは話が違う。…そう、好いている彼を何故傷つけたいなどと思うだろうか?これは何かの間違いなのだ。きっと突然父の仇が現れたので混乱していたのだ。そうに違いない。
そうでなければまるで……。
「…陽炎」
頭を振って顔を上げると、白夜がすぐ傍にまで来ていた。
ああきっと彼は陽炎の身に何があったのか聞きたいのだろう。そういえば此処は何処なのだろう。病院ではないようだが。
「月咲の家だ。如月がお前を此処まで運んだんだ」
「…如月、さんが?…」
喉の奥が薄く渇いた。今日…なのかは分からないが出会った男は彼ではない。彼のはずがない。陽炎を翻弄しようとする悪趣味な術者だ。けれどそう言い聞かせても、心に巣食う不安を完全に拭い去ることは出来ない。疑っているわけではない、けれど確かめるに越したことはない。そう思う時点で疑っているのだという事実に気付かぬふりをして、陽炎は白夜を見つめ返す。彼の双眸は鋭く相手を見透かさんとしている。…だが、陽炎はこれから真実を嘘偽りなく打ち明けるつもりは毛頭なかった。
「…俺はどれくらい寝ていたの?」
「…半日。…なあ、何があったんだ」
白夜は陽炎を心配している。それでも本当のことは話せない。話してはいけないような気がした。だがもし話したら、白夜はどんな反応をするのだろう。陽炎同様僅かな不安に苛まれながらも悪趣味過ぎる悪戯と吐き捨てるか、如月を詰問するか、それとも陽炎には思いもつかぬ行動をしてみせるのか。そこまで考え、陽炎は自分が話してはいけないと思っているのが白夜ではなく如月であるということに気付いた。彼にだけは言えない。白夜に告げるということは、白夜に如月を色眼鏡を通した目で見させてしまうということであり、伝え聞いた如月にいらぬ動揺を与えてしまうことである。…実際はそれ以上に、陽炎自身の抱いた薄汚い感情が事実を話すことによって伝わってしまうのではないかという恐れも強くあったわけだが。
「…俺の父さんの仇に会った。でも逃げられた」
「……お前の父親の仇?…」
「そう。薄汚い奴で、品性の欠片もないような男だった…」
感情が顔に出やすいという自覚はあるため、感情を押し殺すよう努める。今は仇に逃げられ忌々しいと言わんばかりの状態のはずなのだから、何の違和感もなく見えるだろう。本当は困惑している。何に?…全てに。
白夜は険しい顔のまま、「…そうか」とあっさりと引き下がった。彼は陽炎の言葉を信じたのだろうか。…白夜も比較的表情は読みやすい方だと思っていたが、そうでもないらしい。不機嫌なことだけは分かったが。彼は立ち上がり、飲んでいたらしい湯呑みを拾い上げた。
「月咲が今日はもう遅いし泊まってけってよ。腹が空いたら台所にお前の分がとってあるから好きに食え」
「…今、何時?」
「夜八時三十七分。僕は向かいの部屋にいるから用があったら言えよ」
以前は同室だったのに矢張り気を遣われたのだろうか。そう思いながらも白夜を見送ると、陽炎はそっと布団から抜け出した。腹が空いたわけではない。確かめなければいけないのだ、今日出会った彼が「彼」でないことを。そうでもしない限り、おちおち寝てもいられない。
障子を開けて、ちょうど月咲が通りかかったところを掴まえる。休めと言われたが、うろつくなとは言われていない。
「月咲さん、ちょっと…」
「ああ、目が覚めたのか。夕飯のことは白夜に聞いたか?」
「はい。…あの、如月さんはいま帰って来てるんですか」
「望ならその部屋にいるよ」
月咲が示した方向を見る。なるほど部屋の電気が点いている。陽炎はお礼を言ってまっすぐにその部屋に直行した。
よくよく思い返してみれば、「彼」と直接会うのは以前彼の意思を無視したとき以来ではないか。竦みかけていた心が燻り、自然と唇がつり上がりそうになる。…そうして湧き上がってきた感情は、あの青年の鮮血を見たときと…よく似ていた。
声を掛ける。返事があり促される。もしかしたらという恐怖を、歪な悦びが打ち消す。…どうかしている、と頭の冷静な部分が考える。
「もう起きても大丈夫なんですか」
彼は何も知らぬ微笑みを浮かべ、陽炎に気遣いの言葉を投げかける。誰と連絡をとっていたのか、手にある携帯電話を閉じる。…頬には痣。…殴られた?誰に。羨ましいと頭の中の自分が口を歪める。…何を言っているのか。醜い思考。まるで自分の脳ではないようだ。
首…この距離では分からない。もっと近寄らなければ確かめられない。彼は拒絶するだろうか?…関係ない。
「如月さん、ちょっと良いですか」
「…?ええ」
「…失礼します」
襟首を掴み、ぐっと首筋を覗き込む。彼は不思議そうな顔をしていたが、逃れようする様子はない。…全く警戒されていない。忘れているのか、それとも陽炎が何かしようとしたところですぐに引き離せると思っているのか。どちらにせよ面白くないのは確かである。そして首筋には何の痕もない。ただ白く滑らかなだけ。安堵と僅かな落胆。いっそ目の前の喉元に噛みついてしまえれば良いのに。矢張りあの青年に会ってから自分は何かおかしいと思う。…考え過ぎだろうか。
「有難うございます。ねえ如月さん、俺は病院の屋上に倒れていたんですよね?」
「そうですよ」
「よく俺がいるって分かりましたね?」
普通なら分かるはずがない。病院の屋上など滅多に足を運ぶものではないのだ。すると如月はその質問を予想していたのか、曖昧に微笑した。
「響に前もって迎えに行くように頼まれていたんです。彼は仕事らしく行けないからと」
「…そうなんですか」
知人であろうと危険な人種だということに変わりはないのだからという彼なりの配慮だろうか。しかしよくそのような人物を仮にも恋人である自分を引き合わせたものだ、と陽炎は感心してしまう。きっと抗議したところで「君だって危険を承知で会いたいと言ったんだろう?」と言われてしまうのがオチだろうが、実にドライな付き合いである。無論それは陽炎が言わずも希望したことではある。仇を追い求める陽炎に、べたべたと張り付く恋人は必要ない。
「…陽炎君」
珍しく歯切れ悪く名前を呼ばれ、陽炎は視線を向けた。首の傷はなかったが、それでも何故か未練に似たものを視線に乗せてしまう。楼闇術者なら首の傷くらい消せるかもしれない。つまりは目の前の青年は彼なのかもしれない。…そんなことは有り得ないと分かっているのに、疑いが奇麗さっぱり消え去ることはない。まるで心の何処かでは彼が…そうであればいいとでも思っているかのようだ。…馬鹿馬鹿しい。
「…いえ、おやすみなさい。どうか今日はゆっくり休んでください」
…彼は何を言おうとしていたのだろう。









小さく息を吐く。首が痛む。寝違えたような痛みならまだしも、ひりひりとした…明らかに刃物で斬り付けたられた痛みだ。とはいえ其処に傷跡があるわけでもなく、触ってみたところで何の違和感もない。痛みだけ。…心当たりがないわけでもなかったが、考えるだけ憂鬱だった。陽炎が覗き込んで来たのも…それが原因なのだろう。全くもってろくでもない状況だ。ろくでもないと言えば、昼間、発作を起こしているときに白夜が訪ねて来たのである。意識が朦朧としていたために記憶も定かではないが、確か「煩い」だとか言ってしまったような気がする。これはさすがに謝った方が良いのではないかとつまらぬ良心が働く。散々しらばっくれたり冷たい仕打ちをしているくせに、今回ばかりは状況が一方的過ぎたというのか理屈が捏ねられないというのか。弁解のしようがなかった。「知っている」「知らない」という問題ではないのだ。「言いました」これしかない。
如月は障子をぴしゃりと閉めて、白夜の泊まっているという部屋の障子の格子部分をノックした。不機嫌そのものの返事。向けられた眼差しも剣呑としている。
「…もういいのかよ」
「……その件はご迷惑をおかけしました」
返事はない。彼の苛立ちの理由も分からないわけではないが、非常に居心地が悪い。
彼は座りもせずに険を含んだ眼差しを如月に向けている。…さて、最初にまず何がくるか。
「…まず一つ。芦辺は陽炎の父親の仇なのか?…ただ十年前だったか?…あいつその頃ほんのガキだろ」
「…わかりません」
「二つ。芦辺は陽炎を殺しはしないものの嬲りものにする可能性はある」
「…そのとおりですが、彼の行動全てに制限をかけるのは不可能です。ですが彼は…」
「彼は?」
言葉が詰まる。馬鹿か。確かに白夜の言う通り、殺しはしなくともいたぶる可能性はあるのに如月は気がついていなかったのだ。だが、約束をした以上、彼が中途半端に陽炎をいたぶるとはどうしても思えなかった。…精神的には別として。ただ身内であるという甘えからか、響はそこまで徹底した外道ではないとも思ってしまう。そしてそれを白夜に上手く説明することが出来ない。何の根拠もない、響の良心というこれ以上になく危ういものに頼り切っているからこそ。
…無論そんな如月の考えなど、大部分の人間にとっては鼻で笑い飛ばすだけの価値もないのだろう。あんな人殺しの良心を信ずるなどと馬鹿のすることだと。だが如月にとって響は信頼するに値する人間だったのだ。例えどれだけ疎ましく時に厄介な存在だとしても、彼は唯一如月の苦悩を理解することが出来た。生まれたときから「まともな」人々からは蔑まれ、唾を吐きかけられる。人間として生まれついたくせに人間を殺さねば生きられぬ、畜生以下の存在。その事実が、まともに生きたいと願う上でどれだけ酷なことか、不可能なことか。…響以外の人間…例え月咲であっても、本当に理解することは出来ないだろう。…もともと別の人間なのだから、理解を望むこと自体が傲慢なのだ。
「彼はそんなことはしないと…思います」
白夜は沈黙する。何か聞かれるかと思ったのだが、そのまま次の質問を切り出された。
「…三つ。あんたの発作は生まれつきだと聞いた」
…一番嫌な質問だった。白夜のことだ。わざわざこの最も答え難い、答えたくないであろう質問を最後に持って来たのだろう。ただ露骨に嫌な顔は出来ない。
如月は肩を竦めた。
「そうですが」
貴方には関係のないことですと会話を断ち切ってしまえればどんなに楽だったか。…昼間の件で負い目さえなければそうしていた。
白夜はこちらを見据えたまま、唇を動かした。話すときは人の目を見ろとはよく言ったものだが、白夜もまたその教えを忠実に守っている人間だと言っていい。後ろ暗いところがある人間にはいささか堪え難い。だが如月とてそれで視線を反らすほど面の皮は薄っぺらくはないつもりだった。
ただし、物事に例外はつきものである。
「…このことを陽炎に話した…って言ったらどうする」
白夜の発言に、如月は愕然とした。馬鹿な。まさか。まさか…!陽炎に話して何の得がある。陽炎に余計な不安を抱かせるだけではないか。けれど白夜に口止めをする余裕もなかった…!当たり前といえば当たり前だが、突然過ぎる不意打ちに、冷静な思考もままならない。
「か、げろう君に話したんですか…っ?」
白夜に飛び掛からなかっただけ自分の自制心を褒めてやりたい。しかし明らかに動揺していた如月に、白夜は近付いて来た。
その冷ややか過ぎる眼差しに、醜態を晒しかけた反動もあってか思わず怯む。彼は如月の顔を下から覗き込み、「あんたのこと聞かれたから話したんだ」と意地悪く微笑した。まるで普段と逆の立場だったが、陽炎のことで冷静さを欠いた如月はそんなことにも気付かず半歩下がった。
「…しかし陽炎君は俺にはそんなこと一言も…!」
「隠されてたってんで逆に聞き難かったんじゃねえのか」
唇を噛む。発作…喘息でもない得体の知れない代物。病気…しかし如月はどこからどう見ても健康体だ…鋭い人間なら何か勘付く。陽炎は気付いたのだろうか。もし気付いたとしたら…!…あまりのショックに倒れそうになるのを堪えようとして、伸ばした手は障子にぶつかって大きな音をたてた。如月にとって陽炎のことと自分自身のことは間違いなく地雷である。その両方を一度に突きつけられた衝撃は決して小さくない。不覚にも如月はその場に座り込んでしまった。現実を投げ捨てたい気分だった。
いくらいつかはと思っていたとしても、物事には順序が、心の準備というものがあるだろう。無論陽炎や彼の父親にとってはそんなもの有りはしなかっただろうが。
「おい如月…」
立ち上がる気力もない。白夜に怒りをぶつけたところで仕方がない。悪いのは発作で前後も見境もなくなっていた自分だ。発作を起こしていようがいまいが無意識のうちに瞬間移動くらいやってのけないでどうする。
「そんなに陽炎に知られるのが嫌なことなのかよ」
「…桴海君に何が分かるって言うんですか」
如月はもはや自棄になりかかっていた。心が折れてしまっていて自室に戻って回復する余裕もない。陽炎に知られたかもしれない。いやきっと知られた。そればかりが頭の中をぐるぐると回り続けている。対して、険しかった白夜の表情はいつのまにやら僅かに緩んでいる。半ば呆れているのかもしれない。
「何が分かるって、話してみなきゃ分かるもんも分かんねえだろうがよ。特にあんたの場合顔に出難いんだからよ」
「そうかもしれませんが俺は話す気なんてないんですよ」
「…それにさっきの話、もし陽炎と一緒にいるときに発作とやらが起きたらどうすんだよ。そうなったらあいつだって知らなきゃ困るだろ」
「ご迷惑をかけないように自力でどうにかしますよ」
「起きたときは用事があるとか言ってずらかるつもりだったってことか」
「それの何がいけないんです?俺はお二人に迷惑をかけるのは嫌なんですよ」
ものは言い様だ。迷惑もそうだが実際は知られるのが嫌なのだ。だがもう遅い。何もかも遅い。時間の問題だ。
如月が口を閉じると、白夜はあからさまに溜め息をついた。それから、
「如月、実は陽炎に言ったってのは嘘だ」
と、言い始めた。この彼の発言に如月も再び唖然とした。
「…嘘…?」
…聞き間違いではないのか。如月に合わせて腰を下ろした白夜は、頭を軽くかいた。
「いや…あんたも陽炎も本当のことろくすっぽ言わねえし、ちょっと苛々してだな、引っ掛けてみた」
「引っ掛けてみた…?」
ということは、陽炎は発作に関しては何も知らないのか。そういえば、つい白夜の口車に乗せられてしまったが、陽炎は隠し事があれば逆にどうして言わないのかと遠慮なく切り込んでくる性格だったのだ。今日のことだって知っていたならば、先程部屋に訪ねてくるついでに「どうせ余計な心配かけさすまいって思ったんでしょう」と言ってきたはずなのだ。……如月は心の底から安堵した。
だが、白夜がそこに追撃を仕掛けた。
「おかげであんたが考えてることが少し分かったわけだ。…どうしてあんたはそこまで僕を信頼する気がないんだ」
「何故、と言われましても…。…ほら、桴海君だって俺のことは信用しているわけではないでしょう、だから」
人のことはとやかく言えないはずだと続けようとした。なのに白夜はそれを遮ってこう言ったのだ。

「僕はあんたを信頼してる。だからあんたも僕を信頼しろ」

無茶苦茶だ、と如月は言い返そうとした。
こんな真実をのらりくらりと真面目に明かしもしない男を信頼するなんて馬鹿げていると。それなのに、彼の眼力に押されて口籠ってしまう。卑怯だ。胸が熱い。顔も熱い。逃げようとしたらいつのまにか手を掴まれていた。
「放して下さいよ…ッ」
「返事は?」
「誰が…」
更に襟首を引き寄せられた。耳許で白夜が同じ言葉をもう一度繰り返す。いったいどこでこんな芸当を覚えてきたのか、肩がびくついた。彼のことだ、深く考えてやっているわけではないのだ。そう自分に言い聞かせて、口先だけで了承の言葉を唱える。信頼?そんなもの出来るわけがない。どうせ全てを知れば遠ざかる。忌々しい人間だと嫌悪する。所詮この青年も同じだ。…同じに決まっている。
彼の離れる気配。
「っん、ん…っ」
…油断していたら耳朶を甘噛みされた。脳幹に痺れるような快感が走る。思い切り引き離し、仕返しに首に噛みついてやった。白夜は首を押さえ、つぶやいた。
「僕ぁてっきり…あんたは不感症なのかと思ってたんだがな」
一瞬何のことかと惚ける。しかしすぐにそれが先程うっかり漏れてしまった声のことを指摘しているのだと分かると、如月は白夜を畳の上で蹴り倒した。白夜が喚く。
「っいてえな!」
「生憎不感症なのは響であって俺ではありません」
如月は振り返りもせずに、白夜の部屋を後にした。
…おそらくもう二度と、彼とこうして戯れることはないのだろうと思いながら。