33.狂喜
何故、と問えば青年は鮮やかに笑った。
透けるような銀髪も、しなやかな身体も、闇の如き深淵を感じさせるまなこも、記憶にある彼と瓜二つのまま。
白夜はとんでもなくかりかりしていた。
如月に泣き面を見られたのはまあいいのだ。気にするようなことではない。人間誰しも泣くことはあるのだ。…何かの本で楼闇術者は涙が分泌されないというのを読んだことはあるが、彼らは例外である。兎角人間は泣きも笑いもする生き物である。だからいい。
彼がかりかりしているのは別件についてだった。言わずもがな状況を客観的に眺めてみれば推測するのは難くない。芦辺の件である。
芦辺と云う男は楼闇術者だそうである。そして姫を襲った。理由…如月に聞いたもののよく分からない。また、陽炎を襲った可能性も否定は出来ないが、如月に聞いてみたところ「分からない」「約束しているから手は出さない」とのことだが、ならその約束はいったいいつしたものなのか、いつまで有効なのか問い詰めてみたところ、「分からない」とのことですっとぼけているだけなのか本当に知らないのか、相変わらず肝心なところを曖昧にする男である。仮に約束をしたのが陽炎が襲われた後なら陽炎を襲ったのは芦辺である。というよりも、そんな約束が発生するということはそういうことがあったと見てもいいのではなかろうか。白夜は唸った。
芦辺にしても姫を襲ったことを陽炎に云ったら「殺しちゃうよ」とか宣っているのである。一発殴るなりいっそ監禁するなりしておきたいものだが、楼闇術者には忌々しいことに瞬間移動、俗に云えばテレポートといえる代物を習得しているので意味がない。「殺しちゃうよ」の一言に関してもまるで就寝前に「電気消しちゃうよ」程度のノリである。分かり難い例えだが、楼闇術者に人格者はいないのだろうかと思ってしまう。
話が脱線してしまったが、つまり芦辺をどうにかしなければならないのである。しかし掴まらないので余計かりかりしているのだ。
掴まえたところでいったいどうするのかも考えていない。兎に角何故姫を襲ったのかということは聞かなくてはならないが、聞いたところで果たしてどんな返事をされるか分かったものではない。ありがちな「苛々してやった」という供述をされても困るのである。
更に考えてしまったのは芦辺は陽炎の敵なのか?ということである。これは病院に戻ってから悶々と思考したのちに考えついたことだが、芦辺と連絡する手段がない今確かめようがない。おそらく如月に聞いても「さあ」と云われるのがオチである。陽炎?もっと無意味だ。
「…大丈夫?」
それらの苛立ちが顔に出ていたのだろう。姫が怪訝そうな顔をして白夜を見ている。
白夜は病院に来る途中に買っておいたケーキにフォークを突き刺した。柔らかいそれはひと突きでみるも無惨に崩壊する。
「芦辺の野郎の思考回路が理解出来ないんだよ。ついでに如月もだ」
「私だったらあいつの思考回路なんて理解したくもないわ。望もだけど」
姫な何故か芦辺のこととなると顔を僅かに赤らめ、同様にケーキを切り分けた。互いの咀嚼音だけが響く。
「ところで…聞いた?」
「何をだ?」
「…私を襲った楼闇術者をあいつが陽炎に引き合わせることになってるって」
「……なんだって?」
白夜はケーキを飲み込んで姫を凝視した。聞き間違いか。私=姫を襲った楼闇術者=芦辺をあいつ=芦辺が陽炎に引き合わせる。
どういうことなのか。
「詳しいことは分からないわ。ただ、陽炎は初め私を問いただして、そこに響が来たの」
「…僕がいない間にあいつ此処に来てたのかよ…」
「あいつは望とよく一緒にいるから、あんたが望に逢いに行ってるときはフリーなんでしょ」
「…あぁ」
入れ替わり立ち替わりなんて面倒なのだろう。白夜は頭を掻きむしった。
芦辺は如月の幼馴染み兼元彼である。一緒にいても何らおかしくはない。しかし如月は幼馴染みのくせに芦辺が楼闇術者であることを知らなかったと云うのだ。一般人だから仕方ないのか、これまたしらばっくれているだけなのか。だが、しらばっくれていたとして如月にメリットがあるのだろうか。
「まあ今はそれは置いといてだな。…芦辺の野郎はいったい何を企んでんだ…」
「…私の推測で良いなら言うけど」
「あんたの方が一応付き合い長いだろうから言ってくれ」
「多分あいつのことだから自分がその楼闇術者ですってばらすようなことはしないわ。そのつもりなら最初から伝えとくなんて言わないもの。…身代わりを立てるなんなりして弄ぶつもりなのよ。多分、殺すわけでもなく」
殺すつもりなら伝えとくと言った際に殺したということなのだろうか。それに、如月との「約束」。
陽炎の命の危険はないとしても、「弄ぶ」…ろくでもないことをしようとしているのは確かだ。
ならば。
「くそ、陽炎の奴押さえとくの忘れてた…!」
芦辺が駄目なら陽炎を目の届く範囲に留まらせておけばいいのである。白夜は病院を飛び出し、携帯電話を取り出した。
履歴で日向陽炎の名を探す。選択する。かける。………出ない!
「あの馬鹿、朝っぱらから何やってんだ…ッ」
寝てるならまだいい。よくないが。お天道様はもう空に昇っている。何度かかけたが応答はなく、白夜は如月に連絡を取ることにした。
繋がった。
『……はい』
が、相当眠そうな声色である。明らかに寝ていたけれども電話で起きましたとでも言いたげだ。
「陽炎の奴知らないか?」
『…陽炎君ですか?何故です』
「知らないのか…ッ、……」
白夜はならば切ってしまおうかとも考えたが、今切ったとしても陽炎の現在地を掴める術はない。足で探すとしても、宇渋町にいるのか吹條街にいるのかも分からないので範囲は途方もなく広い。彼は如月に説明した。
『…分かりました。探してみます』
如月の声は焦ってもいなかったが穏やかでもなかった。おおよそ白夜と似たような心境なのだろう。彼と同じ心境というのも気分が悪いが。電話は切れた。電源を落とし、姫の居る病室まで舞い戻る。
「陽炎掴まらなかったの?」
「…ああ。如月に聞いても知らないってよ」
「…あいつの行動全てを望が把握してるってわけじゃないし…仕方ないんじゃないの」
…そうなのである。だが理不尽にも白夜はそれを腹立たしく思っている。白夜自身理不尽だという自覚がある。おそらく、如月は姫のときに知っていながら黙っていたことが尾を引いている。彼にも彼の考えがあるのだろう。だが嘆かわしいことに通じ合えない苛立ちやもどかしさは募り、それは時に身勝手な感情を生み出す。如月は芦辺の行動を掌握していなければならないという可笑しな概念。芦辺と親しいのであれば、彼を止める役割も担っているはずだろうという勝手過ぎる理論。そんなもの理論でも何物でもない。願望だ。
芦辺と如月は異なった人間である。そんな願望は「無茶」である。白夜の頭もそれは理解している。つまり如月に苛ついたところで無駄なのだ。
今はとにかく陽炎を探すべきなのだ。芦辺の策略の糸に絡めとられる前に。
「…ちょっと出てくる」
「…いってらっしゃい」
姫の見送りの声を背に受け、白夜は再び病院を後にした。
秋の朝焼けは美しく澄み渡っていた。それが今朝の話。
大陽が昇り空は青く晴れ渡り、薄く白い雲は風に押され遅々とした動きを否応無しに速めている。
黒い前髪が視界をうっとおしく散らついた。屋上は一面コンクリートに覆われ、冷たさを曝け出していた。
肩からずり下げた鞄の中で携帯電話の鈍い振動音が聞こえたが、とても取る気にはなれなかった。
陽炎は立っていた。ただ立っていた。彼の現在の恋人に伝えられるがままに此処へやってきた。
そしたら見知った顔がいて、とんだ偶然もあるものだと思った。ただただ思った。偶然でなければ何だというのか。
彼は振り向いて、微笑んだ。見慣れた笑みだった。けれど妙に透明感に満ちた微笑みだった。彼はとても現実に馴染んだ人間なのに、今日はどこか現実味に欠けていた。幻だとかそういうことが言いたいわけではない。実際彼は触ることが出来た。でも何かが違うので、つい冒頭のように空を見上げるだなどとらしくないことをしてしまったのである。雲など真面目に眺めたこともないのだ。現実を持て余した。
「…何かお話があると聞いたのですが」
「俺も話があって来たんですけど、多分相手を間違えてるんじゃないんですか」
陽炎が話をしようと思って来たのは、姫を襲った楼闇術者である。目の前の彼は釣り人である。釣り人はおそらく別の相手を待っていたのだろうと思った。だが彼は笑った。嗚呼実に酷薄な笑みで、それは彼にとても似合っていた。
「俺は貴方を待っていたんですよ。…陽炎君」
「…?だって」
「姫を襲ったのと貴方を襲ったのと。…話が聞きたいと言うから待っていたのに」
彼は肩を震わせる。陽炎は心臓が凍り付いた。何の冗談ですかと言ってしまえれば簡単だったのに、言えなかった。何故なら彼の声はいつかのように冷たかったから。姫を突き放し陽炎には関係ないと拒絶したときのように。冗談ではないのだ。…なら、どういうことか?
陽炎は口をぱくぱくと金魚のように動かした。喉が窮屈だった。
「…あなたは、誰なんですか」
彼は口元に笑みを刻む。本当に彼はあの釣り人のように笑う。きっと釣り人ではないのに。…きっと?
疑っているのか、彼を。彼が楼闇術者で姫や自分を襲った人間だと。まさか。有り得ない。ならば何故「きっと」などと思ったのだ。
だが。
「どうして」
何故彼を全くの一般人だと思ったのだろう。楼闇術者だとしたら隠そうとしても何ら不思議はないのに。陽炎は首を振った。有り得ない。それは有り得ないことだ。彼は純粋な一般人なのだ。術者ではないのだ。そのはずだ。考えたこともなかったがそのはずなのだ。……でも何故疑おうともしなかった?気付かないうちに思考を操られたのだ。…なんて馬鹿なことを考えているのだろう。そんなことは、そんなことは。
「聞きたいことはそんなことなんですか」
可笑しい可笑しい。この現実は可笑しい。いったいこの人間は誰なのか。あの釣り人ではない。違うのだ。何を根拠に…そんなものはない!けれどそんなことはあってはならないのだ。あの釣り人が歪みきった術者で、自分を騙していたなどと。彼はそんな人間ではない。…彼のことなどこれっぽっちも知らないくせにそんなことを思うのだろうかこの頭は?陽炎が彼の何を知っているというのだろう。人の本質なんて本当は誰にも分かりはしないのに。
「聞きたいことがないのならば帰りますよ」
「まって」
これは単なる疑心暗鬼だ。違う。きっと誰かが彼に化けているのだ。だが…顔立ちから体つき、髪の毛先までそんなことは可能なのだろうか?しかし。だが。違う。これはあの釣り人ではない。断じて違う。彼は人を悪戯に傷つけるような人間ではない。これまでだって何度も陽炎を助けてくれたのだ。時に身体を張ってまで。だからこそこの人間は別人なのだ。
「…あなたはあの人じゃないという前提で話を進めても良いですか」
「俺はどちらでもかまいませんが」喋るときの抑揚の付け方までそっくりだ。
「あなたは、過去にも人を殺めたことがありますか」
言った瞬間、喉が渇きを訴えた。彼は肯定する。出来ればその姿で肯定等しないで欲しい。けれど今はそれ以上のことを聞きたいのだ。目を伏せ、彼の姿見を視野に映さないようにする。心臓が速まる。これを、これさえ聞いてしまえれば…!
だがもし肯定したら、肯定されたら。
「あなたは」
そんな都合の良い展開は有り得ない。出来過ぎだ。きっと否定される。彼は「知らない」と言う。
なのにこの逸る心臓は期待している。この銀髪の青年が質問を肯定することを。…それはいったいどういうことだろう?
「十年前に日向という楊炎術者を、殺しましたか…」
見上げた先で彼は微笑する。ああ本当によく似ている。「彼」のようだ。「彼」にしか見えない。そして「彼」の顔で言うのだ。
「…それは貴方を庇った男性のことですか?…」
と。彼の瞳は優しげに揺れていた。その言葉の意味することとは裏腹に。陽炎は彼の手首を掴んだ。華奢なものだった。
込み上げてくるものは憎悪。そのはずだった。しかし今陽炎の胸に満ちあふれていたものは、輝かんばかりの歓喜。
ようやく見つけた。ようやく、やっと…。根深い憎しみが鮮やかに色付き、歪んだ悦びが陽炎の心を狂乱させた。聞く寸前の戸惑いは跡形もなく消え去っている。秘かに心の奥底に張り付いていた恐れも今や奇麗に消滅していた。
感覚を確かめるかのように掴んだ手首を強く握りしめる。夢ではない。求めていた存在がこんなにも近くにある。ずっとずっと殺してやりたいと思っていた存在が…!
「俺を殺したいんですか?」
彼は「彼」の顔をして尋ねる。そのときふと狂乱しかけた頭に不安が過る。彼は本当に「彼」ではないのかと。もし此処で手を掛けてしまって「彼」であったなら取り返しがつかないのではないか。…まさか、そんなことは有り得ないし、もし有り得たとしたならば。
…ならば?
どうするのだ。有り得ない。そんなこと、万が一にもないことだ。万が一にもないことを考えても仕方ないではないか。
彼は懐から短刀を取り出し柄を陽炎に向ける。これを使えということなのだろう。嫌に親切だ。だが。
「…何故あなたは俺に素直に殺されようとしているんですか」
陽炎を殺そうとさえしたくせに。何を考えている。陽炎の手の中で、銀色の刃がきらりと輝いた。
彼は静かに微笑する。宣う。
「陽炎君がそうしたいと望んでいるからですよ」
自信が揺らぐ。「彼」のような言葉。「彼」は陽炎の言葉は大抵のことなら受け入れてくれる。陽炎を傷つけるようなことは望まない。だから。彼は笑う。「彼」は笑う。彼の手が陽炎の手首を取り、刃先を首に寄せる。幻覚ではない証拠に、白い首筋からはらりと細い血が零れた。どくりと心臓が大きな音を立てる。喉の渇きが強まる。頭の中で喚き立てる声がある。「彼」が苦痛に喘ぐ姿が見たいのだと。何を言っているのか。何を考えているのか。駄目だ。そんなことあっていいはずがない。してはいけない。理性がぎゃんぎゃんと吠え立てる。
「…出来ませんか」
彼が嘆息する。呆れたように、軽蔑したように。陽炎は急速に我に返った。…自分は今、何を考えていた?
彼は「彼」ではないのに。陽炎は彼が痛みに呻くことを期待していた。自分に対し優しく接してくれる人間になんということを考えているのだろう。
甘美なる誘惑。価値のない己が人様を傷つけるだなどと烏滸がましいと思う気持ち。そのどちらも陽炎の中には存在していた。
指針がぶれる。短刀が鈍く輝く。目の前で微笑う彼。その心臓に深く突き刺してしまえば、目的は達成する。
…なのに、出来ない。
彼が切りつけた首から鮮血が噴き出す。彼は更にそれを抉ろうとする。彼は「彼」じゃない。違うのに、だめだ、だめだ、だめだだめだ。
「やめてよ」
圧迫されていた理性が暴れ出す。欲望を奥底へと捩じ伏せる。いやだ、「彼」を傷つけたくなんてない。
自分のせいで誰かが血を流すなんて真っ平ごめんだった。血を流してもらえるほど価値のある人間ではないのだ。脳裏を母親の姿が過る。記憶の中で蹴られ殴られ虐げられ痛む心。鈍い痛みが胸の真ん中を突き刺し、視界の赤が身体中の血を凍てつかせる。
知らず知らずのうちに水滴が目の端から零れ、呼吸が苦しくなる。彼の白い肌の上を血が流れている。血が血が血が血が血が。
赤と白のコントラストは肉と骨を思い起こさせた。母が狂ったように笑った。父はばらばらになった。
欲望の引き金は同時に記憶の狂気の蓋を揺るがすものとも成り得て。陽炎はそれを美しいと思った。吐き気がすると思った。
そして彼は失神した。
久し振りに戻って来たと思えばすぐさま飛び出して行った青年は、その背に一人の少年を背負って帰って来た。
背負われた楊炎術者の少年も彼もひどい顔色で、月咲は少年の身体を受け取るなり同時に崩れ落ちた青年の肩を支えた。
ぴくりとも動かぬ少年とは反対に、青年は途切れ途切れの呼吸を繰り返し、自身を律するように肩を押さえていた。
月咲は少年を受け取った際に掌に付いた血に気がついていた。だがこれは少年のものでも青年のものでもない。ただ、目の前の青年が引き起こしている発作…殺戮衝動の引き金にはなっている。彼は今、月咲にでも手をかけたくて仕方がない状態なのだろう。それを堪えるのは、彼にとっては酷なことだ。希光術者でしかない月咲には本当のところ分からないが、おそらく死ねと云っているようなものなのだろう。それを敢えてさせている。
「…今日は休め」
一言だけ投げかけて、陽炎を奥の部屋に運ぼうと彼に背を向ける。だが彼は、月咲の下衣の裾を掴んだ。
震える拳に、月咲が屈み込む。彼は荒く引きつるような呼吸を無理矢理に飲み込み、喉の奥から言葉の音を捻り出した。
「桴海、に、…」
「…陽炎のことを連絡しろ、か?」
彼の指先が裾を引きちぎらんとする。月咲は「分かった」と言い残し今度こそ奥の部屋へ足を向けた。
…あの状態になっては、周囲に人などいないほうがいいのだ。月咲であろうとそれは例外ではない。
楼闇術と希光術の素質の性質は正反対である。以前はそれを利用して彼の体内に気を流し込み気絶させるというショック療法…全く療法ではないが…をしていたのだが、それをすると彼はしばらく目覚めないのでここ数年はやらないことにしている。
「…白夜の連絡先はどこに書いたかな」
月咲はしまった、という顔をして走り書き用のメモをぱらぱらと捲った。連絡先はいくつも書いてあるが、どれが白夜のものなのか分からない。
仕方なく如月のもとへ戻り、彼の鞄を探る。視界に痙攣している如月の腕が映る。携帯電話だけ取り出して足早にその場を後にした。
客室の布団を敷きその上に陽炎の体を横たえさせる。呼吸は浅い。が…体に特に異常は見られない。
白夜がいれば手っ取り早く回復術を施させることが出来るだろう。命に別状はないだろうが、治るのが早いに越したことはない。
月咲は如月の携帯電話のアドレス帳に目を通した。プライバシーなど知ったことではない。保護者の傲慢ともいえる考え方だが、月咲と如月の場合何故かそれでも上手くいっている。「芦辺響」という名前を見つけて、彼は何に対してなのかよく分からなかったが逡巡に似た気持ちを抱いた。…以前響を怒らせてから、一度も連絡を取っていない。今何をしているのか…想いを馳せたところで分かりはしない。ただ、心配だった。月咲にとって、如月も響も弟のような存在なのである。例え煙たがられているとしても、目を離すわけにはいかない。…離したくないのだ。
「……白夜か?僕だ」
そのまま如月の携帯電話を借りて連絡を取る。電話の向こうからは「…なんであんたが」と疲労に満ちた低い声が聞こえてきた。押し殺しているかのような息も穏やかではない。まるで走っていたかのように。
(…陽炎を連れてきた望、…白夜も陽炎を探していたのか?)
何かあったのだろうか。如月はとても事情を聞ける状況ではなかったので、月咲にしてみれば現状は何も分からないに等しい。とはいえ、このように突如発生するトラブルには慣れてしまっていたし余程でない限り動揺するようなことはない。
彼は電話を耳と肩に挟み、先程見た白夜の電話番号を改めて写し取りながら言った。…今度は名前も書き忘れぬよう。
「望が陽炎を連れて帰って来たんだが、引き取りに来て欲しい」
「…陽炎は無事なのか?」
「気絶しているが特に外傷は見られない。…今何処にいるんだ?」
「…吹條街だ」
「だったら僕が移動させるから、ちょっと待っていてくれ。…ちょっとだ」
ちょっと、と強調したのは如月を玄関先から移動させる手間があるからである。
月咲は携帯電話を閉じると再度如月の元へ出向いた。震えは多少良くはなっていたが意識があるのかないのかはっきりしない。あっても動く気力もないだろう。やむを得ずそのぐったりとした体を抱き上げ、更に奥の客室へと運び込む。今日は厄日かもしれない。
胃が回った。
瞬く間もない。吹條街の廃れた繁華街から和で彩られた町並みへと視界は色を変えた。目の前に月咲家の玄関。
白夜は唸った。突然の瞬間転移に体が追いついていない。それと現状が掴めない気持ち悪さ。
陽炎は如月によって此処へと運ばれた。陽炎は気絶はしているが外傷はない。…気絶しているということは何かあった。何か?…芦辺に決まっている。殺さないという芦辺と如月の約束。実際その意味では無事なようだが、何かしたことに変わりはないではないか。
玄関の戸は開いていた。開けた瞬間月咲が目の前に突っ立っていたので白夜は飛び上がりそうになった。
「っびびらせるなよ!」
「僕は待っていただけで吃驚させたつもりはないんだが」
「…ああもういいから、陽炎は…?」
月咲と会話すると噛み合わないのは経験上理解している。先を促すように言葉を紡ぐと、月咲はある一室を目で示し、
「まだ寝ているよ。最初はお前に術を回復術をかけてもらおうと思ったんだが、二回目に見たときはだいぶ呼吸も正常になっていたしかまわないだろう」
「…そうかよ」
つまり引き取れと言われても目が覚めてからということだ。白夜は彼に横を通り言われた部屋のドアを静かに開けた。…陽炎の姿を確認し、音をたてないようにしながら閉める。さて。
「…あいつはどうした?」
「今は寝てるよ」
「…陽炎が気絶してるのに呑気に寝てるたまじゃないだろ」
そう指摘すると月咲は視線を泳がせた。神経がざわつくのを感じる。
陽炎は今回たまたま無事だったから良い。だが芦辺は殺さないとは約束しても、いたぶらないとは言っていないのではないか。それだけでも落ち着かないというのに、月咲は今明らかに何か隠そうとしている。…何のために。
白夜はとりあえず一呼吸置いてから言葉を吐き出した。
「…何処に居る?」
「…すまないが体調を崩して誰かに会わせられる状態じゃないんだ」
「今朝の電話したときは普通だったんだけどな」
白夜とて何も体調が悪いのなら無理させてまで会おうと思っているわけではない。ただ体調を崩した「タイミング」が気に入らない。
彼でなくとも陽炎を連れ帰る前、またはそのときに何かあったのではないかと勘繰りたくなるというものだ。ましてや、ただの体調不良であるなら月咲の態度は不可解としか言い様がない。白夜は月咲をじっと見据えたのち、口を開いた。
「分かった。ならせめて陽炎が起きるまで居させてもらうぜ」
「ああ…」
月咲はまだ何か言いたげだったが、それじゃあ後は頼んだ、と言いたかったであろう言葉は喉の奥で飲み込んだようだった。
眠ったままの陽炎。残された白夜は、しん、と静まり返った部屋の中、くるりと周囲を見回した。それから眼を閉じて廊下を去る月咲の術者のオーラを辿る。彼はきっと如月の様子を一度は窺うだろう。そう思ったのだ。そしてオーラが出入りしたところの位置を脳内で照らし合わせる。
月咲は立ち去る。白夜は立ち上がる。
部屋をそっと出て、二つ先の部屋のドアの前で立ち止まる。…人の気配がある。
「…如月、入るぞ」
返事はないが気配が揺れた。ドアを引き開け、月咲にばれぬようゆっくりと閉める。如月は畳の上に布団も敷かず、こちらに背を向けるように寝転がっていた。思わず眉を顰める。
「…おい、体調が悪いなら布団くらい敷けよ」
沈黙。「如月?」と声を掛けても反応がない。寝てはいないのは気配で分かる。途切れた浅い呼吸だけが微かに聞こえてくる。肩を抱きかかえるようにしている手が僅かに震えている。否、よくよく見れば震えは全身に見られた。
「寒いのか?…」
ならやはり布団を…と腰を上げかけてから、ふと違和感に気付く。何故陽炎は布団に寝かされていたのに如月にはないのだろう。月咲はそんな分け隔てをするような人間だっただろうか。むしろ調子が悪いと分かればせっせと世話をするまではいかなくとも布団くらいは敷くのではないか。如月が拒絶した?…月咲はそれを素直に聞き入れるような男だろうか?こんなあからさまに調子が悪そうだというのに。月咲自身「体調を崩して」と言っていたではないか。
「おい、大丈夫か」
本当なら陽炎を何処で拾ったんだとか聞かなければならないことは沢山あったのだ。なのにこれでは…こちらの調子が狂う。兎に角熱の有無だけでも確かめようと手を伸ばすと、彼は触れられるのを拒絶するかのように身を捩った。ぴり、と一瞬胸に痛痒い感情が走る、考える間もなく彼の腕を乱暴に掴んでいた。
後から思えば病人相手に何をやっていたのか。だがそのとき白夜はいい加減苛々していたのである。危うい現状を知っていながら、隠された事柄のなんと多いことか。己の関与の敵わないことに対する苛立ちのなんと強いことか。そう、白夜はいつでも後手に回る立場だったのである。知った後にはもう全ては終わっている。
「きさら」
「……い」
かすれた声が耳に突いた。聞き返す前に頭が理解した。彼は「煩い」と言ったのだ。掴んだ腕は振りほどかれた。…白夜がしたのと同じように乱暴に。
呼吸さえも忘れかけた。苛立ち、焦り、苛立ち、そして明快な拒絶。この男がどうしようもない奴だということも知っていた。それなのに感情は学習せず爆発を繰り返そうとする。
思考が真っ白に醒めた。
理屈では現状を受け止めるしかないと、何か事情があるのだと理解しているのに感情がついていかなかった。
だが、気付かぬうちに伸ばしていた腕は、誰かに掴まれていた。
「…何をしてるんだ?」
淡々とした声色に、背筋が凍り付く。その声からは怒りも悲しみも感じ取ることは出来なかった。
月咲は静寂そのもののように白夜の腕を掴み、その身体を引っ張り上げた。部屋から容赦なく連れ出される。怒っているのか?と問えば彼はそんなことはないと否定の言葉を口にした。別室に連れ込まれ、彼は正面から白夜を見た。
「まさかお前が勝手に動き回るとは思ってなかったよ」
「…悪かったな」
「さっきも言ったように別に僕は怒っているわけじゃない」
月咲の表情が読めない。無表情なわけではない。普通、だ。普段と何ら変わるところはない。だから、余計に可笑しい。
もしかしたら彼の意思に反するような行動をしてしまったという罪悪感からくる錯覚なのかもしれない。が、白夜は困惑していた。咎められもせず、しかしまさかの不意打ちに苛立ちが萎む。穏やか過ぎる人柄に惑わされたか、白夜は月咲を侮っていた。彼は白夜が多少動いたところで気付くまいと。これはその結果だった。
月咲は茶を湯呑に注ぎながら、笑いもせずに言った。
「あれはあいつの持病のようなものなんだ。そっとしておいてやってほしい」
「…持病…?」
知らないことがまた一つ。月咲は知っていたのに白夜は知らなかった。付き合って来た年月の差だ、と自分に言い聞かせたところで、いったい何の意味があるのだろう?その差がある、という現実を思い知らされるだけで、歯痒さには何一つ違いはないのだ。
もし陽炎がそう言ったとしても仕方ない、と慰めるだろうに、駄目なのだ。割り切れない…どうしても。
おそらくそれは年月だけが原因ではない、月咲と白夜とでは決定的に異なる、つまり元の立ち位置が違うがゆえの隔たりだからなのだ。
その隔たりがある限り、何故信頼しようとしないと憤ったところで意味はないのかもしれない。だがその隔たりとは何なのか?
「月咲…」
「僕はあいつが言わない限りは何も言わないぞ」
もどかしさだけが胸の中にすとんと落ちた。
居座った。