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32.恋慕












半日ベッドで寝かされていた陽炎は、考えた。考えるしかすることがなかった。
姫が意識を取り戻し、何か聞かなければいけないことはなかったか。彼女の顔見知りという人間は、警察すらも欺く。いったい何者なのか。また、彼女は如月の何を知っているのか。以前はなあなあで忘れ去ってしまっていたが、何故如月は響との繋がりを聞かれることを拒んだのか。単純に自分のことを聞かれるのが嫌なだけなのかもしれない。ただ幼馴染みと聞いていたのに、それ以上の何かがあるというのだろうか。知りたい、と純粋…否、純粋ではない…不純だったが、思った。
陽炎は彼が陽炎の知り合いという立ち位置に戻ることを未だ許可していない。手を伸ばしたいと思えるほどの執着は持っている。
執着、嫌な言葉だと思った。そんな言葉を使うのは、追い求めている連中に対してだけにしておきたかった。だけれど、手に入らないものだからついつい執着してしまう。嫌な性格、と陽炎は一人呟いた。
響に付き合うよう頼んだのは、その執着を一時でも薄れさせたいと思ったからだった。執着を向ける矛先は二つもいらない。
程々に親しい相手なら誰でも良かったわけではない。白夜や月咲では駄目だった。彼らでは安心し過ぎて心は平穏そのものだった。
しかし響には危うい匂いが付きまとっていた。覚えられない顔も、都合が良かった。罪悪感が薄れた。彼なら良いと、頭の中の何かが訴えていた。警鐘にも似たもの。共犯者めいた立場にいながらも、彼に惹かれる自分を否定出来ない。如月に対して熱を孕む心とは正反対な、冷めた心が彼を好んでいる。捻くれた愛情。世間的な愛情とは違う。距離を置いている。
それで、それで、もっと考えなければいけないことはなかったか。復讐のこと。否、今更考えることなどない。
自分を襲った幻覚のこと。あれは本当に貧血の症状が引き起こしたものだったのか。万が一現実に起こったことであれば、陽炎の傍に楼闇術者がいたということになるではないか。逃した。けれど何故、彼又は彼女は陽炎にそのような術を仕向けたのか。陽炎に個人的な恨みでもあったのか。…恨みを買うような覚えなどなかった。むしろ陽炎が恨んでいるのだ。冗談もほどほどにしてほしい。やはり幻覚だったのだろうか。
「…分からない」
しかし現実にあったこと、としたほうが陽炎にとって好ましい。敵に関連した、手掛かりを持っている相手が向こうから干渉してきたのだ。これほど喜ばしいことがあろうか。その糸を辿れば、意外にも早く敵に辿り着けるかもしれない。
…ただ、だとしたら何故彼又は彼女が陽炎を殺さなかったのかと、腑に落ちない点はある。脅しただけなのか。何のために。
陽炎は身体を起こした。特におかしなところは見受けられない。鏡を見ると、僅かに首を絞められた痕が。
…………残っている。
「……!」
やはりあの『空間』は幻覚ではなかったのだと、陽炎は俯いた。ぞわり、と全身を寒気が駆け抜けた。おぞましさと、歪んだ悦び。
彼らを逃した悔しさはそれほど感じられなかった。それよりもようやく向こうから関わって来たことに、興奮が身体の中で沸き立つ。
思い返してみれば以前あの『空間』の幻覚を見せられたときも、向こうからの干渉はあったことになる。つまりこれは偶然ではない。敵が陽炎に関心を持っているということになるのではないか。
陽炎は肩を震わせた。唇が自然とつり上がる。指先で首の痕を愛おしむようになぞった。それだけが、彼らと繋がっているとでもいうかのように。
「…そうだ、花芽宮さんに話を聞かないと……」
微笑んだまま、ベッドから抜け出す。二度あったのだ、また干渉はある。奇妙な確信が陽炎を突き動かした。 その干渉をただ待つよりは、彼女の顔見知りの話を聞き出さなくてはならない。手掛かりを掴めるかもしれない。










何故彼が泣くのだろう、と思った。
ただ、彼が言った言葉からそれが自分のためであることは分かった。
何故そんな言い方しか出来ないのか?、なら他にどう言えば良かったというのだろう。
彼や陽炎に言ったところで現状が変わらないのは事実。ましてや出来ることなら、響が危険な人間だと思われたくなかったのだ。
姫に入れ込んでいる彼が怒るのは理解出来た。恨まれるだろうと予想はしていた。
ただ如月としては義妹であろうと姫は昔から大して関心のある対象ではなかったし、どちらかといえば時折煩わしささえ感じていた。
これで満足かと言ったのは、どうしたって彼が望むような態度は取れそうになかったし、せめて彼が満足するまでは自分に怒りをぶつけさせてやりたいと思ったからだった。むしろ如月には、それ以外に取るべき手段、対応が見当たらなかった。自分の態度があんまりだと、彼自身分かっていたからだ。陽炎、そして陽炎に繋がる白夜には、何も知って欲しくはない。それだけだった。…陽炎に嫌われたくなかった。
彼が全てを知って如月に失望し、侮蔑し、表情を失っていく様を見たくはなかった。その予期されるであろう未来は、如月には辛過ぎた。例え自業自得であっても。今が好かれているだけ、余計辛かった。泣きたかった。泣けなかった。なのに目の前の青年は泣いた。
彼の涙は奇麗だった。憎たらしいほどに純粋で、強くて、如月の心を揺さぶった。
受け入れてはいけないと知っていた。信頼しろ、と彼の眼は言っていた。真っ直ぐ過ぎて彼の眼は痛い。痛い、痛い。
だから嫌いなのだ。しっかりとした足取りで立っていて、それでいて人の領域に勝手に入り込んでくる。
知られたくないのに。知られて嫌われるのは嫌だった。あの少年にも、…彼にも。自分の手は赤い血に塗れている。
「…如月」
「…はい」
ぐすりと彼は鼻を啜る。目尻が薄ら赤く腫れている。無様だ。だが、自分の所為だ。
彼はシャツでもう一度思い切り鼻を啜ってから、如月を捉えた。
「…聞き忘れていたことがある。あんたはなんだって、陽炎を芦辺と二人きりにしたんだ。芦辺が危険だって分かってたのに」
「彼は俺に約束したんですよ」
「約束?」
「ある一定期間が過ぎるまで、陽炎には手を出さない」
…ああ、うっかり「君」をつけるのを忘れてしまった。だが白夜は如月の言葉を約束の内容として聞いたようで、何も気付いた様子はなかった。
そしてこれも、まやかしだ。この約束は彼らが付き合い出す前にしたものではない。つまり十分過ぎるほどに響に殺す機会は与えていたことになる。だけれどそんなことをわざわざ彼に言ってやるつもりはなかった。聞かれても「瞬間移動して…」などとの説明はしてやれない。
白夜はすっかり日頃の人の心を見透かすような、芯のある眼差しで如月を見ていた。
「芦辺はその約束を本当に守るのか?」
「彼は俺との約束なら守りますよ」
「……」
気に入らないという顔している白夜を、黙って見下ろす。殴られた頬が痛い。舌先で感じる鉄の味が不快だ。
手を伸ばせば届く距離。だが、伸ばしたところでどうなる。
「如月?」
掠めた唇。見開かれる眼。
…どうせなら、手の届かないところにいればいい。そうすれば縋り付いてしまおうか、と考えることもない。








 





ああ、愉快だ。と思った。
これほど晴れがましい気分になったのはいつ振りだろう。もしかしたら、初めてかもしれない。
手掛かり一つない闇の中にいたのに、いつのまにか彼らの方から近付いて来た。陽炎を殺そうとした。なのに殺さなかった。
理由は分からない。ただとにかく愉快だった。手を伸ばせば、彼らの尻尾が掴めそうで。
「陽炎、何だか嬉しそうね」
「え?」
やはり顔に出やすいのだろう。陽炎は屈託なく微笑んだ。
「花芽宮さんに聞きたいことがあるんです」
「何かしら?」
「花芽宮さんを襲った人のこと、教えてもらいたくて」
姫の顔が強張るのが分かった。だが高揚した精神の前に彼女の苦痛など、取るに足らないことだった。
白夜がこの場にいなくて良かった、と思う。彼はきっと陽炎を止めた。彼はとても『まともなひと』だから。
だけれど彼女の顔見知りが陽炎の追い求める相手でなければ意味はない。陽炎は先手を打った。
「その人は、楼闇術者?」
姫は瞳孔を見開いて、陽炎を凝視した。…正解。なんという符号の一致。彼らは近くにいる。
ここで逃すわけにはいかない。手繰りに手繰り寄せて自分の前に引きずり出させてやらなければならない。
「花芽宮さんから聞いたとは言いませんから、その人の連絡先教えてくれませんか?」
笑みが消える。どうしても、教えてもらわねばならない。彼らを追う。そのために、そのためだけにこれまで生きて来たのだ。
普通の家庭だった。母が父を愛し過ぎるだけでそれ以外は何の変哲もない平和な家庭だった。
それが父が殺されて狂った。陽炎自身が未熟過ぎたために父を死に招いた。父が殺されて母は狂った。母は父の遺体をまるで生きているかのように抱いて過ごした。そんな母を見ているのは辛かった。そんな母に打たれるのも嫌だった。でも原因は自分だった。父に庇われた。
母は陽炎を呪った。仕方なかった。…本当にそうだろうか。
「ねえ、花芽宮さん」
そんなことはない。そんなことはなかった。彼らさえいなければ全てが平穏のまま過ぎていった。
こんな薄汚れた感情を、知らずに済んだ。

「その辺にしてあげてよ、陽炎君」

聞き慣れた声に、顔を上げる。姫もはっとしたように顔を上げた。
音も立てずドアから入って来たのは、黒髪の青年。その口元は不敵に微笑む。…陽炎の『恋人』。
「…響さん、仕事じゃなかったんですか」
「終わったんだよ。姫のこと、あまり苛めないであげてくれないかな。彼女の知り合いのことなら私が教えてあげるよ」
彼は如月の幼馴染みである。すなわち姫と…その知り合いとも繋がりがある可能性。たったいま、彼が言及した。
「本当ですか」
「私は嘘はつかないよ。ただ今は、彼女に話があるから後で、じゃ駄目かな?」
響を横目で見据える。彼も笑って陽炎を見ている。
「…俺を優先してくれたりはしないんですね」
「陽炎君とはいつでも会えるよ。でも、姫は面会時間が今日はもう終わりそうだしね」
外はもう真っ暗だよ、と彼は続ける。窓から外を見てみればなるほど、彼の言う通りだった。
陽炎は頷いて響に背を向けた。あくまで頼み事をしている立場なのだから、強く出ることは出来ない。
「…じゃあ響さん、後で俺のところに来て下さいね」
「良いよ。でもそれか…私が彼女の知り合いに直接連絡を取ってもいい」
「…?」
「陽炎君が会いたがってたと伝えておいてあげるってことだよ」
小さな衝撃が胸を打つ。…上手く行き過ぎているような気がして、落ち着かない。
陽炎はよろしくお願いします、とだけ言って病室を出た。緊張に、唇の渇きを覚えた。











「姫は良い子だね」
耳障りな嗤い声。首の傷が疼く。…目の前の男の存在。
声を出すたび違和感が喉に付きまとう。治りきっていない証。姫は口を開いた。
「…なにをしに、来たの?」
「勿論、愛しい義妹に逢いに来たんだよ」
首ではない胸が疼く。愛しいと云ったところで所詮片割れの男を優先するくせに、と毒づく。
そしてその片割れの男は先程の少年を気にしている。恋愛感情ではない、別の感情。
「てっきりさあ、姫のことだからまた陽炎君に余計なことを言っちゃうかと思ったよ」
「…言わないわよ」
「だよねえ。姫から事の顛末を聞かされた挙げ句殺されちゃったら、彼も君も寝覚めが悪いからねえ」
響は笑いながら手で首を切るような手振りをしてみせる。姫は包帯の巻かれた首に手を当てた。彼の言葉は全く冗談に聞こえないし、事実冗談ではないのだ。彼はいつでも本気であるし、冗談じみた言葉にさえ彼の本音が見え隠れしている。…嘘はつかない。ある意味、本当に。どんな言葉にも彼は本音を混ぜている。この男が陽炎と付き合っていると白夜に聞かされたときはさすがに驚いたが。例えば彼が陽炎を好きだと言ったならば、そこには多少の本音がある。彼はほんの少し、陽炎のことが好きなのである。
「…あんた陽炎の恋人なんでしょ。恋人を殺すなんて人としてどうかと思わないの」
「姫は随分おかしなことを言うね」
「あんたに比べたら普通のことしか言ってないわよ」
「私は彼を殺すまでの楽しみとして恋人をしているだけだよ」
人でなしとはこのような男のことを言うのだろう。姫は枕を抱きかかえた。
「…あいつを苦しめる人間は誰でも殺すの?」
「…そうだよ?自分以外はね」例え義妹でもね、と言外に匂わされている。心が細かな鋭い傷を作る。抗いたかった。
「なら白夜を殺さないのはどうして?白夜の性格上、好き勝手言いそうなものだけれど」
「彼は良いんだよ」
「どうして」
「望が承知の上だから」
理解出来ない。彼は良くて、どうして自分が駄目なのか。一方が煩わしく思われ、一方が受け入れられるのか。
俯いていると、響の声が上から降ってきた。
「ほらほらそんな怖い顔しない。せっかく可愛い部類の顔なんだからさあ」
「っあんたに可愛い言われても嬉しくないわよ!」
頬が火照った。嬉しいわけがない。…嬉しいわけが。
彼の指が姫の髪先を弄ぶ。……彼は昔から姫の髪を奇麗だと言っていた。
「なら誰に言われたら嬉しいのかな?望…それとも白夜君?」
「っ馬鹿言わないでよ……!」
「馬鹿って…可愛い義妹のことだよ、気になるに決まってるじゃないか」
余裕を称えた微笑とともに言われた言葉。カッと頭が熱くなった。
ぱん、と派手な音がひびいて、気がつけば彼の頬を引っぱたいていた。

「私のこと何も分かってないくせに、兄ぶらないでよ!」

指先がじんじんと熱く痛む。指先だけではない、心も鈍い痛みを抱えていた。
頬を張られた響は心無し悲しげに壁にもたれ掛かった。
「痛いなあ。もう最近踏んだり蹴ったりっていうか…姫も反抗期かなあ」
「違うわよ!…用が済んだのならもう帰って!誰かさんにやられた首の傷が痛むんだからっ!」
泣きたくなる。何故この義兄である男は、昔から自分に対して向けられる感情に鈍いのだろう。
怒鳴り立ててそっぽを向けば、不意に彼の声色が変わった。
からかいや親しみを込めたものから一変し、兄妹という甘えなどこれっぽっちも感じさせぬような冷えた声色。
「…だろうね。ねぇ姫、あのときの忠告を忘れてもらっちゃ困るよ。私は決して君を殺したいわけじゃないんだからね」
…彼を追い詰めるのは許さない、とあのとき響は言った。どう足掻いたところで、この男の心を占めているのはあの片割れの男なのだ。
殺したいわけじゃない。だが、殺せないわけではない。実際に響は姫の首を軽めにではあったが切り裂いた。噴出した血。
可愛い妹だと言いながら、気に食わなければあっさり手を下すことも厭わない。
姫は目尻に滲んだ涙を乱暴に拭った。泣き顔だけはあの男に見せたくなかった。
きっと見せれば、彼は兄という仮面を再び被り、姫を慰めようとするだろう。それが本心からであろうと演技であろうと関係ない。心は彼女の意識を無視して舞い上がり、姫の自尊心を傷つける。このろくでもない男のことを諦められない自分が救いようもなく思えてくる。
諦めてさえしまえばいいのに。それがどうして出来ない。
「それじゃ、暇があればまた来るよ」
彼はさらりと姫を流し見て、振り向きもせず病室を出て行った。冷たい義兄。優しい義兄。…わけがわからない男。