31.命の契り
気がついたら視界には真っ白い天井が広がっていた。薬品の匂いが鼻をつく。
そしたら嗚呼、そういえば此処は病院だったのだと我に返る。
「…陽炎、起きたのか?」
「白夜さん…」
ひょっこり顔を覗かせたのは見慣れた青年。僅かに翠の混じった白い髪が蛍光灯の灯りに透ける。
どうして自分はベッドに横たわっているのだろう、と陽炎は記憶を掘り起こして締められたはずの喉元にそっと触れた。
…生きている。
「白夜さん、俺は…」
「病院の廊下で倒れてるのを看護士に発見された。軽い貧血だってよ」
「…そう」
貧血…幻覚?あの暗闇は貧血が引き起こした錯覚だったのだろうか。そうだとしたら、あの手の感覚も。
余韻を引きずっているのか、頭がぼんやりする。思考が、鈍い。
あのとき、誰かに呼ばれた。『かげろうくん』と見知った声で呼ばれた。
そんな呼び方をするのは、限られているのに、判別出来ない。
ただ感じたのは、『かれら』の気配。禍々しさを押し隠した特有のオーラ。そんな知り合いはいない。いないはずだ。
けれど。
「………」
それが異常だと、感じることさえ出来ない。
誰かに似ているような気がした、と陽炎の口は言っていた。
言葉を発したわけではない、あくまでも白夜にはそう言っているように見えただけだ。
「…誰か」
陽炎には貧血で倒れていたと言ったものの、実際はそうではなかった。
意識のない陽炎を如月が拾ってきた。その首にはいつか見たような絞め痕が残されていた。だから聞いた。陽炎がその状態で転がっていたことに、あんたは何か心当たりはないのかと。如月は否定した。何もない、自分は見つけただけで前後のことは何も知らないと。相変わらず何を考えているのか読み取れない表情で立ち去ろうとした如月に、白夜は更に問いた。
「あんたは犯人の顔は見なかったのか?」
「残念ながら」
「…良くもそんな丁度いいタイミングで病院に現れたもんだな」
「姫の意識が戻ったと聞いていたものですから。用事も終わりましたし」
「本当は犯人の顔を見たんじゃないのか?…」
「まるで尋問ですね、桴海君」
「他に問いただす理由があるか?如月」
如月は曖昧な態度でその場を濁した。彼の言葉を額面通りに信じるならばこれ以上追求することはない。
だが…。白夜は如月の顔色が悪いのが気になった。おそらく普通ならば気付かないであろう程度に取り繕われてはいたが。
「……如月」
「何です」
「芦辺は今何処にいる?」
「何故?俺は彼の行動範囲なんて把握していませんよ」
「あんたは僕の言いたいことは分かっているはずだ」
共通して残されていた締め痕。陽炎の身体に残されていた楼闇術を扱う者特有の気配。姫の傷口から漂っていたものと同じ。
そして…あの男に纏わりついている血の匂い。
「その確証が何処にあります?」
如月は笑った。嘲弄するように唇の端を歪め。白夜の考えを一蹴するように。
「あなたの弾き出した答えは、異なる条件下で得た情報の符号を都合良く繋ぎ合わせたに過ぎない。違いますか?」
彼の言葉は辛辣だった。過剰な反応と取れなくもない。だが例え白夜の答えが図星だったとしても、彼は果たしてこんな単純な反応を返してくるものだろうか。もっと冷静さを装って、知らぬ存ぜぬで貫くのではないか。白夜は口を噤んだ。
仮に己の予想が正しかろうと現時点では彼の言う通り確実たる証拠はない。陽炎は覚えていない。ならば別の人間に口を割らせるしかない。
今回の事件に関連した人物の顔を思い浮かべる。芦辺はおそらく向こうから来ない限り掴まらない。となると。
立ち去ろうとする背中を呼び止める。
「…花芽宮の口を割らせる。…あんたが何を考えてんのかは知らねぇがな、あいつを庇うような真似はやめておけよ」
響を庇いたいわけではない。ただ知られるとこちらの都合も悪いのだ。
姫は白夜に話すだろうか?話すだろう。白夜は陽炎に話すだろうか?……その可能性は否定出来ない。
陽炎は響が敵同様の術者だと思って何を感じるだろうか?響を問い詰める。響は如月のことを話すだろうか?…話す。
頭を抱える。甘えは消えない。あの少年に嫌われたくないと未練がましく想う気持ちがある。彼にだけは知られてはならない。
ならばどうする、姫は陽炎に話すだろうか?おそらく確信を持って来られたら話す。白夜同様。なければ彼女は話さない。首の傷が疼くはずだ。
つまり今は白夜の口を封じれば良い。だがどうやって?頼めば彼は何故かと理由を問う。中途半端、生半可な答えでは彼は満足しない。…答えられない。塞げない。
いっそ響を殺したならば。けれど殺せなかった。思い切れない。彼の中に自分を見る。…斬り捨てられない情がある。
「…また馬鹿なことを考えてるんだろう」
響の声が鼓膜を震わせる。彼の耳にはイヤホン。…病室の盗聴。悪趣味だ。
「いやあ、姫と白夜君が仲睦まじげに話してると思うと兄としては落ち着かなくてね」
「…そうか」
「冷たいねぇ。可愛い義妹なのに」
その可愛い義妹の首を切りつけたのは誰だったか。だが、彼の行動の原因の一端が自分にあるかと思うと強くは言えない。
ましてや、この男の家族愛…はあの義妹にとっては残酷だ。…この男がそのことを気付いているかどうかは定かではない。もしかすると気付いていないのではないか、とすら思えてしまう。如月は両手で顔を覆った。今はそんなことはどうでもいいのだ。考えなければならないのは白夜への口封じだ。どうするか。響が術者であることを逆に明かして陽炎の命を逆手に取るか。…確実に如月は白夜に恨まれる。
…もう既に恨まれているようなものなのだけれど。
姫はどうせ話すのだ。彼が知るのは時間の問題であり、恨みが骨髄にまで達するのも所詮時間の問題なのである。
いっそ響が完全に姫を仕留めていればそんなことにはならなかったものを、と思うのは逆恨みというべきか自己本位に過ぎるだろう。
彼はあくまで時間を先延ばしにしただけだ。如月が陽炎や白夜と呑気に過ごせる時間を姫を殺して半永久にしたところで彼にとっての得は全くないのだから。ただそこに義妹を想う気持ちと半身への想いが割り込んだだけで、最終的には全て壊れようと彼には何の不都合もない。
「姫ったら口が軽くって敵わないね…。後でちょっと諌めてこないと。…それと、白夜君が聞いたね。君の懸念通りに」
「…」
「ああでも…姫は自分に手を掛けたのは私だとは言っているけれど陽炎君へのことへは口を濁しているね。多少は遠慮と言うものを知ったようだけど、意味ないっていうか…やっぱり私のことはばれちゃったなあ」
この男にしてみれば隠す気などはなからない。あれば気配を傷跡に残すような真似はしない。
「しょうがない電話しよう。……駄目だなあ白夜君、マナーモードじゃないか。病院では電源切っておかないと」
響は盗聴用のイヤホンを取り外し、携帯電話を耳に押し当てた。…如月の考えなどお見通しのようだった。
「もしもし白夜君。私だよ。え?芦辺だよ。そうそうちょっと至急話したいことがあってね。ああ、はいはい君が怒るのは尤もだよよく分かるよ。でもそれは後で望にでも説明しておくから彼から聞いといてよ。今はねえ、そう別に重要な用件があるのさ」
彼なりに気を遣ったのか現時点では如月は響の犯行を知らないことになっている。
「うん。そう…、そうだね。じゃあ単刀直入に言っちゃうけど、陽炎君に話したら彼殺しちゃうよ。良いのかな?」
前科があるおかげで白夜も聞かないわけにはいかないのだろう。響は微笑して携帯電話を懐にしまった。
如月も、じっと響を見ている。そう、こちらの問題はなくなったわけではない。彼はどちらにせよ陽炎を殺すつもりなのである。
響は肩を竦めた。
「…目は口程に物を言うね。本当に」
「陽炎を狙うのはよせ」
「駄目だね。私はあまり君に、彼のことで悩んで欲しくないんだよ。君が彼に手を出せないというのなら私が出すしかない」
「それはもともと俺が彼の父親を、殺めた…からだろう」
「だからなんだい。もうやってしまったことだよ。…過去だ」
如月は響の眼を見ていられずに、俯いた。過去だろうとなんだろうと、その過去の象徴である陽炎が如月の前にいる。それから眼を背けて生きろだなんて無理だ。忘れたい罪が、すぐ傍にあるのに気付かないふりをしろというのか。ならば自己満足のために地に頭を擦り付けた方がどれだけ良いか。出来ないのは安穏とした表面上の幸せに浸かっていたいからだが…。
響さえいなければずっと浸かっていられた?違う、自分の中の過去だけは消せない。偽りの幸せなど意味がない。
「本当に君はしょうがないね…可哀想な望のために、猶予期間を与えよう」
「……?」
「君は陽炎君を守るために私を怪我をさせたね。…その怪我が治るまでの間は、彼には一切手を出さない。誓うよ」
痛々しい傷の残る響の左手。手袋越しからそれを見遣ってから、如月は顔を上げた。
「そんなことを言ってお前に何のメリットがある」
「何もない。強いて言うなら君をあいしているから、かな?」
そうか、と素っ気ない対応をしてもよかった。馬鹿馬鹿しい、と言ってしまってもよかった。
彼が真剣に如月を見つめてさえいなければ。
「君はちょっと勘違いしているようだけれど、私は君が私と似ているから好いているわけではないよ」
「…なら他にどんな理由がある?」
「君が美しく愚かで馬鹿でどうしようもないからさ」
身も蓋もない。如月は眼を伏せ、響の肩に額を押し付けた。血の匂い。
彼は言った。
「ねえ望…、楼闇術者の血もちゃんと赤いんだよ、って陽炎君に教えてあげなよ。多分驚くよ」
どんな術者であろうと普通の人間と変わらない。傷をつけられれば痛みに呻く。
その当たり前である事実を、彼は知っているのだろうかと。
忌々しさの塊だ。
芦辺からの電話はまるで計っていたかのようなタイミングだった。己の正体を隠すつもりなどさらさらなさそうに肯定し、挙げ句陽炎の命を盾に口を封じられてしまった。最悪だ。最悪な男だ。如月とは違う実質的な意味で最悪な男だ。
兎にも角にも、今は如月に会わなくてはならない。芦辺直々のご指名だ。いい加減口を割ってもらう。白夜は上着を羽織り、姫の病室を出た。
芦辺は姫に手を出した。だが陽炎に対してはどうか。姫の怪我から漂っていた楼闇術の気配から芦辺がその術者であることは確実である。しかしだからといって、陽炎にまで手を出したのかは分からない。ただ、十中八九芦辺だろうと白夜は考えていた。楼闇術の輩がそこらに何人もいてなるものか。しかもご丁寧に以前と似たような手口を使って。陽炎の方が芦辺だとしたら、以前見つけてしまった如月の首の痕もその可能性は高い。あのときオーラを確かめておけば良かったのかと思い、もしかしたら如月が誤摩化そうとしたのもそのせいなのかもしれない、とも思う。
しかしだとしたら、如月は芦辺が楼闇術者であることを知っていたことになるのではないか。…否、過去のことは確かめようがない。如月が否定したらお終いなのだ。
一日入院の陽炎に「ちょっと如月に会ってくる」とだけ声を掛けて病院を後にする。
すっかり夕闇に包まれた町はひっそりと人気を減らしている。
如月はすぐに見つかった。川岸で釣りをしている人間となれば一発である。
夕焼けだけが赤く眼が焼けるように眩しい。如月は背を向けている。銀色の髪が夕日に透ける。
「待っていて下されば、病院まで行ったんですがね」
「あんたを待ってたら何時間待つか分かんねえだろ」
「それは失礼しました。陽炎君はお元気そうですか?」
「ああ、あんたに会うって言ったら、会いたそうな顔してたけどな」
如月は微笑したまま表情を変えない。彼にとっての微笑は無表情と同じだ。白夜は胸をむかつかせた。
こうして前もって話をするとなると、余程不意打ちでもしない限りその顔色が変わることはないのだろう。
「…陽炎に手を出したのは芦辺か?」
「さあ」
「花芽宮に手を出したのは楼闇の芦辺だ。陽炎からもその気配は感じられた」
「それが同一人物の物とは限りませんから」
「以前あんたに手を出したのは誰だ」
「さあ」
「芦辺じゃないのか?」
「彼が何故俺の首を絞める必要があるんですか」
「ならどうして今回の犯人は陽炎を襲ったと思う?殺しもせず。途中で放り出した」
「殺すつもりがなかったんじゃないんですか」
「嫉妬じゃないのか」
そう、もしも陽炎に手を出したのが芦辺なら、何故陽炎に手を出したのかということになる。
如月に執着していると思われる芦辺なら、陽炎に嫉妬して手を掛けかねない。何せ楼闇術者なのだからその辺の躊躇はないのだろう。
はったりを利かせてみれば、如月は静かに首を振った。
「彼が犯人とは断定出来ませんからね」
「もしも芦辺だったら、有り得るってことか」
「否定はしませんね」
否定しないのなら最初から素直にうんと言えばいいものを。
白夜は苛立つ心を押さえつけ、続けた。
「芦辺が楼闇術者であることをあんたは知ってたのか?」
「いいえ」
「長い付き合いなんだろ?」
「一般の人間に術者の気配を察する能力はありませんよ」
「…あんたは本当にただの一般人なのか?」
「どういう意味か判断しかねますが」
如月の表情は全くと言っていい程穏やかで変わらなかった。
攻めあぐねるとはこういうことを言うのだろう。白夜は内心舌を巻いた。
「僕はあんたをそこんじょそこらの無害な一般人だとは思っちゃいない」
「そう言われましても…言いがかりですよ」
この件についての決定打はない。質問を変えた。
「花芽宮を襲ったのが芦辺だと、あんたは知っていたのか?」
「いいえ」
「花芽宮には如月なら知ってたんじゃないかと言われたんだが」
このとき、ほんの一瞬、如月の眼の色が変わったような気がした。苛立ちと冷ややかさが綯い交ぜになったかのような色。鋭い殺意にも似た。
何を考えた?今の質問に如月の感情を動かす何かがあったというのだろうか。
そして次の瞬間、彼が放った言葉に白夜は耳を疑った。
「…知ってましたよ」
「知って…?」
「俺は姫を襲ったのが響だと知っていたと言っているんです」
その声色は以前姫と陽炎の間に割って入ったときのように冷え切っていた。思わず背筋に悪寒が駆け抜けるのを感じる。
だが同時に、沸々と怒りに似た感情が込み上げてきていた。
「…知っててなんで黙ってた」
「あなたや彼に言ったところで何がどうなるわけでもない」
これは嘘に塗れた彼の本音なのだと、直感的に白夜は悟った。この男は根本的に白夜や陽炎を信頼していない。
例え弱音を吐いたところで、それは本当の信頼から吐き出されたものではなかったのだ。何処かで距離を置かれていた。
そんなこと、心のどこかでは分かっていた。…そう、分かっていたはずのことが、何故こんなにも白夜を苛立たせ、虚しくさせるのか。
「…芦辺は何のために花芽宮を襲ったんだ」
「それは本人に聞いて下さい。俺は知りませんよ」
「…知らない、…聞かないままで、あんたは済ませたのか?…納得したのか?」
拳が震えるのを押さえられない。芦辺が悪びれもせず姫を襲ったのを認めたこと、白夜が力を送りさえしなければ姫は死んでいたこと、如月が白夜達を信頼していなかったこと、如月が、
「…俺には関係のないことですから」
姫の命など全く気にしていないような素振りを見せたこと。否、実際に気にしていないこと。
白夜が如月の襟首を掴んだところで、誰も責められはしないのだと。
「っ花芽宮はあんたの義妹じゃなかったのかよ……!?」
涙さえ目尻に滲みそうな激情が胸を渦巻く。掴んだ襟元を揺さぶり、如月を睨みつけた。
彼は顔を反らしたまま、眼を伏せている。白夜の手を振り払うこともしない。
「だったら、なんなんです?もっと騒ぎ立てれば良かった?響を責めれば良かった?…もう過ぎたことなのに?」
あくまでも吐き捨てるように淡々と告げる如月に、白夜は逆上した。彼の頬に拳を強かに打ち付ける。
彼は避けもせず、ただ一歩よろけただけだった。唇は切れて血が出ている。
「これで満足ですか」
たった一言。白夜は深い空虚感に見舞われた。
掴んだ襟首はそのままに、如月の胸許に額を埋める。怒りは縮まり、胸を締め付けるような苦しさだけが残る。
声が震えた。
「なんで」
「…桴海君?」
「なんでそんな言い方しか出来ねえんだよ……!このくそったれが…っ」
何も分かっていない顔で見下ろす如月が忌々しくてもどかしくて歯痒くて、やるせない。どうしてもっとちゃんと言わないのか、冷酷そうな振る舞いしか出来ないのか。本当に冷たいだけの人間が、陽炎を助けるために身を呈したり思い悩んだりはしないはずだ。
白夜にはそれが悔しくて悔しくて仕方がなかった。人を信じず突き放す。そんな生き方しか出来ないのか。
「…桴海君、泣いてるんですか?」
「泣いてるわけあるかこの馬鹿がっ」
「だってシャツが冷たい」
「ただの鼻水だよっ!」
ずびーっとわざとらしく鼻を啜って、白夜は如月から離れた。