30.眠り姫には目覚めの口付けを
「ねぇ、彼が私を選んだ理由、本当に分からないのかい?」
受話器の向こうで自分と瓜二つの彼が笑う。ああなんて忌々しい声なのだろう。
それは夕刻、陽炎が帰郷したと聞いてから数日が経過してからのことだった。
暇の慰めにしていた釣り竿を置き、震える携帯電話を手に取った。
表示されているのは双子の兄の名前。かつて父親だった男の名字と呼びなれた名前が浮かび上がっている。
電源を切っておけばよかったと思いながら、実際に切っておかなかったのは心の内では彼からの連絡を待っていたからか。
彼があの少年と一緒にいると考えるだけで、焦燥が胸の奥底を掻きむしる。
「…何か用か」
『君が不安でがたがた震えているだろうから連絡してあげたのさ』
「余計なお世話だ。陽炎に手を出したりはしていないだろうな」
『私は君以外に興味なんてないよ。知ってるだろう?』
響は笑っている。平静を装っているつもりだったのに、自然と声は地を這うように低くなる。
「…なら何故、陽炎の申し出を断らなかったんだ」
『聞いたら君は怒るよ…ああもう怒ってるか』
下唇を噛む。そうだ。響を陽炎に近づけた己の馬鹿さ加減に嫌になるほど怒りを覚えている。
けれどならどうすればよかったんだ…自問しても答えは出ない。如月は携帯電話をへし折りたい心境に駆られていた。
陽炎が旅の目的を達成するには如月と響は殺さなくてはならない対象である。
ということはいずれは陽炎と響が接触しなければならなかったのかもしれないが、今回のように急接近させる必要がどこにあった。
むしろ接近したところで陽炎に響が殺せるわけがないのだから接近させないほうが良いに決まっていた。彼は危険過ぎる。
彼は。
『殺す前に少し可哀想な陽炎君にかまってあげようと思ったのさ』
「響!」
陽炎を殺すつもりでいる。気付かないわけがない。
以前陽炎が『空間』に迷い込んだときも、響は陽炎だけなら殺すつもりだったとはっきり言っていたではないか。
つまり、今の彼はいつでも陽炎を殺せる状況にあるということだ。彼の言う『少し』がどの程度なのかなんて、いくら双子でも分からない。ただそれでも二人を野放しにしておいたのは、表立って付きまとうということが出来ないということ、また響の殺気さえ感じ取れればその場に移動して妨害することも出来ると考えたからだった。吐き気のするような感情の繋がり。
きっとこの己の忌々しい感情でさえも、彼には伝わっているのだろう。
「陽炎に怪我一つでもさせてみろ……!……俺はお前を…!」
携帯電話を折り畳んで、芦辺は小さく笑みを漏らした。
白夜が「どうかしたのかよ」と聞けば、「別に?」と姫の顔を覗き込む。
「なかなか意識が戻らないねぇ」
「…如月は花芽宮と義理兄弟だって言ってたけどよ、あんたはなんだ。如月の元彼兼幼馴染みだから花芽宮のことも昔から知ってんのか?」
「まあね」
芦辺は曖昧な微笑を浮かべて、姫の桃色に透けるような髪を緩く掻きあげるように撫でた。
その微笑が妙に如月に似ていて苛ついたとかそんなことはどうでもよく、白夜はその妙に親密そうな触り方に心穏やかでないものを感じた。更に彼は、髪を指の間に挟み、彼女の額にそっと口付けたのである。白夜は沸騰した。
「お、お、おま…!なにやってんだ!」
「何がだい?」
「何がじゃねぇよ!き、如月ならまだしも花芽宮にまで手を出す奴がいるか!仮にも女なんだぞ!」
頬を赤らめるながら訴えると、芦辺はあっさり流した。
「君の観念もだいぶ怪しいことになってきたね白夜君。男なら良くて女の子は駄目なんて」
「いや、違う、そういうことじゃなくてだな…っ」
「分かってるよ。君は望のお気に入りだからね。ついうっかり名前が出ちゃっただけなんだろう?」
あ、ああ…と頷きかけて、白夜は目を白黒させた。思わず頭を抱え込む。
自分が如月のお気に入りというのはいったいどういうことなのか、と。
仮に例の行為のことを指しているのなら、彼はまさか如月の口から聞いたのだろうか。如月が話したというのだろうか。
だとしたら次に如月が見舞いに来たときに文句の一言でも言ってやらなければ気が済まない。だがしかし。彼がそこまで無神経な人間だったろうか。
白夜は発火しかけていた思考回路を切り替えた。くるりと芦辺に向き直る。
「…その僕があいつのお気に入りってのはどういうことだ」
「おや、気付いてなかったのかい?鈍いなあ」
「だから」
「やめた。望にばれたらまた怒られるからね」
さっきだって殺すとか言われちゃったんだからさ、と物騒なことを口にしながら芦辺はベッドに腰を下ろした。
身長はそれなりにあるのだから体重も人間並みにあるだろうに、ベッドは軽く軋んだだけだ。
闇色の瞳が愉しげに細められる。
「それで、白夜君は私に聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
じっとその眼を見返す。どこかで見た眼だと感じるも、やはり彼の印象は考える前に吹き飛ぶ。どんな術使ってんだか…と白夜は口を歪めた。こんな特徴的な眼差しをしておいて覚えられないなんてことが尋常に罷り通ってなるものか。白夜や陽炎は、人の顔全体を捉えられないといった症状を、生まれてこの方決して訴えたことはない。つまりはそういうことである。…意図的だ。
聞かれたことに関しては思い当たる節はいくつもあったが、今最も率先して聞かなければならないことは。
「…陽炎と付き合い出した目的はなんだよ」
「陽炎君が好きだからさ」
芦辺は笑みを深める。白夜はこの瞬間、気付いたことがあった。芦辺は実に如月に似た笑い方をすると。
しらじらしい事柄であるほど、彼らは笑みを深くする。ただ芦辺の場合、偽りではなく本気で笑っているようには思える。
まるでこの問答が、楽しくて楽しくて仕方がないとでも言うように。
「嘘だろ」
なのにむしゃくしゃするのは、この男に人間性の歪みを感じるからだろうか。
「嘘じゃないさ。どうして君はそう思うんだい?」
「…あんたが執心なのは、如月なはずだ」
特に根拠とするものはない、ただの勘だった。ただ、これまでの彼らのやり取りや芦辺の態度を見ていても、彼が如月よりも陽炎を気にしているとは到底思えなかったのである。白夜の答えに、芦辺は弾けるように笑った。
「っはは、やっぱり望が気に入るのも無理ないね。君はちゃんと人のことを観てる」
鈍いと言ったことは訂正するよ、と彼は言葉を繋げた。白夜は尚も噛みつく。
「…あんたそれは僕の言葉を認めたってことか?…なら…、」
「私は言質を与えた覚えはないよ、白夜君。それに陽炎君から申し込んで来てくれたものを、わざわざ断る理由もないじゃないか」
だけれど……、
と芦辺が何か言いかけて、はた、と動きを止めた。視線は一点を注視している。白夜もつられて彼の視線の先を見る。
ぴくりと動いた指先。
薄ら開かれていく瞼。
薄桃色の髪が枕の上で揺れた。
「は、なめみや…!?」
白夜は思わず椅子を蹴って立ち上がった。駆け寄り、その手に触れる。
…後ろで芦辺が鮮やかな笑みを浮かべたことなど、気付きもせずに。
姫が目覚めたと白夜から連絡を受け、陽炎は急いで病院へと足を運んだ。
病室には白夜、そして姫を診る医師の看護士らの姿があった。…如月の姿はない。
診察の邪魔にならぬよう、小声で白夜に話し掛ける。
「良かった、花芽宮さん意識が戻ったんだね」
「…ああ。…如月はどうしても外せない用事があるってよ」
「…ふぅん…」
もしかしたら陽炎と会うのを避けたかったのではないか、という邪推が働かなかったわけではない。
しかし如月の性格であれば、逆に何事もなかったかのように陽炎に接してくるのではないか。電話での対応も普段と何も変わったところはなかった。安堵した反面、残念がっている自分もいる。彼が陽炎を見て一瞬でも顔色を変えてくれたら、と一種、加虐的なことさえ考えてしまう。散々優しくしてくれている人間に対し捻くれていると自分でも思わざるを得ない。
診療が終わったようで、医師と看護士らは病室から出て行った。姫が陽炎を見る。
「…ああ…来てくれたのね」
頷く。この際良かった、というのもピンと来ない。というよりも、陽炎の口からその言葉が発されると、奇妙なしらじらしさが漂ってしまうような気がした。姫もそれはなんとなく感じ取っているようで、何も言わない。
所詮陽炎は自分勝手な人間なのである。姫とも、それほど深い付き合いだったわけではないため、心底悲しむことが出来ないと同時に喜ぶことも出来ない。そこまで入れ込んでいないのだ。
それよりも、彼女が何故こんな状況に陥ってしまったのかを知りたかった。
「…花芽宮さんは、怪我をしたときのことを覚えてるんですか」
「…ええ」
「顔見知りの人ですか?それとも、通り魔的な?」
ああ、後々警察も人が殺されかけているんだし聴取くらいはしにくるんだろうな、それで同じようなことを聞くんだろうな、と陽炎は頭の片隅で考えた。…楼闇術者等の犯行であったら、いとも簡単にもみ消してしまう警察という組織。何故か?彼らは捕まえられないから。そんな彼らを、陽炎は信頼していなかった。
姫は視線を束の間泳がせたかと思えば、「…顔見知りね」と呟いた。
「顔見知りなら、警察に言えば簡単に捕まえてくれるんじゃないですか?」
「そんな間抜けな奴なら最初っから私のことを襲おうなんて思わないわよ」
「…?つまり常習犯なんですか?」
この間も姫が辛くないように、と白夜が力を送り続けている。意識が戻って間もないのだから当然である。
本来であれば、このように長時間の会話等もってのほかなのである。陽炎は早めに切り上げないとな…と考えながら、姫の答えを待った。姫は、
「……そうなるわね」
と、肯定した。陽炎、と白夜の視線がこれ以上は今日はやめておけと言っている。陽炎は礼を言って口を閉じた。
そうだ。仮に彼女を襲った人間が陽炎の探し求める連中と何らかの関係を持っていたとしても、顔見知りである以上逃げはしない。
…焦る必要はない。無論、一刻も早く復讐を遂げたいという気持ちはあったが。
継続して姫に付くという白夜を残し、陽炎は退出した。
病室のドアを閉じ、階段へと続く廊下へ一歩踏み出す。だが急に、視界が暗くなった。
あの『空間』へ突き落とされたような感覚だった。
気がついたら病院の廊下ではない暗闇の中にいて、陽炎は地面とも天井ともつかぬところに転がっていた。
身体の自由は利く。だが、この空間で利いたところでいったい何をすればいいというのだろう。
以前落ちたところと同じような『空間』であることは感覚で分かるものの、今度は壁も何もない。上か下か、左か右かも分からない。
完全に感覚機能が狂った世界だった。恐怖が、神経をぞわりと駆け抜ける。それだけはリアルだった。
『かげろうくん』
…これは誰の声?
何十にも音が重なったかのような空間で、思考能力もぶれている。
思い出そうとして、不意に首を誰かに掴まれた。
「…っ」
呼吸が妨げられる。息が吸えない。息が止まる。死ぬ。
…まだ、死にたくなんてないのに。いきが。もたな
じゅぅう、と焦げ付いた匂いは錯覚か。
血飛沫の舞った左手を押さえ、響は唇を弧を描くように歪めた。
「痛いなあ。ちょっとは手加減してよ」
「…」
如月は唇を引き結んだまま一直線に響の手前まで歩いて来た。
途中、陽炎が無事であることを確認してから、凍てついた鋭い眼差しで彼を見遣る。
「…俺は陽炎に怪我の一つでもさせてみろ、と言ったばかりのはずだが」
「嫌だなあ、ちょっとちょっかい出しただけで怪我ってほどのものはさせてないじゃないか」
響は微笑んで、傷を負った左手に伝う血を舐め上げた。
そのまま右手で如月の首を掴み、唇を重ねる。息苦しさに口を開くと、血の味が口内に侵入してくる。まずい。
だが彼はこの血という液体が好きなのだと昔言っていた。うっとおしさはともかく美しいと。物好き以外の何者でもない。
「…陽炎君が私を選んだ理由…いい加減に分かったかい?」
唇を放し、響が嘲るように愛おしげに微笑む。
沈黙で返す如月に、彼はもう一度軽く口付けてから、言った。
「ヒントだけ教えてあげるよ。…『君が私を拒めないのと同じ理由』さ」
「……」
解せない、という顔をしている如月に響は追撃を加えた。
「ねぇ望。私を殺したいんだろう?陽炎君を傷つけたんだからね。…殺せばいい」
耳許で甘い誘惑をするかのように囁く。その刺激に反応するかのように血はどくりと熱くなるも、理性がそれを押し止めていた。
殺せばいい。陽炎が殺せないのだから自分が彼を殺すしかないのだと。そうすればあの少年に危害を加える者はいなくなる。消し去るべき人間は自分だけになる。だが。だが、しかし…!
自分と酷似した顔が微笑む。それはどこか嬉しそうに。
「…出来ないね。君は私のことが好きだから」
「…響」
「ほら、泣かないでよ」
「ないてなんかいない」
「ああそうか、これは涙じゃないんだったね」
流れ出した右目の血を響は拭い、舐めた。「君の血の方が奇麗な味がするね」と口元に微笑を浮かべ、如月から離れる。
「…望」
「君が私を殺すときは、私が君を殺すときであってほしいね」
彼は静かにそう言った。