29.束の間











いつだって傀儡のような心だった。



仕事だと云って立ち去って行った男を見送った自分をその場に留まらせたのは一本の電話。
表示された番号は自分が困らせた彼でもなく、つい先程まで傍にいた男でもなく。
更には病院で彼女を見守る面倒見の良いとしかいえぬ青年でもなく。
見知らぬ番号。だが、不吉な気配だけが手のひらの中の携帯電話から漏れ出てくるような気がして。
出なければいい、と冷静に考える理性と、出なければいけないと警鐘を鳴らす本能、直感と。
従ったのは勿論後者で。彼に口付けた瞬間から、あの男に付き合ってくれと言ったときから、もしかしたらそれより前、旅に出る前から理性や冷静さなんてくそくらえだと思ってしまっていた。そんなもの、自身を捩じ曲げるものでしかない。
…だとしたら、感情とは一体なんなのだろう?
感情が本能の命ずるままに生ずるものならば、感情を抑制するということは本能を抑制する事に他ならない。
本能を露にすることは醜いこと。場合によっては誰かをいたずらに傷つけること?
……知っている。本能などというあやふやなものなどない。これは我だ。
ひたすらに我を押し進める行為。それは尊ばれる行為とは全く正反対のもので。
何故だろう。我ほど自分であるものはないはずなのに。厭われる。
あまりに強烈な我は、分かり合えないから。
(俺は誰かと分かり合いたいと思っているんだろうか)
自分の今の生き様が素晴らしいものだとは到底思えない。むしろ醜く足掻いている姿はひどく滑稽だ。
彼が欲しくてでも妥協して、敵を殺したくてでも見つけられなくて。憎らしくて憎らしくてでも何が憎らしいのか分からなくなっていて。敵が憎いのか母が憎いのかあの人が憎いのか。自分が憎くて。なのに自分を蔑ろに出来ない。我の塊だ。
だからこそ、誰かと分かり合って我を薄めたくて。
嘘くささに塗りたくられても、自分を打ち消したくて。消された自分は静かに蠢く。刃を剥く機会を待っている。

(…それで俺は電話に出て)

知らぬ男の声が、否、聞いたことのある男の声が耳をついた。
旅に出る前、数回だけ話したことのある近所の男の声。母子家庭に情けをかけてやるなんてなんて優しい男だろうと自身に酔っていた男。その汚い唇からは、母を性の捌け口にしてやるという意思が有り有りと窺えたのに。物好きな男。
自分が旅立った後、彼と母がどうなったかなんて知らない。父しか見ていなかった母に付け入って又は彼女が心神喪失状態にある際に何が行なわれたかなんて陽炎の考えることではない。とにかく、その饐えた声が携帯電話越しに鼓膜を揺らした。吐き気がした。

彼は母が死んだと告げた。

心労の所為だったのか病気だったのかも耳を素通りして覚えていない。
ただいつのまにか男は自分の所在を聞いてきていて、葬式を執り行うから帰って来いと言っていた。
心に張り付いた一枚の膜が薄っぺらく揺らいだ。淡々とした感覚に囚われながら、「冗談じゃない!」と騒ぎ立てる更にその内側。
(俺が帰ってあの人が喜ぶものか…!)
散々嬲っていたぶって。あの人が愛していた父を殺した元凶。抱きしめたと思ったら次の瞬間には爪を立てる。
けれどそれでも愛して欲しくてあなたの奴隷になったのに。勝手に死んだ。
(違う父さんの復讐は俺の意思なんだ)
父が死んだのは自分のせいだから。連中が、自分が、憎らしくて旅をしている。
だけれど、確かにその中には母に対する感情もあった。少しでもいいから好いて欲しいと。今考えれば無駄なこと。
(……例え俺が敵を殺して帰ったところで、あの人は俺なんて見ようともしなかったんだろう)
一瞬は歓喜に涙し陽炎を抱きしめたとしても、すぐさま突き放し結局は痛めつけるだけだったのだろう。
何故、母が死ぬまでそんなことにも気付かなかったのか。幼く、浅はかであったから。…分かっていながら、微かな希望に縋ろうとしたから。

母のために復讐をしようとしていた。
同時に、自分のために復讐を果たそうとしていた。傀儡をやめようとした。区切りをつけたかった。
それでいい。…もう、彼女に翻弄される必要などないのだ。
なのにこの心に吹き荒ぶすきま風は何なのか。乾燥してざらついている。






煩わしいまでの日差しに顔を顰める。
カーテンをシャッと閉めてベッドに横たわる白い顔を見下ろしても、意識の戻る気配などこれっぽっちもなかった。
薄桃色の髪が枕の上に散り乱れ、細い首筋には痛々しい包帯が巻かれている。巻きなおされたばかりなのか、まだ真っ白く血の染み込んだ痕もない。
…そう、彼女の怪我は首を深く切り裂かれたものだ。頸動脈まで達していて、普通なら死んでいたものを白夜の力で出血を食い止めたもの。
だが手術で傷口が塞がれた今になっても、気がつけば血が包帯を汚している。そして誰にも言ってはいないものの、その傷口から漏れ出す楼闇術者のオーラ。
(どういうことなんだ、これはよ…)
頭では理解している。彼女は楼闇術者に襲われたのだ。だがだとしたら何故、彼女は今生きている?
頸動脈を切ったのだから殺したつもりでいた。それはそうだろう。だがどこか腑に落ちない。血を見ただけで満足した?…。
何も不自然ではないのに何かが不自然だ。…あくまでも白夜の勘がそう告げているだけに過ぎないのだが。
そのとき病室のドアを誰かがノックした。誰か。陽炎は…旅に出ているはずなので、如月か、芦辺か。
以前彼女の母親に電話を掛けたところ、彼女は電話口で「まあー」と大声を出した後、散々どうしましょうと慌てていた。
それで今、なんと海外にいるそうですぐには帰れないだとか。娘の一大事なのにか?と問いただせば、「白夜さんがいらっしゃるなら〜」ととぼけた返事だ。
彼女はいったい自分の娘がどの程度の重傷なのか分かっているのだろうか。こちらはちゃんと伝えたはずだ。
兎角数日後には帰国するらしい。…それは、まあいい。白夜は病室のドアを開けて入ってくる人物を迎えた。
…如月だった。これが当たりかはずれかと聞かれると、芦辺と比べたら当たりだと言わざるを得ないところが腹立たしいところだ。
先日、陽炎が芦辺と付き合い出したと聞いたのは彼からだった。
そして彼自身、陽炎と何やらいざこざがあったような気配をさせており、その物的証拠と言っていいのか…を見たときは、白夜は一瞬、自分の体内の血が逆流したように感じたのだった。
「…よお」
直後、妙に冷え冷えとした感情に支配され、自分が苛ついているのだと悟っていた。
思い返してみれば、その態度に、如月もらしくもなく戸惑っていたように思える。
それもそうだ。いつもの自分なら痕なんか見てしまったら真っ赤になって飛び上がんばかりなのだから。
それがどうしてか、この間はそうはならなかった。…羞恥を上回る苛立ちだったということなのだろうか。
「こんにちは、桴海君。今日はお土産にケーキを持って来たんです。…不一家のケーキですが多めに見てやって下さい」
なのにこの男と来たら、そんなことなどなかったかのように平然としていて、微笑んでいる。
不一家のケーキだろうかタカラフネのケーキだろうが今はどこのケーキでもいい。今日、そんな態度を取れるなら、何故先日も同様に平静を装っていてくれなかったのか。そうすれば白夜とて先日のことなど何もなかったかのようにやり過ごせただろうに。
なまじそのときの動揺を知ってしまっている所為か、今日の態度は虚構のようにしか思えず苛ついてしまう。
だが、如月はそんな白夜の心境を知って知らずか、姫の様子を確認してから白夜に曖昧に微笑みかけた。
「陽炎君が一旦故郷にお帰りになったそうです。もう聞きましたか?」
「…なに?」
「彼の母親がお亡くなりになったとのことです。桴海君は病院にいたので彼も連絡が取り難かったんだと思いますよ」
「……ああ」
病院では携帯電話は使えない、と当たり前のことを考えてから、白夜は如月を見上げた。
「それはつまり、陽炎の親はもうどちらとも…ってことだろう」
「…ええ」
「…そうか」
こうなると、もう陽炎に肉親はいないのだろうか?そういえばそんなこと、聞いたこともなかったな…と彼はケーキの上の飾りチョコを口先で砕いた。
肉親がいないのであれば、もう陽炎を思い止める人間もいないのではないか。彼の復讐という行為を。
おそらく白夜には止められない。良くも悪くも平穏な人生を送って来た自分には、陽炎の気持ちを分かってやれない。それくらい、人の死は重い。
では、今付き合っている芦辺はどうか、となると。……無理なような気がした。芦辺も、どちらかといえば陽炎と同類で突き進んでしまう人間のように思える。
そう考えてみれば、二人の組み合わせはあまり好ましくはない。言い方はおかしいが、芦辺の所為で陽炎が勢いづくかもしれない。
陽炎が後悔しなければ、それでもいいのかもしれない…が。
ならば目の前にいる人間はどうか。陽炎のこととなるとどうも取り乱す傾向のあるこの男なら。…ああ面白くない。
「…如月」
「なんです」
「あんたは…陽炎の復讐に関してどう思ってんだ?」
白夜の問い掛けに、如月の眼が一瞬醒めた色を呈したように見えた。
その一瞬、彼の感情が垣間見えたと思ったのに関わらず、またその表情は偽りめいたものに包まれる。
だが、その声色は彼が陽炎には聞かせぬような冷えたものだった。
「…それが、陽炎君の望みならば」
白夜の心臓が悪寒に震える。何故。何故か。
すると一転して、彼は微笑した。
「それは桴海君も同じなのではないのですか?」
「…、けど、あんたはそれでもし陽炎が」
死んでも平気なのか?と言ったつもりだった。声にはなっていなかったけれど。
怯えている、というわけではない。ただ、這い上がった悪寒はなかなか消えない。…如月の声に、思い詰めたような本気を感じてしまったから。
分からない。何故如月はこうも陽炎に対し深く入れ込んでしまっているのか。傍にいるものに恐れ、驚きを抱かせるほどに。
これはいつかも感じた。陽炎が川で死にかけたときも、身体を張って助けたこの男に対して。
…今回に限っては、この男は怪我も何もしていないはずなのに。
「…そのときは」
そのときは?
「陽炎君を死なせはしません」
鮮やかに笑って、彼は病室を出て行った。

……どうしてあいつの微笑みは、いつも嫌な予感しかしないのだろう。









線香の香りが身体に纏わりつき、いつのまにか染み付いている。
帰って良いよと遠縁の親戚たちが陽炎を送り出してから、小一時間経つ。
一つの季節が終わりを告げ、再び見た母の顔は何も変わっていなかった。
少しでもしみが増えていたりして変わっていたならば、多少は何か感じるものもあったかもしれないのに。
彼女は旅立ったときと同じ顔だった。ただ、幼い頃と比べればやはり年老いたと感じることは出来る。
だが、故郷にそれ以外に何の見るべき物もなかった。
家にいてひたすら彼女の顔色を窺って暮らしていた陽炎には友人の一人もいなかった。
たまに外に出て向けられるのは、外れ者に対する視線だけだった。石さえ投げられない。それほど陰険な子どもが周囲にいなかったということもある。
健気で無邪気で、無関心またはただ見下しているだけ。違う世界の人間だと思われていたのかもしれない。
慣れ親しんだ孤独の世界とでも言えばいいのだろうか。陽炎にとって、故郷はそういった場所だった。ある意味懐かしいといってもいい。
此処にいると、自分が旅立っていたのが嘘のようにさえ思えてくる。
…隣に、彼さえ立っていなければ。
「響さん、お仕事は良かったんですか?」
「ああうん、もう終わったからね」
「…線香臭くてすいません」
「いいんだよ。私は線香の匂いは嫌いじゃないからね…不謹慎だけれど。君こそ今日はさすがに元気がないね」
響は陽炎の隣に腰掛け、陽炎の髪に顔を寄せた。「確かに線香臭いね」と言って笑う。
本当に不謹慎極まり無い男だ。陽炎も小さく笑って、「一応母が死んだわけですからね」と響の髪に手を伸ばした。
真似するように顔を寄せて、眉を寄せる。
「…無臭」
「女の子じゃあるまいし、ほんわかシャンプーの匂いってのも嫌だろう?」
けれど無駄にさらさらしている。僻んでいるわけでもないが、引っ張ってやると響が呻いた。
「…酷いね君は」
「俺も傷心なんで勘弁して下さい」
「やっぱり、母親が死ぬと堪える?…君みたいに、父親の敵のことばかり考えている子でも」
おそらく堪えている。でなければこの胸の虚しさが説明出来ない。
陽炎は俯いて膝を抱えた。
「響さんのご両親はまだ健在なんですか」
「だいぶ前に死んだよ」
「そうですか…」
だからなのだろうか。この男が、どんな殺伐としたことにさえ怯みそうにないのは。自分の両親が死んだというときでさえ、顔色一つ変えない。それが非情と捉えるべきなのか、陽炎には分からない。自分も、母親の亡骸を前に号泣出来ないのだから、同じなのかもしれない。
「響さん」
「なんだい」
「さっき俺のこと『子』って言いましたけど、よくそんな子供と付き合う気になれましたね」
本当は、如月や白夜も陽炎のことを子供だと思っているのかと気になってしまっただけなのだけれど。
そもそも響がいくつなのかさえ、陽炎は知らない。知らないのに、付き合っている。
「私は自分より年下の人間は、全員子で通してるんだよ」
「白夜さんも?」
「白夜君もだね」
「…響さんいくつ?」
「19」
「誕生日は?」
「…君は意外と知りたがりだね」
本当に知りたいわけでもないだろうに。響が唇を緩めて笑う。
そうだ。本当はこうして話していないと自分の中にぽっかりと穴が空いてきそうで、それが嫌で話し続けているだけだ。
それも此処にいるからなのだろうか。再び旅だってしまえば、母のこともすっかり忘れてしまえるのだろうか。
響は懐から苺ポッキーを取り出して一本くわえると陽炎にも一本差し出した。
「誕生日ねぇ…11月の…下旬だった気はするんだけど…」
「じゃあ冬生まれですね」
「そうだね、冬…生まれだね」
彼は束の間、遠くを見るような目をし、気を取り直したように二本目のポッキーに手を付けた。
陽炎はそれを横目で見遣ってから、ふと、ポッキーは線香に似ているなと思った。
細長く、折れやすい。いつのまにか消え去っていて、人の記憶になど微かにしか残りはしない。
「響さんは、冬に思い出でもあるんですか」
「…そんなものはないよ。それと…陽炎君は結構遠慮がないね」
「駄目なら駄目でこれ以上は食べませんけど」
「いや、いいよ。もう一袋あるから」
がさりともう一袋目を開封する響を陽炎は真顔で眺めていた。
「恋人らしくポッキーゲームでもします?」
「ここじゃあ人目があるから恥ずかしいなあ」
対する響も真顔である。陽炎が小さく笑うと、響も小さく微笑んだ。