28.渇望
砂漠の砂が時折吹き付ける所為か、闇夜をネオンで照らしながらも吹條街はどこか寂れた印象を受ける。
恋須賀街の都会特有の目映い世界とは異なる、咲き散ったのちの華のような虚しさ。夜に浮かび上がるパチンコ屋の下卑た光に、陽炎は目を細めた。
至ってこの街には不似合いな人間が、舗道の隅に座り込んでいた。
「…何してるんですか」
問い掛ければ、銀の髪に隠された眼が陽炎の姿を捉える。
その口元は、日頃と何も変わらぬ笑みを刻んだ。
「休憩していたんです」
「こんなところで、ですか」
「似合いませんか」
周囲を見回せば、似たような若者が地べたに座り込んだり寝転んだりしている。
はきだめのようだ、と陽炎は感じた。快楽に興を出し深夜街をうろつき回る若者の。
「…似合わないよ」
目の前の青年の長身痩躯な体格は、線の細さばかりが目立つ。
細さ、と言えども女子供のようなものではない、全体的な色素の薄さによる影響の大きいもの。また、庶民的な雰囲気を背負っている昼間とは打って変わって、夜になると絹のような妖しげな鋭さが彼の中から滲み出ているように、陽炎には思えてならなかった。夜の闇が見せる錯覚だといくら自分に言い聞かせてもそれは変わらない。
そしてその鋭さは、このパチンコの安い輝きとは相容れないものだ、と見ている者に思わせる不可思議な効果があった。おそらく似合うのは眼を覆うばかりの眩しさではなく、先程からひっそりと隙間で広がっている闇の深さなのだろう、と。
…そんなことを思いかけ、陽炎は我に返る。
闇が似合うだなどと、まるであの忌々しい術者に向ける言葉ではないか。
ただの釣り人の一般人に向けるべき形容ではない。彼は少しばかり容姿が整っていて、中性的で、それだけで。
夜の見せる錯覚に囚われた、邪推に翻弄されている。
…邪推?いったい、なんの。
「陽炎君も、こんな夜中に出歩いていては危険ですよ」
彼は立ち上がり、保護する対象を見るかのような眼で、陽炎を見下ろす。昼間の表情が、ちらりと顔を覗かせる。否、昼間も夜も差など有るはずもないというのに、先程までの発想が頭を離れない。珍しく深夜に歩き回っているものだから、脳内が高揚しているのかもしれない。ただ、今夜は何故か眠くならなかったのだ。
たまには、起きているのも悪くない。そう思った。昼間あの青年に会った影響だろうか?
『私と彼が何ならよかった?』
青年は陽炎の様子を窺っていた。陽炎自身、いったい何を思ってあの問いをしたのだろう。
結局彼は『幼馴染み』だと答えた。それを受けて自分は、いったい何を思った?
砂に誤摩化された、あのとき、何を考えた。
すんなりと収まらなかった、歪に曖昧に滲んだ感情。
「…どうしたんです、何かありましたか」
彼の表情に心配の色が混じる。
そんな顔をさせて申し訳ないという想いと、その逆を想う気持ちが、心の裏にちらりと過った。
どうかしている。どうかしていた。夜だからか。
戸惑い、様子を窺う手は以前自分を抱き寄せた手だ。触れた、手。そしてその唇は自分を大事だと言った唇だ。年下としてなのかもしれない、傷つけたくない、『保護しなくてはならない』という意味の。
守らなくてはいけない。守られなくてはいけない?大事だと想われて嬉しかったのは事実だというのに、その想われ方に今更ながら心がざわついている。
対等でありたい。…何を言っているのだろう、陽炎自身が頼りないからこそ、彼に何度も助けられたのだ。
青年の言葉にもやもやしたのは何故。
幼馴染みという響きに、曖昧でありながらも自分が劣っているように感じたのではないか。
知り合い(陽炎)とは異なる、それより『上の』知り合い。
当たり前だ。まだ彼とは知り合って数ヶ月。それで、……なにを。
「陽炎君、……調子でも悪いのですか。…宿泊先はどちらで?」
口が勝手に動いた。
彼はそれを聞き、陽炎の手、ではなく、手首を掴み、歩き始めた。時折陽炎の様子を確かめるように、振り返りながら。
心に込み上げて来たのはもどかしさだけだった。
宿の部屋に到着するなり彼は陽炎をベッドに座らせ、鞄から体温計を取り出してきた。
それを陽炎に計らせ、熱がないのを確認してから正面のベッドに少しばかり安心したように座り込む。
「熱は…ないようですね。…気分が優れませんか?」
「…きさらぎさん」
「はい?」
「今日の昼間、響さんと会ったんだよ」
彼は一瞬笑みを崩しかけ、繕った。
「…それで彼は何か」
「街を案内してくれたんです。楽しかった」
淡々と述べる。楽しくなかったわけではない。
ただ今は布石、感情を先走らせぬための言い訳、手順に過ぎない。
彼は沈黙し、陽炎の言葉の続きを待っている。
如何にも陽炎の現状が、続きさえ聞けば分かるかのように。
「…」
「響さん、如月さんとは幼馴染みだって言っていました」
「…ええ」
彼は笑みを浮かべたまま、肯定する。
陽炎も釣られたように、実際は全く正反対ともいえるような笑みだったが、を浮かべた。
「如月さんは俺と響さん、どっちの方が好きですか?」
「え…」
「それとも、白夜さん?」
一番に自分を好いていて欲しいだなどと、傲慢以外の何物でもないことを考えている。他の人とは違う接し方をするからつけあがるのだと目の前の彼に責任転嫁したくなる。大事だなどと簡単に言ってしまうから、こんなおかしな感情が生まれて来てしまったのだと思いながら、陽炎は彼の答えを待った。
慣れない感情が胸の中で燻っている。
彼はしばし口を噤んでいたが、気を取り直したように笑みを結んだ。
「どなたが好きかというのは、比べられるものではないと思いますよ?」
「…どうして?」
「陽炎君も、俺と桴海君どちらが好きかと聞かれても答え難いでしょう」
陽炎は視線を俯かせた。
彼はいつだって直接的な言葉の刃を避ける。
この一見バランスの取れた発言も、陽炎を気遣ってだとしたら。
…彼の感情の流れは、陽炎が望むようなものではない。
「きさらぎさん」
当然だ。自分は他人どころか実の肉親にすら好かれない人間なのだから。人の感情を自身に向けようだなんて、浅ましいにもほどがある。
…これまでなら、そう思えていた。
虚しくなって、それを受け止めて、心の奥底に沈み込ませて。
なのに、今回は違っていた。
「…陽炎君?」
彼はいつだって優しかったから。
自分を抱きとめていてくれたから。
深く深く、いつのまにか、期待してしまっていた。
勝手に裏切られたような心境になって、それは彼がいけないのだと。生温い優しさだけのもどかしさが溜まって、心を掻き乱して。
急速な感情の膨れに、精神が追いついて行かない。
身体だけが、彼の手首をベッドに押し付けた。
何か言葉を発しようとした彼の唇を塞ぐ。
「んん……っ!?」
彼の手首は強張って、反射的に陽炎を拒絶する。
薄く瞼を開ければ驚く彼の瞳と眼が合って。
舌を差し込んだ。
「ふ……っ」
ちゅく、と水音がして、彼がぎゅっと眼を閉じた。微かにその頬が紅潮する。
もっとだ、と思う。もっと深く彼を味わって、本音を引きずり出してやりたかった。大人特有の穏やかさを奪って、ありのままの彼を曝け出させたかった。
角度を変えて唇を貪る。
首筋の薄い皮膚の上にも口づけを落として、シャツに手を掛ける。だが、彼の手がそれを拒んだ。彼よりも幼い陽炎の身体は、怪我しない程度の力でもって押し返されたのだった。
彼は手の甲で唇から伝う透明な雫を拭い、衣服の乱れを整えた。その瞳に映るは、僅かな戸惑いと静まりつつある波、平静さ、…物足りなげな陽炎の顔。
「…いくらお年頃でも、相手を選ばないと駄目ですよ」
彼はまるで陽炎が軽くじゃれついただけかのように苦笑し、何事もなかったかのように陽炎を腰掛けさせた。
陽炎は唇を震わせる。
もどかしい。届かない。もどかしい。
一瞬収まった感情が突発的な勢いを再び吹き返し、陽炎は彼の腕を力強く掴んだ。握りしめた。
その勢いのまま、口から言葉が飛び出す。
「誰でもいいわけじゃない、俺はあなたのことが……ッ!」
息を呑んだのはどちらだったか。
至近距離で見つめ合ったまま、互いに身動きもせず静止する。
…俺はいま、何を言おうとした?
自問する。無意識のうちに指先に力がこもった。
彼の眼には、先程までと比べ、明らかな動揺が色濃く揺らめいている。
「…陽炎、君」
掠れた声色が唇から零れる。白い首筋。
その肌に貪りつきたい、という欲望が身体を駆け巡った。
しかしそんなことをしてはいけない、と理性が本能を抑え込む。
顔を背け、彼の身体を自分から突き放した。
「っすいません、何でもありません……っ」
その後彼がどうしたかなんて覚えていなかった。
きっと何か言ったのだろう。けれども何一つ記憶には残っていなかった。ただ気がつけば、彼は立ち去っていた。
陽炎の言わんとしたことくらい分かったろうに、彼は残酷なほどの優しさで、労るように姿を消した。
心臓が抉られそうだった。
彼は何を言っても、けむに撒くようにその衝撃を和らげ、最終的には勢いを打ち消してしまう。届かない。傍にいても、口付けてもすり抜けていってしまう。
だがそれ以上に、陽炎は自分の感情に唖然とした。
胸中に渦巻くのは恋などという甘い感情ではない。一人の個人に対する『執着』だった。優しさなどどこにもない、滅茶苦茶に自分を刻み付けたい、心も身体も欲しいのだという身勝手な、『欲望』。
大事などという生温い言葉や態度では、物足りない。
それを、どうしたら手に入れられるのか、…手に入れていいのかすらも分からない。家族以外の誰かを、これほどまでに想ったことなどかつてなかった。
ましてや、想ったところで、いざというとき踏み切れなくなるだけだというのに。
彼を呼び出したのは、何故か。
おそらく彼は覚えられるような顔を持っていなかったから。覚え難い顔はその人としての存在を揺るがすものでもあったから。
…つまり陽炎の見知っている中で、最も人として強烈でありながら希薄であったから、だ。
更に彼は陽炎を『似ている』と表現した人間でもあった。
彼なら陽炎の言わんとすることを理解する。
…そんな気がした。
「昨日の今日で誘ってもらえるなんて光栄だね」
響は微笑する。正確には、笑う気配だけ。
陽炎はその見えぬ顔をじっと見つめ、切り出した。
「響さんには誰かお付き合いしている人がいますか?」
「まさか」
「なら俺と、付き合ってもらえませんか」
彼は興味深げに、その真意を見極めるかのように眼を細めた。
そう、その顔だ。タブーとされる事柄でさえ平気で触れることの出来る顔。いま、目の前にいる青年は昨日殺伐とした内容をあっさり言ってのけたほうの『彼』。
彼は緩やかに微笑んだ。酷薄な笑み。
「望にでもふられたの?」
そら。この青年は優しさを振りまきながらも、こうした容赦ない言葉を浴びせてくる男だ。如月の知り合いでありながら、その性格はあまり似ていない。刃物の切っ先のような男。
優しくしただけ、傷をつける。まるで飴と鞭だ、と陽炎は思った。
「…違いますよ」
「ああ…なら、気を紛らわそうとしてる。彼一人に、執着してしまっては危険だから」
「危険?」
「君の感情は激し過ぎて、手加減というものを知らなそうだからね。まあ、自覚はあるだろうけれど」
そうだ。傍にいてはいつか我慢が利かなくなる。
もしその我慢が利かなくなれば、自分はいったいどうする?彼は生温く優しいから、…きっと受け入れざる得なくなるだろうが。しかしそんなもの蹂躙となんら変わりないではないか。…心が手に入らない。
いっそそれならば、この目の前の青年に気を散らしてもらおうかと思った。
希薄な男だったから。……だが、本当にそれだけか?
「君は面白いね。……少しだけなら、君のいうお付き合いをしてもいいよ」
「よろしくお願いします」
「ただ、恋人というよりは、契約者みたいだね、……電話だ」
彼は携帯電話を懐から取り出し、黙って耳に押し当てた。
それから、ぷつりと通話を切る。
彼はにっこりと微笑んだ。
「悪いけれど、これから仕事みたいだ」
「仕事と恋人、どっちが大事なんですか」
冷めた顔で問い掛ければ、彼も笑みを薄くした。
「仕事があるときは仕事。休憩中は…君さ」
彼はひらひらと手を振り、陽炎に背を向けた。
その割り切った契約者の背中を、陽炎は消えるまで見送っていた。
以前は仲違いして嫌われてしまったのではないかという心配ばかりしていたのに、今回に関しては、如何に自分を理性の感情に押し込めておくかが重要だった。何せ爆発したらしたらで今回ばかりは決定的に何かが変わってしまう。
『ねぇ、陽炎君に告白されちゃったよ』
数分前に掛かってきた電話越しの笑みを含んだ響の言葉が頭を離れない。思わず如月が言葉を失えば、『君にはそれがどういうことか分かるかい?』と追撃される。
「…ひびき」
『そんな怖い声出さないでよ。でも、さ。君には何故彼が私を指名したかは分かるかな』
その言葉には携帯電話をへし折りそうになった。
みすみす陽炎を響に近づけたのだ。如月にしてみればとんでもない事態だった。ましてやそれが、もしかしたら自分の行動が端を発していたものならば。
「……くそ」
陽炎の必死な眼差しが如月の心を焦げ付かせる。直接的な単語を言われたわけではない。だが、あの状況では鈍い人間でも気付こうものだ。
……あの少年は、敵である自分を好いている。
(冗談じゃない!)
これでは真実を知ったとき、彼がより深く傷つくだけではないか。
それならば出来るだけ遠ざけた方が良い。極端な話、如月が陽炎の前から姿を消せば良い。しかしそれでは、永久に彼は敵を探し求め続ける。如月は頭を抱えたくなった。
渋面のまま、視界に現れた病室のドアをノックする。
部屋の中から返事が聞こえて、如月はドアを開けた。
ベッドの横の椅子に腰掛けた白夜と視線が合う。
彼は嘆息したかのように「あんたか」と一言漏らした。
「差し入れです」
来る途中に寄った洋菓子屋で購入したシュークリーム詰めパックを白夜に押し付ける。彼はそれを受け取るなりパックをこじ開けながら、姫を視線で示した。
「まだ意識の戻る気配はねぇよ」
「…そうですか」
沈黙。如月は口を開いた。
「陽炎君が、響とお付き合いすることにしたそうです」
「…なんだって?」
白夜の眉間に皺が寄る。彼にとって、響はそれほど印象の良い男ではなかったのだろう。シュークリームを食べ進める手も止まっている。
「あんたは許可したのかよ」
「彼らが付き合うのに、…俺の許可が必要ですか?」
冷えた声色で返してやれば、彼は言葉を濁した。「そうだけどよ…」
「僕は、あんまり芦辺が安全な奴だと思えねぇんだよ」
「その意見に関しましては同感です」
「知り合いのあんたが言うんじゃ尚更だろ?…あいつ、血の匂いがすんだよ」
相変わらずの白夜の物事に対する『嗅覚』に感心するとともに、その不愉快げな表情に、心臓の鼓動が速まる。
響のことを話しているだけなのに、まるで自分のことを話されているようだ、と如月はそれ以上自身が余計なことを考えぬよう、ひっそりと舌を噛んだ。鈍い痛みが口内に走る。
「しかし、申し込んだのは陽炎君の方からのようですから…」
「…あんただって陽炎のこと気になるんだろ?陽炎だって、」
「俺は彼のことをそういった眼で見ているわけではありません」
首を振り、彼の言葉を遮るように否定すると、彼は黙り込んだ。
だが、背中には彼の視線が痛いくらいに突き刺さっている。
…彼は何かを、察したのだろうか。
「…如月」
「…はい」
律儀に返事を返すのも馬鹿馬鹿しい。
「陽炎となんかあったか」
「いえ特には」
「首に…痕、…ついてんぞ」
白夜に首の痕跡について指摘されるのは二回目だ。
しかし今回ばかりは、如月自身気がついていなかった。
陽炎に唇を押し付けられたときの感触を思い出し、罪悪感とともに首筋が僅かに火照る。
「ちがう、んです」
「何が」
「彼は、ただ単に、傍に俺がいたから………」
あんな切羽詰まった眼で見つめられれば、そうではないのだということくらい分かっている。彼が、言いかけた言葉も、予想がつかないわけもない。
けれども白夜には、何故かあまり知られたくはなかった。
「陽炎は僕が傍にいてもそんなこたぁしねぇけどな?」
「……ッ」
ちくちくとあからさまに棘のある言葉が刺さる。
何故今日に限って白夜は、こんなにも冷静なのか。
もっといつものように、真っ赤になって取り乱してくれればいいのに。それほどまでに、響と陽炎の組み合わせが打撃だったのか。らしくもなく彼の前で狼狽している自分自身を棚に上げ、如月は内心白夜を責めた。
こんなにも困惑してしまっているのは、おそらく痕をつけたのが陽炎だからだ。
如月にとっては陽炎は聖域のようなもので、本来ならばこの罪に汚れた手で触れてはならないもので。
そして如月と白夜の関係性そのものが、それほどお奇麗なものでもないため。
「陽炎はあんたのことが好きなんじゃねぇのか」
胸の内側がざらつく。如月は精一杯否定しようとした。
「そんなんじゃありません。彼は…錯覚しているだけです」
「なんでそう決めつける?」
「そんなこと、有り得ない」
有ってはならないことだからだ、と如月は声も無く呻いた。
彼が、けがれてしまう。
何故彼は、白夜でもなく自分にそんな感情を抱いてしまったのか。
「僕にはわかんねぇな」
視線が反れる。何故なのか、白夜の口調に苛ついたものが混じっているような気がする。肌に触れる空気が、痛い。
「あんたがそこまで否定する理由も、陽炎があんたみたいな馬鹿に惚れちまう気持ちも」
背けられた横顔。胸が、焼け付くような痛みを覚える。
この込み上げてくるような虚しさは何だ。眼球の裏がじわりと熱くなるのは。熱を持ったところで、水の雫が零れてくるわけでもないというのに。そんなふうになっているわけさえ、分からない。
衝動的な感情。押し殺して、如月は声を発した。
「帰ります」
「……ああ」
「姫をよろしくお願いします」
ドアを閉める。
胸を占める感情が、ひたすら苦く感じられた。