27.まよいびと
叩き付けるように切られた電話を前に立ちすくんでいた。
のろのろと受話器を戻し、額を押さえた。
馬鹿なことを言ってしまった、と思った。彼の地雷を、踏んでしまった。まるで誘導尋問に導かれるままに、彼自身忘れ去っていたのだろう。
迂闊だった。
「僕は馬鹿だな…」
月咲は嘆息し、そのまましゃがみこんでしまった。
遠目から見習いの少年がこちらを見ているが、それでも腰を上げられない。
響…彼らの父親に関して。
直接何かを言われたわけではなかったが、彼がそのことに関し触れるのを避けたがっていたことを月咲は知っていた。
…暗黙の了解というやつだ。
しかし今回それを、月咲はぺろっと間接的にだが触れてしまった。そして結果として彼は電話を叩き切った。彼があんなにも荒く感情を露にするだなんて、これまでにあっただろうか。
(君が心配する必要なんてもうない、か……)
再度溜め息。ここまではっきりと彼に拒絶の言葉を吐かれたのは、月咲にしてみても初めてのことだった。
否、ソフトな言い回しで言われたことは何度かあったかもしれないが、今回のように容赦なく撥ね付けられたのは、前例がない。
昔から弟のように思っていたし、これまでどうにかなあなあでやってきたものだから、…ショックだった。
それだけ月咲の返答は彼を逆上させるものだったともいえる。
…そもそも、月咲が響と初めて顔を会わせたのは、月咲が十五、響が十三のときだ。
如月…つまり望が旅立ったのが十の頃なのでその三年後である。
彼は行方の知れない如月の手掛かりを求めて、月咲のもとへ訪ねて来た。
「望から連絡があったら知らせて欲しい」と。
「君は…」と名前を尋ねたところ、彼は「芦辺響。望の血縁者さ」と言った。
性格は今と大差なかった。ただ、現在より勿論顔立ちは幼かったし、態度にもまだ初々しいものは残っていた。
それからも彼は月咲のところへやってきた。大抵仕事に行く前に来るのか、服を血に濡らしていることはなかった。その仕事に関しても、特に口出しするようなことはしなかった。彼の楼闇術者という特殊な面に対し、敢えて目を瞑っていた。…単純に面倒だった所為もある。それに、言い争うようなことでもないと月咲は思っていた。楼闇術を操る彼らの大半はそうした仕事に就いていた。
響は、来るたび如月のことを必ず聞いてくる、というわけでもなかった。
夏のあるときは冷凍庫から勝手にアイスを取り出して食べて帰って行ったし、またあるときはうっかり飲んだ酒に酔いつぶれて泊まって行ったりしていた。冬になればそれはそれでクリスマスケーキを作って来て月咲に無理矢理食べさせたり、正月だからと雑煮ではなく汁粉を食べて帰ったりもしていた。思い返してみればかなり好き勝手していたともいえるが。
月咲もなんだかんだで彼が風邪をひかぬように、手編みのマフラーを作ってやったりと気遣ってやってはいた。
来なければ来ないでどうかしたのだろうか、仕事で怪我でもしたのだろうかと心配ばかりしていた。
響もその心配を決して嫌がっているふうではなかった。
…それがある日、変わった。
冬の雪もしんしんと深く降り積もる日。その頃、月咲は十六、響は十四になっていた。
彼は全身ぐっしょりと血に塗れた姿で、月咲の前に現れた。
思わずポストから取り出していた手紙類を全て投げ出して駆け寄った。彼は月咲の腕の中に倒れ込んだ。…右目を、深く切り刻まれていた。
「響……」
もうその右目が物を映すことはないと、…月咲は察した。
彼は楼闇術者だ。普通の医者には見せられない。月咲は彼を抱きかかえ、家の中に運び込もうとした。親は留守にしていた。
すると響は、朧げながら意識があるのか、唇を微かに動かした。
…父親を殺した、と。
麻酔はなかった。慣れない手付きで傷口を必死に縫った。
そして響は、詳しいことは何も言わず、月咲の前から去った。
それから数年。最近になってからだ。再び彼が月咲のもとを訪ねて来たのは。
彼は望がもう少しで見つかりそうだ、と言っていた。その様子は元気そうでほっとした。
だが。
「君が気にすることじゃないよ」
彼は月咲の心配をソフトに、且つ冷ややかに拒絶した。相手を気遣うことすら馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの態度だった。表面上は何ら昔と変わりなくとも、彼の心の奥底の何かが歪んでいた。
堪え難かった。何を言っても彼の心には届かなくなってしまったような気がした。
ある日。月咲は思い切って、そんな彼に切り込んだ。
「…お前は、あの日から変わった」
初め彼は、受け流した。何のことかとしらばっくれた。
けれど執拗に追い縋ると、やがて彼は口を開いた。
「私はもう…戻れないところまで来てるんだよ」
その瞳は、かつてあったように透明な、しかし淋しさの入り混じったような深く沈んだ色をしていた。そして彼は顔を背けた。今度こそ、振り向くことなどずっと…ないかのように。
たかだか自分の親を殺したくらいで、何かが変わるだなんて思っていなかった。
それまでにも、数多の人間を殺めてきていたし、所詮屍が一つ増える程度だと思っていた。
…親といえど所詮親交なんてものはなかったのだから。
ましてや、先に手を出して来たのは向こうで、こちらが何ら責任やら負い目を感じる必要など、ないはずだった。
けれど奇妙な空しさが、心の中ですきま風を吹かせた。それが親を失った哀しさだなんて、認めたくもなかったけれど。どうしようもなく、底なし沼に沈み込んでいってしまうような感覚を覚えた。
大したことじゃないと自分に言い聞かせながらも、もはや尋常ではないと感じた。
他の人間をいくら殺しても何も感じなかった。それは息をするように普通のことだった。
それが肉親一人殺しただけで、とてつもない孤独に打ちひしがれた。
慣れ切った暗闇で、突然迷子になったようだった。
そして、彼を突き放した。
彼が別世界の人間だとか奇麗事を言うつもりはない。
ただ、自分がどうしようもない人間になってしまったように思えた。心配されるような価値があるのかさえ見失い、自分の何もかもが空虚さに支配されているようだった。
…だからこそ、彼と距離を置いた。
けれど今でも時折会いに行ってしまうのは、何故なのだろう。
昔の名残に、甘えているのか。自分から距離を置いておいて。
どうしようもない人間だと自分で自分を放り出しておいて、本当はこの場に留まっていたいのか。
「…駄目だ」
彼のことを深く考えようとすると、頭がぐしゃぐしゃになってくる。
もう深く関わり合うことはやめた。そう決めたはずだ。
彼と話すのが楽しいのは別にいい。だが彼とまともに向き合うのだけは止めだ。
こういうとき、無性に望に逢いたくなる。
彼の少年の父親を殺したとかなんとか…そんなことで悩む愚かさが愛おしくなる。あの頃の彼は、ろくに能力が制御出来てなかったのだから、仕方ないのに。おまけに彼は完全には仕留めていない。重傷を負わせただけで、厳密に止めを刺したのは自分だ。けれどきっと、彼の中では回復の見込みのない重傷を負わせた=殺した、なのだろう。
実に自虐的で彼らしい発想だ。彼も本当にどうしようもない人間だ。
しかし彼を煩わせるあの少年の存在は疎ましい。いい加減除外したいものだ。
けれど、あくまでも彼はあの少年を殺せないという。どこまでも人の好い…彼らしい。
彼のためを思えば、最終的にあの少年は殺した方がいい。彼は嘆くだろう。永久に。人の死は想いの永続性を可能にする。
しかし少年の行動に一喜一憂している姿を見るよりは、ずっといい。
陽炎という少年には死をもって、永久に沈黙を保っていてもらいたいものだ。
…あそこに見えるのは、その少年じゃないか。
せっかくだ、殺す前にしばし遊んであげよう。
少しくらい、退屈潰しにはなるだろう。
「あれ、陽炎君じゃないかい?」
名前を呼ばれて振り向けば、如月の知り合いである響という青年が立っていた。
気付かぬうちにぼんやりしていたのか、此処まで歩いてくるまでの記憶がない。白夜と別れて、多少感傷的になっていたのかもしれない。
「…響さん」
「久し振りだね。今日は白夜君は一緒じゃないのかい?」
「白夜さんは、その…如月さんの義妹さんが入院してるから、それに付き添ってる」
一瞬、彼の質問にどう説明していいものか考えないわけでもなかったが、結局端的に述べただけだった。それに対し、彼に何らかのリアクションを期待していたわけでもない。
けれど彼は、きょとんと眼を瞬かせて、
「それって姫のこと?」
と、言った。彼は如月の知り合いなので知っていてもおかしくなかったのだが、少し意外だと陽炎は思った。
そういえば、彼女は如月とこの目の前の青年とのことを話そうとして、如月に怒られたのだった。
思い返してみれば、それほど意外でもない。
ひとまず、頷く。
すると響は、聞いてもいないのに説明した。
「姫とは何回か会ったことがあるんだよ。まあ、残念ながらあまり好かれてはいないようだけれど。彼女はどうかしたの?」
「怪我して、意識不明の重体なんです。でも、回復しつつはある、って医師の人は」
「回復しつつあるってのは喜ばしいことだけれど、怪我って…またどうして」
「分かりません。通り魔にでもやられたんじゃないかとは言われてますけど」
少女の怪我を憂いている様子の響に、陽炎は内心少なからず驚いていた。少ない回数会っただけでも、彼はいまいち捉えどころのない人間だと思っていたからだ。
だが今回の件で、彼にも人間らしい一面があることに、何故か陽炎は安堵に似たものを感じていた。
「やれやれ…世の中怖いね。…でもまあ、お見舞いついでに久々に姫の顔でも見に行こうかな」
「…」
「それで、君の方は少しは進展したのかい?」
…いうのに。突然、ズバリと切り込まれて息を呑む。
何のことかと、しらを切り返せば、彼は微笑を浮かべたまま、
「お父さんの敵を探しだして、殺したいって言ってた話だよ」
と、何でもないことのように言ってのけた。その発言の鋭さも気にせずに。
これだ、と陽炎は思う。
彼が妙に捉えどころのない、他の人間と違うように思えるのは、こういうところだ。彼は一般常識もしがらみも、気にしていない、すべて飛び越えてしまっているように見える。恋須賀街でも出会い頭早々『楼闇術者』だなどと冗談を抜かしたことからも、それは窺える。
だが。下手をすれば非常識だと批判されようものなのに、彼からはそういった一種の『下品』『低俗さ』は見受けられない。
おかしな人だ、と陽炎は思った。
「…進展なしって顔だね」
そして自分はよく顔色を読まれる。目つきに感情がだだ漏れなのかもしれない。それくらい、自分が今顰め面をしている自覚はあった。
「…まだ数ヶ月しかたってませんから。そんなすぐに見つかるだなんて、思ってません」
「君はさ、その相手がもし既に死んでいたらどうするの?」
「…、墓を」
「掘り返してでも痛めつける?でも、いったいどうやって?」
自分の考えていることがすべて読まれているようで、陽炎は眉を寄せた。少なくとも、愉快な状況ではない。
そもそも分かり切っていることを尋ねてくるだなんて、目の前の青年は相当性格が悪いとしか言い様がない。
「別に君の考えを読んでいるわけじゃない」
それみろ読んでいるではないか。
「君の思考が極端なだけさ。それに私に少し似ている」
「…似ている?」
「全く同じってわけじゃないさ。ただ、すぐに極論を弾き出したくなるところ、はね」
彼は意味深に微笑み、陽炎を興味深げに見下ろしている。
その瞳はどこまでも人を見透かすようで、陽炎は自分がどこまで見透かされているのかと不安になった。
不意に、彼の手が陽炎の手首を掴む。
「!ひび…」
「君は次の吹條街は初めてだろう?恋須賀街で出来なかったデートついでに、案内してあげるよ」
「っデートって、…ちょっと待ってよ!」
彼は今にも鼻唄を歌いだしそうなくらい楽しげに微笑んで、陽炎の手を引いた。
話題の転換の早さに陽炎はついていけなかったが、引っ張られている以上歩くしかない。
けれど強引に連れていかれながらも、それがあまり嫌ではないなと彼は感じていた。
「そこが個人経営の美味しいケーキ屋で、あそこは抹茶パフェが美味しい茶屋」
「…」
「それであそこが三十年の伝統を誇る酒饅頭のお店で、あっちにあるのは手作りピザのお店だけれどデザートにもこだわってるお店」
「…響さん」
陽炎の声に、響は足を止めて振り返った。
いつのまにか繋がれていた手が微妙にこそばゆい。
「なんだい?」
「響さんって、甘い物好きなんですか?」
どこぞの樹林術者のようだ。
彼は微笑んだ。「好きだよ」。さっぱりと言う。
先程まで物騒な話題を提供していた人物と同一人物とは思えぬ顔で彼は笑う。
どちらが本当の顔なのか、戸惑ってしまいそうだった。
口を噤む。彼は「もしかして、甘い物苦手だったのかい?」と陽炎の顔を覗き込んだ。
実に不思議だ。彼の顔はそこにある。なのに、恋須賀街で会ったとき同様、その直後にはどのような顔だったかを忘れている。決して特徴のない顔ではない。整った顔だとは思う。それだけ、否、そこまでだ。
それ以上考えようとすると、顔を見失う。何らかの魔術でも受けている気分だった。
「響さん」
「うん?」
「よく、覚え難い顔だって言われません?」
彼は大袈裟に困った顔をする。
「ひどいなあ。陽炎君は私の顔を覚えてくれてないのかい?」
困った顔をしていたという印象だけが残る。
ほら、と彼は人も行き交う路上で平気で立ち止まり、陽炎に顔を寄せた。
どちらのものともとれぬ吐息が触れる。
「…覚えたかい?」
奇麗な顔だ。が、やはり頭に入ってこない。視神経と脳神経はちゃんと繋がっているはずなのだが。ただ他人の顔が近くにあるということで、陽炎はぽろりと発言した。
「響さんって、キスしたことあります?」
「あるよ」
対する彼は即答だ。更に「してみるかい?」とふざけた声色で微笑む。
陽炎は首を振った。顔も覚えていない人とすると、何だか損した気分に陥りそうだったからだ。響は「残念だね」と大して残念そうでもない口振りですっと顔を放した。
その前後に、感覚として差はなかった。
彼は例えるなら薔薇の棘のような雰囲気があった。なのに、近付いていても離れていても圧迫感といったものはやたらない。
顔だけでなく気配まで希薄なのか、と陽炎はふとそう思った。
その希薄さは、彼の知り合いだという如月とどこか似ていた。
「…響さんは、如月さんとどんな関係なんですか?」
後から考えればおかしな質問だったかもしれないが、気付けばそう尋ねていた。知り合いなら知り合いで納得しておけばいいものを、怒られた姫のことを思い出したのかもしれない。
響は「以前にも聞かれたね。それに…白夜君から聞いてない?」と言って陽炎を見つめたのち、黙っていたので聞いていないと判断したのか、言った。
とはいえ、実際白夜から何か聞いた覚えもないのだが。
「前にも言った通り、幼馴染みだよ。OK?」
「……幼馴染み」
「じゃあ逆に聞くけれど、どんな答えだったら君は満足したんだい?」
「…どんな、答え…?」
鸚鵡返しに聞き返す。響は薄い笑みを口元に刻む。
「そう、私が彼の何ならよかった?」
(…俺はどんな答えなら、よかった、んだろう……)
自分自身に問い掛ける。彼と目の前の青年が、いったい…。
その瞬間、風に煽られた砂が、細かに陽炎の眼に入った。
吹條街の向こう一帯に広がる砂漠から飛んで来たものだろう。
立ち止まりかけた陽炎の腕を、響が引いた。
人混みを避け、道の端に寄る。
彼は陽炎の前にしゃがみこみ、陽炎の目に手をやった。
「大丈夫かい?…あまり擦らない方がいい」
それから少しきょろきょろと辺りを見回し、近くに見えた公園まで陽炎の手を引いて行った。
水道の蛇口を捻り、陽炎に目を洗うように促す。言われたままに目を洗うと痛みが薄らいだような気がした。
彼は再びしゃがみこみ、片膝をつくような形で、ハンカチで陽炎の目の周りを拭った。
「この街はたまに砂が飛んでくるから、気をつけた方がいいよ」
彼は水道でハンカチを濯ぎ、陽炎へと向き直る。
黙っている陽炎を心配したのか、彼は「まだ痛いのかい?」と陽炎の目を覗き込んだ。
陽炎は、彼の目を見つめたまま、口を開いた。
「…なんか、響さん慣れてる……」
「え?」彼にしては珍しく訝しげな声だった。
「子供というか年下の世話し慣れてる」
子供と言い切らなかったのは、そこに陽炎自身が含まれることに軽い抵抗があったからだ。
慣れてると言えば如月も相当人間相手に慣れているように見えるが、彼の場合年下というよりも年代問わず丁寧に接することに慣れ切っている態度である。ところが目の前の青年、響の場合いちいちしゃがみこんで目線を合わせるなど、明らかに子供目線の対応である。
しかもスムーズだ。したがって、陽炎はそう口に出さずにはいられなかったのである。
一方響は、陽炎の一言に明らかに瞬間動揺していた。
「…まあ、そういうこともあるよ」
「もしかして、弟か妹さんでもいたんですか?」
いくらなんでも子供はないだろうと、陽炎は彼の様子を窺った。
よくよく考えてみれば、この青年のステータスはほぼ謎に近い。
あまり出会ったこともないのだから、当然といえば当然だが。
彼は落ち着きを取り戻したように、微笑んだ。
「そりゃあ私にだって兄弟の一人や二人、ね。陽炎君は一人っ子だろう?」
「どうしてですか」
「勘だよ」
なんですかそれ、と口を尖らせれば、彼は軽く笑った。
それから時計をちらりと見て、陽炎に視線を向ける。
「悪いけど、そろそろ仕事の時間なんだ。今日はこれくらいで勘弁してくれるかな?」
「これくらいって、デザートのお店しか案内してもらってないですけど」
「他の店はまたの機会にでもするよ。連絡する」
そういえば以前携帯電話の番号は教えていたのだった、と陽炎は思い出し、「わかりました」と頷いた。別段案内等それほど重要なことでもないのだが、そう言ってしまっていた。
彼は立ち去る。
もしかしたら、陽炎の心の奥底には、『約束』というもので誰かと繋がっていたい、という想いがあるのかもしれなかった。