26.心








白いカーテンの隙間から木漏れ日が差し込む。
過去を思い起こさせるような消毒液の匂いに、陽炎は顔を顰める。
正確には、彼女は今なおあの世界にいる。息子である陽炎が、血塗れることを願いながら。

「…大丈夫ですか?」

如月の声に顔を上げる。気付けば、白夜もこちらを見ていた。
…こんなとき、つくづく顔に出やすい自分に嫌気が差す。
陽炎は首を縦に振り、窓を少し開けた。
それだけでも、自分の中に沈殿している濁った暗緑色の感情が、僅かだが薄れていくような気がした。
「…姫の容態のことですが」
見下ろせば、ベッドには一人の少女が横たわっている。
胸が薄く上下する。首には痛々しい包帯が巻き付けられていた。快活なイメージが先行する少女。今の姿はそんな彼女のイメージとは正反対で、より弱々しく彼らの目には映った。
「桴海君のおかげで奇跡的に一命は取り留めた、ということなんですが、意識がいつ戻るか…は不明だそうです」
義兄である如月の口調は妙に淡々としている。否、義兄であるからこそ、だろうか。
彼は椅子に腰掛けたまま、ちらりと少女に視線を向けた。その瞳からは、何ら感情は読み取れない。逆に立ったままの白夜は落ち着いてはいるものの、憤りのようなものを全身から滲ませていた。
それほど、目の前の少女の姿が彼には堪えたのか。
「…どうして花芽宮が襲われたんだ」
彼の問いに如月は沈黙で返す。分かるわけがない。仮に通り魔だったとして、彼は納得するのだろうか。いずれにせよ理不尽な状況であることには変わりない。生真面目な白夜には、いささか堪え難いことではあろうが。
しかし陽炎にとっては、白夜のそんな率直さが羨ましくもあった。彼はそれほど親しくない人間であっても、その理不尽さに当て擦れられれば憤りを露にするのだろう。陽炎とて、そういうことがないわけではないし、過去には実際あった。
だがどうしたことだろう。今回に限っては、そういった激情も彼の中には込み上げて来ない。
…心のどこかで、まだ彼女とは距離を置いていたからなのだろうか。
陽炎が心底理不尽だと罵るにしても、あまりに情報量が少ない。
というよりも、むしろそこまで彼女に思い入れがないのか。
陽炎は想像以上の自分の冷淡さに、驚いた。あまりにも他人事だ。
だが事実、陽炎にとって彼女の存在というものは如月の義妹であり、一晩世話になった程度。プラス白夜との組み合わせだ。共有する何かがあるわけでもない……そこまで考えて、陽炎は目の前の遣り取りに意識を戻した。
あまり考え過ぎても自分が嫌になる気がした。

「なあ…花芽宮が怪我をしたとき、あんたは誰から電話を貰ったんだ?」

白夜が如月に問い掛ける。
確かに、彼らが到着したときには誰もいなかった。
けれどもそれ以前に、如月に連絡を寄越した『誰か』がその現場を見ていたことになる。
その人物は彼女に重傷を負わせた本人である可能性が高い。

…如月は眉一つ動かさず、答えた。

「樹乃です。彼は誰かを移動させる際、その該当者を探す必要がある。その際偶然にも見覚えのある少女が倒れているのを『視た』」
「…なんで月咲はすぐに病院に電話せずにあんたに電話してきたんだ」
「彼は宇渋町にそれほど詳しいわけではありません。特に裏通りや町外れは。ですから姫が倒れているのを目撃出来ても、その場所が何処なのかはっきりとは断言出来ない。周囲の景色から視て取れるとはいえ、あくまでも『人間』を捉えるための能力ですし、限界がありますからね」
「…それで、裏通りや町外れの方を好みそうなあんたに朧げな印象だけを伝えたってわけか」
「そのとおりです」

如月は控えめな微笑を一瞬浮かべたのち、席を立った。
陽炎の肩に触れ、「必要な物を買ってきます」と病室を出る。
それを見送り、陽炎は白夜に声を掛けた。
彼は真剣な眼差しで、少女を見つめていたが。

「手でも握ってあげたら」
「…なんで僕が」

陽炎の一言に耳を赤く染め上げた。
落ち着きを取り戻そうとするかのように、口を一文字に引き結ぶ。
「病人の手を握っておいてあげるってのもセオリーかなと思ったんだけど」
「何のセオリーだ」
「それに、白夜さんが力を送っていてあげれば、花芽宮さんの回復も早まるかもしれない」
嫌なら無理にとは言わないけどね。と言い残し、陽炎はその場を後にした。
陽炎が居ては彼も恥ずかしがるだろうと気を回したのである。
(白夜さん奥手っぽいしなあ…)
生死を彷徨う病人を前に不謹慎だといえばそれまでだが、仮に自分が同じ立場にいたら手を握るどころでは済まないだろう。ふとそう思いかけて、陽炎は一人自嘲した。
色恋だのと随分呑気なことばかり考えているが、いったいいつからそんな呑気な人間になってしまったのだろうと。しかし同時に、自分がそんなものに陥ってしまったとしたならば、きっと微笑ましいものでは終わらないだろう。
そんな予感、否、確信が、陽炎の中にはあった。








月咲に根回しを終え、如月は携帯電話を鞄の中にしまいこんだ。
陽炎を助けた際に挫いたらしい足首を押さえ、湿布を拵える。

「またそんな無理しちゃってさあ」

横から響が覗き込んでくる。
彼の神出鬼没はもはや慣れたものだった。
しかし心に波風が立たなくなった、というわけでもない。
こうして平静さを保っていられるときはまだしも、切羽詰まっているときの彼の存在は如月を酷くかき乱す。
「…何か用か」
「危なっかしい彼と一緒にいると、君まで巻き添えを食うんじゃないかと心配しにきたのさ」
そう言って響は如月の足首を掴んだ。痛みに眉を寄せるとその手をぱっと放す。彼は如月の正面に中腰でしゃがみ込んだまま、唇を歪めた。
「少しは私の杞憂も分かってよ」
余裕綽々の微笑。それは如月の行いを一歩引いて眺めているかのような印象を与える。けれども、吐き出された言葉の裏には、自分の心配が所詮杞憂であってほしいという彼の不安が見え隠れしていた。
如月は眼を反らす。
「…陽炎を放っておくような真似は出来ない」
目の前の青年の感情に、気付かない振りをした。
どうしても、譲れなかった。彼の心配を、取り除いてやるようなことも言ってやれない。
「陽炎のためなら、」
いのちさえ惜しくない。…そんなことを言ってしまったら、目の前の青年だけでなく、あの真っ直ぐな眼をした青年にまで怒られてしまうだろう。だが陽炎が川に流されたとき、そんなふうに思っていたのも事実だった。 自分が彼にした仕打ちを考えれば、そのくらい当然だと思った。
…そうでもしない限り、あがなえない罪が有ると云うのなら。
むしろ不十分ではないかとさえ思ってしまう。

だが。
腕を引かれ、抱き寄せられたと気付いたのはそうされた後だった。

「私は彼よりも君の方がずっと大事なんだよ、望」

日頃の巫山戯た色の全くない真剣な響の声色が、如月の鼓膜を揺さぶった。
思わず、抱きすくめられたまま動けない。

「彼を苦しめるのが嫌で放っておけないのなら、君が彼を殺せばいい」
「ひび……」
「そうすれば、彼はこれ以上苦しまなくて済むんだよ」

背中に回された腕があまりに優しく強く、彼の自分を大事に想う気持ちが痛いほど伝わってくる。けれどもその想いは強過ぎて、苦しくなる。同じだけ返してやれない自分が歯痒い。
心が熱く、哀しい。
…如月は、響の身体をそっと押し返した。

「それでも、俺に陽炎は殺せない」
「…の、ぞむ」
「彼の父親を殺したのは俺だ。…彼の命まで奪うことは出来ない」

響の瞳が透明な色を映す。
彼はぐっと堪えるように眼を閉じると、声の調子を変えた。
「そういえば姫は助かったのかい?」
普段と変わらぬ飄々とした声色。
それは彼の強さだと思いながらも、申し訳ないような気持ちを完全には消せない。
出来るのは、彼に合わせて普段の態度に戻すことだけだ。
「ああ…だが何故」
殺そうとしたんだ、と言葉を紡ぎ出そうとして、彼の笑みがあった。
「殺そうとはしてないさ。ちょっと釘を刺しておいただけさ」
皮肉げな意地悪さと澄んだ部分とが同居したかのような笑み。
如月は言葉を失くし、黙り込んだ。









如月を見送ったのち、響は携帯電話に着信が入っていることに気がついた。
発信者の名前を見れば『月咲樹乃』。如月が色々と根回ししたことが気になったのだろう。その際、響がしたことでも聞いたのかもしれない。
…あくまでも望の保護者なんだから、私にまで余計なことをする必要はないだろうに。
そう思いつつも、折り返し月咲に電話をかけた。
待ちかねていたのか、それとも偶然か、彼はコール後すぐに出た。
「やあ、樹乃。何か用かい」
『望から電話があったんだが……』
「彼が何て?」
白々しく尋ねる。あまりの馬鹿馬鹿しさに、知らず知らずのうちに笑みが浮かぶ。
そして月咲の返答は、予想していたよりも直球だった。
『お前が義妹…だったか、その義妹さんを怪我させたと」
「…そうだよ」
『…どうして、そんなことをしたんだ?』
先程からそのことに関して聞かれてばかりだ。
とは答えずに、響は問い返した。
「どうしてそんなことを聞くんだい」
『どうしてって、』
「私が人を殺すのに、今更理由が必要なのかい?」
受話器の向こうの月咲が沈黙する。微かな息遣い。
少しの間があって、再び彼の声が聞こえてきた。
『…義妹さんだろう』
「そうだね」
『…響は、わけもなく肉親を殺すような奴じゃないだろう?』

笑みが消えた。

ずしりと胸中に感じるもの。右目を押さえ、唇を噛み締める。
「……昔と今じゃ、違うんだよ」
赤い映像が、脳裏に点々と散って行く。
胸が疼くように痛んで、電話を握りしめた。
声が、震える。感情の歯止めが利かない。

「君が私を心配する必要なんて、もうないんだ…!」

電話の向こうで名前を呼ばれるのも拒絶して、携帯の電源を落とす。
らしくない、と思いつつ、荒い息のまま、右目を拭った。
とうの昔に治ったはずの傷が、確かな熱を持ってじくじくと痛むような気がした。









病室で三人は少女の眠るベッドを挟んで向き合っていた。
白夜が椅子に座ったまま、陽炎に言った。
「…僕は花芽宮の傍についてるから、お前は先に行ってろ」
「え」
「花芽宮が意識と取り戻すのはいつになるか分からない。お前だってそんな気長に待ってようだなんて思ってないだろ?」
陽炎は言い返せなかった。例え一個人として非情だと罵られようと、復讐は最も優先するべき事項だった。
初め人間関係を構築したがらなかったのも、こういったしがらみに囚われてはならないと思っていたからだった。白夜は、陽炎の返事を待とうともせず、むしろ無用な言い訳をさせないようになのか、如月へと向き直った。
「あんたも好きにしろ」
如月は眼を見張った。そうだろう。姫の血縁者は彼であり、姫を見守るのは彼の役回りであるのが自然であるはずだったからだ。白夜は髪を掻きむしり、「あー」と如何に説明しようか言葉を持て余している様子だ。
「こういう言い方すんのもどうかとは思うんだけどよ、あんたと花芽宮の関係は目に余る。僕は何ら事情なんてものは知らねえから、この際関係修復すればいいんじゃないかなんてお気楽なことも言えねぇしよ。けど、あんまり良い組み合わせじゃねぇなあとは思うわけだよ」
「しかし、見も知らずの他人…ほどではないですが、他人である桴海君に姫の世話全てを一任するのは…」
「あんたらが出てるときに花芽宮の母親に電話したんだが留守電だったんだ。後で一応もう一回掛けてみて、問題があれば当人に来てもらう」
長年ろくに付き合いのない義兄よりも、母親の意見の方が強いのは認めざるを得ない。
彼女の口からも、如月の名前が出るとは考え難かった。
「…了承しました。…桴海君の言う通りかもしれません」
如月は眼を伏せ、軽く頭を下げた。そのまま、席を外した。
残された陽炎は白夜に向き直り、「じゃあ俺も行くよ」と一言漏らした。
すると彼は陽炎の腕を取り、言った。
「前にも言ったけどよ、いざどうしようもなくなったときは近くにいるあいつを頼れ」
「…」
「ただ……」
白夜の瞳が一瞬不安めいた色に揺らめいたのは何故か。
以前は見せなかったその色。
彼は口を噤み、逡巡し、また口を開いた。
「…、やっぱり、僕でもいいから。とにかく、出来るだけ無理はすんな」
「…うん」
陽炎は俯いた。そして、小さく頷いた。
出来るだけ彼らに迷惑をかけるようなことはしない。そういった意味合いでだ。白夜とて陽炎の旅の目的は知っている。だからこそ『敢えて』と言ったのだろう。こうして口約束したところで、絶対に守られる保証など、どこにもないのだ。
陽炎は、白夜に背を向けた。