24.焦燥
青年は微笑する。
「やれやれ、相変わらず姫は悪い子だなァ」
「っ陽炎、待てよ!」
追いかけて来た白夜に腕を掴まれ、陽炎は立ち止まった。
全身の力が抜けたかのように、膝から脱力し地面に手をつく。
胸に覚えた鈍く重い痛みは消えず、ああ、と声を漏らした。
涙は出ない。けれど喉に物が詰まったかのように苦しい。
初めて聞いた、彼の冷たい声。
拒絶する、…言葉。
そしてなされた謝罪。
どれもこれもが、陽炎の胸の内を激しく揺さぶり殴打した。
心臓を直接鷲掴みにされたように圧迫され、握りつぶされそうになった息苦しさ。
いくら酸素を口から吸い込もうとしても、酸素は行き詰まるように遮られ、逃げ出して行く。
どうしようもなく、胸だけがずしりと強く沈んでいる。
「陽炎……」
白夜の手が肩に触れる。
その温かさに凝り固まった心が僅かに溶け出す。
けれど、この胸の痛みが消えるわけではない。
「…白夜さん」
「…」
「どうして…こんなに辛いんだろう」
声を発することすらもどかしい。
…本当は分かっていた、何故こんなに彼の言葉が、態度が胸を抉るのか。
「…あの人は優しいから、俺を傷つけるような言葉を…言ったことなんか、なかったんだね」
いつでも気遣って、八つ当たりをしても言い返しもせず、ひたすらに陽炎を傷つけまいとしていた。
「謝ったのだってそう、俺を傷つけたと思ったからなんでしょ。でも、あれは如月さんの…本音だった」
事情は分からない。けれど、彼はきっと自分のことを知られるのが嫌なのだろう。
陽炎に、己の領域に踏み込まれたくないのだ。あくまで、『他人』である陽炎に。
「だってそうじゃない。『他人』だから、そんなに気遣うんじゃない」
「…お前、それは違うんじゃないのか」
白夜は、近しい人間こそ、傷つけまいよう大切にするのだと言いたいのであろう。
陽炎は笑った。確かにそうだ。大切な人ほど、傷つけるのをためらう。それは陽炎とて同じだ。
しかし。
「ならどうして、あの人は白夜さんに対しては遠慮のない言葉を投げかけるの?月咲さんの家に泊まった時のこと、よく覚えてる」
「それはあいつが…僕を好いてないからで…」
「白夜さんと話してる時の如月さん、…楽しそうだった」
渇いた笑いが唇に残る。
何故、今まで気付かなかったのか不思議なくらい、彼は陽炎にだけ優しくしてくれていた。
だけれどそれは、彼自身の本音の表面を削った後での優しさで。
「俺が『子供』だったからかな。だからあの人は、俺を『他人行儀』にしか扱ってくれないのかな」
抱きしめられて、どんなに彼自身の言葉を囁かれても。
「遠いんだ。それがあの人自身の言葉だってちゃんと分かってても、それを俺が受け止められても、あの人の存在自体が」
今日の出来事が、そのことを陽炎にしかと突きつけたのだ。
これまでの彼が、どれだけ膜に包まれた生温い安心のみを陽炎に与え続けていたかを。
彼という存在そのものを、決してひけらかすことはなかったのだということを。
…だからこそ、今日突然現れた彼の冷たい側面に、陽炎は動揺し、言葉を失ったのだ。
裏切られた痛みに、胸が引き裂かれたかのように。
自分自身が吐き捨てた言葉に、呆然としていた。
唇が乾き、目の前の景色さえも白黒に霞むかのようだった。
どっと冷えた汗がシャツを濡らしたような感覚さえ存在している。
落ち着いた息の代わりに、蒸れた空気が喉を通り抜けた。
「どうして」
焦躁した様子の彼女は言う。
否、きっと如月自身、彼女と同じようなものなのだろう。
おそらく互いの存在が、それぞれの地雷となっていた。
彼女は如月の地雷となることを知っていたし、如月は彼女の地雷そのものに等しかった。
その証拠に彼女からは本来の明るさは抜け落ち、地面には彼女が土産屋で購入した和菓子が散乱している。
「どうして、あんたなの…………」
魂の抜け殻のような声に、如月は沈黙をもって答える。
彼女の鬱積はいつからか…おそらくずっと昔からだ、静かに溜まり始めたもので、それが『双子』に再会したことで破裂寸前まで膨らんだ。
過去に双子の片割れがした理不尽な要求もその速度の増加に影響を与えていたのだろう。
彼女自身そのことに危機感を感じ、淡華町で偶然出逢った二人の人間に、その理不尽な内容を話すことで少しでも鬱憤を解消しちょうとして、…その双子の片割れに妨害された。
彼女は爆発しそうになった感情を、強引に抑え込まれた。
…そしていま、彼女は我に返ったかのようにその鬱積を身体の奥底へ押し戻そうと鋭く息を飲んだ。
如月はその身体から手を放した。
彼女の積もった鬱屈は如月にはどうしようもないものだったし、どうにかしてやろうとも思わなかった。
それはあくまで、彼には関係のない、彼が第三者である問題だったからだ。
むしろ彼は彼で、あの少年に対し吐いてしまった言葉に対する後悔で胸が押しつぶされそうになっていた。
だが、どうしても知られたくなかったのだ。
響との繋がりも、自身が彼の恨む人間であることも。
「…あんた、あの子に自分のことを知られるのがそんなに嫌なの?」
冷静になった彼女は口を開く。
その強い眼差しは、兄妹である如月よりも白夜の視線を思い出させ、如月は複雑な想いに駆られた。
兄として、などといった血の繋がりからのものではない。
如月は白夜のあの真っ直ぐに見据えるような眼差しが、苦手だったのだ。
その眼を見ていると何もかも見透かされてしまいそうで、正面切って話し合うといったことは、出来ればしたくないと予々考えていたくらいである。
彼ほどではないにしても、それに似た姫の眼もやはり得意ではない。
同時にその問いかけは、如月の心臓を烈しく締め付けた。
(俺は)
彼の父親を殺した敵ともいえる存在で。
自分の罪悪感を誤摩化すためだけに、彼に優しくしている男だ。
だけれどいつかは向けられるであろう、あの少年からの嫌悪、否、憎悪や敵意を心の奥底から怖れていた。
自分を好きだと言った時の笑顔を思い返せば返すほどに、その恐怖は強まるばかりだった。
(嫌われたくないんだ)
例え身勝手だと罵られても、あの少年の笑みを黒く塗りつぶしてしまうことだけは、したくなかった。
橋を一本渡れば次の街、吹條街がある。
けれどそれは再び如月と会う確率を減らすことに繋がるのだ、と陽炎は橋を渡ることを躊躇していた。
これまでは旅のルートが似ていたがために何度も顔を会わせてきたが、今度もそうとは限らない。
そんなこと、今更だろうと頭では考えても、心が前進することを拒否した。
このまま…もしも永久の別れになってしまったらと思うだけで、足は地面から離れようとはしなかった。
その場に、しゃがみこむ。
(擦れ違ったまま、行きたくない)
そう思うのも陽炎の一方的な想いなのかもしれない。
もしかしたら彼は、何事もなかったかのように次も現れるのかもしれない。
あの笑顔で。野心や疑心をすべてぬるま湯に溶かし込んでしまいそうな微笑をもってして。
もしそうなれば、押し流されてしまわない自信が、陽炎にはなかった。
彼の一瞬の冷たさが、ぬるま湯の温かさに覆われ、消え失せてしまえば、何もなかったのだと錯覚してしまいそうだった。
何故なら、そのぬるま湯は陽炎に酷く心地よいものでもあったからだ。
母親の影響から拒絶されることを怖れる陽炎にとっては、拒絶しない人間ほど心休まるものはない。
(でもそれじゃあ駄目なんだ)
それでは結局、彼の存在は遠いまま、壁一枚を隔てて触れることも叶わない。
少しでもいい、彼の本当の感情、激情に少しでも触れられたら、と陽炎は思った。
そしてそのために、陽炎は停滞した。
敵を一分一秒でも早く見つけ出すことよりも、旅先で出逢った一人の釣り人の男を優先したのだ。
陽炎は川岸に座り込み、あの釣り人が来ることを待った。
連絡は白夜が数分前にしてくれ、もう五分後には彼が来ることになっている。
自分で電話してしまえば、何を言ってしまうか分からなかったので白夜に頼んだのだ。
もしも会いたくないなどと言われてしまったときはどうしようかとも思ったが、彼は了承してくれた。
(でも、俺はあの人に会って何を言いたいんだろう)
ただただ気付いてしまった距離がもどかしいのだと。
優しくしないでほしいとでも言うつもりだろうか。
(俺は、あの人に近付きたいんだろうか)
遠ざかってしまった関係なら、そのままにしておいてもいいだろうに。
近付いて、友好な関係を再び築きたいと思うのは何故か。
…優しくしないでほしいと考えながらも、本当は優しくしてほしいと思っているからではないのか。
生温い、巧妙な罠。計算していない保証などない。
(だけれど、会わなければいけないような気がする)
うっとおしいほどの思考を他所に、頭の奥にがんがんと焦らんばかりの警鐘が鳴っている。
とにかく遠ざかりたくないのだ、とその警鐘は訴えているような気さえしてくる。
闇雲に詰め寄って来るそれらの理由付けを、蔑ろにして。
「…陽炎君」
砂利を踏み締める音が聞こえて、その上に乗った清涼な声が陽炎の鼓膜を揺さぶった。
思わず肩を強張らせ、地面の石ころを握りしめると、彼はそれ以上近寄っては来ない。
半径二メートル程度の僅かな距離だ。
だが今は、その距離が彼との隔たりを克明に現しているかのようで、陽炎は唇を引き結んだ。
「…先程は、」
「謝らないでよ……!!」
…ほら、また謝るんだ、と思った瞬間には、彼の言葉を遮っていた。
思い切り立ち上がろうとして、地面が歪む。ぱら、と砂が散った。
長年水流に削られ脆くなっていた川岸の土壌が、崩れ出したのだ。
「陽炎君!」
彼は手を伸ばし、濁流に呑まれそうになる陽炎の腕を掴もうとした。
陽炎も真っ白になった頭で、その手だけを掴もうと腕を突っ張らせた。
しかし。
「かげろうく…っ」
彼の声は最後まで聞こえず、陽炎の意識は渦潮の中に呑み込まれた。
静寂の中、土壌に亀裂が走るような音が聞こえてきて、白夜は瞼を持ち上げた。
小鳥が一匹羽ばたいて空に消える。
陽炎に此処で待っていろとは言われたものの、追いやられるような嫌な予感が胸を過る。
長年術者として磨き上げられた勘を疑うまでもない。
白夜は躊躇することなく林内の朽ちた休息所を抜け出し、土手に飛び出した。
整備されていない砂利道を駆け上がり、前方を見渡す。
右前方に陽炎と如月の姿が見えて、ほっとしたのも束の間。
陽炎がいた場所が崩れ、彼は川に呑み込まれた。
掠めかけた如月の手は、届かなかった。
「如月!」
そして彼は何を思ったか、否、思ったことは分かったのだが、陽炎の後を追うように川へ飛び込もうとした。
慌てて腰にしがみついて押さえ込めば、彼はじたばたともがいた。
「っ放して下さいっ!間に合わなくなるっ!」
「馬鹿野郎落ち着け!あんたまで溺れるだろうが!」
「俺は泳げますから大丈夫です…っですが陽炎君は楊炎術者なんですから、そんなこと言ってる場合じゃないでしょうっ!」
川の流れは激しく、このまま流れ続ければこの先の滝に行き着き、真っ逆さまに転落する。
ただでさえ呼吸もままならぬ流れなのだ、水の刺激に弱い楊炎術者の陽炎が滝底に呑み込まれれば、…あまりのショックに死ぬかもしれない。
だが。
白夜は如月の両腕を押さえ、正面から怒鳴りつけた。
「いくら泳げても流れが速過ぎて無理だろっ、馬鹿な真似すんじゃねぇよ!」
「っしかし…!」
怯みつつもまだ何か言いたげに、如月は唇を噛み締める。
おそらく彼も決定打となりかねないこの先の滝のことを考えているのだろう。
それと、目の前で陽炎が呑み込まれて、助けられなかったことも。
「っとにかく、滝の底に沈み込む前に拾わねぇとよ」
蔓を発動し陽炎に巻き付けても、流れが激し過ぎるがために白夜まで引きずられ、呑み込まれかねない。
そこで白夜は、滝に突き出る際、彼の体が一瞬解放されるときがチャンスだと考えた。
(その空白の一秒…否、一秒もねぇか…に引き上げるしか…)
一刻も早く助けたいのは山々だが、近隣の街で豪雨でもあったのか流れが尋常ではない。
よってその一瞬に、すべてが掛かっている。勿論、楊炎術者である陽炎の体がこの激流に耐えられているのが前提だ。
もし、彼の限界を越えていたらならば。
(冗談じゃねぇ、考えるだけ可能性を捨てるだけだ)
白夜は疾走しながら、過る不安をかなぐり捨てた。
弱音の一つでも吐いてみろ。その瞬間、隣を駆ける男は危険も顧みず滝だろうと崖だろうと平気で飛び降りるだろう。
そう思って、否、確信してしまえるほど、如月は必死だったのだ。
(これが『他人』だ?笑わせるな)
白夜は彼と陽炎がいつ出逢って知り合ったのかすらも知らない。
けれど彼にとって陽炎が『特別』な人間であることは、火を見るより明らかだった。
その視線も、態度も、今見せる横顔でさえも。
溺れたのが白夜であったら、彼はここまで慌てはしなかったろう。
「…来たな」
流れ落ちる滝を見下ろし、白夜と如月は立ち止まった。
切れる息を押さえ込み、水に混じる陽炎の姿を見極める。
意識のない少年の体は、まるで死体のように沈黙していた。
川が途切れ、弾ける。
白夜は蔓を伸ばし、陽炎の胴体を宙で拾い上げた。
だが。
「ぐ……っ」
一度投げ出された体を引き止め、滝の表面をすれすれにぶら下げる。
想像以上の重力が陽炎の重さを増加させ、白夜の腕を引きちぎらんばかりに引き付けた。
足下の岩が引き削られて鈍い音で呻く。
引き上げることは、白夜の腕力では厳しく、また下手をすれば滝に陽炎の体を持っていかれる。
「き、さらぎ…!」
「もう少しだけそのままで」
軋む奥歯の向こうで声を絞り出すと、返って来たのは如月の異様なまでに冷静な声。
振り向いたならば、彼が崖から飛び降りた瞬間が見れただろう。
「おま……っ!如月!!」
結局飛び降りやがったあの野郎、と白夜は信じられないような気持ちでガサガサガサッと揺れる木々の音を聞いていた。
問答無用に思考が停止し、呼吸までも意識から抜け落ちる。
(……!)
全く頭は働かない。白夜は一心に彼の姿を探した。
そしてその無謀としか思えぬ行動をした男は、間もなく木々の隙間から姿を現した。
「陽炎君をこちらに!」
足を折っているだとかそんな様子は見られない。
驚異的ともいえる脚力で、彼は数十メートルの崖を飛び降りたのだった。
白夜は全身を振り子のようにして、どうにか陽炎を如月のいる地点に放り出し、
遠回りの階段を利用して数分後、彼らのもとへ辿り着いた。
「っ、きさらぎ…陽炎は、」
人工呼吸をしていた如月が顔を上げ、「大丈夫です」と陽炎の肩を抱きかかえた。
白夜は、大きく息を吐いた。
溺れた陽炎と崖を飛び降りるなどと無茶な真似をしでかした目の前の男が無事だったことに、心から安堵したのだ。彼が大丈夫だと言ったということは、陽炎の意識も時期に戻るだろう。
(ほんとに…ひやひやさせやがって)
心臓が何個あっても足りやしない、と白夜は内心毒づいて、如月から陽炎の体を預かった。
溺れた本人は全身水浸しであっても、何もなかったような顔をして眠っている。
しばしその顔を見下ろして、白夜は視線を如月へと戻した。
「それであんたは?」
「…はい?」
「はい?じゃねぇよ!何処も怪我してねぇか聞いてんだよこの馬鹿!!」
確かに、彼が悠長に階段で下りてなどいたら白夜の腕は限界を越え、陽炎も滝に呑まれていただろう。
しかし、だからといって崖を飛び降りるなどともってのほかだ。年間多数の飛び降りの死者がいるように、骨折や打撲だけではなく、死ぬ可能性も十二分にあったのだから。
「…いえ、大丈夫です」
それなのに如月は白夜に剣幕にきょとんとしている。
白夜は喉から血が出そうなほどにむしゃくしゃし、胸を掻きむしりたくなった。
それをぐっと堪えて、木に突っ込んだときに切れたのだろう、彼の頬の血を手の甲で拭ってやる。
他に怪我は本当にないのか、と睨むと、彼は戸惑ったように微笑んだ。
「大丈夫ですよ、…本当に。それに、陽炎君の命と比べたら些細な怪我の一つや二つ……」
「…ふざけんな」
左腕に抱え込んだ陽炎の体はずしりと重い。
これはきっと命という名のかけがえのない重みでもあるのだろう。
だが。
「陽炎の命を救えたとしても、あんたが怪我していい理由になんかならねぇんだよ」
「…桴海君」
薄ら寒く、価値さえあるかどうか危うい奇麗事を言っている自覚はあった。本来ならば、多少の犠牲があっても命さえ助かれば、それが最も利に適った『素晴らしい』ことだった。
しかし白夜は、彼が飛び降りたとき、とてもそんなふうには思えなかったのだ。
……心の底が、白く冷たく凍り付いて、ざわついた。
如月にその気はなかったのだとしても、白夜には一瞬死の臭いさえ感じられたのだ。そして今、目の前の男の淡く素知らぬ笑みを見て思った。
…彼は、この少年のために命すら投げ出しかねない、と。
怪我をしているうちはまだいい、こうしてやり合うことも出来るのだから。だがもし、いつか怪我だけではない、その生命の灯火さえも差し出さねば少年が助からない日が来たならば。
彼は果たして。
……そう思うと、白夜はたかが『些細な』怪我一つでさえも、彼に許してはいけないような気がしたのだ。その一つ一つの階段でさえも、上らせてはいけないような。
「…ちったあ自分の体も、大事にしてやれよ」
今日、他に陽炎を助ける選択肢が他にあったら、彼とて飛び降りるなどと無謀な行動はしなかったろう。
選択肢を考え出すことも出来なかったくせに、彼にこんな言葉を掛けても、奇麗事…否、寝言を吐いているようなものだ。
それでも、心に絡み付いた白い糸はそれ以外の言葉を知らなかった。思ったことをそのまま言ってしまえば、彼自身まだ気付いていないかもしれない細い糸の上を、渡らせてしまうかもしれない、と怖れた。
すると彼は、瞬きさえも忘れたかのように白夜を見て眼を歪ませてから、微かに微笑んだ。
「…肝に銘じておきます」
それから陽炎が目覚めるまで、彼との間に会話は一切なかった。