21.抱擁










如月がまだ環焔町に住んでいた頃、彼は環焔町と宇渋町の間の川にまつわる奇妙な話を耳にしたことがあった。 それは『術者があの川に近付くと引きずり込まれる』というもので、当時彼はくだらない怪談話だと思った。 この町の人間は迷信深い人間が多いから生まれた話だろうと、すぐに忘れた。

だが彼は十の頃、その話が迷信から作られた話などではないということを知った。
彼と瓜二つの容姿の少年が、次のようなことを言ったのだ。
「わざわざ外に出て素質を狩るのが面倒な連中にとっては、『中』に引きずり込んだほうが手っ取り早いのさ」
捕らわれた術者は蜘蛛の糸に絡まった獲物同様。
瞬間移動の可能な希光術者や楼闇術者ならまだしも、他の術者には物理的に『其処』から逃げ出すことはまず不可能といってもいい。
ましてや取り込まれた術者は、幻覚によって弱っていく。
如月はその話を、受け流す程度に聞いていた。

なのに今日になってその話を思い出したのは、環焔町と宇渋町の境界線付近で不穏な気配を感じたからだろうか。
正確には境界線となっている川の奥底から、キィインと頭が痛くなるような強烈な共鳴震動。
主に幻覚を使用するとき、この症状は周囲に発生しやすくなる。
(…早くこの場を離れるに限るな)
例え網に掛かった術者が衰弱させられつつあるのだとしても、自分には関係のないことだ。
しかし。
(………)
月咲の家に泊まっていた二人の術者のことを考える。
おそらくあの二人は『此処』のことを知るまい。
万が一、という可能性も否定出来ない。
「…」
如月は瞬間移動の対象物を探す要領で気を飛ばし、環焔町と宇渋町に二人がいるかどうか確認を行った。
本来楼闇術者の行う瞬間移動は対人対物が主であり、術者自身が移動を行う希光術者とは若干毛色が異なる。
つまり自身の移動力は希光術者に劣るが、対人対物に関しては探知も含めて優れているといえる。
(…桴海の気配は樹乃の家にあるが……陽炎の気配はない)
亜瀬町や夕泉町方面までは調べていないため何とも言えないが、どうにも嫌な、胸騒ぎがする。
(…術者の回収が行われたのなら、協力者もそこいらにいるはずだ……)
川底にある『空間』内へ気配の探知を行っても特殊な防壁でも施されているのか、弾かれる。
それは『空間』からの探知も同様に弾かれることを意味しており、『空間』から狩りを行う場合、外部から何らかの協力者がいる場合が多い。術の届く範囲に、獲物となる術者がいるかどうかチェックする役割の。


「!…」


不意に背後の木々からガサリと物音がして、如月は振り向いた。
気配を消している協力者の腕を掴み、咄嗟に抵抗しようとするその身体を地面に組み敷く。
勢いのあまり、木の枝が何本か折れた。
「獲物は楊炎術者の子供か?」
突然の事態に動揺していた協力者は、如月の顔を見て震えた。
楼闇術者の『組織』の幹部である響を知っている者は、双子である如月を見て大体同じような反応をする。
「答えろ」
ガチガチと男の歯が鳴る。
「……答えられないのか?」
如月は知らぬ間に自分の声のトーンが低くなっていることに気がついて、自嘲するように笑みを浮かべた。
協力者は殺されかねない恐怖に、今にも失禁しそうな顔だ。
(俺は何をこんなに焦っているんだ)
仮に此処であの少年が殺されたとしても、自分のせいではあるまい。
死んでしまえばそれで終わり。あの少年の苦しみも、自分も煩わしい罪悪感から解放される。

如月は協力者の反応に失笑するかのような笑みに切り替えると、彼の胸に手を当てた。
これまでに数え切れぬほど血に塗れてきた、その手を。
「答えられないのなら、いま此処で死んでもらおうか」

__一つ屍が増えたところで、今更何の違いがある?

つと頭の中に聞こえた囁きに、自然と持ち上がる唇。
協力者がその口から答えを垂れ流した瞬間、如月は我に返った。
いつのまにか力の入っていた手を、咄嗟に男の胸から放す。
…男は気絶しているだけのようだ。
(俺は今…この男を殺そうと)
最初は適当に吐かせて、気絶させておくつもりだった。
だけれど途中、脳内に誰かの声が聞こえて。
(…『誰か』じゃない。あれは……『俺自身』だ)
もう誰も殺したくないと思っていても、身体は『殺せ』『殺せ』と血肉による快楽を求めている。
素質に支配された本能が、理性の僅かな隙を狙っている。
逃げられっこないのさ、とかつて同じ顔の男が言ったように。
如月はまとわりつく思考を追い払うかのように、首を振った。
(やめろ。……今は、陽炎を助けることが先決だ)











息が切れる。
『空間』の中をいくら捜しても見つからない。
(……畜生め)
これでもし手遅れだったら、と思うと悪寒がした。
気配で探ろうにも、この空間内ではやはり何か磁波に似たものに妨害されてしまう。
如月の中で気ばかりが焦った。
(少しは落ち着いたらどうなんだ)
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
本来なら自分が彼を助ける必要などないのだ。
彼が死にさえすれば、罪の意識を感じないでも済む。彼の苦しみも終わる。
彼の願いなど、彼の存在など始めから知らなかった、なかったと思い込みさえすれば、
(俺は楽になれる)
それなのに。
如月はこうして、彼を探すために忌み嫌ってさえいる楼闇術者の巣窟にいる。
敵を見つけ出すために旅をする。
彼にそんな危険なことをさせてしまっていることに対する罪悪感、と言ってしまえば簡単だが。


『俺は如月さんのこと好きだよ』


彼の声が脳裏に蘇る。
……彼を、死なせたくない。
これは彼の父親を殺したという罪悪感から生じる感情なのか。
それとも、何かべつの?
(どちらにせよ、それ以上の感傷は不要だ)
入れ込んだところで得をすることなどない。
『君は彼らのことが……』
歪んだ微笑。自分よりも僅かに高いトーンが記憶の裏で囁いた。


「!」


角を曲がると、突然人の気配が『現れた』。
つくづく奇妙な空間だ。
如月は壁に身を寄せ、息をひそめた。
陽炎の気配はある。
しかし迂闊に近付くのは危険だ。
この空間内では、軋んだ耳鳴りはしないが、それはこの空間に『溶け込んでしまっている』からだ。
決して幻覚が消えているというわけではない。
(!…、誰か来る)
如月が走って来たのとは逆の方向から、一つの足音。
ただの通行人か、幻覚を仕掛けた本人か。
前者であっても後者であってもせっかくの獲物を逃がしはしないだろう。
(くそが…!)
こうなれば幻覚だのなんだの考えている場合ではない。
如月は壁から飛び出すと、悠々と陽炎に手を伸ばそうとしている術者の首に回し蹴りを食らわせた。
術者は声にならぬ呻きを漏らし、その顔を壁に深くめり込ませる。
繊細且つ不透明な壁はその部分だけめくれ上がり、男の首に赤を散らした。
「陽炎!」
血の匂いにつられた術者が来る前に、と意識のない少年の腕を掴む。
その瞬間、少年の腕を伝って目には見えぬものがどろりと如月の腕を這う。
とてつもない怖気が身体を走り抜け、如月は『それ』をぶちりとひっぺがした。
抱きかかえた少年の脈、そして術者独特のオーラは弱まっている。
おそらくこの空間に長居し過ぎたことと、少年の身体にまとわりついている幻覚の影響だろう。
幻覚は如月の身体にも容赦なく這い上ろうとした。
(幻覚を仕掛けた本人は意識不明…後はこの空間さえ出れば……)
ふっと意識を集中させようとして、覚えのある嫌な気配に如月は顔を上げた。
コツ、とその気配は足を止める。


「響……」


見慣れない彼の無表情。
視線がゆっくりと交わり、その口元はようやく日頃の笑みを刻んだ。

「…やあ、君がこんなところにいるなんて珍しいねぇ……陽炎君も」
「……」
「…分かってるよ。……早く行かないと、誰か来ちゃうんじゃない」

いつもの口調で、彼の唇は深く弧を描く。
この空間の所為か幻覚か、その姿は暗闇に灯る一本の蝋燭のように、暗く揺らめいて見えた。
(…とにかく今は、響の言う通り脱出を優先したほうがいい)
如月は陽炎を抱きかかえて立ち上がると、響の横を通り抜けた。
「…恩に着る」
本来ならば、侵入者である如月を響は攻撃してもおかしくない立場だ。
それを見ているだけで何もしてこないのは、侵入者が「如月だから」という理由に他ならない。
如月はス、と意識を集中させようとした。
「ねぇ」
「…なんだ」
呼びかけられて、返事をする。
そしていざ瞬間移動をしようとしたとき、如月は響の微笑みを見た。
嘲りの混じって軋んだ、それでいて整えられた微笑。


「陽炎君一人だったら、見逃してなんかあげなかったんだよ、望」


君がいなかったら、殺してたよ。


彼の声が、確かな重みを持って如月の心に、…落ちた。















『…怖い……』

……あ、れ……?

『……とご…しになんか……りたくない……っ』

俺、どうしたんだっけ……

『……た…むから、おれとおなじ顔で……ないで………やめて……れ…!』

これは…

『……お前といると…頭がおかしくなりそうだ……っ』

……誰の記憶?







ざぁあと降りしきる雨の音。
仄かに感じる温かさに、陽炎は眼を開けた。
弱々しく燃ゆる焚火。
そっと炎を注ぎ足してやると、体に掛けられていたシャツの存在に気がついた。
(これは……)
見覚えのあるシャツ。
いつも如月がTシャツの上に着ている代物ではなかったか。
(俺は、いったい……)
夢を見ていた。酷く、嫌な夢。
ねっとりと体にまとわりついていたヘドロの感触が、今でも思い出せるくらい、生々しい夢。
腕を擦り、何も残っていないことを確かめる。
雨の音に紛れて、迸るかのような水の音が聞こえる。
此処はあの…意識が途切れる前に立っていた崖の傍なのか。
何故、彼のシャツが此処に有るのか?
陽炎の思考は疑問を垂れ流したまま、停滞する。
周囲を見回すと、焚火の向こうには胴回りの立派なスギの大木。
おそらく陽炎が生まれるよりずっと昔から、其処にいたものなのだろう。
その木の大きさにつられて空を見上げると、ここら一帯を取り囲む木々の葉が、空からの雫を受け止め静かに揺れていた。
少し遠くに視線をやれば、鋭い雨が地面を打ち付けているというのに、それらのおかげで此処だけはたまに小さな水滴が落ちて来る程度だ。
(俺はどうしたんだろう)
明らかに気を遣われた場所、シャツ。危険な状況でないのは分かる。
けれど崖から落ちた後の記憶が定かではない…あの夢を除いて。
「…如月さん」
呼びかけた。シャツがあるのだから本人も近くにいるのだろうと。
だが返事はなく、その声は虚しく宙に置き去りにされる。
陽炎はゆっくりと立ち上がった。シャツをぎゅっと握りしめる。
状況があまり飲み込めない。薄らとした不安が、陽炎の胸を覆った。
ざく、と地面の枯れ枝を踏み締めて、足を止める。
「…傘、持ってないや………」
一歩踏み出せば強かに打ち付けてくるであろう雫。
陽炎は躊躇し、その場に留まった。
その背中に、掛けられる声。
「まだ出たら危ないですよ」
「!」
心臓が飛び跳ねる。
大木の下に、如月が気配もなく立っていた。
頭からつま先まで全身ずぶ濡れの姿で、首にはタオルを掛けている。
そしてやはりいつも着ているシャツはなく、上はTシャツ一枚だけだ。
「…っ如月さん、びしょ濡れじゃないですか!」
「これだけの雨ですからね。困ったことに傘もなく」
陽炎が慌てふためいても、如月は落ち着き払っている。
しかし陽炎の困惑は察しているようで、何でもないかのようにタオルで乱暴に髪を拭った。
「陽炎君は崖の前で倒れてらしたんですよ。雨も降って来たようなので、緊急避難として此処に移動させていただきましたが」
「…倒れてた?」
「ええ、どこぞの術者に幻術でも掛けられたのかもしれませんね。少し…それらしき痕跡もありましたから」
陽炎は「……そう」と俯いた。
あの悪夢は幻術によるものだったのだろう。
もし如月が来なければ、この命も危なかったのかもしれない。
(…でもどうして俺は濡れていないんだろう)
握りしめたシャツを見る。もしかして、否、もしかしなくともそうだろうか。
「…如月さん、このシャツは」
「ああ、すみません。俺のです。えっと、ちゃんと洗濯はしているので問題はないかと思ったんですが」
如月は困ったように微笑む。が、そういう問題ではない。
「如月さん……」
「はい?」
「病み上がりのくせに人のこと気にしてる場合なんですか」
たかだか二日三日前に高熱出した人間が、意識のない人間を濡らすまいと上着を掛けるだなどと。
その挙げ句びしょ濡れになって、風邪がぶり返しでもしたらどうするつもりなのか。
陽炎は沸々と胸の奥にこみ上げて来るものを制することが出来なかった。
「俺が楊炎術者だからって気遣ってもらったのは有り難いと思います。だけど、俺のせいで如月さんがまた体調崩すのは嫌です!」
自分でも捻くれたことを言っている自覚はある。
それに以前は…他人と関わるまいと必死だったのに、いつからこんなふうに感情を動かされるほど、誰かを心配するようになってしまったのだろう。
一人が嫌で繋がりを求めたのは事実。けれどいつからか、過剰なほどにその関係を失うことを怖れる自分がいた。
そしてそれ以上に、自分のせいで誰かに無理をさせるなんて、嫌で嫌で仕方がなかった。
人を殺せる非情さを求めながらも、自分勝手な理由で、思いやりじみた行為を押し付ける。
頼りない自分に、心が足掻いている。
ままならず涙を落とす涙腺に、陽炎は苛立ちを強めた。
別に泣くようなことではないと思いながらも、その涙は止まらず溢れ続ける。
旅に出てからの自分の涙腺は、脆過ぎる。
「陽炎君……」
陽炎は思う。結局のところ、子供なのだ。自分は。
こんなふうに泣いて、目の前にいる青年を困らせたのはもう二度目ではないか。
彼の指にすくわれても、涙は次から次へと落ちていって腕に抱く彼のシャツに染みを作る。
「ご、めん…な、さい」
困らせる。謝ることは、余計に彼に気を遣わせる。
けれどそれ以外に、陽炎は今、発せられる言葉を持っていなかった。
そしてその陽炎の肩を、如月はそっと抱き寄せた。
「陽炎君は悪くありません」
弱まった雨音が雑音を打ち消す。
陽炎は嗚咽を飲み込み、如月の背中をかき抱いた。
濡れたシャツ越しに、確かな体温が伝わってきて、驚くほど心が静かになる。
「…おそらく、陽炎君はこんなことを言ったら怒るでしょうが、俺は自分が体調を崩すことより陽炎君を雨の中見捨てておくほうが嫌です」
彼の声が、すうっと心の奥深くに浸透する。
卑怯だ。彼は人を丸め込む術をこうして知っているのだから。
「例え陽炎君がそうしてくれ、と言っても、できません。そんな自分を希望を押し殺して人の希望を通せるほど、俺は大人じゃありませんし聞き分けもよくありませんから」
如月は微笑し、もう一度陽炎の涙を拭う。
今度は、揺るやかに涙は止まった。
腕を下ろし、陽炎は青年を見上げた。
瞳の表面が、残った涙で鈍く反射する。

「…でもやっぱり、無理だけはしないでください」
「陽炎君がそう望むのなら、出来るだけしないようにはします」

絶対とは言わないのは、彼なりの誠意か。
陽炎は微かに微笑むと、焚火の傍に座り込んだ。
「じゃあ雨が上がるまでもう少し…此処にいましょうよ」