20.黒の侵蝕








環焔町と宇渋町を繋ぐ橋。
ロープと木の板だけから成り立っている橋に名などつけられているわけもなく、その橋は沈黙し、腕を切られて崖に垂れる。
手前の看板には『閉鎖中』の文字。
陽炎は一人佇み、足下より下を見下ろした。
環焔町と宇渋町の間を流れる激しき流れ。崖の内壁が、削れて濁流に飲み込まれている。
(…このままじゃ宇渋町には行けないな)
落ちたら最後、崖に身体を切られるかこの流れに息の根を止められるか…どちらにせよ、助かるまい。
此処は素直に諦めて、月咲に頼み込むのが道理だろうか。
白夜もそれに反対はしないだろう。陽炎は腰を上げると、崖に背を向け環焔町に戻ろうとした。
しかし、突如右足首に何かが巻き付き、彼はバランスを崩した。

「!」

黒く禍々しいものが、見えぬ川底から崖を這って足首にまでへばりついている。
そして陽炎は悲鳴を上げる間もなく、闇底に飲み込まれた。


黒い闇が口から喉へ侵蝕し、肺に充満する。
手足が痺れ、身体の感覚はもはやなかった。












「あ?陽炎は?」
寝癖なのかくせ毛なのか髪が跳ねたままの白夜が起きてきたのは八時過ぎのことだった。
「陽炎なら探索してくると言って出掛けたぞ。それと寝過ぎだ」
「八時くらいで寝過ぎとか言われてもなァ」
「せっかくの食事も冷めたら美味しくなくなるだろう」
チン、と電子レンジが鳴る。
月咲は温め直したご飯やおかずをテーブルの上に並べた。
「朝メシ作んのが早すぎんじゃねぇのか」
「今日は仕事なんだ。早池さんちの祖父が亡くなったらしい」
「いや、早池さん言われてもしらねえよ」
「九時には出る。夕方には帰るから、まだいてもかまわないぞ」
「分かったよ。陽炎が戻ってこない限り動きようもないしな」
相変わらず会話がどこか噛み合わない。
おそらく月咲に相づちを打つ気がないのが原因なのだろう。
白夜は沢庵をポリポリと噛み砕いた。
そして、
「夕方までいるのなら、留守番頼んだぞ」
月咲は破顔して、白夜に小さなメモを渡した。
そのメモを見てぎょっとする。メモには紙一面にびっしり文字が書き込まれていたのだ。
「…おい、これはなんだよ」
「留守番表。見習いの子が居るが、その子に全部の仕事を任せるわけにはいかない。だから、風呂掃除と廊下掃除、それと畳干ししといてくれ。それはその手順だ」
「なんでこんなにやることがあるんだよ」
「毎日埃はたまるんだぞ。お前に頼んでるのはどこの家でもやる簡単な仕事だし……『働かざるもの食うべからず』だ。ただ飯させてやれるほど、裕福じゃないからな」
月咲は「後は頼んだからな」と言って居間から出て行ってしまった。









どろりと深く溶け込んだ。
沈んで沈んで体重がなくなった。
ぬぷんと腕が出て急に世界が軽くなった。

ひやりとした地面に手をつく。
痛みはない。
ただ見えもしない透明な何かが、まだねっとりと身体にまとわりついていた。
それで少しじっとしていたら、それはとろとろと地面に溶けていった。
中途半端にほの暗い。
通路にはところどころに明かりが灯されていた。
此処はどこなのだろう。
俺は落っこちて夢でも見ているのだろうか。


身体が重たい。
取り込む酸素もどこか重くて肺に沈殿する。
空気が俺を拒絶している。

分かれ道だ。
どちらを見ても、先は見通せない。
仄かな明かりだけが命綱。
右は一つ。左は二つ。
敢えて暗い道を選ぶ?
明かりを出そうとしたら拒否されてしまったから、この世界は明かりを求めていないんじゃないかと思ったから。
本当は適当さ。
自分の影さえ映らない。
影がいてもそれはにせもの。
取って食われて引き裂かれてしまうよ。
何故かそんな予感がする。



透けたヘドロが俺の中で弾ける。
それが溶け出して俺の身体を包み込む。
俺は口を開けなかった。
けれど出てきたんだ。


なんてひどい夢だ!

意味がわからない。
(夢に意味なんてないことくらい俺だって知ってるよ)


俺は眠くなった。
なんだか身体が重いんだ。
あんなヘドロを蓄えているからかな。
さっさとすべて出てしまえばいいのに。
それが喉を這い上がってくるとき、たまらなく俺はきもちわるくなる。
出しちゃえばいいんだ。
でも俺は拒絶する。
これを出したら嫌われてしまうよ。
誰に?










「ええいくそ面倒くせぇ」
月咲から留守を預かった白夜は、愚痴りながらも風呂掃除に汗を流していた。
月咲家の風呂は一度に四人は収容出来そうなほどの大きさで、風呂場も同様に普通の家にしては広過ぎるものだった。
いったい何故これほど大きな風呂でなくてはならないのか。
この家には住人もそれほどいなかったはずだろうよ、と白夜はシャワーで洗剤を流した。
排水溝に白い泡が飲み下されていく。

立ち上がって窓の外を見ると、見習い坊主が洗濯物を干しているのが見えた。
窓から身を乗り出し、口を出す。

「なんでお前のほうが楽な仕事してんだよ」
「楽じゃないですー。食事も作ることになってるですー。買い出し、御堂掃除、ゴミ捨て、電話対応いろいろあるですー」
「その『ですー』ってのはどうにかならねぇのか?」
「どうしてですー?」
「いや気分が悪いというか。敬語は嫌いというか」
「息子さんには、誰も対しても丁寧に接してくれ、と言われてるんですー」
「お前の師匠は父親のほうじゃないのかよ」
「二人ともですー」

白夜は窓枠に寄りかかった。

「そういやそのお師匠とやらは帰ってこないのか?」
「ちょっと旅に出てるんですー。でも、たまに帰ってこられることもあるんですー」
「つまり月咲はお前と二人暮らしのようなものなんだろ?こんな掃除とか念入りにする必要あんのか?」

無駄に部屋数も多い。
使わない部屋もあるだろうに、そこまで掃除していて嫌にならないのだろうか。

「たまに来るお客さんのためにも手は抜けないって息子さんは言ってるですー」
「ああ、客な……」
「相談に来る真っ当なお客さんから、遊びにくるお客さんまで色々ですー」

月咲はその人柄から、交友関係も意外と広いのかもしれない。
白夜に掃除を押し付けたのもあれは単に身内だからであって、他の客人相手にはそんなこともなさそうだ。

「ついこの間も響が来て、お土産におはぎ置いていったですー」
「…響って、あれか、芦辺か?」
「そうですー、世間話で貴方の話も出てたですー」

(……ろくな予感がしねぇな)
芦辺は如月の知り合いだと聞いていたので、月咲と顔見知りでもそれほど驚くことではない。
しかし自分の話をしていたとは、なんだかそわそわしてしまう。
不快感にも似たこの不気味さ。

「で?……あいつは何て」
「秘密ですー。プライバシーですー」
「……」

白夜は項垂れた。
確かに話の内容を探ろうなんてしてもいいことではないが、半端に自分の話をされていたともなると。
(気になるってなもんだよな……)
だが諦める。
白夜は大人しくシャワーを元の位置に戻すと、風呂場を後にして洗面所で雑巾を絞った。
たとえ面倒でも、頼まれた仕事はやらなければならないからだ。
ぺたぺたと長い廊下を歩いて行き、彼は薄暗い空を見上げた。

「…陽炎の奴、傘持ってったのか?」

これは間違いなく荒れるな。
そう思ったとき、遠くで雷が光ったのが見えた。











俺は駆け出している。
だけれど進んでいるのかは分からない。
粘液が俺を捉えて放さない。
影を踏まれている。
ないはずの影。
俺は何を言ってるんだろうか。
ヘドロのように脳が溶けている。
脳が溶けるだなんて幻影だ。有り得ない!
けれど思考に薄い膜が張りついているのは事実。
引き剥がしたい。触れられない。
『此処』に来てから俺はどうかしている。
崖から落ちてどうして俺はこんなところにいるんだ。

分かってるさ夢だ、これは夢だ。

不快な夢。誰かの足音が聞こえる。
そしてそれは自分のものではない。
近付いて来る。
俺の足は速度を落とす。もつれて転ぶ。
手のひらが床に溶けて埋もれる。
身体が徐々にいうことを利かなくなってきた。
けれど逃げなければ、と本能的に思う。
…本能なんて不確かなもの、いったいどこで備え付けてきたんだろう。
記憶がこの足音を拒絶する。
逃げたい。
身体が重い。
俺は起き上がれない。
陸上に打ち上げられた魚のように、俺は地面の上でじたばたと足掻く。

あの敵が近付いてくる。

きっとこの足音の主は俺に害を及ぼす。
何故?分からない。直感がそう告げているだけ。
でも俺の勘はそれほど外れない。
それにしても…やたら寒い。
夏だというのに……重たい身体がどんどん冷えてきた。
なんだか炎を出す力もないくらいに。
ただの一般人に成り下がった術者というのは、こういった感じなんだろう。

俺は地面にへばりついた。
地面と一体化するかのように、身体の感覚が、ない。
俺は今どうなってる?
近い足音。


俺はまだ消えてなくなってしまいたいとは、思ってないのに
(せかいがおれをのみこむまえにせめて)



いったい最後に、何を望んだ?
(おぼえていやしない)





………