18.(無)色模様













「樹乃、君は知っているかい?」
と、彼が突然話を切り出すことはそれほど珍しいことではない。
月咲は縁側に腰掛け、庭の鯉に餌をやる響の姿を眺めていた。
「望は随分陽炎君と白夜君のことがお気に入りらしい」
ぽちょ、とパンの耳が水面に浮かぶ。
それは表面に小さな波紋を一つ、二つと描き、やがて鯉の口に流れ込んだ。
白黒の鯉。喘ぐように鯉は口を丸くする。
「でも残念なことに、私は陽炎君のことを気に入っていない」
ひとつ落とす。白黒の鯉はそれを取り損ねる。
「彼は望の苦痛にしかなっていない」
「響……」
「…樹乃、あいつは死んじゃったのかい?」
「あいつ?」
響の不思議なほどに透明な瞳が、月咲の姿を映し出す。
けれど彼は知っていた。
その瞳が時に澱んだ青白い炎を揺らめかせること、身も凍るような銀色の冷酷な光を放つことを。
「赤一色の鯉だよ」
「ああ……数日前に」
「なんだ、せっかく気に入ってたのになあ…」
彼は微笑し、残りのパンの耳を一斉にばらまく。
池の中の鯉は我が先にと撒かれた餌に飛びつく。
小さな池の表面は、ぴちゃぴちゃと鯉の散らす水飛沫で溢れた。
響は立ち上がり、一歩引いてそれを眺め見る。
「…君もう少し餌あげたほうが良いんじゃないのかい、どいつもこいつも飢え過ぎてるよ」
「いや、一応あげてはいるんだが……いくら食べても足りないみたいで…」
「欲張りだね」
「ひびき」
「私は、彼さえいればいいのに」
異様なまでに静かな口調。
だが、その裏の沸々とした感情に気付かぬほど、月咲も鈍くはなく。
「…お前は、望を手放す気はないんだな」
「…愚問だよ、樹乃、それはあまりにも愚問だ。…君にしてはね」
「お前といると、あいつの右目が駄目になるのが早まると言ってもか」
ス、と水面下の温度が降下する。
彼は眼を伏せ、口元の微笑を消した。
「右目が駄目になれば左目があるさ」
「響……!」
「…共鳴して症状が悪化することくらい分かってるんだよ、樹乃。私だって彼といれば血反吐を吐く量が増える」
頭を金槌で殴られたような衝撃が走った。
彼は今、なんと。
「知らなかった?私だって楼闇術者なんだ…術を使えばその分どこかしら確実に、身体は悲鳴を上げる」
「……どこなんだ」
「さあね。ただ、内臓器官だってのは分かってるけれど。平気だよ、痛くはないし……ねぇ、樹乃」
………十年探したんだ。今更手放す気なんてない。
響はそう言って笑った。
実に愉しそうに。不愉快そうに。








「白夜さんは如月さんと遊んでてよ!」
と言われたのがつい先程のこと。
土産を手渡された陽炎は、色々と聞きたいことがあるようでそのまま月咲と奥の部屋にこもってしまっている。
(遊んでてよ!……と言われてもだな、なんで僕があいつとなんざ遊ばなきゃならねぇんだ……)
しかも部屋数が多過ぎて、彼がこの月咲家内のどこにいるのかが分からない。
散々探し回った挙げ句、なんでそこまでしてあいつを探さなきゃならねぇんだという結論に至った白夜は、縁側に腰掛け、庭にある池の鯉を眺めていた。
(妙に……嫌な気配が漂っているのは気のせいか?)
特に池の辺りに。
心無し、楼闇術者のオーラに似ているような。
「なんだ、望と遊んでたんじゃなかったのか」
感覚を賢明に研ぎすましていると、月咲が廊下を歩いてきた。
その手にはポットの乗ったお盆。お茶がなくなったのだろう。
「…遊ぶって……」
「望なら多分寺にいるぞ」
彼はそう言ってすたすたと台所の方へ行ってしまった。
(寺…?)
暇を持て余していた白夜は渋々その寺へと向かった。

ミーンミーンと蝉が鳴く。
盛りを過ぎた夏の太陽が、さんさんと地上を照りつける。
じゃり、と地面を踏み締めて、白夜は汗を拭った。
青空がうっとおしいくらいに視界を惑わす。
(…あそこか)
月咲家の真裏に、その寺はあった。
堂々たる風格とまではいかずとも、それなりに立派な寺だ。
陽炎から聞いたことのある見習い坊主が、こちらから見える縁側を雑巾掛けしている。
白夜は近付いて声を掛けた。
「…如月がどこにいるか知ってるか?」
「望なら裏にいるですー」
「裏?」
「この縁側を辿って行った先にいるですー」
なるほど坊主のいる此処を正面とすると反対側が裏となるのか。
それなら中に入らず外から回った方が早かろう、と白夜は縁側を辿って裏に向かった。
途中からは竹林に隠され、ちょうどいい感じに日陰になっている。
「あー…こりゃ良いご身分だなおめぇ」
こちらは人目につかないのだろう。
如月は縁側で座布団を枕に横になっていた。
傍ではゆっくりと扇風機が回っていて、彼の銀髪をさらさらとそよがせている。
白夜は起こさないようにそっと縁側に腰掛けた。
(はあ、……こいつ笑わなきゃいいのによ)
あんな嘘くさい笑みで笑うから、苛々するのだ。
そう思い、触った髪は想像していた以上にさらりと白夜の指を通った。
クセッ毛の白夜とは全く違う。軽い嫉妬さえ覚えそうだ。
(あー…くだらねぇ)
蝉の声が遠くに聞こえる。
淡華町で姫の家に滞在していた夜、陽炎に彼が彼女の義兄だと聞いた。
確かに彼女にはどことなく彼の面影があって、逆もまた然りで彼にもどことなく彼女の面影がある。
しかし嫌な縁だ、と思ったのも事実。
意外と世間は狭いものなのかもしれない。
(…そういや芦辺、の奴も、こいつに声が似てると思ったんだったけな)
陽炎と再会する前に出くわした、血の匂いのする男。
彼は如月の知り合いで、
(『元彼』だとかふざけたことを抜かしてたな)
思い出すだけで胸が悪くなる。
つまりそれは、彼らが何らかの関係を持っていた可能性を指しているわけで、もしかすると白夜はあの芦辺という男と嫌な意味で兄弟になってしまっているのかもしれない。全くもって笑えない。
(けど、こいつがあいつと?)
寝ている彼は呑気で良い。
だがその寝顔を見ていると、徐々に胸がいがいがしてきた。
嫉妬?そんな馬鹿な。
(なんでそんな一度ヤられたからって僕が芦辺の野郎にそんなものを抱かなきゃならねぇんだ)
頭をぶんぶんと振る。今度こそ、全くもって笑えない話だ。
余程その白夜が挙動不審だったのか、眠っていた如月が眼を覚ました。
「あ、れ……桴海君」
「…なんだあんた起きたのか」
「……ええ、…起きたらまずかったんですか」
「いや、そんなこと一言も言ってねぇけどよ」
いっそ起きていてくれたほうが悶々と考えずに済みそうだ、と考えかけて、そりゃどういうことだよと白夜は頭を抱えた。
「陽炎君は樹乃と一緒にいるんですか?」
「…あー」
「そうですか。そういえば桴海君は姫と会ったんでしょう?」
「…は、ああ」
先程まで考えていたことを指摘されて、白夜は鈍い反応を返した。
如月は茶化すように、
「どうしたんです。寝ていた俺ならまだしも、起きていた貴方がそんなにぼーっとして」
恋煩いですか?と、言い、口の端を持ち上げた。
眠っていたときとは違う、その皮肉めいた表情は白夜の神経を見事なまでに逆撫でした。
「ばかやろう、そんなわけあるかっ」
「いえ、桴海君も案外純情な方ですからね。てっきり姫と出逢ってぽろっと恋に落ちてしまったのかと思ったんですが」
「花芽宮とはそんなんじゃねぇよ」
「そうですか?お似合いだとは思いますが」
ニヤニヤ。ニヤニヤ。
(…くそむかつく……)
白夜は、如月の緩んだ頬をむにーっとつねってやった。
「ひょっと、いひゃいでふよ」
「あんたのその顔見てると苛々すんだよくそったれ」
ひっぺがされた。
「カルシウム足りないんじゃないんですか。それに、人の顔に文句つけられても困ります」
「顔には文句言ってねぇだろ。笑い顔がむかつくんだっての」
「俺に笑うなって言うんですか?そんな無茶な」
これが素の顔なんですよ、とまたも笑って如月は白夜の横に座り直した。
「本当に桴海君は俺のこと嫌いなんですね」
「なに」
「違うんですか?以前から会うなり「ゲ」扱いですし、…貴方の態度は俺を嫌いだと言わんばかりのものでしたが…」
まあ突然貴方のことを犯すような輩ですからね、と如月は微笑する。
その発言の内容と笑みが合っておらず、白夜はまたしてもいらっとした。
しかしその内容を聞いていると、どうも自分が責められているような気さえしてくる。
…事実だとは思うが。
「…なんだよ、ショックだとでも言いたいのかよ」
「いえ。俺も貴方のことは嫌いです」
「な」
「どうかしましたか。…ショックなんですか?」
嘲るように彼は笑う。
白夜は「…別に」と答えるしかなかった。







「ああ、二人ともおかえり」

門の音がしたので、白夜と如月が帰って来たのだろうと陽炎は玄関のドアを開けて二人を出迎えた。
「晩ご飯もうすぐ出来るから、手を洗ってこい、って月咲さんが」
「ああ」
「洗面所は向こうだってさ。……如月さんはどこ行くの?」
腕まくりする白夜の後ろで、如月は反対方向へと向かおうとしていた。
「あ、俺はその、…腹減ってないので」
「食べないんですか?」
「……ええ」
陽炎はじっと如月を見上げ、その細腕を掴んだ。
ぐぃ、と洗面所まで強制連行する。
「あの、陽炎君」
「月咲さんに『多分望は食べないと言うだろうから、無理矢理連れて来てくれ』と言われてるんです」
「……ハハ」
「俺は食器並べるの手伝わなきゃいけないから、後は白夜さんよろしくね」
白夜の手首を掴み、その手に如月の手首を握らせて二人揃って洗面所に押し込んだ。
廊下を歩き、月咲のいる台所へと向かう。
「如月さんはやっぱり食べたくないって言ってましたよ」
「だろうな。でも、旅の最中きっとろくなものを食べてないだろうから、たまにはまともなものも食べさせておかないとな」
長身の男性であるはずの月咲に、ピンクのエプロンが似合うのは何故だろう。
陽炎は鍋の具を装って器に盛りつけた。
「月咲さんって、なんだか如月さんのお父さんみたいですね」
「そうか?僕は普通に接してるつもりなんだが…」
地がお父さんみたいだし……、と言おうとして陽炎は口を噤んだ。
成人男性とはいえ二十一の青年である彼にお父さんは少々失礼かもしれない。
撮み食いしようと器の中の豆腐を箸で持ち上げようとしたが、豆腐はいとも簡単に崩れてしまった。
「月咲さんは白夜さんとは従兄弟なんですよね?」
これは、淡崋町から亜瀬町までの船旅の途中、白夜に聞いたことだ。
「ああ。親類とはいえ、あまり会わないから…今日だって数年ぶりに見たよ」
「…数年ぶりに見ると変わったなあって思いますか」
「いや…そうだな。改めて考えてみると大きくなったな。昔はこんなに小さかったのに」
月咲はテーブルの脚辺りを手で示した。
いくらなんでもそれはないだろうと陽炎は思ったが、昔の記憶などそんなものだ。
あの人は元気だろうか、とふと母親のことを想う。
父だけを愛し、自分を愛してはくれなかった母親。
いつか彼女とまた会うとき、彼女は自分の息子を大きくなったと感じるだろうか。
陽炎は小さく笑った。
彼女とそんな平和な再会をする日など、きっとない。
「白夜さんは昔からそんなに背は高いほうじゃなかったんですね」
「今はだいぶ大きくなっただろう?」
「でも身長170ないこと気にしてるみたいですよ。まあ、背が低いのは俺もそうだけど…」
陽炎もあまり背は高い方ではない。
女子である姫と比べても、五センチ程度しか違わないのだから。
月咲はまだ来ない二人の分のご飯を茶碗に盛りながら笑った。
「陽炎はいくつだったっけか?」
「十五です」
「その歳ならまだ伸びるさ。心配いらないだろう。そのうち白夜を抜かすかもしれないぞ」
「…出来れば月咲さん抜かすぐらいがいいな」
背が高い方が相手を押さえ込みやすい。
「それは…どうだろうな」
と、そのとき。
談笑している二人の耳に、廊下からの大きな物音が飛び込んできた。
陽炎は白飯の茶碗を受け取りつつ、「なんの音ですかね」とそれを机の上に置いた。
月咲は立ち上がり、暖簾をくぐって廊下の方へ首を出した。

「うるさいぞ、何してるんだ」

ご飯時くらい静かにしろ、と付け足す。
すると白夜が勢いよく部屋に飛び込んできた。

「月咲!あんたあいつにどういう教育してんだよ!」
「…教育って、僕は望の親ではないんだが」
「素でボケんな!あいつの性格の悪さどうにかしろよ」

手を洗ってこいと言って向かわせた洗面所で、二人の間に何かあったのだろうか。
困り果てた月咲を助けるように、如月がのんびり白夜の後ろから入ってきた。
「あまり人聞きの悪いこと言わないで下さい。教育の面で言ったら、怒って術かけてこようとした桴海君にも問題がありますよ」
「アンタが人をおちょくるようなことばっかり言うからだろうが!」
「俺は普通の返答をしただけですよ。例えるなら『今日は天気がいいですね』『そうですね』の『そうですね』くらいの返答しかしてませんよ」
「アンタの場合『そうですね。』の後に一言多いんだよ!」


「二人とも落ち着け。とにかく、…座ってご飯食べてくれ。冷めるから」
どこまでも片方がヒートアップしそうな言い争いを月咲が制止した。
陽炎は黙々とご飯を食べながら、月咲が二人と向き合うのを見ていた。
彼はまず、白夜に言った。
「確かに望は多少口の悪いところはあるかもしれない。…いや、多少じゃなくてかなりだが。でもそこは捻くれた奴だから勘弁してやってくれ」
「…まあ、…術まで発動させたのは悪かったと…思っ…てるけどよ」
術者として、一般人に対する態度でなかったのは白夜も認めるところだった。
次に月咲は如月に向き直った。
「お前も、…子供じゃないんだから人をからかって遊ぶのはよせ。…ん?」
言ってから月咲は何かに気がついたようで、「?」と首を傾げた。
「…いや、望は子供の頃はそんなふうに誰を……」
それから「!」とその『何か』が何であるかに気が付いたようで、苦笑して如月の肩をぽんと叩いた。
「望……白夜に術かけられたって聞いたが怪我はないか?」
「俺じゃなく置物が壊れ……ましたが」
「ならいいんだが。…いや、置物はよくないが。……ん?陽炎、どうかしたか」
月咲の如月に対する態度は、『何か』に気付いた後には、明らかに軟化していた。
それもまた父性ゆえかな、と思いつつ、陽炎は首を振った。












眠れない。
枕が合わないだとかことを言うつもりはないが、とにかく目が冴えて仕方がなかった。
隣の布団で眠る白夜を見ても、彼はぐっすり熟睡しているようで起きる気配はない。
(他所様の家では寝られないってほど、デリケートな神経を持ち合わせているわけでもないんだけどな……)
実際、これまで神野家や花芽宮家、宿屋などのお世話になっている。
たまたま今日は、精神が高揚しているのだろうか。
陽炎は上半身を起こし、隣の和室を見た。
襖の隙間から光が漏れており、如月はまだ寝ていないらしい。
…白夜を起こさぬよう、静かに布団から抜け出し襖に手を掛ける。

「眠れないんですか」
「!」

襖を開ける前に向こうから声を掛けられ、陽炎の心臓は飛び跳ねた。
なんて心臓に悪いのだろう。陽炎は観念して襖をスーッと引いた。
如月はこちらに背を向けながら、寝間着に着替えていたようだった。
思わず顔を背けると、
「男同士なんですから、別にそんな気になさらなくとも」
と、軽く笑われてしまった。
それもそうですけど、と陽炎は口をまごつかせる。
何故だろうか。白夜で見慣れているはずなのに妙に気恥ずかしい。
見てはいけないものを見た気分になる。
「ホットミルクでも飲みますか?すぐ出来ますよ」
「いえ、多分少しすれば眠くなりますんで…」
開けっ放しでは電気が眩しいだろう、と陽炎は後ろ手に襖を閉めた。
改まって彼を見つめる。
「如月さん」
「はい?」
「亜瀬町では、すいませんでした。なんだか、八つ当たりみたいなことを言ってしまって」
家族を蔑ろにしているだのそういったことを言ってしまった。
如月も思い出したのか、「……ああ」と眼を瞬かせ、微笑した。
「良いんですよ。俺も陽炎君に言われて少し反省したくらいですから」
「でも」
「…良いんですよ本当に。俺も……樹乃に甘え過ぎていたのかもしれませんし」
「…如月さん?」
そう言った彼の神妙な表情に陽炎は違和感を感じたが、すぐにその表情は打ち消された。
にっこりと彼は微笑む。
「それで、どうします?陽炎君はもうお休みなられますか」
「…如月さんはもう寝るんですか」
「俺はもう少し起きてますよ。鯉に餌をやってこなければならないんです」
「じゃあそれ横で見ててもいいですか」
「ええ。ですが、夜風は冷えますから…これを一枚羽織っておいて下さい」
彼はふわりと羽織を陽炎の肩に掛け、障子を開けた。
ひんやりとした風が、ひゅるりと陽炎の頬を透き抜けていった。