12.元彼












翌朝。
出掛けようとしていた月咲を陽炎は呼び止めた。
「そろそろ環焔町に戻ろうと思います」
聞きたかったことを聞いた以上、長居は無用だ。
頭を下げた陽炎に、月咲は、
「なら……」
と、何かを言おうとしたが、同時に彼の携帯の着信音が鳴り響いた。
「すまない。ちょっと待っていてくれ」
くるりと背を向ける。
陽炎はその背中を見つめながら、昨日のことを思い出していた。
(人の体内に劇薬を流し込んで、壊すなんて冗談じゃない)
ふざけた話だ。もはや人間のやることではない。
しかし。
(父さんは劇薬なんて使われてなかった)
説明を受けていた際、脳裏に何度もちかちかと瞬いた映像。
(父さんは無理矢理に)
薬を使う手間さえ惜しむかのように、引きちぎられたのだ。
父の体はもう首すらない状態であったのに、痙攣するかのように引きつって。
「…っ」
思い出さなければならない。けれど思い出したくなかった。頭が痛い気持ちが悪い。
どうして自分は、誰かにきっかけを与えられるまでそんなことすら忘れてしまっている?
息が詰まって吐き出せない。
どうして
どうして彼は笑った?
…彼?
ブブブ、と陽炎の携帯が振動したのはそのときだった。
一気に現実に戻され、酸素が急激に肺に取り込まれる。
表示された名前は、『桴海白夜』。


「…はい」


『いま何処にいる?』
「…どうしたのいきなり」
『仕事でいま環焔町の手前にある公園にいるんだけどよ。もし近くにいればお前の面くらい見ておこうかと思ったんだよ』
近くも何もこれから戻る予定の場所だ。
ルートなど決まっていないのだから別に戻らなくともいいかもしれないという気持ちの頭の片隅にあったのだが、白夜がくるというなら話は別だ。
「環焔町なら今日中には行けるよ。いま宇渋町だから」
環焔町程度であれば迷うこともないだろう。
「じゃあ後でね」と陽炎は携帯をポケットにしまいこんだ。
「そろそろ僕も帰るから、少し待たせておいてくれないか。…頼む」
ほぼ同時に月咲も携帯を切り、陽炎へ向き直った。
「月咲さんも帰るんですか」
「ああ。君を送るにも丁度いいし、この町でやることも大方済んだからな」
橋は未だに直っていないため、もともと陽炎を送るついでに彼自身も帰るつもりだったのだろう。
彼は陽炎に手を差し出した。
「飛ぶぞ。しっかり掴まっていてくれ」
「え?もうですか?」
帰るということは分かっていても、ものの一瞬で向こうの町に到着するのかと思うと、奇妙な違和感を感じざるを得ない。
一度体験してみたところで、現実味に欠けるのだ。
「ワイヤレス通信の人間版みたいなものだ。大したことじゃないさ」
月咲は全く意味を成していないであろう説明をし、陽炎の腕を掴んだ。
「早くしないとすぐにずらかりそうな奴が帰って来てるみたいだからな…」
「…ずらかる?」
彼の呟きを理解する間もなく、二人の身体は鈍い光に包まれた。


次の瞬間には環焔町に到着していた。
瞬間移動は二度目だが、胃にぐっと来るものがある。
「大丈夫か?」
月咲は慣れた様子で、着地もなんなく成功させている。
移動した先は、彼の家でもある寺の門前であった。
「…どうして瞬間で移動出来るのが希光術者と楼闇術者だけなんでしょうね」吐き捨てる。
「それは希光と楼闇の素質が他の素質とは多少構造が違うからだな。まあ同じ瞬間移動でも多少の違いはあるが…」
月咲は玄関の前でぴたりと足を止めた。
「ちょっとここで待っていてくれるか?」
「あ、はい」
振り向いてそう言い残すと、彼は中へ入って行った。
その月咲と入れ替わりに、宇渋町へ行く前に出会った見習い坊主が、箒を片手に陽炎のもとへ歩いて来た。
「こんにちはー、今回も息子さんが無事に帰ってこれて何よりですー」
彼は語尾を伸ばす妙な喋り方をする。
「お客さんでも来てるんですか?」
陽炎は月咲がしていた通話の内容や移動前に言っていたことを思い出し、尋ねた。
見習い坊主の頭は輝いていて、実に坊主らしい坊主である。
「違いますー。荷物を取りに戻って来ただけらしいですー」
「戻って来たってことは、家の人?」
「そうですー。いつもは音信不通で息子さん心配してるんですー。それがたまにぶらっと帰ってくるんですー」
どうしようもない放蕩息子(娘)といったところだろうか。
否、月咲は流石に子供を持つ年齢ではない以前に、婚約者がいると言っていたではないか。
ではそれ以外の血縁か。
玄関内からは、月咲が話している声が聞こえてくる。
「もう行くのか。もう少しくらいゆっくりしていっても…」
「いや。もう用は済ませたからな」
声が聞き取りやすくなったと思ったら、月咲とその相手が出て来た。
その瞬間、陽炎は目を見開いた。

「…如月さん…!」

思わず口から出た大声に、月咲もその相手…如月も目を見開いて驚いた。
すぐに穏やかな顔つきに戻った月咲とは違い、如月はらしくもなくどもった。
「か、陽炎君…!何故此処に…」
「なんだ、知り合いだったのか?」
月咲の微笑は何故か嬉しげだ。
先程までの会話の流れから、おそらく彼を引き止める種が出来たとでも思っているのだろう。
「いや俺は…、月咲さんにいろいろお世話になって…」
「知り合いならすぐに帰るのはもったいないだろう。茶でも飲んでいけ、望」
「……………」
陽炎の説明と、月咲の言葉に如月は黙り込んだ。











公園から環焔町へと連なる林道を白夜は歩いていた。
術者の格好の修行場なのか、公園を出て以来次々と飛びかかってくる。
今も、もう何人目か分からない術者をねじ伏せたばかりだ。
(ったく、この暑いのによくやる…)
この真夏に元気なものだ、と感心すらしてしまう。
白夜は額に滲む汗を腕で拭うと、鞄からペットボトルを取り出し水分を補給した。

「君が陽炎君の知り合いの……白夜君かな?」

不意に真上から声。
白夜は顔を上げた。
…知らない顔だ。
だが。
「…木の上から見物だなんて、あんた随分趣味が悪いんだな。」
「馬鹿じゃないとは思いたいけれど、高いところは嫌いじゃないのさ」
そう言うと、青年は木の上から音もなく白夜の後ろに降り立った。
以前恋須賀街で、陽炎が言っていた如月の知り合い、だろうか。
何となく気に食わない雰囲気が似通っている。
ましてや、この炎天下で、黒服の長袖だというのに汗一つかいていないのも人間として考えものだ。
「心当たりはあるにはあるけどよ、あんた誰だ」
「あるんならそれで合ってるよ。ちなみに君の名前も彼に聞いたんだ」
「陽炎に?」
確かに陽炎なら聞かれたらあっさり答えるだろう。
白夜は気配で分かっていたとはいえ、突如現れた人間に不快感を隠さなかった。
「それで、何か用かよ?別に僕は陽炎と違ってあんたと親交を結びたいとは思わないぜ」
「つれないねぇ」
「…それに、名前くらい名乗ったらどうなんだよ」
如月の知り合いというこの青年は、声も彼に似ていて何だか腹が立った。
兄弟か親戚だろうか。
「芦辺響。君の名字と同じくらい聞かない名字だろうから覚えやすいんじゃない?」
「覚えなきゃいけねぇのかよ」
「まあ多分これから何度か顔を会わせることもあるだろうから、その方が無難だとは思うね」
面倒そうな、少なくとも何度も会いたいと思うタイプではない。
それにしても、如月とは名字が違う。ただの親戚といったところだろうか。
陽炎が顔を覚えていないと言っていただけあって、前髪が邪魔で顔がよく分からない。
特に右目は完全に覆われている。

だがそれより、気になることがあった。

「…あんた、殺人現場でも通ってきたか?」
「どうしてだい?」
「血の匂いがする」

それほど強い匂いではなく、微かに匂う程度だが、あまり良い匂いではない。
白夜の言葉に、芦辺と名乗った青年は彼自身の服の匂いを嗅ぐような素振りをした。

「…驚いたなあ。君、案外鋭いねぇ。」

青年が笑っているような気がして、白夜はぞくりと悪寒に似たものを感じた。
同時に、陽炎にこんな青年を引き合わせた如月を罵りたくなった。
「…あんた、如月とどういう関係だ」
無論陽炎だけのことを気にしているわけではない。
如月とてこの青年と関わっていてろくなことがあるわけがない。
初対面で決めつけるのもどうかとは思うが、術者としての長年の勘が、この芦辺という青年は危険だと告げている。
「昔からの知り合いさ」
「……」
白夜の険しい視線に、青年は、
「そうだね、例えるなら…『元彼』かな?」
軽く笑った。
「ほら、着いたよ」
前を見る。
気がつくと、白夜と青年は林道を抜けて環焔町に到着していた。












月咲家の和室で、三人は向かい合って茶を啜っていた。
陽炎は月咲の顔を見上げる。
「月咲さんって、別に如月さんのご両親じゃないですよね」
「僕と望は二歳しか歳が違わないから、さすがにそれはないな」
「月咲さんっていくつなんですか?」
二歳しか違わない、と言われても月咲の歳が分からない。
外見からして二十代だということは分かるのだが。
月咲は苦笑して、如月の顔をちらりと見て言った。
「僕はこれでも二十一だよ。望が十九」
「…そういえばそうですね」と、如月。
「如月さん、十年くらい旅してるって言ってませんでしたっけ」
「ええ。ですから九の頃から」
そんな子供が一人旅など、危険ではないのだろうか。
十年前と言うと、自分は五歳だ。…父親が殺された頃がそのくらいだった。
「…危険ですよ、そんなの」
いくら一般人とはいえ。
陽炎は険のある眼で月咲をじっと見た。保護責任はどうだと言いたいのである。
月咲は苦笑した。
「いや、それが突然ある日ふらっといなくなってしまって。一応書き置きはあったから捜索願は出さなかったんだが…」
第一、月咲もその頃は十一である。陽炎は「そうですね」と我に返った。
父親のことを思い出すと、如何せん思考が飛んでしまう。
そんな陽炎を、如月は流し見た。
鞄を肩に担ぎ、立ち上がる。
「そろそろ行かないと、ついお茶まで頂いてしまいましたが」
「もう行っちゃうんですか」
「ええ。……先約があるので。失礼します」
廊下を歩いていく足音は、次第に遠ざかっていった。
そして足音が完全に聞こえなくなると、月咲はポットからお茶を汲みながら陽炎に尋ねた。
分かり切っていることを確認するような口調だった。
「君に素質摘出に関わる事を教えたのは、あいつなんだろう」
「当たらずとも遠からず…というよりも、当たりです」
「だろうな。…もう一杯飲むか?」
「どうも」
喉は渇いていなかったのだが、せっかくの申し出を断るのも忍びない。
汲まれたお茶を受け取り、一口つけてから机に置く。
月咲も座布団をずらして座り直すと、お茶を一口飲んだ。
「あいつと会ったのは久々だったんだが、元気そうで安心したよ。」
「こまめに連絡とかはとらないんですか?」
「そうしたいのは山々なんだが、そうすると嫌がるからしないんだ。あいつが旅立ったときにも、連絡は緊急事以外なるべくしないように、と書かれた」
月咲は静かな、それでいて心配している気持ちを滲ませた表情で小さく笑みを浮かべた。
陽炎はそれを横目で眺めながら、目を伏せた。
(俺だったら、…どうなんだろう)
極力連絡しないでくれ、と言わなくとも、母親からの連絡はない。
…あるはずがない。するのは愛情があるからだ。そんなものはないのだ。
自分自身、してほしいと思っているのかどうかも分からない。
してくれたとしても、彼女は陽炎のことを復讐のための駒程度にしか見ていないのだから、余計苦しくなるだけのような気がする。

けれど、如月と月咲は傍目から見てもそんな冷め切った関係ではない。
普通の、例えるなら『家族』のような親しさが滲み出ている。
家族に近しいものであるなら、電話は嬉しいものではないのだろうか。
いったい何故「なるべく連絡するな」と如月は言ったのだろう?
…たまに連絡しあったほうが、互いに安心したりしないのだろうか。

「如月さんはどうしてそんなふうに言ったのかな」
「それは聞いてみないと何とも、な。なにせこんな環境だ。煩わしかったのも少なからずあったんだろう」
そう言って、月咲は表情を曇らせた。
陽炎は、そこで気になっていたことを尋ねてみた。
「月咲さんと如月さん、別に兄弟というわけでもないんですよね」
「ああ、血は全く繋がっていない。あいつが幼い頃、…まあ色々あって、引き取ったんだ。」
「…」
曖昧な言い方。
人には人の事情があり、立ち入ってはならないこともあるだろう。
陽炎は次々出てきそうな疑問の洪水を口の中で食い止め、飲み込んだ。
話さないということは、彼にはそこまで立ち入る権利はないということだ。
「君と知り合いなのには驚いたが。まあこれで多少はあいつの様子も知りやすくなるかもな」
陽炎は俯いて、お茶をもう一口飲んだ。
様子を伝えてやりたいのは山々だが、そう上手いこと遭遇出来るかどうかは分からない。
何せ如月が何処をうろついているのか、陽炎にはさっぱり分からないのである。
様子を知らせるとしても「確実に」は保証出来ない。
月咲も、そのくらい分かってはいるだろうが。

陽炎は、お茶を飲み干してから立ち上がった。

「俺もそろそろ行かないと。お茶美味しかったです」
「ああ。…引き止めて悪かった。ただ、あいつは誰かいないと話をするにも留まってくれそうになかったんでな」
「それは、俺には何とも言えないですけど。…それじゃあ」
軽く頭を下げて、部屋を出た。
何とも言えない。肯定も否定も出来ない。
それは、ひどく曖昧なものだ。

陽炎が言った『何とも』は、月咲の言った『何とも』とはおそらく違う意味合いのものだろう。
月咲のは答えを知っていてあやふやに誤摩化したものであり、陽炎のは『分からない』ものだ。
それだけ、陽炎が如月について知らないということである。
(前は、他人のことなんて知らなくてもいいと思ってたけれど……)
それは恋須賀街で考えを改め、今日此処へ来てから、初めて気がついたことであった。
(俺は知り合った人のこと、何も知らないんだな……)
慣れているだけで、内側まで知り尽くすことは出来ていない。
勿論、そこまでする必要などないのだけれど、何故なのか単純に「嫌だな」と思った。