8.タブー
目を覚ましたのは何時のものとも知れぬ日の光に晒されたから。
(此処は…)
見慣れぬ部屋。
瞬きを数度繰り返し、ベッドから抜け出そうとして脇腹がズキリと痛んだ。
思い出したのは、つい昨日の夜のこと。
時間帯にして、それが十二時間以上も前のことなのだと、自分の腕時計を見て知った。
寝すぎたせいか、頭がくらくらしている。
(俺は確か…オークションに潜り込んで……)
扉に耳を押し当てた。腕を掴まれたまま。
素質、と聞いて今と同じように頭がくらくらした。
脳内の血管が千切れたのかと思うほど、頭の中は真っ赤に染まった。
怒りのあまり、自分を見失った。
…それから?
……覚えていない。
(……きさらぎさんは?…)
彼は自分を必死に押さえ込もうとしていた。
彼の細腕には似つかわしいほどの力で。
…ぐるりと部屋の中を見回す。自分以外、誰の姿もない。
(…ああ)
…この部屋に彼はいないようだった。
ただ、机の上に、メモのような紙切れが置いてあるのが見えた。
のろのろとベッドを這い出し、指先でその紙を摘む。
折り畳まれた痕もなく、紙はかさりと音をたてた。
書かれていた文面は一行だけ。
『料金は支払ってあります』
愛想も素っ気もない。
(これじゃあ言葉が足りないって言われるわけだよ…)
少しだけ可笑しくなって、陽炎は紙をポケットに押し込んだ。
ベッドのすぐわきにあった鞄の中をいそいそと確認し、部屋のキーを手にする。
金は借りたのなら、返さねばなるまい。
ましてや、昨夜の話具合からして如月は素質売買について多少のことは知っているのだろう。
陽炎は如月を探しに行くことにした。
しかしながら、携帯電話の番号を聞いておかなかったことが悔やまれる。
それが街中を散々探しまわった陽炎の感想だった。
恋須賀は広い街だ。だが二時間探しまわって見つからないというのはどういうことか。
無論都会で人間一人を探し出すのことは容易ではないのだが、地方人間である陽炎にとっては、まだそれを悟るにはこの街にいる滞在期間が短過ぎた。
(…疲れたな)
そして、彼はひとまず目についた図書館で休憩をとることにした。
空いている椅子にどさりと腰掛ける。
図書館の中は騒いでいる子供もおらず、シーンと静まり返っていた。
存在しているはずの人々は微動だにせず、じっと本の文字を目で追っていたり、ノートにシャープペンシルを走らせたりしている。
この空間を息が詰まる、緊張する又は落ち着く、と感じるかは人それぞれなのだろう。
陽炎はどちらかといえば前者であり、彼は音をたてないように気を遣いなら立ちあがった。
術者、とカテゴライズされている本棚へと足を向ける。
(素質…素質……)
素質売買についての書籍はないか。
陽炎は本棚の一番上から下まで視線を彷徨わせたが、それらしきものはなかった。
何故か。決してニーズがないわけではあるまいに。
「禁書なのです」
その質問に対する館員の言葉。陽炎は「禁書?」と聞き返した。
「内容が法に触れるため、貸し出しや読むことを禁止している本のことです」
「……」
つまり素質売買は違法であり、その方法や手段を知られては問題が有るということなのだろう。
陽炎は食い下がった。
「禁書であっても、この図書館の書庫にはあるんですか?」
「いいえ、ないのです。申し訳ありません」
この際有ったとしても有るとは言わないだろう。
俯いた陽炎に、館員は、
「術者に関してお知りになりたいことがお客様の中には、専門家の方へ直接尋ねて行かれる方もいらっしゃいますが…」
「専門家?」
少々面倒な匂いがしてきた。
違法な事柄に対する興味本位の輩であれば、ここで引き下がるのだろう。
だが。
「…その専門家の人の住まいはどちらに?」
「一番近くて、この先にある夕泉町を挟んだ向こうの環焔町にお一人」
「…分かりました」
そして電話番号と住所をメモしたのち、陽炎は図書館を後にした。
(本当にあの人はどこにいるんだろうか?)
デパートや駅、本屋、ゲームセンターなど探せる範囲の場所はついぞ探し尽くした。
探していない範囲ではファミレスやカラオケ、映画館、風俗店もあるにはあるが、人探しだけでとても中まで入り込める領域ではない。
穴だらけと言われれば穴だらけの探索。果たしてどうすればいいのか。
(ふらっと会うときは会うんだけどなあ)
出来れば、専門家を頼る前に多少の知識は得ておきたい。
真っ白な状態で、というのも失礼なものではないか。
それに本は禁書とされていても、人間ならばまだ可能性はある。
(でも俺は、……)
そんなつもりだけで彼を探しているのではないのだと。
おそらく、
「…」
自分一人の足で立っているのが恐ろしいのだ。
出来ることなら誰かの腕にさえ縋りたくなっている。
独りであることへの不安。
(それでいいわけがない)
独りで立たねば、彼らを見つけたときに思うように駆け寄ることすら出来ない。
(だけど……!)
”本当に復讐は孤独でなければ出来ないのか?”
誰かの隣にいたら出来ないことなのか?
一人で立つことはいずれ…本当なら既にだが…必要になってくる。
けれどこの世界に、自分一人だけぽつんと繋がりも持たずに立っている。
唯一の繋がりは敵への今にも切れそうな糸だけで。
…それは本当に正しいことか?
なんて都合の好い思考。だがいったいどんな方法が最も正しい?
何処をどうすれば筋の通ったものになる?
(…でも結局、俺は自分の望むようにしか出来ない)
分かっている。分かっているのだ本当は自分がどうしたいかなど。散々考えてきたのだから。
正しさなんてどうでもよくて、ただ許せなくて、でもひとりにはなりたくなかっただけだということ。
正しさなんて、初めから捨ててしまえるものなのに。
復讐なんて正義の境界ラインすら危うい行為で。
(もともと俺は、正義なんてものに照らし合わせたわけじゃなく、自分が気に入らなかっただけなんだ)
父親を殺した彼らの身勝手さを。
正しい正しくないなんてこと、それはそんなに価値のあるものか?
(嗚呼、どうして俺はこだわっていたんだろう?)
笑う。
己の信念さえ守っていれば、人はどうにでもなるのに。
陽炎から電話があったのは夕刻の気配が現れ始めた頃。
しかもその内容が『如月さんのいそうな場所って知らない?』だ。
理由を聞けば、『ちょっと用があって。白夜さんなら知ってるかな、なんて』と、よく分からない答えを返してくる。
…よく分からないなど、批判的な受け取り方しか出来ないのはこの胸中に渦巻く感情のせいか。
彼は単に白夜が恋須賀街で如月といたことを知っているからそう言っただけだろうに。
白夜は、濡れている髪をわさわさとタオルで拭った。
鏡に映る、少し日に焼けているだけで何の痕もない自分の首筋。
強く握りしめられた手首に付いていた痣はあの街から帰る際には消えていた。
それでも、痛みのような感覚がある。間違えようもない錯覚だが。
(わかんねぇな…)
何故彼はあのような…白夜をこっぴどく犯すような真似をしたのか。
確かに、そんな行為に及ぶ前に、彼は穏やかで、それでいて抑揚を感じさせぬ声で『苛ついている』のだと白夜に告げた。
だが。
(あいつは何に苛ついていた?)
彼とて人間だ。にこやかなる表情の下で苛つくこともあるだろう。
しかし人に乱暴を働くほど苛つくなど、そうそうあるものではない。
ましてや、如月の場合はそれほど気が短そうには見えないし実際短くもないだろう。
しかも乱暴は乱暴でも、殴ったり蹴ったりではなく人間の尊厳を損ねるようなやり方をするなど。
(…もともと苛ついていたのか…それとも僕があの首の痣に言及したからか?)
痣に関連する話をしたくなくて、手荒く中断させたということだろうか。
思い出してみれば、あのとき彼が誤摩化したそうな笑顔をしていたのも否定出来ない。
(じゃあなんで嫌がった?あいつは、そこいらへんの術者にうっかりやられたのを知られて屈辱を感じるような奴じゃあねぇだろう。……嘘だからか?)
まだ何も断定することは出来ない。
だが、ならば何故、彼は嘘をつく必要があった?
そんな暴かれたら負の感情に直結してしまうような嘘を。
(あー、やめやめ、わかるわけねぇ)
まだ知り合って数日。たかがそんな期日で他人の考えていることまで理解出来るはずもない。
白夜はシャツのボタンを留めると、ジーンズを腰までずり上げた。
(陽炎にはああ言ったものの…、…、まさか如月も陽炎にあんな真似はしねぇか…)
何故なのか、如月は陽炎に対しては乱暴なことはしないだろうという確信があった。
極めて曖昧な理由ではあるが…心無し如月の視線が陽炎と白夜とでは違うのだ。
白夜を見る彼の眼差しには微かながら冷ややかなものが混じっているのだが、陽炎相手ではそれがない。
無論それだけの違いで確信するのもどうかと白夜自身思わなくもなかったが、どうにもそれが事実だと言う気がしてならないのだ。
(…やれやれ…僕の頭も切り替えが出来てねぇな……)
考えるのをやめようとしたばかりだというのに、つい考えてしまっている。問題が解決していない所為か。
ましてや、日数が経過して多少の怒りも薄れたとはいえ、心の奥底には穏やかではない感情もまだある。
考えてしまうのも、無理もない話かもしれない。
(それにだ)
行為中の彼は嫌な笑みを浮かべながらも、どこか戸惑っているように見えてしまったのだ。
「如月さん!」
その姿を発見したのは、間もなく日も暮れて夕闇が辺りを包み始める頃。
陽炎は息を整え、積もりつつある疲労を肩で受け止めた。
(……寝てる)
いくら夏でもこの時間になれば冷えるだろうに、如月は上着一つ掛けずに草の上に横たわっていた。
いびきはなく、寝息も異様に静かで行き倒れになっているのではないか、と思ってしまいそうなくらいの熟睡っぷりだ。
「…あのー……」
果たして、起こしてもいいものだろうか。
何時間も探していたのにこんなところで寝てるなんて!と叩き起こすのは何ら難しいことではなかったが、如月にしてみればそんなことは知ったことではあるまい。
陽炎は伸ばしかけた手を引っ込め、眠っている彼の横で正座した。息を吐く。
(…俺も少し休もう)
今日は散々彼を探し回った所為で疲れている。
せめて彼が目を覚ますまでは、と陽炎は肩の力を抜いてぼんやりと如月の寝顔を眺めた。
長年…十年旅をしていると言っていたわりに、焼けていない肌。
本当に同じ人間でも肌の焼け方すら違う。顔は勿論、性格も、声も話し方も。
だからこそ意見や思考の相違が生じる。相容れることもあれば、相容れられぬこともある。
どうしても、相手の主張を受け入れられないこともある。
(多分俺が楼闇術者の連中と話し合っても無駄なように)
人間を顔色一つ変えずに殺せるような連中とどうやったら分かり合えるというのだろう。
そんなことをしたところで、結果は目に見えている。したがって別の手段をとらざるを得なくなる。
(俺はこの気持ちは変えられない)
誰かの傍にいても。彼らを許せないというこの気持ちだけは。
その首に手を掛けるときも、躊躇してはならない。
(この人の首も、手を伸ばしてしまいさえすれば、簡単に折れてしまうんだろう)
人間なんて弱いもので、それなのにどうしてこんな無防備に眠っていられるのだろう。
陽炎はそっと手を伸ばし、その首筋に触れた。
死んでいるように眠っていたとしても、冷たくなんてない、生きているし脈もある。
そんな当たり前のことが、
「……ん、かげろうくん?」
心をどうしようもなく締め付ける。
冷たさを知ってしまっているからこそ、この温かさがなくなる瞬間が怖い。
「…もしかしてだいぶ前から?」
「いいんだ、ちょっとした用事だから」
「そうですか……どういったご用件で?」
如月はリュックからミネラルウォーターを出し喉を潤し、陽炎へと視線をやった。
陽炎も決して視線を反らすことはない。
「如月さん昨日術者の素質について少し話してくれたでしょう。だからその手の話に詳しいのかな、と思って」
彼は視線を外す。
「すみませんが、俺は本の内容程度の知識しか持ち合わせてないんですよ」
「本ってあの禁書扱いの?」
「ええ。規制が厳しくなったのはつい最近のことですから」
余計なことをしてくれるものだ、と舌打ちするほどではないが、多少気に入らないのは事実だ。
陽炎は数秒沈黙してから、「如月さんは他に何か…話をしてくれたこと以外に知ってることは?」と、確認した。
如月は心底残念そうな笑みを浮かべる。
「お役に立てずに申し訳ありませんが、何も」
「あ、別にいいんです、大丈夫ですから」
こちらが勝手に期待しただけの話だ。謝られると逆にこちらが申し訳なくなってしまう。
(駄目だな)
否、良いのだこれで。自分が他人に対して非情になれるような性格でないのは分かり切っている。
ましてや…人を批判出来るほど自分は立派な人間ではない。
後は専門家にでも聞けばいいとして、この場は自分を丸め込んでおけばいいのだ。
「陽炎君」
「?…はい」
「もはや関係ないとは思いますが、今夜はオークションはやらないそうですよ」
「………はい」
おそらく彼は、陽炎がまたもやオークションに潜り込もうとしているのではないか、と思ったのだろう。
あればあったでそうしたいところだが、ないのではどうしようもない。
やはり、そろそろ恋須賀街を発ったほうがよさそうだ。
陽炎は立ち上がり、「じゃあ」と如月に別れを告げた。