5.赤い雫















陽炎と白夜が恋須賀街に足を踏み入れたのは夜も更けてのことだった。
街はネオンの光で溢れ返り、妖しげな夜の顔を無遠慮に曝け出している。
「白夜さんはこれからどーすんの」
陽炎は眠いのか光に眼が眩むのか、目蓋が重たげだ。
一方白夜は、完全に目蓋が閉じている。陽炎は白夜の肩を揺さぶった。
「白夜さん、まだ寝るのは早いよ」
「…ああ…晩飯食い過ぎたのかもしんねぇ」
「多分食べ過ぎたのは間食だけどね」
とりあえず、そこらへんの安いホテルにでも泊まろうか、と陽炎は白夜の腕を引いた。
起こす際もそうだったが、一旦寝るスイッチが入ると彼はなかなか抜け出せないらしい。
部屋についてからは、トイレにも入る間もなくベッドに倒れていた。
「しょうがないな…」
完全に寝入っている。
陽炎は掛け布団を白夜の体に被せると、自身もベッドに横になった。
彼との約束は、あくまで街まで連れていくということだったはずだ。
ならば、明日からは別行動になるのだろうか。
去来しかける、胸の空しさ。
(誰かに、依存することを覚えたら駄目だ……)
自分の性格は自分でよくよく把握している。
依存するあまり目的を見失うなど、あってはならないことだ。
陽炎は目を閉じた。

翌日。
陽炎は白夜の声で完全に目が覚めた。
「今朝の新聞、『華琵谷家の令嬢と従者惨殺さる』だってよ。『警察は楼闇術者の仕業と断定し、犯人の行方を全力で追っている』と」
かじっていた惣菜パンの味がなくなる。
がたり、とテーブルに手をついて立ち上がった。
「ちょっと行ってくる。場所は何処だって書いてある?」
「この街の外れの…パチンコ屋の裏にある林だ。立ち入り禁止のテープくらい張られてんじゃねぇの?」
「またぐ」
部屋を飛び出し、早足で陽炎は現場へと向かった。
警察は楼闇術者と断定した時点で、所詮解決は諦めている。そう確信があった。
テープなんて張らず、むしろ人々の記憶が形骸化するのを待っている。
何故ならば、楼闇術者には他の術者とは違ったある特技といっていいものがあるからである。
(……あ)
「如月さん」
行き交う人々の中、銀髪の長身が目に留まった。
彼の微笑も、こちらを捉えている。
「おはようございます、陽炎君」
「どうも」
「何処かへ行かれるのですか?」
陽炎は俯いた。
何故なのだろう。
彼の笑みを見た途端、尖った心がぐにゃりと折れそうになった。
これが他の誰かであれば、さっさと突っぱねて駆け出していただろうに。
「…如月さん、今日の新聞は見た?」
「いいえ。何か事件でも?」
「…昨日の夜、殺人事件があって。俺はそこに行かないと」
こう言えば意味合いは通じるだろう、と陽炎は如月を見上げた。
復讐の話をしたのはつい昨日。
他人のマイナスな話というのは、そうすぐに忘れられるものではないはずだ。
「そうですか」
如月は困ったように微笑んでから、はた、と動きを止めた。
その視線は、緩やかに軌道を描くように彼の背後へと向けられた。

「望、お待たせ」

陽炎は、人混みに紛れていたその人物を見初めた。
如月と同じくらいの長身で黒髪の知らない青年。
彼は親しげに如月の肩に肘を置いた。

「……ええ、随分待ちましたよ。待ち合わせの時間はとうに過ぎてますよ」
「ごめんね、ちょっと仕事で部下の尻拭いをさせられてたんだ」

青年は微笑みながら、視線を陽炎に向けた。
「望の…お知り合いかな?術者君」
「え、……あ、はい」
なんで、と問いかけて、青年から漂うオーラを感じ取り納得する。
彼は如月から離れると、一歩陽炎に近付いた。
「君は、楊炎術者だよね」
「はい。もしかして、上級の人ですか?」
世間的には、他人のオーラで能力の種類が判断出来るのは上級に達してからだといわれている。
青年は唇に薄い笑みを浮かべると、
「そう、芦辺響。楼闇上級術者」
「……え?」
挨拶にと差し出された手を握り返そうとして、陽炎は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
体中を流れる血液がそこを境に滞るような感覚。
彼は、ただただ目の前にいる人物を凝視した。
「…なんてね」
「は?」
青年…響はにこりと微笑んで、行き場をなくしていた陽炎の手を握った。
「ちょっと新聞に載ってたから言ってみただけさ」
「…………」
彼の言葉を理解するまでに、陽炎は数秒の時を要した。
荒く波打っていた胸の内側が、徐々に平常さを取り戻していく。
がくり、と肩の力が抜けた。
「…なんだ、冗談きついですよ……」
「嫌だな、本気にしたの?」
悪びれた様子もなく、響はけろっとしている。
陽炎はあまりにきつい冗談に、会話をする気力もなく、
「じゃあ」と手をひらひらと振ってその場を立ち去ろうとした。
しかし、もう一方の手を掴まれたままでは去ろうにも去れなかった。
振り返る。
「なんですか」
「いや、何処に行くのかなぁと思ってさ。ゲーセンかい?」
「違います。昨日の事件現場」
「じゃあ一緒に行ってもいいかな?ねぇ望」
それまで黙って二人の会話を聞いていた如月は言った。
「駄目です。あまり陽炎君を困らせないであげて下さい」
(いや、困るってほどでもないけども)
「駄目かい?陽炎君」
響は賢明といっていいのか、陽炎に許可を求めてきた。
如月の視線も、自分に向いている。いったいこの展開はなんなのだろう。
陽炎は半ば投げやりに告げた。
「……別に、現場に行くだけなら俺がどうこう言う問題じゃないと思うんですけど」






事件の現場は、昨日の今日だというのに警官の姿もなく、閑散としたものだった。
死体があった場所に引かれていたであろう白いラインすら薄く消えかかっている。
「けれあれだねぇ、オーラがすごい」
「…」
頷く。初級術者でも分かるほど強烈で禍々しいオーラが周辺を漂っている。
陽炎は眉を寄せながら、あちこち見て回った。物質的な証拠品など残っていないだろうが、念のため、だ。
ブロックの下、看板の裏。柵を越えかけたところで、「あ」と声を発した。
響が陽炎の後ろから覗き込む。
「何か見つけたのかい?陽炎君」
「あれ」
「あれ?……ああ、あれ」
彼は柵を越え、該当する物体の前にしゃがみこんだ。
木の枝で持ち上げる。
「人間の、ベロだね。根元から千切れた跡がある」
「昨日の事件のやつ、かな」
舌を抜かれては、痛みに叫ぶ事も出来まい。
陽炎は嫌悪感を露にせずにはいられなかった。
ましてや、例えそれが『見慣れていた』ものであったとしても、見ていたいわけではない。
ふい、と目を背ける。
脳裏に過るのは、父の一部を抱く母の姿。
ごぼりと浮き上がる水泡を振りはらうかのように、陽炎は頭を振った。
「捨ててよ、それ」
しっかりしろ、と自分に言い聞かせる。
いちいち過去を思い出して、弱ったところでいったい何になる?
「…そうだね、見ていて気分のいいものではないね」
響も、意外にも神妙な声で答えた。
すっと立ち上がり、柵を越えて陽炎の横に並ぶ。
「どうするんだい、まだ何か探す?」
「……」
自分は単純だ、と思う。
本当は一人で来て一人で受け止めようとしていたのに、結局は誰かが隣にいるだけで安堵しているのだ。
やり切れない気持ちになる。
「…帰ります」
「そう。大丈夫かい、送って行こうか?」
「いい、大丈夫です」
少し離れたところで待っていた如月にも頭を下げ、現場から遠ざかる。
自分はいつもこうだ。半端なのだ。
すぐ誰かに頼りがちになる。
一人で旅に出たのに、結局はずるずると誰かと関わっている。
繋がりを求めている。
勿論、連中の情報を入手するためには、人と繋がることも大切だけれど。
利用することと依存することは違う。
自分は決して、生温い関係を求めるために旅に出たわけではない。
「おう、おかえり」
「…ただいま」
許せないだけなのだ、楼闇術者を。
父を殺した、何もかもぶち壊した彼らを。
「…なんだ、また考えてんのか?」
「何を」
「連中のこと」
顔を上げると、白夜は額を指さした。
「眉間に皺寄ってんぜ」
「…」
指でほぐす。再び寄る。
白夜は立ち上がると、「しゃーねぇなあ」と陽炎の腕を掴んだ。
問答無用で引っ張られる。
「っちょ、白夜さん何処行くの?」
「朝飯だよ。お前飯も食わずに出掛けちまうから参っちまうよなあ」
果たして、安ホテルを出て、二人が向かったのはうどん屋だった。
暖簾をくぐる。
「かけうどん二杯頼む」
「あいよ」
口頭で注文し、白夜はさっさと椅子に座った。陽炎も仕方なく正面に腰を下ろす。
先程あんな生々しい物を見てきて、食事などする気になれるはずがないというのに。
白夜は、運ばれてきたうどんに早々に箸をつけながら言った。
「僕は明日辺り帰るぜ」
「…え」
「今のところこっちでの仕事の予定は入ってねぇし、電車が通ってんのはここらではこの街くらいだしな」
ズズーッとうどんをすする。
その反対側で、陽炎は箸もつけずに固まっていた。
「おい、冷めんぞ」
「…ああ、うん。そうだね」
白夜の顔を見て、明日帰るのか、と思う。
もとはと言えば、街まで案内するだけの約束であり今こうしているのもおかしいのだが。
昨晩自分から尋ねもしたし、自分自身、彼が何らかの行動を取るだろうとは分かっていたはずなのだが。
かえる、とは。
「そっか、もう白夜さんに会う事もなくなるんだね」
「…お前そのこれから僕が死ぬような言い方はなんだ」
「いやいや。だって白夜さん結構遠いとこ住んでるんじゃなかったっけ?だったら、同じことじゃない」
これでまた一人旅に戻る。
否、ろくに一人で旅をしていた時期があったのかなかったのかは定かではないのだけれども。
望んでいたはずの展開に、陽炎はため息をついた。
白夜はズズズーッと大きな音をたてて最後のうどんをすすり、飲み込んだ。
「あのな、そのマイナスな思考回路どうにかなんねぇのかお前は」
「俺は普通だよ」
真顔で言ってやれば、白夜が大きなため息をついた。
「生憎だがな、僕はどうせこっちで仕事があればすぐこっちに来るんだよ」
「でも今のところないんでしょ」
「…、…ったく、大丈夫なのかよこんなんで…。…お前、いざって時はもう如月にでも頼れよ。あいつ一応知り合いなんだろ」
「そうだけど、如月さん一般人だよ」
そもそも、頼るという発想自体なんなのか。
陽炎はじっと白夜を睨んだ。
それから、ふと思い出したように口にする。
「そういえば、今日如月さんとその知り合いの人に会ったよ」
「?ほー、あいつの知り合いね…どんな奴だったよ」
「ええと……」
黒髪で、背は高くて、それで……
陽炎はそこまで言って口籠った。
「?どうしたよ」
「思い出せない」
「ん?」
整った顔立ちだとは思ったが、どんな顔だったか思い出す事が出来なかった。













肩を吹き抜ける風。
今朝見た天気予報通り、空模様が少しばかり荒れてきたようだ。
と、如月は空を仰いだ。
そうしたところで気持ちは穏やかにはならないし、平静を保つことも出来ないが。

「逢いたかったよ、望」

「……」

「この十年、長かった。本当にね」
想いを噛み締めるように、うっとりと彼は言う。
対して、如月は無表情のまま、内心酷く冷静さを欠いていた。
彼とこうして向き合っていることにおののき、叫びだしそうな心を押し殺す。
「…俺は逢いたくなかった」
「相変わらず冷たいねぇ、この世で二人きりの兄弟じゃないか」
あまりに在り来たりな言葉だと自分でも思ったのか、響は肩を竦めた。
頬に、布越しの手の感覚。彼の黒い手袋は、いったいどれほどの血に塗れてきたのだろう。
案外潔癖な彼のことだ。仕事のたびに使い捨てにしているのかもしれないが。
「でもさ、君だって気付いてたろう?私が近くにいたこと…事件のことは新聞にも大きく載っていたしね。なのに逃げなかった。今まで散々避けてくれてたのに、どういう心境の変化だい?」
「…お前も相変わらずよく喋るな」
淡々とした声色とは裏腹に、胸が痛くなりそうなほど、心臓は暴れている。
極度の緊張による喉の渇きに、如月は同様に渇いた口内から無理矢理つばを喉に流し込んだ。
その喉を、頬を撫でていた響の手が触れた。
するりと緩く指先が這う。彼は軽薄な微笑を浮かべた。
「私が怖いのかい?望」
「なにを、……………!」
反論の言葉は響の手によって突然、それも完全に封じられた。
容赦なく首を絞め上げられ、のしかかられるまま、地面に倒れ込む。
倒れた拍子に彼の指が更に首に食い込み、気管を圧迫した。
「っ、かは…っ」
「嬉しいよ望。君は本当に変わっていない。その声も、姿も、私を見る眼差しも、何一つ変わっちゃいない」
ぎりぎりと首の骨が軋んだ音をたてる。
酸素が足りず全身が悲鳴を訴えていた。
だが響は力を緩めようともせず、如月に口付けた。
「……っう、…っ、っ…………」
押し返そうにも手に、腕に、体に、力が入らない。
僅かに動かせた指先も、彼に届かず空を切る。
彼は自分を殺さないとは分かっていた。
……けれど、いっそ殺してほしいと思った。
右目から一筋涙が伝い落ちる。しかし、それは透明ではない赤い雫であった。
響の指の力が弱まった。
その手が、赤い涙を拭う。
「君の『犠牲』はその右目にかかったんだね。…私のせいで」
前髪によって隠されていた響の右目に刻み込まれた二筋の傷が、舞う風によって露になる。
それを見て、如月もやはり、と眼を伏せた。
如月にとって、右目からこうして赤い涙…血が流れるのは初めてのことではない。
数年前のある時期から、定期的に起こり始めたことだ。
だが、今日はまだその時期ではなかったはずだった。
(…こいつの影響か)
目の前の存在、響を見遣る。
この眼が彼との繋がりで生じたものならそれも容易に納得がいく。
如月はぐぃ、と拳で右目を擦った。血は止まらない。
「ふ」
そのとき、突然響が笑い出した。

「ふふふ、は、はははっっ」

それは、まるで狂ったようだ、と形容しても差し支えは全くないであろう笑い方であった。
もとより彼はそういう気質がないわけではなかったが、十年前はこれほど酷くなかったと如月は記憶していた。
だがあまりそれを、冷静に見れない自分もいた。
背中に冷たい汗が滲む。
「…はあ、いや、ごめんごめん。実は君からオーラがしないものだから少し不安になっていたところだったのさ」
素質を売買にでも出しちゃったのかと思ってさ。でもそしたら生きてるわけないからねぇ、考え過ぎだったよ。
響は宣う。如月は何も言えなかった。
「でもさ、『犠牲』がちゃんと…術の代償があるってことはだよ」
脳裏には嫌でも、あの少年の言葉が思い浮かんだ。
「君が今も昔も、楼闇術者の証じゃないか_____」




 ころしてやりたいんだ
 とうさんをころしたれんちゅうをさ





覚えていなければよかったのに。
……俺は彼を知っていた。