4.悲鳴







陽炎の言葉に、白夜は「ああ…」と了承すると、水壁に指を伸ばしてみた。
ピッと指先から血が弾ける。
「結構な水圧で、って感じだなこいつは」
手首を伸ばしたならば骨ごとすっぱり落ちていただろう。
おまけに目を凝らしてみなければ分からないが、水には僅かに電流が混じっている。
むやみに突き進めば感電死するのがオチだ。
「……………!」
けたたましく流れる水壁の向こうで、枝が折れたような音。
出来れば穏やかに事が済んでくれればと思っていたのだが、そうもいかないらしい。
白夜は胸に手を当て回復術を持続的に施しながら、水壁へ飛び込んだ。

そして、彼の視界に飛び込んできたのは、予想していなかった光景。

「ああ、桴海君」
初めて彼がちゃんと口にした白夜の名字は、漢字もきちんと合っていた。
「如月、」
「よくあの壁抜けて来れましたね。驚きましたよ」
彼の名字の漢字は間違えようもないけれど。
如月は爽やかに微笑むと、ゆっくりと腰を上げた。
意識がないのか、地面に突っ伏している央流術者の上から。
白夜は視線を如月の顔に定めた。
「……なんでこいつが倒れてる?」
そう、予想していたのは全く逆、正反対の光景だった。
痛手を受けて倒れているのはこの央流術者ではなく、一般人の如月の方だろうと思っていたのだ。
彼は困ったように微笑んだ。
「その人がいきなり財布を奪おうとしてきたんですよ。でも取られても困るんですよね、ただでさえ金欠なのに」
「いや、そうじゃなくてだな」
理由ではなく手段……と聞こうとした白夜に、
「正当防衛でちょっと首に回し蹴り入れただけですよ」
如月は背を向けた。すらりとした長い足は、確かに蹴りには向いていそうだったが……。
まだ追及し足りない点もあったが、白夜はその実、顔を合わせたときから気になっていたことを尋ねた。
「あんた身長いくつだよ」
「…はい?」
「いいから」
「……、ええと…、いくつだったか……175以上はあったとは思いますが……」
如月は鞄の中をごそごそと何やら探しているようだ。
一方白夜は目を伏せたまま、突っ立っていた。彼の身長は170にも達していないのである。
それは彼の秘かなコンプレックスであり、それ故自分より背の高い人間を見ると腹が立った。
「ああ……桴海君小さいですもんね、大丈夫ですよ、二十歳までは伸びますよ……、あ、あったあった」
あっさりとした如月の言葉がぐさりと脳天に突き刺さる。
彼は大きめの箱を持って、白夜の方へ振り返った。
「これ、チョコレート菓子なんですが、桴海君良かったらどうぞ」








「…ねぇ、なんで白夜さんがそれ食べてんの」
髪や皮膚のところどころが焼け焦げた陽炎が戻ってきてからの第一声はそれだった。
すっかり日が暮れ、焚き火を作っている如月の横で、白夜が無言でロールケーキを口に頬張っている。
「ああ、陽炎君お疲れさまです」
「……はい」
「チョコレート菓子、桴海君が甘い物は好きだと言うので差し上げてしまったのですが……やはり…」
「いえ、それは別に全然かまやしないんですけど」
妙な誤解を生む前に言葉を遮る。
如月は大して気にした様子もなく「そうですか」と言うと、陽炎を手招きした。
彼自身の隣を示して、座るように告げる。
「…?」
訝しげな顔をしている陽炎に、彼は苦笑して鞄の中から救急セットを持ち出して見せた。
「あ……」
「俺はどうも言葉が足りないようですね。以前もセクハラと言われそうになりましたし」
如月の言葉に陽炎は思わず噴き出しそうになった。
術を発動させるコツと教えてもらう際、不意に胸に手を当てられて、そう叫びかけたのを思い出したのだ。
「……あ…のときは大変失礼しました」
「いえ、本当に俺は昔から言葉が足りないとよく言われていたんですよ。
 ……あ、すみません桴海君、食べ終わったのならちょっとそこにある材料切っておいてください」
焚き火の傍には、木製のまな板が置いてあり、その上に材料がごろごろと乗っていた。
白夜は特に反論もせずに、そのまな板ごと自分の方にたぐり寄せた。
彼の横には空っぽの箱。
(…全部食べたってことか……)
たてよこ30センチはあったであろう正方形の箱に詰められていた菓子を全部。
しかもいずれも濃厚なチョコレートが用いられていたであろうものをだ。
よく鼻血の一つも出ないものだと陽炎は妙なところで感心してしまった。
「…どうでした?勝負の方は」
と、如月。
陽炎は意識をチョコレートから正面の人物へと戻した。
彼はさすがに十年も旅をしているとあって、慣れた手付きで陽炎が負った傷を手当てしている。
「一応…勝てました。あんまりぱっとしなかったけど」
「それはよかった。いいんですよ、そんな最初から術を使いこなせる人なんていないんですから」
如月の言葉は純粋に心を慰めたが、その心の奥底には燻るものがあった。
そしてそれはいつでも、陽炎の心を縛り付ける鎖でもある。
「……陽炎君?」
どうかなさいましたか?と、問う声。
カボチャの皮を削ぎ落としていた白夜の視線もいつのまにかこちらを向いている。
そして思う。どうやら俺は考えていることが顔に出やすいらしい、と。
打算が働く。目の前にいる青年は十年旅をしているのだから、情報を持っている確率が高いのではないかと。
「如月さん、」
これは知っていたら良いな、というような軽い気持ちではない。
もっと汚れた、粘ついた何かだ。
「楼闇術者って知らない?」
このとき陽炎が学ばなければいけなかったことは、世の中には自分と正反対の人間もいるということだ。
如月は申し訳なさそうに微笑んだ。
「存じてます。が、世間の方々と懸け離れたような情報は持ってませんね。何故です?」
「ちょっと訳あって探してるんだ」
「訳って、嗚森に落ちてた腕のことか?」
と、白夜。
「腕?」と聞き返した如月に、彼は嗚森に人間の腕が落ちていたことや楼闇術者らしき人影がいたことを簡単に説明した。
如月はゆっくりと瞬きをした。
改めて、陽炎は白夜の言葉を否定した。
「その件と俺が探してる理由は関係ないんだ」
「じゃあ何だって言うんだよ」
「殺してやりたいんだ」
一見絡み合ってこんがらがっている思考も言葉にしてしまえば簡単なことで。
淡々と吐き出された言葉には、ふざけた調子は全くなかった。
手当てしてもらった腕を引っ込めて「ありがとうございます」と言ってから、
同じ声色で「父さんを殺した連中をさ」と付け足す。
穏やかだった空間に爆弾を投下した自覚はあった。
世間話として扱うには、いささか過激で無防備だと言うことも。
「あ、そういえば如月さんは大丈夫だったんですよね?術者に何かされたりとかは」
陽炎は話を切り替えて、如月の顔を見た。
怪我一つないところを見ると、特に危害は加えられなかったのだろうとは思ったが。
如月もそれ以上追及するようなことは言わず、微笑んだ。
「ええ、桴海君に助けて頂いたおかげで大丈夫でしたよ」

それから如月は所用があるというので立ち去り、陽炎と白夜だけが残された。
食器に残っている食べ跡をキッチンペーパーで拭き取りながら、白夜が口を開く。
「なあ陽炎」
「なあに白夜さん」
「僕はお前のことなんてろくに知らねぇけどよ、お前が本気だってのは分かるさ、なんとなくな」
「そう」
陽炎は膝に顔を半分埋めたまま、地面を歩く蟻を見つめた。
手は伸ばさないけれど、それは、指一本で消えてしまうような儚い命の小さな小さな塊だ。
そう考えて、違う、とすぐに否定する。
どんな命も所詮儚いものだ。違うのは、器がどれだけ強靭か脆いかなのだ、と。
「殺されたから殺そうとするのが、判断として正しいのか正しくないのかなんて言うつもりはねぇけどよ、」
「止めるの?白夜さん」
「否…」
白夜は口籠った。彼は彼なりに、何処まで口を突っ込んでいいものか考えているのだろう。
「止めないでよ」
「…僕は身近な人間を失ったことなんてないからよ、お前にどうこう言えた義理じゃねぇよ」
体験していない人間が出来る事は、痛みを想像することだけだ。
「ただ、後悔するかもしれないぐらいならやめとけ」
「……」
「他に僕に言ってやれることはねぇよ」
そう言った白夜の眼差しを、陽炎は黙って受け止めた。
後悔など、あの日からずっと繰り返ししている。
今更、どんな後悔を重ねようと大した意味はないのだ。
ましてや、この復讐はもはや陽炎自身であり、自分がこれまで費やしてきた人生を否定するわけにはいかない。
(俺は前に進むだけだ)
たとえその方向が、間違っていたとしても。











「ねぇ、今どき自分の主人に絶対的な忠誠を誓える従者なんて、そうそういるもんじゃないよ」
君はそうは思わないかい?
と、男と表現するにはやや違和感のある若い青年が、自分を見下ろして笑う。
そして、右肩に走る激痛。思わず声を上げた。
「な、なにが目的なんだっ」
「強いて言うなら、そこにいるお嬢さんかな」
目を見開く。もう体を動かせる力も残っていないため、確認することは出来ないが、彼女はそこにいるのだろうか。
嗚呼、逃げてくださいと言ったはずなのに。
「だけれど、アポイントもなしにいきなりお嬢さんと面会するのは失礼かと思ってね。従者である君とこうしてお喋りしているわけだ」
「お、嬢様……」
「でも私も暇じゃないからさぁ、そろそろご対面を果たしてもいいかな、忠実な従者殿?」
不意に青年が手を伸ばしたかと思うと、ブチ、と低く潰れたような音がして。
口の中がすかすかし、鉄の味が広がった。
叫ぶことも許されず、強制的にお喋りは終了させられていた。

「あ、あ………」
話す言葉を忘れてしまったかのように、少女は後ずさる。
青年は従者の口から引っこ抜いた舌を地面に捨てると、ギチ、と手袋をはめ直した。
「そんな怯えなくとも、痛いことはしないよ」
愉しげな笑み。彼は散歩でもしているかのような歩調で、少女に近付く。
「実は今日、私は非番なんだけれどね、部下がどうしても手伝ってくれって言うものだからさ」
「こないで」
「おまけにノルマが『楊炎術者の素質25個』だとかで、それで後5個足りないんだってさ」
「こな」
「君、楊炎だろう?だから、貰ってもいいかい?」
少女はもう何も言えなくなっていた。
彼女の従者が気がついたら舌を持っていかれていたように、
彼女自身もいつのまにか、心臓を持ってかれていたのだから。

血の匂いが強く香る。

「……逃げ回ったところで、君も血の匂いがするんだよ、望」

暗闇で青年は一人、微笑んだ。