3.気配










「白夜さん、もう嫌な気配はしないの?」
自分の後に続いて歩いてきた白夜に、陽炎は唐突に尋ねた。
せっかく探していた人間の尻尾を掴みかけたというのに、目の前で逃すだなんて間が抜けているにもほどがある。
陽炎は自分の馬鹿さ加減を呪うかの如く、小さな笑い声を漏らした。
いくら不意打ちとはいえ、涙すら出ない。
「……おい、しっかりしろよ」
白夜の手が、陽炎の肩を掴む。
木々を掻き分けて行った先に突然広がっていた血の海に驚いていないはずもないだろうが、
彼は至って冷静に見えた。たとえ瞳の奥が、若干の不快さを映し出していても。
陽炎もぴたりと笑うのを止める。
「……ごめん、ちょっと動揺しちゃって」
「…まあな、こんなの見ちまったら動揺もするよな」
白夜の視線はそれ以外にも何が言いたげだ。
少々不気味に思われてしまったのだろうか、と陽炎はまた唇を歪ませそうになった。
だが旅の目的のためなら、多少興奮してしまっても仕方ないではないか。
「一応これは警察にでも連絡した方がいいんだろうな」
「そうだね」
白夜の真っ当な意見が滑稽に思えるほど、陽炎は警察を信用してなどいなかった。
(警察なんて所詮何もしてくれないんだから)
携帯片手に通話中の白夜を横目に、陽炎は先程踏んでしまった物体ーそれは人間の腕の肘から先の部分だったーを見下ろした。
近づいて手を伸ばせば、禍々しいと言わんばかりのオーラが初級術者である陽炎にも感じられた。
(多分、父さんにもこんなふうにオーラが染み付いていたんだろうな)
なんて憎らしい術者だろう。殺すだけでは飽き足らず、自分の存在まで残していくだなんて。
「終わったぜ。警察で後は勝手にするってよ」
「そう」
こんなところ、いつまでも居たいわけがない。
陽炎は「行こうよ。気分悪いよ」と、白夜の腕を引いて、ずんずんと森を突き進んだ。


「夜になっちゃったね」
結構なペースで進んだと思ったのだが、森の出口はなかなか遠いらしい。
陽炎はふぅ、と息を吐いて歩みを止めた。
空を見上げても、重なる枝に遮られ、満足に星すら探せない。
「もう暗いし、此処らで一泊しようぜ」
と、白夜。彼はぜぇぜぇと息を切らし、肩を上下させている。
陽炎は鞄の中から組み立て式テントを取り出すと、地面に置いたマットの上に広げた。
「白夜さん、意外と体力ないね」
確かに、昼間あの後随分と走り回ったりはしたのだが。
「体力なんてなぁ、気力でカバーすんだよ」
白夜は苦しい言い訳をしながら、陽炎のテントに入り込んだ。
その腕には、トッ○の抱き枕。
「…なにそれ」
「枕だろ」
「枕にしては、随分テント内の面積取る気がするんだけど……」
「細かいことは気にすんな」
白夜は抱き枕を腕の中に抱き込むと、これ以上ないほどの満足げな顔をした。
陽炎は掛ける言葉を見つけられず、テントの外を見上げた。
「…………雨は大丈夫かなあ」
「大丈夫だろ、天気予報じゃ当分晴れだってよここいらは」
「天気予報なんてよく見てるね。旅なんてしてるとテレビなんて見なくなっちゃうよ」
「仕事するのに天気をチェックするのは基本だからな」
「仕事?」
「…お前僕が用もないのにこんな遠路遥々旅してると思ってたのか」
「いやそれはさ、しょうがないじゃん、ねぇ?……なら何の仕事してんのさ白夜さん」
会話をしながらも、陽炎はまたもや空気がぐだぐだと弛んできているのを感じていた。
(この空気って、俺のせい?それとも白夜さんのせい?)
誰かと話していてこれほどぐだぐだになっていたことは、これまでにない。
もしかしたら釣り人のときも同じくらいぐだぐだしていたかもしれないが、
(陽炎から見て)彼はまだ清涼感が無駄に溢れていたような気がした。
「術で樹を治す医者みたいなもんだよ」
回復術は樹林術者の特権だ。
陽炎は「あー、なるほど」と半ば本気で感心した。
燃やすだけが脳の楊炎術者には真似出来ない仕事だ。
ふと思う。
(俺はこの旅が終わったら自分がどうなってるのかも分からない)
人生の目標なんて、あの日から一つきりしかなかった。
そのためだけの生きて来たのだ。
けれど、
「おい、もう寝たのか?」
「まだ起きてるよ」
「眠いんだったら遠慮せず言えよ。明かり消すから」
こうして誰かと一緒にいるのは嫌いではない、と思う自分は、間違っているのだろうか。









彼奴の気配が近い。
逃げれば逃げるほど追い詰められて行くようで。
しかし逃げなければ、俺は彼奴に追いつかれてしまう。
追いつかれたが最後、俺はあの頃のように少しずつ彼奴に侵蝕されてしまうだろう。
突き放せると思っていたならば、こうして逃げ回る必要などなかったのだから。








「白夜さん朝だよ、朝」
「後五分寝かせろ……」
「五分くらいならいいけどさ………」

「白夜さん、五分経ったよ」
「後十五分おまけしてくれ……」
「駄目駄目、さっき五分って言ったじゃん」
ほら起きた起きた、と陽炎は白夜が抱きしめている○ッポの抱き枕を取り上げた。
その瞬間、白夜が飛び起きて陽炎の腕の中の枕の端にしがみつく。
「頼む、それだけは取り上げないでやってくれ……」
「どんだけこの枕大事なのさ」
「ばかやろう、それ抽選で当てるのに何枚ハガキ送ったと思ってんだ」
「………」
陽炎は抱き枕をぱっと手放した。

「ねぇ白夜さん」
「あ?」
「誰かいるよそこの林に」
テントを鞄にしまい込んだ陽炎は、「あれ」と霧の向こうを指差して見せた。
まだ太陽が昇り切っていない所為か、昨日よりも深く感じられる霧の先にぼんやりと人影のようなものが滲んでいる。
白夜は寝癖でいっそう跳ねている毛先を手ぐしで撫で付けながら、「ああ」とぼやいた。
「あれはお前と同じ楊炎術者の類いだな。暑苦しいオーラがしてくらぁ」
「……暑苦しい……」
「本当ならあんまり相手したくないんだけどよ、相手やる気っぽいし、お前じゃ無理っぽいしな」
「なんで無理……」
同じ楊炎術者なら、やってみなければ分からないではないか。
それとも彼は、オーラの判別も出来ない程度の術者では、危なっかしくて見ていられないと言いたいのか。
事実、以前雷仁術者に追い回され、逃げ回っていた記憶もあったが、いつまでもそうしているわけにもいくまい。
陽炎は異論を込めた目で、白夜を見上げた。
白夜は、澄ました顔で相手を見据えている。
「確かに相手も中級雑魚で純粋に術で戦えばお前とどっこいどっこいだろうよ」
「なら」
「楊炎術者は体質的に火傷もしない。けどよ、勝敗を決するにはそれだけ肉弾戦に突入しやすくなるんだよ」
肉弾戦、という言葉にぎくりとする。
霧に薄らいでいる相手の姿は、少なくとも陽炎よりはずっと逞しく見える。
白夜の諭すような視線の意味を解して、陽炎はぐっと黙り込んだ。
(本当は、俺はもっともっと強くならなきゃいけないのに……)
苛立ちで胸の内側がざらつく。
強くなければ、殺しを楽しんでいる節のある楼闇術者を追うなんて真似が出来るはずもない。
それは分かっていたが、彼らのオーラを直に感じてしまった分、焦りのようなものが胸の奥に沈み込んでいた。
「……っ」
何処からか飛んで来た火の粉が、髪を掠める。
白夜の腕がすっと陽炎の前に置かれた。
「いいから下がってな。中級如きすぐ終わる」
なんて無力なのか。
そう言われてしまったら、頷くしかないではないか。下唇を噛み締める。
陽炎は視線を白夜、そして相手の術者にちらりと向けてから、一歩、もう一歩、と後退した。
歯痒い距離。
続けざまに投げつけられる火の玉を白夜は手のひらから発動させた蔓一振りで凌ぎ、一瞬にして相手との間合いを詰めた。
相手の男が、次の炎を繰り出す間もなくその腕を蔓草で縛り上げる。
勢いのまま男の胸に飛び膝蹴りをかまし、転倒した男の首を同様に生み出した蔓草で絞める。
蔓はしなやかな強靭さを持っていて、彼がどれほど力を入れても切れる様子はなく、みしみしと食い込んだ。
「ほら、さっさと降参して楽になっちまえよ」
男が敗北を認めるのを催促するように、彼は片手で首に巻き付かせている蔓をぐいぐいと引っ張った。
やがて、男の口から掠れた声が漏れ、白夜は上から退いた。
「ったく、こんな朝っぱらから無駄に粋がるのがわりぃんだよ」
男の財布から札束を数枚抜き取ると、それを陽炎の胸に押し付けた。
戸惑いを隠せぬ陽炎に、彼は鋭さを保っていた眼差しを緩ませた。
「大した金額じゃねぇし、それはお前にくれてやるよ、どうせ金あんまりないんだろ?」
「………うん」
白夜の言葉は図星だったが、旅をしていて困るほどではなかった。
母親からは定期的に銀行に仕送りがなされていたのだから。
……それはまるで、働いている奴隷へのご褒美を受け取っているような感覚で。
(ああ、俺って何なんだろう)
そう思ったところで、結局やることに変わりはないのだけれど。
母親同様、自分も『彼ら』を恨んでいるのだから。


太陽が南中まで辿り着いた頃、視界を遮っていた霧が色薄くなっていた。
出口と書かれた看板が地面に突き刺さっており、息を吐いた。
「よかったね白夜さん、どうにか無事ついたみたいだよ」
「ああ、再びお天道様が拝める日が来て僕ぁ嬉しいぜ」
ミーンミーンと蝉が鳴く。
太陽の強い日差しが二人を照りつけた。
森の中との温度差に、汗がどっと噴き出す。
白夜はハンカチで額を拭うと、さっさと日陰に避難した。
「陽炎、ちょっとそこの自販機でココア買ってきてくんねぇ?」
「自分で買ったらどうなの」
「僕は暑いのは駄目なんだどうも。お前平気みたいだし頼む」
「………………」
良いように使われている気がするのは気のせいなのだろうか。
だが事実平気な陽炎は、不服そうに「分かったよ」と了承すると、
太陽の下でとろけそうになっている自動販売機へと足を伸ばした。
(……100円っぽいけど、白夜さんには120円だったって言っとこう)
勝負の件とパシリの件は別だ。陽炎は自分の分を含め、財布から200円と取り出した。
けれど、自動販売機の前には人がいた。
白夜の白い髪に負けず劣らず珍しい、銀色の髪。
ひょろりと長い後ろ姿は、何処かで見覚えのあるような気がした。
何を買っているのか横から覗き込めば、『天然水』。
「……川の水でも汲んで飲めばいいじゃん」
世の中の天然水派の人間に喧嘩を売るような台詞をさらっと言うと、
がこん、と落ちてきたペットボトルを拾い上げながら釣り人は、
「たまには違う水も飲みたくなるんですよ」
と、言って立ち上がろうとした.が、よろけて自動販売機に手をついた。
どうしたのかと心配になって屈み込んだところ、
「暑くて頭がくらくらする」と釣り人が小さくぼやいているのが聞こえた。
どうやらこの釣り人は線の細そうな見かけ通り、それほど頑健ではないらしい。
近くで見た横顔には、奇麗に汗が一筋伝っていた。
「……日陰までお連れしましょうか?」
「いえ、……それには及びませんよ」
陽炎の申し出を断り、彼は緩やかに立ち上がった。
その顔を見上げて、ふと思う。
(……この人の方が白夜さんより大きいな)
見上げる首の角度がより急斜になっている。
陽炎とは頭一つ分ほど違うだろう。
釣り人は穏やかな微笑を浮かべた。
「どうも、お久しぶりです。珍しいですよ、旅の方と二度も顔を合わせるのは」
「釣り人さんはここいらでまた釣りでもしてたんですか?」
自動販売機に百円玉を投入する。
ココアのホットとアイスどちらにしようか指がさまよう。
(……暑いの苦手だって言ってたし、ホットにしようかな)
しばし迷ったが、さすがに露骨過ぎるか、と陽炎はアイスココアのボタンを押した。
がこん、と重たい音が自動販売機を揺らす。
その横では、釣り人が何やら鞄から大きな箱を取り出していた。
一見して、お菓子のようだが。
「…なんですかそれ」
「陽炎君はチョコレート菓子はお好きですかね」
「一応、人並みには好きですけど」
展開が読めてきた。
箱の中には、チョコワッフルチョコロールケーキチョコケーキ…etcと、
何故かチョコ尽くしのお菓子が詰まっていたのだ。
開封された跡もなく、一人で食べたら間違いなく気分が悪くなる量だ。
「…このくそ暑い時期にチョコレートフェアでもやってたんですか」
「大丈夫ですよ、クーラーボックスに入れておきましたから。全然溶けてません」
むしろ入れておいて大丈夫な物なのか心配になったが、この状況において問題なのはそこではない。
釣り人は穏やかな笑みを保ったまま、
「いえね、恋須賀街で歩いていたら困ってるおばあさんがいたので、少しお手伝いしたら頂いてしまって」
恋須賀街は地図によるとこの先の街である。
「ですが俺は甘い物を食べるとどうも気分が悪くなってしまうたちでして、よろしければどなたかに差し上げたいと思いまして」
陽炎は閉口した。
食料事情が決して安定していない旅の身としては是非とも貰っておきたいところだが、何せ物が物だ。
ましてやこの炎天下、日持ちするしない以前にこの箱の中身は危険である。
正直、遠慮したい。
しかし釣り人には、以前術を教えてもらった恩や魚を貰った恩があった。
(貰ってばかりで申し訳ないですよーと申し出を拒否するか、それとも大人しく貰っといてこの人を助けるという形をとるか……)
ぐるぐると二つの選択肢が脳内を入れ替わり立ち替わり回る回る。
と、そこに日陰で待っていたはずの青年の声。
「おい、何やってんだ?」
「白夜さん」
どうやら待ち切れずに歩いてきたらしい。
彼は胡散臭げに釣り人を見遣った。
「…こいつの知り合いか?」
声に険がある。
彼のココアを買って来るのが遅かったせいだろうか。
陽炎は白夜の顔を見上げてから釣り人の顔へ視線を移した。
釣り人は微笑んだ。
「ええ。まあ、とはいっても顔見知り程度ですが」
「本当か?陽炎」
「え?うん」
えっと……と釣り人を白夜に紹介しようとして戸惑う。
まだ名前を教えてもらっていなかったのである。
すると釣り人は陽炎の心情を読み取ったように、唇に笑みを乗せた。
「如月です。よろしくお願いします、術のお方」
「……あんた、術者か?」
白夜の眉がぴくりとつり上がった。
事実白夜は樹林術者だが、彼がそのような反応を示したのは如月からは術者のオーラがしなかったからだ。
術者のオーラは術者にしか感じ取れない。
「白夜さん、釣り人さん…じゃなくて如月さんは一般人だよ」
先程から妙に白夜は如月に突っかかっている。
陽炎は二人の間に割って入った。
背後で、如月が小さく笑う気配。
「いえ、陽炎君とご一緒していたので術のお方なのかと思いましてね。すみません」
謝りついでに、お名前をお窺いしてもよろしいですか?
と、如月。間で聞いていて、柔らかくて耳に心地よい声だ、と思った。
白夜を見上げると、彼は何処か渋い表情だ。
「桴海白夜だ」
「ふかい……いかだに海でよろしいんでしょうか」
「よく分かったな」
白夜は渋い顔を一転、少し驚いた顔をしている。
陽炎は、如月の方へ振り返ろうとして、目を見開いた。
突然、洪水をも思わせる濁流が、三人に襲いかかってきたのである。
「いてっ」
気がついたときには、白夜に抱えられ尻餅をついていた。
先程まで立っていたところには、高さ十メートルはあるだろう水の壁が出来ている。
「…央流と雷仁だな」
頭の上で白夜の声。
はた、と見上げると、彼は陽炎を地面にぺっと放り出した。
「お前その反応の遅さもう少しなんとかしろ。この間もそうだったけどよ」
嗚森で楼闇術者に不意打ちを食らったときの話だろう。
ムッとしかけたが、すぐに我に返った。
「白夜さん、如月さんは?」
「…向こうだろ」
彼が視線で示したのは、水の壁の更に向こう。
陽炎は正面から一人の術者が近付いてきているのを見て、立ち上がった。
術者は手のひらから、電気を放出している。
「ねぇ、術者って一般人を襲ったりはしないよね?」
つい今しがた、白夜は央流と雷仁と言っていた。
つまり、歩いてくる術者の他にもう一人いるはずなのだ。
白夜は、
「さあな。金さえ持ってれば、一般人だろうと術者だろうと襲う奴はいるからな」
「それって如月さんまずいってこと?」
術者を見る。
雷仁であれば、楊炎の陽炎が特に不利というわけではない。
そしておそらく、水の壁の先にいるのは央流術者…水の術者だ。
その水と火では、結果は火を見るより明らかである。
雷仁がこちらに来たのは、運が良かったともいえる。
陽炎は覚悟を決めた。
「白夜さん、如月さんの方に行ってあげて。俺は自分でどうにかするから」
術者とまともに対峙したことなどないが、いつかはやらねばならなかったことだ。
「……ああ、分かった」という白夜の返事を背中に受け、陽炎はじり、と自ら術者に近付いた。