2.青の記憶
あなた………
と、ひたすらぶつぶつ繰り返したり、
突然狂ったように笑い出し、泣き出すかあさんを眺めることが、
おれの日常となりつつあった。
存在を認識されているのかさえ危ういおれは、
一日の半分は黙々と床を拭いていた。
だってかあさんの涎ですぐ汚れるから。
ほら、言ったそばから床に顔を擦り付けてる。
とうさんは死んでしまったのだと。
あれから数年経って、いい加減におれは理解していた。
あれ、数年って何年だっけ。
もうずいぶん長い事、かあさんとふたりだけで暮らしてきたような気がする。
けれど家事の腕はまだ全然だめで、ああ、かあさんがまたバケツの水をこぼしてしまった。
おれはいつになったら、かあさんが足をひっかけない位置にバケツを置けるのだろう。
なんでそのくらいの気づかいができないんだろう。
「かあさん」
骨と皮だけの手首を引いて、かあさんのからだを起こす。
だけれど、ああ、やっぱり、
おれはかあさんをおこらせてしまったみたい。
かあさんはおれの髪を引っ張った。
ぶちぶちっといやなおとがした。
お腹のうえに膝でのしかかられて、
きいろっぽい液体がくちからこぼれた。
すこしだけあかい色が混じっていて、おれはとうさんを思い出した。
あんなに水たまりができるくらいだったんだもの。
とうさんはどれくらい苦しかったのだろう。
かあさんが蔑んだ目でおれをみている。
ああ、かあさんがおれを見たのはなんにちぶりだろう。
いつもはこうしておこっても、おれをみることはないから。
くちのなかが気持ちわるいよ。
でもかあさんがおこるのは、おれがいけないんだ。
わるいことをしたから、くるしいんだ。
あたまのなかが、ぐるぐるする。
ねぇ、とうさんはなぜそんなくるしいめにあったの?
なんで
なんで
「うふふぅぁはは楼闇術の連中のぉ頭がぁイかれてるぅからに決まってるじゃないぃい」
踏まれたあたまがみしみしいってる。
いたい、いたいよ
あたまが割れそうだ
「おい、大丈夫かよ」
肩を揺さぶる誰かの手。
陽炎はうっすらと眼を開けた。
視界に飛び込んできたのは、霧に覆われた森の木々とそれに混じらぬ翠の瞳と白い髪。
「此処、どこ」
「嗚森だ」
「嗚森?」
鈍い痛みを訴える頭を抱え、上半身を起こす。
覚えていないが、良くない夢を見ていたような気がする。
「なんで俺こんな森の中に……」
濃霧に包まれ、鬱蒼とした緑。湿った空気が、ひやりと肌に触れる。
地面の至る所には水たまりが出来ており、葉っぱには水滴が垂れている。
「……あなたは?森の精霊かなんか?」
自分を揺り起こした青年。やや童顔だが、真面目な顔をしていればなかなかシャープな印象だ。
ただ、普通とは異なる瞳と髪の色。この間の釣り人も、髪の色では引けを取らなかったが。
「馬鹿言え。僕は人間だ」
「……ですよね、森の精だったらそんな口悪くないですよね」
「……失礼なガキだな……」
自分でもそう思った。夢見が悪かったために苛ついているのだろうか。
陽炎は頭を振ると、「すいません」と一言謝罪した。
すると青年も途端に「いや……」とひるんだ。
頭が冴えてきて、少しずつ此処で倒れるまでの経緯を思い出す。
(そうだ、釣り人さんと別れてその後此処に入って、急に頭が痛くなったんだった……)
だが特に体調が悪かったわけでもない。頭痛は本当に急激なものだった。
そしていまも、鈍い痛みが頭部に残っている。
「なんだ、まだ調子でもわりぃのか」
顔色悪く黙り込んでしまった陽炎に、青年が声を掛ける。
彼は頭痛など感じている様子もなく、至って健康そうな顔をしている。
「……お兄さん、頭痛薬とか持ってない?」
「頭痛薬ぅ?んなもんねぇよ。お前頭が痛いのかよ」
眉間に皺を寄せた青年の手が陽炎の額に伸びる。
つっけんどんな口調とは裏腹に、その手は力強く、温かな情を持っていた。
「あ」
その手のひらが目の上で光を放つ。
驚いて身を引こうとしたが、その前に青年が手を引かせた。
「どうだよ、少しは良くなったか」
「…え、」
一瞬何のことかと思ったが、陽炎はすぐに思い当たった。
……頭の鈍い痛みが消えている。
陽炎は訝しげに青年を見た。
「お兄さん、何者?」
「ただの樹林術者。そんな意外そうな顔しないでも、お前だって僕と相性の悪い楊炎だろ」
「なんで」
「楊炎特有のオーラがうっとおしいくらい漂ってるからよ」
樹林術者といえば、回復系統の術を扱うと専ら有名だ。
だがオーラだけで何の術者か分かるには、相当の経験を要する。
事実、初級レベルである陽炎には、オーラは感じ取れてもその種類の特定までは出来ない。
陽炎は口を噤んだ。
「ありがとうございました」
そして一言、お礼だけ述べて立ち去ろうとしたが、袖を掴まれた。
頭痛を治した代わりに何か要求されるのかと、陽炎は恐る恐る顔を上げた。
だが青年は、その瞳をぎこちなく泳がせていた。
「あのよ」
「なんですか?」
「お前、倒れるまでこの森の中で迷ったりしたか?」
「?多分、迷ってないと思いますけど……」
蘇ってきた記憶では、森の中の道はいくらか分かれてはいたが、途中で引き返したりはしていない。
そう言った陽炎に、青年は揺るぎない視線を向けた。
射抜くような視線で、思わず何も悪くはないのにどきりとしてしまいそうな。
「なら頼みがある」
「さっき治療してくれた見返りにってことですか」
「そんなことはどーでもいいんだよ」
「へ」
「僕を街まで連れていってくれ」
陽炎はぽかんとした顔で「なんで?」と青年を見上げた。
何故自分のような旅の不慣れそうな子供に、彼のような経験豊富そうな術者が道案内を頼むのか。
すると青年は視線をあちこちさまよわせながら、渋い顔をした。
「なんでと聞かれてもだな、僕は此処に来るまでも相当迷ってたわけでだな」
「お兄さんもしかして、まい」
「ちょっと方向感覚に自信がないだけで迷子じゃないぜ」
「………」
陽炎は心の中で(……方向音痴ってやつか……)と呟き、口の端を引きつらせた。
「俺だって迷子にならないとは限らないですけど」
「僕はお前の勘を信じる」
「会ったばっかで信じないでほしいんですけど」
………妙な同伴者を連れて、陽炎は旅を再開した。
「お兄さん」
「……その呼び方出来ればやめてくんねぇか?ついでに敬語も。むずむずするから」
「だって名前知らないんです……んだけど」
「桴海白夜。いかだに海、白い夜。これでいいだろ」
「俺は日向陽炎で……す」
「名前そのまんまな顔だな。まあ、分かりやすくていいけどよ」
「白夜さん、こそ、分かりやすい頭じゃないで……じゃん」
言葉遣いに気を取られるおかげで、スムーズな会話が成り立っていない。
陽炎は頭を振ると、自分の中の妙な固定観念を投げ捨てようとした。
「ところでよ、この霧って年中こんな濃いのか?前がてんで見えねぇよだから迷うのも無理ねぇんだよな」
「俺だってこの森来たの初めてだから何とも言えないけど。白夜さんはここらの出身じゃないの?」
「僕はあっちの方だな……時条町って知らねぇか」
「知らない」
「まあ知るわけねぇよな」
じっとりとした空気に馴染むように、ぐだぐだした会話を繰り広げる。
色濃い霧に惑わされ、互いの距離すら曖昧で、靴の裏には苔のもどかしい感覚。
「ああ、ほんと湿気がすげぇな。髪がおもてぇよ」
「白夜さん見た感じすごいくせ毛だしね」
「しゃあねぇよ、こればっかりは生まれつきだ」
気にしている様子もないあっけらかんとした声色が横から聞こえてくる。
だがその声色が次の瞬間には低くなっていた。
「なぁ、お前が頭痛くなったのはこの森に入ってからって言ってたよな?陽炎」
「え、あ、うん」
「お前の感覚は大したもんだよ。僕も、この森に入ってからは妙に嫌な感じがする」
「え………」
彼の言葉に胸騒ぎに似た何かを感じて、陽炎は足を止めた。
白夜の視線が、陽炎に突き刺さる。否、正確には陽炎の背後に。
「わっ」
その瞬間、陽炎は白夜に腕を引っ張られてバランスを崩して倒れ込んだ。
ピッと頬を鋭い何かが切り裂いた。
赤い、血。
「逃がしたみたいだな」
耳許で白夜の呟き。彼の手のひらで幻のように消える蔓草。
心臓がけたたましく脈打っている。陽炎は嗄れた声で「…なにが」と尋ねた。
「楼闇術者、だろうな。……そんなに関わったことねぇから確実にとは言えねぇけど」
『楼闇術』。そのワードを聞いただけで、飛び出していた。
白夜の呼ぶ声も聞かないで、術者がいたと思われる茂みを掻き分ける。
全身の血液が昂っている。
まさかこんな旅を初めてすぐ、その単語を聞くとは思ってもいなかった。
異臭。ぐにゃりと踏んだ感触。
赤い肉から覗く白い骨のコントラスト。
懐かしささえ感じる水たまりに、自分の姿が映っていた。
漏れ出るアルコールの香り。
外では蝉がミーンミーンと鳴いていた。
家の中は、酷く寒かった。
かあさんは泣き叫んだ後は決まって大きな瓶を抱きかかえていた。
赤黒いものがごろごろ入っていて、それを液体が包み込んでいた。
かあさんはそれをとうさんと呼ぶ。
「かあさん、『それ』はとうさんじゃないんだよね?」
だっておれが話しかけても返事をしない。
とうさんだったらどんなに忙しくても、
どんなに病気で苦しくても返事をしてくれるはずなんだもの。
それにとうさんは死んだんだよ?
ばらばらになって、赤い水たまりに浮かんで。
かあさんは心底おかしそうにわらった。
「おかしな子ね。これはお父さんよ?」
ばらばらになってもお父さんはお父さんでしょ?とわらった。
それに、死んだらここにいるお父さんは何なの?とわらった。
死ぬってなんなの?
と、おれはかあさんに問いかけられた。透明過ぎる目で。
こわくておれは一歩後ずさった。
そんなのしらない。
だって返事をしてくれないんだもの。
遊んでもくれない。仕事にもいかない。
しんでる?いきてる?分かんないよ。
でもおれと話してくれないとうさんはとうさんなんかじゃないよ。
そんなのいきてるって言わないよ。
「陽炎はさびしいのね……」
そう言ったかあさんの目は、おれではなくどこか遠くを見ていた。
なんて、それはいつものことなのだけれど。
でもことばはおれに向けられているのに、こころは全然おれに向けられていないだなんて
ほんとうにおれってなんなのだろうと思ったりする。
ああ、なんだかかあさんと話しているとやっぱりあたまがぼわぼわしてくるんだ。いつも。
どうしてだろう、このにおいのせいかな。
病院みたいなあおいにおい。
かあさんの腕の中の瓶が、ごぽりと気泡をたてる。
「陽炎、陽炎は知りたくなァい?」
今日のかあさんはめずらしく饒舌。
いつもならこのくらいでなきだして、会話になんてならないんだ。
「お父さんはね、楼闇術者のせいでこんなことになってしまったのよ」
「ろうやみじゅつしゃってなんなの?」
何度かきいた単語。
にんげんなのか、ものなのかもわからないけれど。
「わるいひとたちよ、なんにもわるくないお父さんをこんなばらばらにしちゃったんだから」
そのひとたちのせいで、お父さんはあるけないのよ。
そのひとたちのせいで、お父さんははなせないのよ。
そのひとたちのせいで、お父さんはかおがないのよ。
そのひとたちのせいで、お父さんはふやけてるのよ。
そのひとたちのせいで、お父さんは
それがなんかい繰り返されたのだろう、
おれはかなしくてこわくて耳をふさごうとしたんだ。
かあさんの目は一度たりともまばたきをしようとはしなかった。濁った瞳。
なのにくちはわらいたいのかなきたいのか、歪んで、肩は小刻みにふるえはじめた。
「そのひとたちはつかまったんだよね?」
ああおれは必死にはなしをそらそうとした。
でもわるいひとならつかまらないわけないと思った。それはあたりまえだと思ってた。
けどかあさんはくぐもった声をもらした。
「いいえ、……つかまってないわ」
なんで?
ぼんやりとしたこえで、おれはそういった。
なんで?
喉の奥が引きつったようなこえで、おれはそういった。
だっておかしいじゃない
なんで
わるいひとたちなんでしょ
おれやかあさんから、とうさんをとったんでしょ?
とうさんをこんな瓶に押し込めたんでしょ?
おかしいよ
変だよ
そんなのやだよ
きもちわるいよ
なんで
なんで
ねえ
かあさん
とうさん
ぐちゃぐちゃと頬が濡れる。
やだ
やだ
やだ
とうさんをかえしてよ
もとにもどりたいよ
なんで
ひどいよ
こんなのひどいよ
「陽炎、世の中そういうふうにできてるものなのよ。しょうがないのよ」
追い打ちをかけるようなかあさんのことば。
でもそのひとたちのせいで、とうさんは、
そのひとたちのせいで、おれは…………っ
「いやだ、いやだよっっ」
なんで
なんで
なんでそんな勝手なの?
なんでそんな勝手にひとをめちゃくちゃにしておいて自由なの?
もっとくるしんでよ
ちゃんと罰を受けてよ
そんなひとたちを、どうして捕らえないの
「っおれが」
結局誰も彼もほかのひとの痛みには無関心で
ほかのひとのことはどうでもいいんでしょ
ほかのひとの抱える苦しみなんて、どうだっていいんでしょ
だったらおれは、自分でどうにかするしかなくて
「おれがそのひとたちを探し出すから……っ」
おれがそういったらかあさんは微笑んで、
とうさんがいなくなってからはじめておれを抱きしめたんだ。
「……本当?陽炎」
怒っていたくせに、おれは簡単に舞い上がって
この温もりを失いたくなくてなんどもなんどもうなずいた。
じぶんのことばの意味なんて、ろくにかんがえもしていなかった。
「本当なのね、陽炎……お父さんの敵を討ってくれるのね……お母さん、嬉しいわ」
肩を抱く力は、かあさんの細い腕からは想像もできないほど強くて、
肩の骨が砕けてしまうんじゃないかと……おれは思った。