05. H






私はいったい何だ。
記憶が故意的に政府によって植え付けられたものである上、この躯までもが正常の域を逸脱し、記憶と経験の不一致という異常を示し始めている。積み重なる再生からくる老朽化による柔軟性の低下、欠如。それとも脳に過重なストレスがかかったがために生じた結果なのか、今の私には知る由もない。ただ己の状況を客観的に考察することをこれほど苦痛だと思う日が来るとは予想だにしていなかった。否、そもそも私は私自身のことに関し考える必要等微塵もなかったのだ。それがあの青年が夢に出てきてから、…脳に埋め込まれたチップが機能し始めてから、否応無しに自分のことについて考えざるを得なくなった。だが彼は、何故そのようなものを。

「僕が君の脳を一部弄ったことを疑問に感じているようだね」Iは言う。

これが国民を相手に吐かれた言葉であれば、国民は権利を侵害されたと怒り狂うのだろう。ここ数百年の傾向、特徴として、国民は自分の権利を守ることばかりに熱意を注ぐようになった。快適な生活及び欠かせぬ快楽の享受、罪を犯した場合も所詮他者の権利を侵害しただけで自分には何の損害もないのだと言わんばかりで良心の呵責も感じず。そんな彼らに閉口することがないわけではないが、今回ばかりはその主張も正しい。
しかし生憎私は政府の駒であった。生き物である狗ですらない。かつてただの国民として暮らした時代もあったはずだが、”記憶”及び”記憶に裏打ちされた経験"のない私には人間としての権利を主張するということはまるで他人事で、自分には関係のないことに感じられていた。だが私は自身を駒であると理解しながらも何処かで人間であるということを信じていたらしい。でなければ現状でこうして混乱している理由が見つからない。私は自分が人間として欠陥があることに明らかに動揺していた。狂っているのかとさえ思っていたが、狂えるのは健全な精神が前提にあるとされる人間を初めとした真っ当な生物だけだ。私は傲慢にも自分を一人前とまではいかずとも、一人の人間として扱っていたのだ。権利も保障されぬ物でしかないにも関わらず。そうなれば、脳を弄られたところで反論することはままならない。私の憤りは的外れなものと化す。
だが現状を私の感情は持て余していた。犯罪者である市民感情を推し量る以外にそんなもの必要ないのだと知りながらも、私は未だ中途半端に人間気取りだった。自分がされたことに尚、理由を求めたがった。

「あなたは何故、そんなことをしたんです」
「言ったろう、青。僕は君の失敗作だと。僕は本物である君に焦がれ、どうにかして君に僕の存在について気付いて欲しいと思ったんだ」
「あなたの方法では手間がかかり過ぎている。そんなことをしなくとも、目の前に立たれればあなたの存在くらいには気付きます」
「僕は現実の君だけでなく、夢の中での君も独占したかったんだ」

彼はかあさん、と称したシステムから離れ、私の方に近づいてきた。Kのことが頭の隅にこびり付いていたのか、接近してきた存在に対し無意識のうちに足は後退し、逃れようとする。すると彼は髪を掻きむしるように唐突に頭を抱えた。大袈裟に嘆き悲しむような声色。

「あのKという男が憎らしいよ。彼は無知で何も知らないくせに君を汚そうとしたのだから」
「…性的被害者を汚されたと表現するのは不適切だとシステムからは教わらなかったのですか」

むしろIの演技がかった台詞回しをシステムが教えたことの方が驚きかもしれない。それとも、節回し自体は彼が独学で学習し得たものなのか。私の失敗作として廃棄された彼は随分と私とは違う人間に成長したようだった。
そしてそのこととは別に、私は彼にKを貶されるのはあまり気分が良くなかった。いくらあのような行為を働いた輩とはいえ、かつて私の友人…であったことに変わりはない。彼は確かに鈍いところもあったが、決して知能の低い男ではない。Iの言うところの無知はおそらく生命循環システムや私の記憶について何も知らぬことを指しているのであって、それは通常無知として非難される謂れのあることではない。誰にしろ不得意な分野というものはあるはずなのだ。

「だが彼が俗世の欲で君に触れようとしたのは事実だ」

…彼は私を好きだと言った。欲望に直結した好意は俗世間の垢に塗れた汚物なのだろうか。分からない。彼が私にそのような感情を抱いた理由も。優しくされるとつけ上がり、それが好意に発展する人間もいると耳にしたことはある。甘やかな優しさ…すなわち快感を欲するのは生物の基本だ。だが、私は彼に優しくなどした覚えはなかった。優しさという情に満ちた言葉や行為も、所詮受け手の感じ方一つである。私にとっては常識を持った人間が通常取り得る行動の範疇に含まれるものであっても、彼にとってはそれが何気ない優しさに感じられたのかもしれない。彼の感性は私のとは違う。
…Kに関して考察するのは後で良い。私はどうするべきか。これが現状最も悩ましい問題だった。
私は人間以下だ。なら何だ。機械でもない中途半端な。かつての私という存在は理不尽に踏みにじられ、消し去られ。…Hと記号で呼ばれるに相応しい駒だ。そうして呼ばれることにこれまでは納得していたのに、心に僅かな乱れが生じていることに気がつく。僅か?私は何か空虚な膜に包まれ始めていた。それは酷く平常なる感覚に類似していたが、極めて不快だった。強烈な喪失感が、私を襲っていた。沸々と込み上げつつある怒りよりも、そそとして迫り来る虚しさに眼をつぶる。
眼には見えないだけで、私の身体には使用期限のタグが縫い付けられているも同じだった。そしてバグが頻発し始めるのは、期限が近い証なのだ。曖昧なかたちで受け止めていた非人間性が、突如実像を浮かび上がらせてしがみついてくる。恐れ。私は何も分かってなどいなかったのだ。
これまでの私は過去、自分が人間であったという実感が徹底的に欠けていた。記憶があっても経験はなく。だからこそ何ら現状に疑問はなかった。けれど長年の歳月が育て上げたエラーなのだろうか。僅かな綻びから”H”という存在が解れてはくずれていくような感覚に囚われる。
バグが致命的なものとなったとき、私はどうなる?
現状の記憶が紛い物であると私は認識している。しかし記憶が確固たるものであると錯覚もしている。私の自我は矛盾した事柄を同等に信じ込んでいる。何故だ?記憶が更新された現状、それを紛い物と認識しているなら、何故未だに政府に植え付けられた記憶が正しいと思い込んでいる?修正されない?…それは、現状よりも前に、強烈な記憶修正をなされているからだ。そもそも切り取られたはずの記憶が蘇るということはまずない…私の過去の記憶はIによって再び、新たに植え付けられたものだ…私の脳には政府により拵えられた記憶が今なお執拗に居座っている。安易な自己暗示や現実では覆せない。事実上、洗脳された状態に等しい。そして、弄られたのが記憶だけとも限らない。
私は何をどうしたらいい、どうするべきなのだろう。気にせずこれまで通りの生活を続けろ?無理だ。けれど何もかも諦めてしまえば。私は自分を取り囲む状況を疎ましく思っているのだろうか?バグの一言で全てははっきりしたのだから、気は済んだのではないか?何ら疑問点や問題はないだろう、私は元々政府の駒なのだから。だが本当にそうなのだろうか。本当にそう割り切れているのなら、この憤りと恐怖はなんだ。致命的なバグが起ころうと、成るようになる?本当にそう考えているのか。…浮いては沈む思考についていけなくなる。徐々に振れ幅の大きくなる焦燥に、強い既視感が滲む。
焦り。喪失。不意に蘇る鮮烈な映像。…見殺しにして散り散りになった。
私自身が翻弄されるだけならまだ良かった。…けれど、私は己の幼馴染みを助けることも出来ず。この手で死刑台に送り出しさえした。
…切り取られては何も残らない、けれど何故思い出せなかった?記憶はなくとも感覚までもが、彼のことを忘れたわけではなかったろうに。形のない政府よりも、自分自身の愚かさを呪わずにはいられない。政府へ無条件に従う洗脳が仮になされていたとしても、もはや関係なかった。抜けることのない憤りが膨れ上がる。だが、行き場をなくした感情の宥め方など知らなかった。これまで知る必要もなかったのだ。
Iは言う。

「青の気持ちは分かるつもりだ」
「…何故そう思うんです」
「分かるさ。僕も、君の劣化体で人間扱いなんてされたことはないのだから」

だが所詮それも似て非なるものだとは口にしない。彼は私と同類かもしれなかった。…先日の事件で知ることになった森田もそうだったように。それでも、私は未だにIに対する警戒は解けずにいた。チップを埋め込んだ張本人とはいえ、彼はあまりに私が併合しやすい立場にあり、些か都合が良過ぎる感が否めなかったからだ。甘い言葉を吐かれてすぐさま彼に縋り付くほど、まだ冷静な判断力を失っているわけではないというよりは、誰も彼も信用出来ないという気持ちが強かった。事実、私には誰も信用出来る人間がいなかった。Iも、Kも司令も疑わしかった。
だからこそ、差し出された手を取ろうとは思えなかった。Iが肩を竦めて手を引っ込める。真面目な口調。

「青、僕と一緒に逃げよう」
「…逃げる?」
「此処を出て僕と何処かで暮らそう。大丈夫、国民を管理しているのはかあさん…システムだから。いくらでも誤摩化せる」

…もしも断れば彼はどうするのだろう。夢に出てきてまで愛を囁くくらいの青年だ。拒否しようものなら、システムによって生命を絶たれるかもしれない。しかし結城の最期を思えばそれも悪くないように思えた。今後政府の駒として一生を終えること、Iと逃げて今後を縛られるくらいならいっそ。

「…嫌だって顔をしているね」
「いまは誰も信用する気にならないだけです」
「それは残念だな」低い中年男性の声色。

私はその聞き覚えのある声の方へ振り返った。とてつもなく嫌な予感に駆られながら。

「司令」

額に突き付けられた銃口。ひやりとするほどではないが、情勢の悪化は見て取れた。何故彼が此処に。

「とうさんじゃないか」

…Iの一言で疑問はすぐに打ち消された。Iは発生方法は別としても、私の劣化体であるなら体の構造自体は類似しているはずだ。つまり人工物であるシステムの力だけでは養育は叶わない。だが、司令がその最低限の食料や衣服を調達する役回りを担っていると考えれば、彼が此処に居ることは驚くに値しない。

「…司令がそのような情に絆されるような方だとは存じ上げませんでした」
「上にお前のことは報告してある。バグ個体は速やかに処理しろとのことだ」
「なら何故そちらの彼は見逃しているんです?…仰ることが矛盾しているとは思いませんか」

この状況において挑発行為は命知らず以外の何物でもなかったが、聞かずにはいられなかった。すると司令は鼻で笑って、銃口をIに向けたかと思うと、その頭部を軽く吹き飛ばした。血飛沫とともに重たいものが床を転がる音が聞こえて、私は視点を宙に定めたまま、全身に悪寒が駆け抜けるのを感じた。…とても、足下を見下ろす気にはなれない。

「あれはまだ十年しか生きていない」

司令の落ち着き払った声色が耳を擦り抜ける。彼は上着に付いた返り血を拭いながら、淡々と話し続ける。

「だが年齢はお前とほぼ同じ程度に見えたろう。…老化の進行速度に異常が見られるのは更新個体としては致命的だ。効率が悪過ぎる」
「ならば何故」
「私があれを世話したのは、劣化体がどの程度生き延びられるかという個人的な興味があったからだ。しかしシステムや他個体に弊害を及ぼすようになったのだ、始末するほかあるまいよ」

あれはお前を抹殺するつもりでいたのだ、と彼は無表情のまま、転がる物体を踏みつぶした。本体が壁に凭れ掛かって倒れているところを見れば、彼がどの部分を踏み砕いているだなど想像するまでもなく、私は吐き気を堪えるのに必死だった。何故ならIは私の複製だったからだ。
私は目を意識的に背けたまま、拳を握りしめた。どうしてそこまでする必要がある?政府という曖昧な存在が、司令の姿に重なって目の前に立ちはだかるようだった。
再び、押し付けられる冷たさ。眼を見開いたまま、振り向けない。

「そしてお前も不具合が出てきた以上、処理しなければならん」
「私、は」
「何を聞かされたが知らないが、所詮は不良品の妄想だ。お前は成功かと思ったが、やはり年月が経つと問題も出てくる」

…何を言っているんだ?…司令は、なにを。
まるで私までもが更新個体…複製のような言い方、を、

「代わりならいくらでも作り出せる」