05. H







「ああ…来てくれたんだね」
彼は緩慢な仕草で立ち上がると、こちらに手を差し出した。気品に充ちた鮮やかで流れるような動作。私はその手を取る代わりに、彼の額に銃口を突きつける。鈍い、頭蓋骨の堅さ。…立体映像ではない。生身の身体。

「警戒しているんだね、青。可哀想に」

彼は驚いた様子もなく、優雅に微笑んで先を歩き出した。拳を握りしめ、後へと続く。彼は私を何処へ誘おうというのか。
システムのセキュリティは彼が施設内を歩き回っていても何の反応も示さない。それは彼が立体映像でない以上、部外者でないことを意味している。…無論彼が私の作り出した幻で、その触れた感覚でさえも偽りのものであったならば、システムが作動しないのも当然ではある。そしてこの私自身の存在もシステムという構築された世界も、もしかしたら此処にはいない別の私の空想でしかないのかもしれない。現実と夢の境目ほど曖昧なものはない。私が信じる現実も、全て夢で作られた紛い物なのかもしれない。ふとそんなことを思う。夢なら夢で早く醒めてしまえばいい。けれど夢にしては随分長いことこの世界に留まっていることになる。夢を現実だと思い込んでしまえるくらいには。だがもしこれが夢ならば、現実の私はいったいどんな人間だったのだろう。長居し過ぎて思い出すこともままならない。…けれど本当は思い出すことなどないのだ。私の意識がこれを現実だと本当は知っている(思い込んでいる)限りは。
現実。私はこれまでの人生できちんと一貫した記憶を持っていたつもりだったが、実はその記憶が偽物だった可能性が高い。
上書きされた記憶ということになるのか。罪人であったならばこうして今の仕事に就くこともないはずで、ならば何故記憶は改竄されたのか。私が私と思っていた人格は偽の記憶から派生したものであるからに、私はいつのまにか私でなくなっていたことになる。そもそも私は何故いま此処にいるのだろう。何故政府の人間になろうだなどと思ったのか。目指した覚えはあっても、なろうと思った理由は思い出せない。これが植え付けられた記憶だからか?現在の自分にはこの記憶しかないという感覚が根付いているというのに。他の記憶。他の人間。自分が以前他の人間だったなどと信じられるはずもない。なのに周囲の世界は私を白々しい目で見る。触れたことのあるはずのものが、他人の如き冷たさで私を拒絶する。お前の存在など知らないと告げる。そんなふうに突き放されてしまえば誰でも自分の記憶に違和感を感じ始めることだろう。何故違う記憶を埋め込むなら、周囲の情報もきちんと修正しておかなかったのだ。
でなければ私は違和感に気付くことなく、些細な違いも気のせいだと思い込んで生きていけただろうに。
元を辿れば前を歩く青年が夢に現れ始めたからこそ、私は自分の記憶に自信をなくしたのだ。彼は私を愛していると言った。私は彼を知らなかった。けれど愛していると言われた記憶は確かに私のものだった。記憶があって経験がない。まるで現在の私のような。つまりこの青年の存在も現在の私の記憶に即しているものであって、過去の私の記憶には存在しなかったもの…なのか。ならば何故彼は突然現れたのか。彼が現れさえしなければ、私は記憶の異変にも気付かなかったかもしれないというのに。

「…あなたは誰なんです」
「Iだよ」
「アイ?」

仄暗い室内。研究部署。培養器の中でごぽりと泡が浮かび上がる。出来損ないの赤ん坊がずらりと並んでいる。人工、生命。…やはり彼…Iもその部類の生命体なのか?だが何故人の死なない体制下でそんなものを造り出す必要が。

「それは違うよ、青」
「違う?…何が、」
「青、君は今の体制の生命の循環システムは知っているだろう?」

住民はある程度の年齢に達すると医療により子供にまで若返る。そのため仮想空間を設置すること並び非生殖手術を行なうことにより、本来発生するはずの子供の数を抑える。結果住民の数はそれほどまで変動せず、また新たな生命は生まれ難くなる。現在ある命だけで何世代も繰り返せるという寸法だ。基本は養子縁組で子供の取り替えを計る。未だに旧世代じみた考え方…妊娠を経て己の子を出産したいという酔狂な人々もいないわけではなく、その辺は微調整…一部淘汰が行なわれる。
もし若返りを拒絶したなら記憶又は存在を速やかに消去してやればよいことにもなっている。

「そう、だから政府も今更人口を増やそうだなんて考えちゃいない。ここ何百年そうしてきたのだからね」
「…」
「けれど何度も死と再生を繰り返し、少しずつだけれど老朽化が見られるようになってきた…科学は完全じゃないからね」
「…徐々に目には見えないスピードではあるものの、人々は確実に本物の死に近付いているということですか」

彼の指先が培養器を愛おしげに撫でる。

「そう、色々と体内外問わず取っ替え引っ替えしても、どうしてもガタがきてしまう…今の君のようにね」
「……それはどういう意味、なんです」

私は私のことを知らねばならないと思った。だが、この先を聞いてはならない、今すぐこの場から離れろと本能というべき何かが警鐘を鳴らしている。…否、本能は学習から生じるものであってつまりは、私の記憶が、現状は危険だと訴えている。だがいったい、”いつの私の”記憶なんだ。

「…分からない?いいや、分かるだろう?青なら」
「あ…なたの説明では私は何度も再生を繰り返した結果、死に近付いており、そのため記憶がおかしくなりつつあると」

…記憶…私がこれまで生きてきたように感じているのは一世代区切りの記憶であるにも関わらず、その前、本来なら消されているはずの再生前の記憶が現れてきている…ということなのか?それは以前の私が再生を望まなかったがために、強制的に記憶の抹消が行なわれたということでもあるが…。しかし現代の記憶消去技術は記憶というものに蓋して無いものとする、というものではなく、その記憶そのものを奇麗に削ぎ落としてしまうものである。したがって通常であれば再生前の記憶は再び植え付けられでもしない限り戻るわけはない。実際私には”以前の私の”記憶があるわけではない…違う、おかしいのは現在私が蓄積している記憶そのものである。現在の記憶と現実が噛み合わなくなっている…再生後である私の記憶そのものにズレが生じるのはやはりおかしい。
再生後…つまり私の脳には記憶と経験を一致させられないという異変が生じている。…これが彼…Iの言う老朽化の影響なのか?
だがそれで説明のつかないこともある。結城の存在だ。彼は私の知らない私”青”という存在を知っていた。彼は再生周期からいっても私と同年代のはずだ。私の再生前を青という人格だと仮定しても、彼の幼年期と年代が合わない。それとも彼は再生前の記憶を再生後の記憶と混線させた…勘違いしたのか。単純な消去のミスか?けれど彼の母親も。
…そして何故、

「気がついたかな?」

…Iは私を青と呼ぶのか。わざわざ再生前の呼称を使用するのはおかしい。
そもそもこのIという青年はいったい…何者なのだ。

「ここにいる彼らは現在に死に近付きつつある皆の後継であり、今この時間を生きている彼らと入れ替わる存在なんだ」
「…ダミーということですか?」
「いいや、ダミーなんかより遥かに精密で遥かに本物に勝る。素晴らしき優良個体とでもいうべきかな」

…ダミーがあくまでも本人個体に人工皮膚などを用いて作った紛い物であることに対し、これらは本人の遺伝子を用いたということか。ただ優良個体と言い切るのは、単に生体が若いことを示しているのか、…優生な遺伝子を混ぜ込んだことを意味するのか。どちらにせよ、現存している旧個体よりも生物としては優れた値を弾き出すことは間違いないのだろう。

「…入れ替わるとしても、記憶は移植するつもりですか」それとも。
「…いいや、今生きている人々の中には、何世代も繰り返し記憶を保持したままの者もいる。そういう人達の記憶はデータとしては重過ぎるからね」

やはり消すのか。だが強制的に生を終わらせるなどと有り得て良いはずがない。いくら種として同じ身体、同じ名前を与えられたとしても、それでは全くの別人だ。殺すなら何故同じ人間にする必要がある?否、多少は機能の向上した人間…。

「権利の侵害はあってはならない。…国民の命を政府が奪うなんてもってのほかだ。だから同じ国民を保つ。一度麻酔を打ち込んで再生する、それと同じことだよ。何も変わらない」
「しかし…!」
「意識がなければ自身が死んだとしても誰も分からない。記憶を保持していたいと願う者も、死んでしまえば憤りを感じることはない。否、死ぬのではなく別の身体で再生するだけともいえる」

彼の後ろ姿は私の目にとても冷ややかなものとして映る。

「…この中に私のダミー…否、更新個体もいると?何せあなた方のおっしゃるガタとやらがきている」
「…そう、君は残念ながら老朽化が進んでいる。君自身は記憶がないから知る由もないだろうけど、もう九再生目だからね」

大体平均七回を越すと少しずつ再生が不十分になっていくんだよ、とIは言う。一世代百年と見ても七百年か。実際は一世代八十歳程度と見て五百六十。約七百二十と言われてしまえば老朽化も納得せざるを得ないが。

「ただ君の場合は多少ケースが異なる」
「…?」
「君はね、更新個体を作り出すにあたっての実験の言わば第一号なんだ」
「…遺伝子を利用された初めての人間ということですか」

だが遺伝子を抜き取られた覚えなど皆目ない。記憶を弄られた…記憶と一致しない経験…青…。…私の現在の記憶は後から植え付けられたもの。

「分かったみたいだね、君はかつて青と呼ばれる人間だった」
「…結城」
「結城尚人は君のかつての幼馴染みだった。彼は君が実験台に選ばれたことを知り、政府を恨むようになった」
「…何故、私を」
「簡単な話さ。君は遺伝子的に優生だったんだよ。更新個体は優れていればいるほどいい。分かるだろう?」
「…結城は」


…結城は本当に私の所為で死んだのか。
あれは彼の思い込みでも、青という青年を重ねて見ていたわけでもなく。私は彼を、見殺しにした。

「君が望むのであれば、記憶を戻してあげよう」

Iの手が額に触れる。ぎちぎちと軋む脳内。記憶を、捩じ込まれている。









『青』
自分の手を引く柔らかな髪をもった少年の微笑み。


『ほら、出るなら傘くらい持ってけよ』
湿った草の匂い。母親に張られて痛む頬。覗き込む彼の大きな眼。
『…帰りたくない』
『青』
『分かってる。ちゃんと帰る。だから』
沈黙。ぐしゃりと彼の手が私の髪を撫でる。母でもなく父でもなく、唯一優しく触れてくれた手。穏やかで泣きそうな眼差し。 『…せっかくの雨だから、少し遠回りして帰ろう』



彼は私を家まで送り届けると、必ずこう言った。
『俺が大人だったら良かったのに』

『そしたらちゃんと青を守ってあげられるのにな』
守って欲しかったわけじゃない。けれど彼だけが、









「尚、人……!」
彼だけが私の味方だったはずなのに、何故忘れてしまえたのだろう。
私が覚えていさえすれば彼を救えたかもしれないというのに、私は彼を忘れ、殺した。
散々子供の頃に彼に助けられてばかりいたのに、いざ逆の立場となっても、彼を助けてやれなかった。
…ある日突然両親に見送られつつ知らぬ大人に連れていかれ、遺伝子を抉り取られて、私は全てを忘れてしまった。

「っ何故なんだ、何故私を選んだんだ……!」

優生な素質を持った人間なら他にいくらでもいたろう。どうして私を選んだんだ。他の誰かが選ばれていたならば、彼が死ぬことはなかった。彼は今も生きていられたはずだった!反逆罪などという罪を背負わずとも…。

「偶然だよ」
「…ぐ、うぜん…?」
「そう、他にも候補者はいたんだけどね。タイミング的にもちょうど良かったし、君のご両親の了承も簡単にいただけたからね」

ぽろ、と水滴が零れ落ちる。Iは私の目許を拭った。

「泣かないでくれ、青。君には僕がいるじゃないか」
「…あなたはいったい、何なんだ」

瞬きをすれば水の玉がぽろぽろと床に弾かれる。結城、結城…結城、尚人。考えたところで、どうにもならないのに。

「僕は君の失敗作さ。途中で放棄されて、そこをシステムに拾われた」
「システムに…?」

システムが意思を持ったとでもいうのか。そしてシステムは人間でもない彼を己と同類のように思った…そんなことが有り得るのか?
…そんな私の思考に反応したかのように、辺りは急に点滅し始める。まるでシステムが意思表示をしているかのような。…まさか、

「…システムの調子が悪かったのは」声が掠れる。
「僕が人の相手をしないように頼んだのさ。…ねえ母さん」

システムは嬉しげに点滅速度を速める。かあさん?…この青年が施設内を自由に出入り出来るのはシステムが彼を受け入れていたからなのか。だが、待て。よく考えてみろ。…この青年が私の更新個体の失敗作だとして、何故彼は私の夢に出て来ることが出来た?姿もなく声を聞かせることが可能だった?いくらシステムと言えど。

「それも簡単なことさ。君は一時期随分長いこと眠っていてね、その間に僕は君の脳に細工をしたんだ」

彼は指先で四角いチップを表現すると、不敵に微笑した。…私は遺伝子を抉るために利用され、長いこと眠りながら、政府に都合の良い記憶を植え付けられるだけでなくチップまで埋め込まれていたのか。…まるで人間扱いされていない。記憶も作られたものに過ぎず。…かつての友人さえ救えず。

「私は…」
…こうして生きている私は、果たして人間だといえるのだろうか?