05. H










夢が現実を侵蝕したのか。
それはすなわち私が完全に狂っていることを意味する。



次の日も変わらず、私は何十件何十人もの犯罪者を無罪放免で解放した。口先だけの反省に意味などないことを、他の部署の人間よりも遥かに私は理解していた。

「なあH…」
「なんでしょう」
「…昨日はその…」

悪かった、と彼もまた口先だけの謝罪を口にするつもりなのだろうか。分かっている。私の役回りは人々の反省や謝罪を邪推せず素直に受け止めることなのだと。彼らは心の底から反省しているのだと思い込むこと、信じ込むことであることを。だが、また犯罪者の中に本心から罪を償いたいと思っている人間がどれだけいることだろう。言い訳がましいことを心の奥底に抱えている人々が多いことも、私は理解している。そうして彼らの心を推量することが許されぬならば、何故私は此処にいるのだろう。何故彼らの相手をするのがコンピュータではないのだろう。彼らが人間を望んでいるから。人間同士ならば分かってくれるだろうと淡い期待を彼らが持っているから。彼らは自分の心を吐き出したい。楽になりたい。楽になって、そして帰っていく。私は彼らの供述を聴いて、彼らの出任せの反省を目出たいことのように処理して彼らを送り出す。中身だけコンピュータになっていても誰も気付きはしないのではないか。それらしいことを言ってさえいればよかった。適当に受け流していればよかった。なのに時折、私はやたらに考えて混乱する。愚劣極まりない。
…あの男のことも、結城のことも、そしてこのKがした行いも、全て忘却してしまえばいいものを。そうすれば誰も困ることはない。私自身余計なことを考えなくても済む。

「わるか」
「聞きたくありません」
「H!」

だけれどそう思ったところで何の意味もない。私は己の記憶を信じられずに狼狽えているのだから。失ったところで更にみっともない醜態を晒すだけだろう。私には成す術がない。何もかも虚構だ。私が信じ込んでいたことはいつのまにか刷り込まれていた出鱈目でしかない。
どうしたらいい。
私の記憶は…正しくない。そして明らかに現状は異常を来している。
Kの意味の分からぬ行為。あれこそバグとしか思えない。
彼の出現。私はとうとう気が狂ったらしい。
司令の見回り。あの先には何かがあるのか。…司令は彼、のことを知っているのか?
彼は…何故彼処にいた。偶然か。そもそも彼は物理的に存在している人間なのか?概念だけの錯覚なのか?私の夢に現れることが可能なのだから人間ではない…。やはり私の頭が、誇大妄想的な。いやしかし、司令の不審な行動は見落とせない。彼までが私の幻覚だとは思えない。もしそうだとしたら、私の目に映る何もかもが、まやかしということに成り得るではないか。冗談ではない。Kの気違いじみた行動でさえ私の妄想ということになるではないか。

「…放してください」

腕を掴まれた。これが幻覚ならどれだけ不幸でどれだけ良かったことか!私は彼の腕を振りほどき、振り返りもせず常日頃は全く縁のないエリアへと足を踏み入れた。…昨日司令が見回りに来ていた地。…彼が姿を現すかもしれない場所。

「この先は俺たちには関係ないぞ」Hは言う。どうして放っておいてくれない。
「あなたはこの先に何があるのか知っているのですか」
「いや…詳しくは知らないけど、よく司令が出入りしているのは見るから」
「…司令が?」

…この先は施設内でも全く毛色の異なる研究分野、科学班の担当である。犯罪者の取締をする我々とは一線を記している。何故そこに司令が出入りしているのか。友人だの恋人だのがいるとでも言うのだろうか。…司令は妻帯者だ。後者はまずない…愛人…だとしたらもう少し人目を憚るはずだ。…彼。得体の知れない研究班。人工生命?…いくら想像とはいえ悪趣味にもほどがある。この人が循環して溢れ返っている世界で人工で命を生み出す必要性がどこにある。

「…H?」

…兎角今はKがいて行動がままならない。出直すべきだ。







『君を愛しているんだ』
怖気が走る。悪夢だ。布団を押しのけて顔を覆う。愛。…重過ぎて吐き気がする。
私の精神が未熟なのか、夢の中の彼の異常性がそうさせるのか、自分に他者の関心が向けられているかと思うとたちまち息苦しくなる。疎ましい。重たい。余所を向け。私に構うな。何故そう思うのか分からない。私は自分自身が、ないからなのか。

「…怖がらなくて良い、別に僕は君に危害を加えたりしない」

…ドア越しの声。…其処にいるのか。

「君が混乱していると思ってね。会いに来てしまったのさ」
「私は、…毎日平凡に過ごしていければそれで良かったのに」
「それは無理だよ。君は普通じゃないんだから」
「気が狂っているとでも言いたいんですか」

救いようもないほど狂っていれば、病棟に押し込まれるのも簡単だというのに。それを拒絶する感情がまだ正常に働いている。私は自分が狂っている確信がない。ただ正常である自信もない。

「狂っているわけじゃない。ただ君は少々ガタがきている」
「…ガタ?」まるで人を壊れかけた機械のように言うものだ。
「本来生じるはずのなかったズレが出来てしまった。…困ったものだね」

困りたいのはこちらの方だ。…この青年は私の幻覚だとしても、私の知らぬことを知っているのか?
私は布団の包まり直して、縮こまった。温度は適正なはずなのに寒い。精神的なものか?

「…そのズレというのは記憶のことですか」
「まあ…そうだね。自覚症状はそんなところだ」
「私は最終的にどうなるんです」なんだ。廃棄工場にでも回されるのか。…。
「君はどうなりたい?助かりたい、死にたい?」

死にたい、と考えたことはないのだが。私は単調な日々が送れればそれでいい。人々が求めるような刺激や興奮は必要ない。つまり、助かりたいのか。しかし助かると一言で言ったところで、このいかれた記憶はどうしようもない。抹消するのか?一からやり直すのか。…それでも私はまたズレを感じ始めルような気がしてならない。気持ちの悪いずれた感覚。合わない記憶。私がいた痕跡は私の知らない人間しか知らない。結城のような。彼の言っていたことが正しければ、私は。否定さえままならない。私は、結城を殺した。…彼の言うことが間違っているのなら。何故私は彼を思い出したくないと思うのだろう。そうだ私は彼のことを思い出したくないと思っている。私の処理される感情内に差し支えがあるからだ。

「私は、本当の記憶が欲しい」

思い出したくない。けれど思い出さなければ。私の記憶はあるのに、紛い物だ。…間違っている。修正されなければならない。
外れた現実。私はKを信頼出来ない。司令でさえも。私の認識は間違っていた。私の記憶も間違っている。信じられるものが欲しいのだ。その唯一、私の手を掠めるのが、…ドアの向こうにいる青年。夢と現実を跨ぐ歪な青年。

「…もし本当のことが知りたければ僕のもとへおいで」

待っているから。青年の声は遠ざかる。私は不可解な現実へ舞い戻る。









「H!」
Kが走り寄って来る。私は彼を蔑ろにする。彼は唇を噛み締め、私の腕を握りしめる。

「…許して欲しいとは言わないけど…」
「なら何が言いたいんです?」森田らの行為に触発されて、人を性欲の捌け口にしようとするなど。彼も犯罪者のようなものだ。
「…俺はお前のことが好きなんだよ」

…言い訳すらも、犯罪者同等の。私は彼の手を振り払う。同意の上でなければ性行為は成り立たない。それは単なる独り善がりに過ぎない。私は彼への信頼を喪失し、彼との関係を拒絶する。理性的に考えればそれほど大した損害はなかった。たかが性器を出し入れする行為だ。しかし感情的な観点から言えば、彼との性行為は非常に気分が悪かった。そうして不快感を感じた時点で一方的な暴力に他ならない。

「あなたを買い被っていたようです」

私は食堂へと向かい、うどんを注文して席につく。栄養食品でも私自身は全くかまわなかったが、それでは食堂に寄る理由がなくなる。

「隣、良いですか?」

私は司令の隣に腰を下ろした。彼には聞きたいことがあった。
司令は私を一瞥しただけで何も言わない。

「…司令は科学班の方々と交流がお有りなんですか」
「…いいや、向こうには見回りでしか行かないな」

…Kは司令を何度か見掛けたと言っていたが、それも見回りでしかない可能性も否定は出来ない。
……だがもしも、司令が彼、のことを知っていたならば。

「彼はいつもああして外をうろついているのですか」
「何のことだ?」
「ご存じないですか?…見回りに行っていると聞いたものですから…失礼しました」

…字面だけ読み取れば素っ気のない反応だが、司令の顔色は僅かに動いた。…司令は彼を知っているのか。視線の動き…何か誤摩化そうとしている。だが何故知らぬ振りをするのか。彼との関係を知られたくないのか?

「…H」
「はい?」
「お前また最近調子が悪いらしいな」
「…いえ、そんなことは」
「Kが心配していたぞ」

…何を言ったんだ。私は知らず知らずのうちに眉を寄せていたらしい、司令はそれを図星を取ったのか、わざとらしく顔を顰めた。

「ウイルスがまだ治りきっていないんじゃないのか?」
「ご心配おかけしますが、問題ありません」
「そうか?ならいいが……」

あまり酷いようだと廃棄処分も検討しなければならないからな。と、彼が小声で続けたのが聞こえて、私は悪寒を感じた。…病原体に対して抵抗力の弱い駒はあっさりと捨てられる。分かってはいても、いざ聞かれて平気でいられるほど、私は落ち着いていない。ましてや、このような私自身の存在が希薄なときに。
私はいったいなんなんだ。…駄目だ、落ち着かなくては。

「司令は私の経歴や身元はご存知なのでしょう」
「…?当たり前だろう」上司が部下を把握しているのは基本だ。
「…私の経歴は本当に正しいのですか」

分かっている。これは聞いてはならない質問だったのだ。彼は私の廃棄を念頭に入れている。こんな質問をしてしまえば、彼は私の正常な判断力さえも疑うだろう。けれど聞かずにはいられなかった。私の記憶が間違っているのであれば、いったい何故、いつから間違っている?私はいつからおかしくなったのか。何が私は何故。落ち着け。
司令は露骨に顔を顰めたままこう言った。

「…気が狂っている(バグだ)と思われるぞ」

まるで憐れむような。侮蔑するかのような眼差し。思考にどろりとした黒い油が混じる。落ち着かなければ。駄目だ、私は、…これでは…。沸々と燻る思考。駄目だ落ち着けと感情に命令しているのに…!

「っ私は狂ってなどいない!ただ記憶がおかしいだけで…!」
「それを狂っているというんだ」
「司令…!」

何故だ。何故私はおかしくなった。どうして私の記憶は合わないんだ。私は誰の記憶を抱えているんだ。
私は幻覚を見ているのか?こうして司令と話していても、本当は司令は違うことを言っていて、私の耳がおかしくなっているだけなのかもしれない。私は彼の言葉を勝手に歪曲して受け取り、一人激昂して脈絡もない行動を繰り返している人間なのかもしれない。

「そんなふうに取り乱すこと自体、我々にはあってはならないことだ。それで冷静に犯罪者と向き合えるのか?」
「……ッ」

分からない。以前までの私がどうやって彼らと接していたのか。
彼らと向き合うたびに、私は自分自身の中の欠落を突きつけられるかのような錯覚に囚われる。あれが足りない。これが足りない。記憶と違う。違和感が脳裏を掠める。以前まではそんなことはなかった。私は義務的に仕事を処理していただけだった。それが夢に彼が現れ始めてから、現実も微かにだが傾いていった。私は違和感を意識した。一度意識してしまえば、それは仄かな薄色の不安となって思考の裏に常に付きまとった。

「上には報告する。二度とそういうことは言うな」

司令はそう言ったきり、席を立った。一人残された私は、顔を覆う。私は取り乱していた。滅茶苦茶だった。これまで押さえつけてきたものが、突然ぼろぼろと崩れ落ちてきたかのようだった。深く考えてしまえば、不安に取り憑かれることなど分かり切っていたことだろうに。私には自己を保つ術がない。記憶がなければ自己を自己だと証明するものは何もないのだ。残されるのは空虚な器のみ。

『青』

彼の声。頭のおかしくなったらしい私は幻影の彼に縋るしかなかった。彼が本当に、私のことを知っているのなら。