04. A vague border, the erosion of the illusion








「セイ」







心臓の鼓動が速まる。真っ白い世界。影など何処にも見当たらない。まるで己の本質を奪われたかのように足下が定まらない。透き通るような彼の背に手を伸ばす。彼は笑って振り返る。知りもしない顔が私の名を呼ぶ。そして私も彼の名を呼ぶ。知りもしない彼の名前を。
崩れ落ちる。雪融けの予感にぞわりと総毛立つ。世界が欠けて黒が滲む。私が追い求めていたもの。
消失する。

「羽生君」

偽りの名前を呼ばれて安堵する。本物の名前はしっくりこないから捨てた。
額を撫でられる感覚。何故なのかひどく落ち着いてひどく泣きそうになって夢見の悪さを思い出す。たかが夢に動揺したところで仕方がないだろうに…子供でもあるまいし。そう思いながら現状に眼を向けて、これまたどうしようかと考える。夢も現実も最悪だ。撃たれたと思った首は繋がっている。

「心配しなくてもいい。あれは最小型の麻酔銃だからね。大きな穴なんて空きっこないよ」

森田は朗らかに微笑む。私はKの姿を探し視線を彷徨わせた。森田はそんな私の意思を見て取ったのか壁の向こうを指差した。

「彼なら隣の部屋で眠っているよ。当分目覚めそうにないから、援護は期待出来ないだろうね」
「何故殺さないんです」
「私は人を殺すことは好きではないんだ。だから仕事もやめた。人には優しくするべきだよ」

そう、この男は私を撃つ前にとあることを宣っていた。しかし彼が過去において政府の人間であったとしたら、システムや私に直接話を持ちかけた司令が知らぬわけはない。本当に知らなかったのか。知っていて敢えて黙っていた又は言ったところで何の意味もないと思ったか。元々がどうであれ現在はただの国民に過ぎないと。けれどそれが捕獲において大きな狂いを生じさせるということくらい、容易に想定出来たはずだ。任務は見張りであって捕獲ではない。言い逃れ。今回のように内容が見張りから捕獲に移行することは決して有り得ないことではないどころか十二分に有り得た展開だ。
ならば何故司令は沈黙を保っていたのか。それがまず一つの疑問。
次に…森田は何をもってして周囲の取り巻きを支配するに至ったか。
政府の人間だということを明かした?だが国民の中にはそうした国家権力というものを疎ましく思う者もいるだろう。必ずしも効果的ではない。それとも逆に、森田に群がっているのは…あれは権力に心酔する人間の集まりなのか。しかしそのような連中が現体制に反逆を目論むだろうか。現体制に嫌気が差した?否、自分たちが権力の中心に立とうとした?森田が企んでいるのは反逆ではなくクーデターなのか?だが…考え過ぎだろうか。
無謀だ。
それに政府は、辞めようとしたところで辞めさせないはずだ。使い捨ての駒は使えなくなるまで使わねば損なのだから。駒は価値がなくなって初めて、解放される。

「羽生君、君は疑問に思っているようだね。何故私が政府を辞めて普通の生活をしていられるのか」

そもそも何故彼は私の名前を知っているんだ。Kが教えたのか。

「そして今君は、私が何故君の名前を知っているのか疑問に思っている」
「!」

馬鹿な。思考を読まれたのか?

森田がずい、と顔を近づけてくる。動揺が引かない。しかし思考が読まれる…読むなど不可能だ。システムであっても脳波から感情の波を読み取るのが限界なのだ。それが人間でしかない森田に出来るはずが。偶然か性格から推測したのか。人の思考パターンなどそう何種類もない。数が多くとも重複すれば同じこと。森田は私を動揺させるために思考を読んだ振りをしただけなのか?

「私は君を『動揺させるために思考を読んだ振りをしただけ』、というわけではないよ」
「…」
「君の名前はそう…K君かな?彼の思考から聞いた。彼は心の中では君を羽生君という一人の人間として見てくれているのに、君は彼をKという記号の人間としか見ていないようだね」
「私に…H以外の名前はない。羽生は国民…犯罪者の感情を考慮してつけられた偽名です」
「偽名であっても記号で呼ばれるよりは遥かに良いとは思わないかな。羽生君」

いや、と森田が言葉を濁す。その瞬間、何故か私はとてつもなく嫌な予感に駆られる。


「羽生君ではなく、せ…」
「ッその名前で呼ぶな!」


取り乱した。
駄目だ、落ち着かなければ、落ち着かなければ落ち着かなければ。深く考えては、駄目だ。読まれているのならこれほど馬鹿らしいこともない。私が、わたしが……
私は狼狽えている。おそらく傍から見て憐れを催すほどに狼狽えている。でなければ森田が私の肩を押さえる理由がない。ああしかし彼のことだから私の思考を読んだとも……この体裁すら成していないみっともない思考を。

「落ち着きなさい、羽生君」
「…」

息が引き攣る。過呼吸を起こしかけている。呼吸数を減らさなければならない。…なんて軟弱なのか。たかだか他者の言動に動揺するなどと。…心臓の鼓動が速まる。…だめだ…思い出しては、駄目だ。
(………私はいつまで自分を誤摩化していられるのだろう?)

「…私が政府を辞められた理由を教えよう」
「…」
「私はね、一時期頭がおかしくなってしまったんだよ。それで精神病院に送られて、治療を受け今に至っている」
「…?」

…森田の手が慈しむように私の頬を撫でる。まるで子供扱いだと思ったことを私はよくよく覚えている。
いや、むしろそれは、

「そもそも私は初めから人の思考が読めたわけじゃない、私は……」
「H、伏せろ!」

けたたましい銃撃音。目の前で森田の身体が破裂する。
視界に映るKの姿。赤い飛沫。









…むしろそれは、己が同類を憐れむかのような。









「…何故彼を撃ったんです?」
役所に戻り、事務処理をしながら私はKに尋ねた。黄昏れ時を過ぎ、役所内は森閑としている。
森田は死亡した。彼が本当に反逆を企てていたのかは不明なまま今回の件は処理されることとなった。

「…何故彼を撃ったんです?」

返事をしない彼に私はもう一度同じことを尋ねた。森田に私を殺す気はなかった。彼は私に何か大事なことを言おうとしていた。別にKの判断を責めようと思っているわけではない。私が彼の立場でも森田を撃ったろう。彼は反逆罪に問われていた。反逆罪は死刑である。ならば何故そんなことを問うているのかと自分自身疑問に思う。ただそう、彼のタイミングが非常にまずかったということに尽きるかもしれない。森田は優しく不気味な男だった。彼の能力について私は興味があった。それどころか、知らなければならないと頭の中で警鐘が鳴り響いてさえいた。
Kは私の後ろで立ち尽くしている。彼は戻って来てから妙に静かだった。薬が効いているのなら寝ていた方が良いと言ったにも関わらず聞こうとはしなかった。森田を殺してしまったことに罪の意識を感じているのだろうか。森田は反逆罪に問われていた男なのだ、そんなことを気にする必要はないと私は彼に言い聞かせる。同時に自分に言い聞かせる。…苦い。Kはこの仕事をしているわりに人間臭い男だと思う。私たちに求められているのは人間にしか出来ぬ細やかな対応と犯罪者を整理する非人間性だというのに。私自身彼のことを言える立場ではないのかもしれないが。
シャットダウンする。私が振り返るとKはびくついた。…なんだ?Kは動揺している。

「どうしたんです?」

彼と一緒にいて私が一方的に話しているのは珍しいことだ。普段は思わず払いのけたくなるほど彼ばかりがよく喋る。時刻は二十一時半。そろそろ自室に引き上げ時だ。彼を自室まで送り届けた方が良いのだろうか。このままでは夢遊病患者の如くうろつき回っているような気がする。私は立ち上がり、椅子を机に戻そうとした。
そのときだ、彼の様子は豹変したのは。

「っ…!?」

不意に肩を押されて、よろめいて再び椅子に腰掛ける。その椅子の肘掛けに彼が両手を置いた。軋む。見下ろされるような体勢となり、私は唖然とした。唖然としたまま、彼の様子を見守っていた。おそらく彼は何か意思表示したいことがあるのだろうと思ったわけだが。

「なあH…なんで逃げないんだ?」
「逃げるも何もまだ何もされていません」
「そんなこと言って、逃げたくなったときに逃げられなくなってたらどうするんだよ」

彼の言い分は解せない。私は犯罪者相手ならまだしも同僚であるKを前に逃げる必要性を感じないだけである。彼とて自身と犯罪者を一緒くたにしているわけではないだろう。特に彼の行動が読み難いのは今に始まったことではないし、それで再起不能な被害を受けた覚えもない。
Kの手が頬に触れる。森田にされたようにあまり気分の良いものではない。

「こうして触れられて嫌じゃないのか?」
「あまり気分の良いものではないのは確かですが」

露骨に拒絶するほどの嫌悪感があるわけではない。逆に嬉しいわけでもないのだけれど。
Kの視線を至近距離に感じる。彼はこんなことをして楽しいのだろうか。人肌は安心を与えると何かの説で聞いたこともあるが。そんなことをぼんやりと考えていると、彼の顔が先程よりも近くにあった。その行為の意味することを知って思わず彼を押し返す。

「そういった行為がしたければ仮想空間に行ったほうが良いと思いますよ」

差別的なものは感じないが、さすがにそういうものを同僚と交わす趣味はない。同じ触れるにしても常識的な意味合いが異なる。そう言うと、彼は顔を顰めた。多少罪悪感もないわけではなかったが、私は席を立った。いい加減自室に戻らないと明日に響く。
しかしその瞬間、強い力に引っ張られ、仮眠用のベッドに引き倒された。上から彼が覆い被さって、大きな影を作る。このとき漸く私は気味の悪さのようなものを感じた。恐怖、と言っても良いのか。それはとても本能的なものだったろう。今は己の身を守る銃も所持していない。何よりも、Kの思考は読み難く、私は彼の正気を計りかねた。
ただ彼の先程の歪められた表情を思い出し、逃れた方が懸命であるとは思った。
けれど。

「…逃げたくなったとき、逃げられなくなってたらどうするって言ったよな」
「ッ」腕を押さえつけられ、縫い付けられたかのように動かない。
「信頼されてるのかと思うと…いくらか気分の悪いものもあるんだけどな」

なんだこれは。
――ネクタイを引き抜かれる。
どうしてこんな展開になったんだ。
――腕が痛い。

「羽生…」

それは偽名で私は所詮一文字の記号であればいいというのに。
Kの手がシャツを捲り上げて脇腹に触れる。行為の生々しさに吐き気がする。悪寒。喉が引き攣る。嫌悪感。腕が痛い。生暖かい息。腕が痛い。ぬめった何かが首筋を這う感覚に喉の奥から悲鳴が漏れる。気持ち悪い。腕が痛い。気持ち悪い気持ち悪い腕が痛い。
耳許で”彼”が囁く。


『青…』


「――――っっ!」


何をどうしたのだろう。ただ彼の声を聞いた瞬間、言い知れぬ衝動が込み上げて来て、気がついたら私はKを置き去りにし役所の施設内でも奥まった場所へ逃げ込んでいた。全てが夢であったかのような感覚さえ覚えるが、おそらくそれは私の希望でしかない。私はネクタイを巻き直し、自室に戻る気にもなれずその場にしゃがみ込んだ。Kは何故突然あのような行為に及ぼうとしたのだろう。…分からない、もはや何もかも、…分からない。”彼”が、

「逃げて来たんだね」

かれが。
背後で彼の声がとてもクリアに聞こえたような気がして、己の耳を疑った。足音とともに、誰かの気配。…Kとは違う。

「…あなたは、いったい」振り返ろうとして、背後から両目を塞がれる。低い体温。
「まだ姿は見られたくない。でも警戒しないでいい…僕は君を汚したがる連中とは違う」

散々ウイルスを送りつけて一般市民を殺しているというのにか。

「…君のためだと言ったら?」

理解出来ない。微かに微笑む気配を感じ、寒気と何かが綯い交ぜになる。この男はいったい何なのだろう。此処にいるということは、彼はやはり…政府の人間なのだろうか。けれどただの人間であればこれまでのことが説明出来なくなる。

「大丈夫…僕は君の味方だよ」
「そんなことを言われたところで、」
「しっ、…君の上司が来たようだ」

彼の気配が離れる。妙な名残惜しさを感じて振り返れば、彼の姿は既に闇に消えていた。入れ替わるように、司令が姿を現す。司令は私を見て不審げな顔をしたが、それはお互い様だった。…この先に何かあるのか?

「H。こんなところで何をしている」
「この先に何かあるのですか?」

平静さを取り戻す。司令は肩を竦める。

「何を言ってる。この先にあるのは物置だけだ」
「なら司令はこんな時間にどちらへ?」
「私は見回りだ。…くだらないことを言っている暇があるならさっさと自室へ戻れ」

司令の口調は奇妙な冷たさと…後ろめたさを秘めているように感じられ、私は口を噤んだ。それが、私が人に対する不信感に取り付かれつつあるためなのか、実際に司令にとって知られてはまずいことがあるだろうと思ってしまったからなのか、分からない。ただこれまで、こうあるべきと思い込んできたものが実は錯覚に過ぎなかったのではないかという恐怖に、私は今頃になって気付き始めていた。