04. A vague border, the erosion of the illusion















木庭の部屋は旧世代の人間が暮らしているかのように雑然としていた。
システムを利用すればいくらでも無駄のない造りに変更出来るだろうに、木庭の部屋は無駄なものばかりが無造作に溢れ返っている。足の踏み場もないとはまさにこのことだ。玩具や鼻を嚼んだちり紙、切り刻まれた新聞やらゴミが氾濫し、中には腐った食べ物まで落ちている始末である。目的の木庭のPCまでは距離にしてみれば三メートルと大した距離ではないにも関わらず、辿り着くまでに数秒通常よりもロスしてしまった。後ろではKがバナナを踏んだと狼狽えている。
しゃがみこむスペースもないため、立ったまま木庭のPCを立ち上げる。薄暗い視界に濁った光が目映く、ようやく私は部屋の電気が点いていないことに気がついた。普段の仕事場では自然と点灯するため「点ける」という行為がなされないのである。

「K、電気を」
「了解だ…と、あ?」
「どうかしましたか?」
「H…どうやらこの部屋、システムそのものが通じてないみたいだぜ」

どういうことか。PCは通じているのに。電気回線からシステム機能への移行を行なわなかったのか?
…つまり、管理権が住民からシステムに移行していておらず、住民すなわち木庭が修理…この場合は電灯か…をしていないがためにPCは通じるが電気は点かない。…システムが便利であっても現状を変更することを面倒くさがる人間はいる。
仕方がない。部屋が薄暗いのを放置したまま、私はセキュリティのパスワードを打ち込んで木庭のPCに侵入した。ウイルスの痕跡は消去されたメール。…うんざりする。手筈は同じ。手法も、おそらく犯人も…同じ。共犯の可能性もあるが。どちらにせよ非人間的な。

「お、これ俺と同じ年代だな」

はしゃぐようなKの声にちらと振り向けば、彼に拾われたのは学生時代の卒業アルバムのようだった。開けば当時のクラスごとに電子映像が浮かび上がる。仄暗い部屋の中当時の表情ではにかむ映像は、幻想的でとても美しく、同時に背筋に怖気にも似たものが駆け抜けるのを感じた。ひどく…いやなよかん。記憶、アルバムには過去と云う記憶が押し込められている。Kが卒業したのと同年に、私も卒業している。

「やっぱり昔は若いよなあ。こんな姿で通ってたかと思うと…」
「ええ」胸が、ざらつく。
「なあお前は何処の学校だったんだ?学年は一緒なはずだから載ってるんだろ?」

載っているはずだ。私はKと同じ年に卒業した人間なのだから。それなのに私は恐れていた。何故か?何を?答えは簡単過ぎて、誰にでも予想が出来てしまうだろう。……”私は彼らと同じ時間を過ごさなかったかもしれない”。
…馬鹿な。けれどアルバムを見てしまえばその恐怖は消え去るどころか私を捉えて放さないだろうとさえ思ってしまう。有り得ない。ならば私は何処にいたんだ。常識はそう吐き出すのに、事実はそうではない。それは、これまでの経験、記憶のズレから分かっている。…有り得るのだ。十分に。私の認識はどうやら事実とズレているらしい。事実つまりは世界とズレているのだ。…それは可笑しい。それは自分が異常な人間であると言っているようなものだし、ズレているなら私はいったいいつからズレているのだ。いつから…可笑しいのか。少なくとも今はこうして真っ当に…分からない…生きているというのに。過去の私と今の私はまるで別人のようだ。別の人間なのかもしれない…だがそしたら現在の私はいったい、人は記憶や経験から成り立っていると言っても過言ではない…私はいったい誰だ。……考え過ぎなのか。
けれども私は嘘をついた。

「国外に居たので記録はないんです」
「なんだ、子女だったのか」
「ウイルスの経路も確認出来ましたし、戻りましょう」

PCをチェックした段階で発覚したために予想はしていたが確認はあっという間に終了した。Kはもう少し手こずるものだと思っていたのか、口笛を吹きながらやる気を持て余しているように見える。彼が部屋を出るのを確認してから、私は木庭のアルバムを秘かに自室に移送し、部屋のドアを閉じた。
外に出ると大陽を緩和した光が、ぼんやりと視野を明るく広げた。
やり切れない。

私は自室へ戻ると恐る恐る木庭のアルバムが届け置かれているのを見た。そっと手を伸ばし、ぱらりと一ページ目を捲る。…年代はあっている。薄明かりに灯された講師陣の映像が浮かぶ。見たことのある顔だ、と思う。だがそれは私の記憶が全くもって正しいということにはならない。二ページ目を捲る。見知らぬ学校見知らぬ生徒。知りもしないのは当然だ、地域も異なる、聞いたこともない学校のことなのだから。
そこで目次に戻り、自分が在籍していたと思われる学校名を引く。無意味な確認作業。無慈悲な時間。私は何の確信を得るためにこのような行為を行なっているのだろうか。待っているのは失望だけだと心のどこかでは分かっているにも関わらず。僅かな期待に縋ればいいものを、期待するだけ無駄なような気がしていた。三十七ページ目を捲る。見知った学校。心の準備は出来ているかと問い掛け、私は絶望に身を浸す。……心で予想はしていても、脳は拒否した。何故なら私の記憶が。…。
吐き気がした。記憶の波に酔ったのかもしれない。

無の時間があった。

見知った学校。見知ったクラスメイト。すべて同じように刷られているはずなのに。


私だけが居なかった。


喉元が気持ちわるくなる。
コンピュータの手配ミスだと思い込もうとしても、上手くいかない。
やはり私の記憶がおかしいのか?世界ではなく私がおかしいのか。それとも世界がおかしくなったのか。いつからおかしいんだ。いつから誰が何がおかしいんだ。私は私なのか?誰がどうして何が。こうして正常に考えることも出来るのに私は正常ではないのか。
今も、少しずつズレているのか?

そのとき突然、部屋に備え付けてあるPCの画面が鮮烈に光った。
まもなくブラックアウトし、一行の文字のようなものが出力される。どこかで見覚えのあるメールアドレス。……ウイルスを送り元のメールアドレス。現在は利用されていないメールアドレス。耳許でささやかな笑い声。
たったいま、届けられた一通のメール。ただの空メール。
私は身元を割り出そうとした。…結果割り出されたのは、現在地。つまり…この政府内。同類の人間。画面が再び暗くなり、一行のメッセージ。

『僕は傍に居る』

非人間的な『彼』の存在が脳裏に過る。







――さあ、思い出して。








思い出せ?何を。
私はぼんやりと廊下を歩きながら彼の言葉を理解出来ずにいた。思い出す…記憶をか?ならばやはり世界がおかしいのではなく私の記憶がおかしいというわけなのか。
某エリア某病院にて生まれ出産の際母親は病死父親に手によって育てられ小等部中等部高等部はエスカレーター式友人は浅く深くほどほどに遊びほどほどに勉学に励み養成所に入って真面目に学び現在に至る。普通過ぎるほど普通の生い立ち。大まかな記憶。細かく思い起こしてみれば密度は十分なほどにある。欲しくて欲しくて頼んでようやく買ってもらった玩具は何か?自分のあだ名はなんだったか?反抗期はいつごろで、何がきっかけだったか?etc。…この記憶がどこからか異常をきたしているらしい現状。もしかしたらすべてがおかしい考えたくはないのだが。それは、それは私の否定だ。私と云う存在の。
思い出すことなどなにもない。私は私で、現状に何の破損もなく、あるのは違和感だけで。それも強烈な違和感。
非人間的な彼は私を『  』と呼んだ。無様に死んでいった結城の顔が脳裏に浮かび上がり私は戦慄する。忘れたい知らない何も知らない分からない分からない。私は幼馴染みを見殺しにしたそんな馬鹿な私の記憶は間違ってなんかない、そんなことがあってはならない!彼は反逆罪で死ぬべくして死んだのだ、見殺しでも何でもないのだ。正当な死。彼は死に値する人間だった。

「結城…」

思い出せない何も思い出せない。彼のことは思い出してはいけないと脳が喚いている。ひたひた。脳が喚こうが喚くまいが私は彼を思い出せない。いくら頑張っても思い出せない。何故なのか涙が込み上げてきて私は独り咽ぶ。思い出せないことが悲しいのか、結城が死んだことが未だに悲しいのか私には分からない。多分両方なのだと思う。そうか私は結城が死んで悲しかったのかと今更ながらに気付く。彼のことなどどうも思っていなかったはずなのにどうして悲しいのだろう。
私は可笑しいのだ。もしかしたら狂っている。

「H」

司令の声。私は震える肩をびくつかせ、涙を拭って声のした方へ振り返った。
司令は一瞬訝しげな顔をしたが、私は構わず「何か御用でしょうか」と切り出した。平静を装った。政府の人間に涙など必要ないはずだった。

「お前に頼みたい任務がある」

司令は心無し声をひそめ、それでもよく通る声で言った。
そして彼の話を要約すると、反逆を目論んでいる疑いのある男がいる。Kと組んでその人物をマークせよとのことだった。コンピュータに見張らせればいいと反論したところ、これは内密な話だがと前置きされ、コンピュータの調子が時折おかしいことを告げられた。現在調整中とのことだ。私は内部にウイルス散布の犯人がいることから不安を覚え、司令に進言した。
彼は、

「分かった、管理部に通達しておこう」

と、言って他に私が言いたいことがないのを確認すると背を向けて去って行ってしまった。
私は反逆、という単語に記憶を掻き乱されるような不愉快さを感じたが、捩じ伏せてKの部屋へと向かった。今は、今は任務があるのだから私のことは後回しにすればいい。そう思い込もうとした。
Kは部屋で反逆を目論んでいるとされる人物…森田彰の調査書に目を通していた。分けられた前髪をうっとおしそうにのける。

「あ、H。これ、お前も見とけよ」
「ええ」

手渡された調査書には家族構成や住居環境など最低限のことしか書かれていない。森田彰の容貌は良くも悪くも普通、だった。十人並みで多数の人間が密集する地帯に混ざられたら一瞬で分からなくなりそうな。特徴らしい特徴がまるでない。ある意味普通ではないのだろう。
そんな私の表情を見て取ったのだろう、Kは愉快そうに笑った。

「顔に特徴がないんだろ?」
「…」
「たまにいるんだよな。そういうの。皆似たような生活ばかりしてるせいか、同じような顔になっちゃうのかもな」

なんていうの?こう真っ平らなさ。Kは自分の顔をべーっと引き延ばして、そしてもう一度笑った。
それからすっと机の上にあるケースを差し出した。

「それで今回はご丁寧にこんなものが貸与されたよ」

ケースには一見普通のコンタクトレンズが詰め込まれている。しかしその実態は国民のNo.透視仕様である。国民には生まれたときから一人一人No.が決められており、管理も主にそのNo.を使って行なわれる。そしてその割り振られたNo.は特殊なレンズを通して直接読み取ることが出来る。実際は、出産時の完全管理体制の中、赤ん坊の体内にあるチップが埋め込まれることによりNo.が表示されるようになる。

「…しかし、森田が反逆を目論んでいるというのは、現在調整中であるコンピュータによる情報ですよね」
「ああ、でも何かあってからじゃ遅いってことなんだろ?」
「そうなんでしょうね」

情報が間違っている可能性はあるが、念のため疑わしい芽は摘んでおけということだろう。私は頷くとケースを胸のポケットに入れ、立ち去ろうとした。司令の話によれば見張りは明朝からで良いことになっている。するとKは中腰になって私を手招きした。

「H、ちょっと」
「?なんですか」
「いいからちょっと面貸せよ」

私は言われるがままに身体をずいっとKの方へ寄せた。そしたら頭を軽く叩かれた。

「目が赤い。後で顔洗っとけよ」

再度頷く。
友人の優しさに、私は現在の私を少しだけ肯定したくなる。






森田彰。反逆罪を未然に防ぐことを目的とし尾行中。
システムのコンピュータは何を根拠にこの男が反逆罪を目論んでいるとしたのか。森田彰は時折胡散臭い集会のようなものを開いている。更に政府の批判をしている。つまりは左翼的団体の中心者だというのだ。内部の詳細な状況を知っているのは調整中のシステムだけであるから、極端だと論じることも出来ない。

「なあH…考えたんだが」
「はい?」
「二人で見張っているよりは、一人が森田に接触を図った方が良いんじゃないか?」
「確かに集会内部の様子を探るにはその方はいいかもしれません。行ってきます」

下手をすると囮になりかねないが。
私は銃などの荷物をデータにしてポケットにしまいこむと、さりげなく立ち上がった。森田は現在バーに入ったきり出て来ない。昼間から飲むなどと昔であったら随分金回りの良さそうなイメージのあるものだが、現代においては普通のことだ。何故なら人々は仕事をしないのだから。私はKに目配せし、客を装ってバーに入り込んだ。染み付いた政府の匂いが果たしてどこまで消せるだろうか。
店内はほどほどに混んでいる…不審はない…森田の隣に席を取り、森田はビール二杯か…注文を…、…酒しかない、ウーロンハイを注文する。例えウーロンハイでも飲み過ぎればつぶれる。私は不自然にならない程度に一度だけちらりと森田を見た。視線を手元に戻した後、森田の視線が突き刺さるのを感じた。…随分あからさまに人を凝視する男だ、まさか私が政府の人間だと気がついたのだろうか。集会を開くだけあって周囲は常に警戒しているということか?
私はウーロンハイを片手に店員相手に政府について自然に愚痴りだす予定だった。けれどその目論みは見事に外れた。否、邪魔をされた。

「お兄さん、一人?」

字面だけ見ればよくあるナンパかと思うだろう。けれどそう言ったのは真横に腰掛ける森田彰その人だった。当然連れが来る予定もなかった私は頷いた。森田は朗らかに顔を綻ばせる。酒が進んでいるようだ。警戒心もつぶれたのか?

「良かったら一緒に飲もうよ。私も一人なんだ」
「森田さん悪いくせだよ」

後者は店員だ。森田は顔馴染みなのだろう。店員に馴れ馴れしく触れ、「まあまあ」と宥めた。何がまあまあなのか初対面の私には全く要領を得ない。店員の言葉から察するに、森田は一人で飲むよりは見知らぬ人間を誘ってでも複数人で飲みたがる人物だということなのだろうか。
森田は実際に顔を会わせてみても特徴のない男だった。浮かぶNo.がなければ判別は難しい。店員に限っては機械人間で所謂アンドロイドなので人の顔を見分けるのに困ることはないのだろう。アンドロイドは同じ機械であっても犯罪者に対応するテレムとは異なる。情緒を『感じさせる』。あるわけではない。
森田は私の返事を期待している。

私は微笑した。
そして森田のためにビールをもう一杯注文した。