04. A vague border, the erosion of the illusion















誰かの名前を繰り返し叫んでいる。
けれどまるで薄い水膜に遮られているかのように声は重たく反響して溶け込んでいく。
振り返る。柔らかく微笑む彼に手を伸ばそうとして湧き上がって来た水に飲み込まれる。彼?彼とは誰のことだ。
絡めとられる。耳許で誰かが囁く。
『僕はいつも君の傍に居る』
その声色だけは不思議とクリアに世界に染み込む。頬が水でひたひたと濡れる。喉に細い空気が通る。
誰かが私の頬に触れた。


沈黙する。
真夜中。部屋には当然誰もいなかった。鍵も寝る前に確認したときにように掛かったままになっている。頬に触れる。誰かに触れられたような気がしたのだが、夢だったのだろうか。馴染んだ声色とともに、あれは。

私は彼に絡めとられた。

名も知らぬ彼は透き通るような声ではっきりと彼自身の存在を告げた。夢で。そう、夢の中で。
夢でないというのなら何だと言うのだろう。彼は私の鼓膜を揺さぶる。そして時として、第三者を介して接触してくる。夢が私の日常を侵蝕している。私はそれを拒めない。主導権はあちらに握られている。落ち着かない。私はこの平穏な日常に浸っていたいだけなのに、世界は揺らぐ。
薄氷のような哀しみが足下に忍び寄る。誰かの記憶。冷たい記憶。潜む私の中の。
意識の底に有る。言葉にしてしまえば簡単で、だが言葉にしたくない知覚したくない事柄。しようとすると耳鳴りが酷くなる。したところで意味もない。




時間は淡々と流れていく。
犯罪者の数は減らない。いったい何がそれほどまでに不満なのか、彼らは器用にも日々犯罪の種を開花させ続ける。話を聞けばそれも些細な理由で、勿論本人にとっては大事なのは分かってはいるのだが。満たされた欲望に彼らは新たな不満を募らせる。それを事務的に処理するだけで一日は終わっていく。だがそれで良かったのだ、私にとっては。犯罪の数が増減しようと私の平穏が揺らぐことはなかったのだから。
それが乱れ始めている。何がいけなかったのか、何が悪かったのか、突然声が聞こえ始めたある日を境に。嫌な夢を見始めたとき。
そうだ、あれは嫌な夢だ。落ち着かない、不安な気持ちにさせる夢。晴れた夏の日に、不意に愛の告白を受ける。そう言った彼が誰なのか、自分たちが何処にいるのかも分からぬ夢。知らないのに、知っていること。私は冷や汗をかいていた。当時、いや、その夢を見た、あのときか?
何故だか非常に焦っていて、それでいてやはり夢であるから前後の記憶はない。そもそもそのときの記憶があること自体可笑しなことで…分からない。
彼は私に触れた。そうまるで今朝の夢のように。…混乱しているのか、私の思考はまともな体裁を成していない。
誰かの声。

「おっと」

肩をぶつけた。
咄嗟に謝った相手は司令だった。顔を会わせたのは久し振りだった。「調子はどうだ」と尋ねられた。
私は司令のことは苦手ではないが、Kなどはあまり得意ではないと零している。悪い人間ではないのだが、どことなく極端な男だ。

「記憶が云々以前言っていたが…」

覚えていたのか。私から彼に話を振ったのが珍しかったのかもしれない。余計なことをしたものだ。良い予感がしない。
案の定、司令は言った。…それが善意から来るものなのか、悪意から来るものなのかは分からない。

「知り合いに良い医者がいるんだ。紹介してやろうか」
「いえ、せっかくですが、もう体調ももとに戻りましたので」

きっとウイルスの影響だったんでしょう。嘯く。司令は「そうか」と真顔になって…何を考えているのかは分からない…踵を返した。
精神科になど回されてはたまらない。私自身おかしいと思っているのだ。間違いなく何らかの精神疾患を抱え込まされて、役職を辞させられるに決まっている。それも国民ならまだしも、私のような一端末では再生措置がとられるかも危うい。十中八九始末されるだろう。今後司令に疑問を持たれるような態度は見せないようにしなくてはなるまい。


木庭博喜。三十七歳。罪状は連続殺人。定義上では凶悪犯。それでも刑罰は万引きや殺人未遂と同等。
私とてそれが全くおかしいと思わないわけではない。他者の権利を侵害するだけ罪は大きくなるはずなのに、刑罰は等しくその結果として不平等が生まれる。異常に発達した医療が罪そのものを薄くしている。もはや人を再生出来る時代において、人を殺すことは罪ではないのかもしれない。殺された人は一時的に権利を害されてもいずれ元通りの生活を送るようになる。何も変わっていないから、犯人のことを憎む理由もない。面子だとか誇りだとかが傷ついたと主張したところで、人の記憶なんてものいとも簡単に改変出来てしまうものである。
……記憶を改変するという話題は、現在の私にとって正直あまり関わり合いになりたくないものだ。認めたくはないが…私の記憶が隙や矛盾があり過ぎる。無論私は今こうして持っている記憶が私自身のものであると思っている。思ってはいるが…、…確信はない。だが幻聴の存在を筆頭に、神崎実穂の時に感じた違和感など、私には原因不明な欠落や異常が多い。自分で自分を異常だと感じるのは不愉快極まり無いのだが、普通でないところがあるのは事実だ。少なくとも幻聴の存在は気に入らない。彼が存在するだけで、私が正常だということを否定される。ウイルスの影響だと考えてしまえば楽なのだが、ウイルスに感染するよりも前に彼は私の夢に現れ出している。
彼は何なのだろうか。私は多重人格者なのか。しかし作り出した人格が主人格に接触してくる、主人格と連携を取るかのように入れ替わるというケースは何度か聞いたことはあるが、私は彼に身体を乗っ取られたこともなければ記憶が飛んでいるということもない。まさか私が下位の人格で彼の身体を乗っ取っている状態だとでもいうのだろうか。彼はそれを上位人格として見下ろしている。だから昔の記憶に適合しないところがあるのだと、そんな馬鹿なことはない。私は私のはずだ。ましてや私が下位人格なら…何故上位の彼は前面に出て来ない。
多重人格はいささか突飛な発想だとしても、私は、私は誰だというのだろう。知っているはずなのに、不確定事項が私の確信を揺らがせる。そして先週が結城尚人が私を私でない別の人間だと指摘した。何だと言うのか。私は私で、違う人間だというのに。
結城のことを思い出す必要は無い。
彼は反逆罪で死んだ。反逆罪を犯したのだから死刑は当然のことだ。私は彼の最後の権利を受け入れて彼の死を見届けた。彼はシステムに逆らって惨めな死に方をした。私はその事後処理をした。機械的に、当然だ仕事だったのだから。私は彼の戯れに付き合いさえしていればそれで良かった。私にとって彼は、
…どうしてこういう時に限って幻聴は現れてくれないのだろう。
私は木庭と対峙する。彼の反省の言葉を引き出そうと躍起になる。木庭のことなど考えてもいないにも関わらずだ。実際に、彼の言葉は私の耳を素通りする。これでは駄目だ。いい加減な仕事ならやらない方が良い。それなのに私は席を立とうともせず木庭の話をまともに聞こうともせず。
木庭が口を動かしているのだけは見える。言葉を吐き出していることも分かる。

「木庭さん、あの…」
「グ」

突然だった。聞いていなくとも木庭は正常で、異変を知らせるような異常行動は見られなかった。
しかし彼は喉を押さえ、潰れたような声を漏らした。様子を窺おうと立ち上がったのと同時に、机の上に胃液が飛び散る。木庭が嘔吐したのだ。
机の端から薄黄色い駅が伝い落ちる。血が混じっている。私は木庭のぐにゃりと折れた身体を抱えて椅子に押し付けた。その身体の柔らかさに、悪夢の再来だと思った。あのウイルスの経路は未だ解明されていない。

「木庭さん」

反応はない。脈を取る。死んでいる。人体の再構成は可能だがこれは分析に回した方が良い。汚染が前回の長谷川と同様とは限らない。
木庭に長谷川のような症状…記憶の喪失は見られなかった。異常があれば検査を終えている段階で通告がなされるはず。記憶は繋がっていた。それなのに木庭は死んでいる。
私は死体を分析に回した。果たして前回とは異なるウイルスなのか、変異したのか…させたのか。血液を採取して長谷川のものと照らし合わせれば分かるだろう。しかし同じものだとしたらウイルスは無差別に撒布されているのか、それとも確固たる目的を持って該当する人間に送り込んでいるのか。ウイルスに感染すると数日後に死亡するとしても、作用はそれだけなのか。犯罪行為そのものは本人の意思なのか。だとしても視覚しただけで冒される殺人ウイルスを作り出すなどと、とても人間業とは思えない。視覚から受けるショックだけで生命まで奪うことは可能なのか?
長谷川の場合は病んだ脳から狂った信号が伝達され、呼吸器官が異常な伸縮を起こしたことが原因とされている。呼吸をすることが正常な状況で、脳が呼吸をやめるよう命令したということだ。呼吸は意識してするものではないため、害者自身にはどうしようもない。
…犯人の目的はなんなのか。以前は国家に対する挑発行為かとも思ったが、…今回のケースではおそらく記憶は消えていない。ならば単純に死に至らしめることだけが目的だったのか?ウイルスが別の人間に渡ったのちに拡散された可能性もあるため目的が一つとは限らないが…。
ただどんな目的にせよ、国民の保護を唱っている政府には痛手、屈辱的なことだろう。発覚すれば糾弾される恐れもある。…楽を覚えた国民でも自分達の保身にだけは懸命になる。最悪PCの接続を断てば良いと対処法を流したところで…現在木庭のPCに接続している…他からウイルスが漏れ出すのではないかという不安の声も上がるだろう。全ての電子機器を排除してはシステムに頼りきった現在の生活自体が成り立たない。犯人はそれすらも予想して動いているに違いなかった。だが…犯人とはいったい誰か。
人間業でないと考えたとき、彼のことが思い浮かばなかったとは言えない。そう、『彼』のことだ。現実に第三者に接触しているにも関わらず、私とは直接対面を避けている人間。完全に幻聴だと断言してしまいたくとも、そうして接触を図られては私は切り捨てることもままならない。彼は尋常の人間では考え難い行動をしている。けれど彼が犯人であるなら、目的はいったいなんだ。

そう思った瞬間、耳許でくすりと笑い声がした。

『  』

そして音もなく囁かれた言葉に私は強烈な目眩を感じた。
後ろを振り返るも、誰もいない。忌々しい幻聴。彼は私の…名前、を呼び、冗談じみた言葉…もう何度も聞かされた言葉を繰り返した。気にしなければ良いだろうに、私の精神は彼の存在に脅かされつつある。幻。幻は形が無い故に恐ろしい。だが形のある幻の比ではない。
…意識を目の前のPCに戻す。木庭のPCにも長谷川と同様のメールが送りつけられていた。開封済みだった。
ウイルスは分析に任せる。……彼の出現は想像以上に堪えた。私は新鮮な空気を求めて調査室の外に出た。実際には空気は均一で、新鮮さなど有りはしないのだが。

「H」

アルファベッドの呼び名に私は安堵して、話し掛けて来たKの方を見遣った。
おそらく彼の耳にも木庭の話が入ったのだろう。彼は表情を曇らせ、私を見下ろした。

「また出たんだって?」
「ええ」
「それもまたお前が第一だろ、大丈夫か?また感染とかしたりは」

長谷川のケースも私が初めに担当した。その後連続して被害者が出た。もしかしたら今回もそうなるかもしれない。だが私が「同様のケースであればもう手遅れかもしれません」と言葉を濁すと、Kは「そうじゃなくてだな」と言葉を繋げた。

「俺はお前の心配をしてるんだよ」
「…死体を分析に回す際、直接的な接触は避けるようにはしましたが、視覚的なものですから全く感染の心配はないとは言えません」

ただウイルスの型が長谷川のものと同じなら、抗体が出来ているかもしれない。

「それと、ウイルスの感染源は被害者のPCかと思われますが、念のためこの後自宅を捜索してきます」
「なら俺も行くよ」
「仕事は?」
「もう済んだよ。それにほら、捜索するにも一人より二人の方が早いだろ?」

事実だが、自分で全て調べないと正直なところ落ち着かない。この男がそう言って素直に聞くような男なら断っていたろう。彼は押しが強くマイペースな人間なのである。私は了承し、Kを連れてワーププログラムを起動させた。徒歩で行ってもかまわなかったが、木庭の家はやや距離がある。
押したか押さなかったか微かな凹凸のボタンを押し、私はKとともに木庭の自宅に転移した。