03. Rebellion against nation








外から雨が吹き荒ぶ音が聞こえる。
この調子なら今月は雨量を管理する必要はなさそうだ。自分の担当でないにも関わらずふとそんなことを考える。
隣では結城がアルコールの入ったグラスを揺らしている。悠々自適に見えるその姿はとても独房に入っているとは思えない。けれど、彼の顔に時折現れる影が不意に現実を思い出させる。死。いつからか万人に訪れるものではなくなったもの。明朝に、彼はその死を前にひれ伏す。知る者の少なくなった本物の死を彼は経験し消えていく。

「青」

彼はグラスを私に進める。だが、飲めない。すぐに眠ってしまうし、それだと彼に申し訳ないような気がしたのだ。彼の求める人間でなくとも、呼ばれて私は此処にいるのだから。すると彼はしょうがないな、と苦笑して代わりに水割り用のためだけに置いてあった水だけのグラスを差し出した。彼は最後の権利を保証された罪人だ。私はそのグラスを受け取り、彼に合わせるままに互いのグラスをぶつけた。勢いはなく微かな音だけが響いた。
結城は私の首元を指差し、困ったように微笑んだ。

「それ、直さなかったんだな」ボタンのことだ。
「直す前にあなたに呼び出しを受けたものですから」
「なら今直せば良い。まだ明日までは時間があるから」
「裁縫セットはありませんし、此処では再構成も出来ませんので」

そうは言ったものの、本当のところシステムに命ずるのが億劫だっただけだ。それに、システムを嫌う彼の前ではあまり気が進まなかったのもある。結城は笑うだけで、ボタンについてはそれ以上は何も言わなかった。
私は思う。彼が最後に過ごす相手が青という青年で良かったのか。家族や恋人を呼ぼうとは思わなかったのか。それとも、現在の国民はそういった感情さえ麻痺してしまっているというのだろうか。死というものの重さを現実のものとして捉えられないのだろうか。
一方、隣の独房からは泣き喚くような声が聞こえてくる。迫り来る死という未知なるものに恐怖しているのか。それは突如自覚させられるものなのか。

「結城」
「なにかな」
「あなたは死ぬことに恐怖は抱かないのですか」
「ああ、抱かない…怖くないよ。…俺は死というものを知らないから、漠然としか思い描けない」
「思い描けないからこその恐怖を覚えたりはしないのですか」
「…考えないようにしてる。だからこうして青に傍にいてもらってるわけだけれど」

見れば彼のグラスは減っていない。酔えば楽になるだろうに何故なのだろう。
その私の視線に気付いたのか、結城はグラスに一口だけ口付けた。

「…実は俺も飲めない口なんだ。飲むと気持ち悪くなる」
「…取り替え、」
「良いよ。青も飲めないんだろう?…だから良いよ」

彼の不快感を取り除こうとすれば、グラスは取り替えるべきなのだろう。私のとではなく、新しく別の物と。
だが、そうしたところで彼は喜ぶのだろうか。彼の善意を打ち消すことになりはしないか、と判断に迷う。ある状況に陥ったとき、どうすべきかなどということは、対象によって違う。気分や性格によっても変わってくる。完全に正解となるマニュアルなどないのだ。ならば何を指針にすべきなのか、と私は翻弄されてばかりいる。これまで幾人もの犯罪者を相手にしてきて、それでも未だに彼らの望む対応というものを掴めないでいる。
彼らを生かすべく良かれと思ってとる対応と、彼らの望む対応は違う。
だからこそ、どうすることが正しいのか私には分からない。こんなとき、テレムであったら迷いはしない。テレムに感情はないからだ。ならば私には感情があるからこそ迷いが生じるということなのか。仕事に感情を交えることは必要か。それは不公平を生みはしないか、私情を挟むことにはならないか。
何故今頃になってそのようなことを思うのだろう。これまではある一定の基準に照らしてやってきただろうに、それが突然。
…基準が違うのか。

「…今何時だ?」
「…十九時三十八分です」
「青はいつまで此処に居られる?」

私が彼の元にやってきたのが十七時五分。かれこれ二時間三十三分経過していることになる。
結城はじっとこちらを見つめている。その瞳に現在の国民に有りがちな怠惰な色は認められない。システムに保護されながらも、自分を失わなかったという証拠、なのか。軟体動物のように腑抜けていく人々も中にはいるこの世界で。無論、どちらが悪いということはない。どちらも環境に適応はしていることには変わりないのだから。
口を開く。

「…特に規則はありません。明日の業務に支障さえなければ」
「それはつまり、俺が希望すれば処刑の前までは居てもらえるってことなのか」
「そうなります」

それが彼の権利を尊重するためならば。
そこまで言ってしまえば結城はきっと眉を顰める。結城にしてみれば居て欲しいのは「青」であり、取締官の私ではないのだ。規則ではない、青と云う青年が自らの感情に突き動かされて此処に居ることを望んでいる。…なのに私は彼の意思を尊重しながらも、彼の望むような態度を取れずにいる。私は青を知らない。青という人物にはなれない。これも彼の権利を侵害していることになるのか。
…こんなパターンは知らない。私はどうするべきなのだろう。
私が私であろうとするだけで、彼の気に障るとしたら。…気付いて、自然と口数も減る。
困惑していた。
結城の意思を重んじるということは、簡単なことではない。

「…あなたは、」

長谷川のときと似ている。長谷川は私に己の息子を映し見ていたところがあった。けれど彼はそれでも私と彼の息子は違うと分かっていたし、大した問題はなかった。
しかし、結城の場合は、…彼は明らか過ぎるほどに、過去の人間と私を重ねている。私を青だと確信している。
対応し難い。
結城は私の言葉を待っている。聞いていいのか。本当に此処にいるのが私で良いのかと、聞いて良いのだろうか。そうだ、もしも彼がそこまで望んでいるのなら、青と呼ばれる青年を捜し出してくればいいだけのこと。そちらの方が容易いことのように私には思えた。
それなのに。

「青はお前以外にはいないよ」

結城はまるで私の考えなどお見通しのように言葉を紡いだ。
何故だ、何故そんなふうに確信を抱ける。小等部以来会っていないのなら、記憶も曖昧になっている頃だろう。
たかが形質の一部が同一であったからと。分からない。私には、分からない。
いくら青と呼ばれようと、私には結城の記憶などないのだ。

矛盾。
欠落。
抹消。

私の。

脳が拒絶する。
まだ何も知らないままでいたい。認めてしまえばそれは。
染みがじわじわと押し広がる。

「青」
「…」

私は彼の言葉を認められない。
それは私自身の存在を覆すに等しいことだ。
だから私は、結城の言葉を否定しない。だが認めない。この一晩、結城の権利を侵害さえしなければそれで良い。それが唯一の妥協策である。政府の犬同然の立場であっても、わざわざ好き好んで自分の存在を揺るがす必要性など皆無なのだ。
……しかし結城は、顔をくしゃりと苦く笑みの形に歪めた。
…彼は聡い。時としてそれは、もどかしいほどに。

「…ああ、悪い、青。お前は全然俺のことは覚えてないんだったな」

彼はもっと貪欲に己のことだけを考えていれば良かったのだ。…相手のことまで思いやることなどない。相手を思えば自分の権利は削り取られる。それがどうして分からない。分かった上でしているのであれば、残酷な人間だと思う。互いの意思を尊重し合おうとするほど、それが自分の意思を押しのけるものであればあるほど、逆の結果にしかならない。
気遣われることは苦手だ。
結城はグラスを置いて、片膝を抱える。

「ということはだ、俺はお前の気持ちを無視して好き勝手していることになるんだろうな」
「そんなことはありません」
「それも俺の最後の権利を保障するために言ってるんだろう?なあ青…呼び出しておいて何だけれど、無理はしなくていいから」
「あの」
「嫌だったら帰っても良い。俺もお前の気持ちを無視するのも嫌だから……って言ったところで、結局は俺の意思を尊重するために居てくれるのかな」

何だ、結局は強制していることになるんだな。
結城は苦笑して口を閉じた。彼も現状の難解さを理解したらしい。…何故もっと単純に騙されていてくれないのか。
これでは私が彼の言葉を否定したところで、所詮役を演じているだけということになるではないか。居る=意思の尊重となるなら逆をついて出て行こうとも考えられるが、それさえ読まれてしまえば意味がない。私の行動は何ら意味を齎さない。どんな行動をしても結果は一緒だ。
私の言葉は全て嘘なのだ。
正常なるコミュニケーションは不可。

私は結城の意思を尊重する。結城は私の意思を尊重したがっている。堂々巡りだ。
ならばこちらが折れるとしても、私はいったいどうしたいのか。結城の意思。彼の死への恐れ。かつての幼馴染みとの時間の共有。私は帰るべきではない。しかしそれは彼の意思を尊重した結果であって、私自身の意思は何処にいったのか。もとよりないのか。
私は私自身の意見…仕事を挟むことなく、結城の傍にいてやりたいと思っているのか?
結城は…『誰』の意思を尊重したがっているんだ。

「…明日の朝までは」居る。此処に。
「…それは青がそうしたいからなのか?って聞いたらいけないんだろうな」
「…居た方が良いと思っただけのことです」
「有難う、お前は優しいな」

結城ははにかむように微笑む。
果たして、私と結城の会話は通じ合っているのだろうか。私自身分からない私の意思を、彼は理解することが出来たのだろうか。




結城は眠っている。
やがて永久に眠るときが来るのに、いまこうして眠ってしまうのは無駄なのか、正解だと思える答えはない。ただ彼が眠り、一瞬でも苦悩から解放されればと私は思う。夢の中のことまでは、流石に責任が持てない。夢を操るのも、彼に申し訳ないような気がする。
明日の処刑。結城は消滅する。分子以下の存在となる。肉体の消失は彼の意思の持続さえも困難にする。全ては反逆の罪。
だが何故結城はそれほどまでにシステムを嫌ったのだろう。この統制された生活を捨てたかったのだろう。子供の頃から既に国はこの体制にあった。違和感や抵抗を感じるはずもないのに。この体制が正しいも何も、現代の人々はこの世界しか知らない。故に比較対象は存在しない。古書だろうか。
仮に古書の影響を受けたところで、反抗するほどの嫌悪は何故生まれた。この国は彼らの幸せを願っているのに、何が不満なのか。腑抜けていくことか。
これが現在の正常なる在り方だというのにか。

肩に寄りかかり眠る結城の寝息は静かで穏やかなものだ。
色素の薄い猫っ毛が頬に首に触れて僅かにむず痒く感じられる。
外の雨は未だやまず、明日まで降り続くかもしれない。雑然と打ち付ける水の音。

「…結城」

目覚めない。いっそ朝が来る前に、殺してしまった方が彼は楽になれるのかもしれない、とふと思う。処刑を恐れることもなくなる。このまま目覚めずに眠り続けさえすれば、彼は永遠に死となり死を知らずに済む。意識を落とす直前、結城は一瞬もそのようなことを考えたりはしなかったのだろうか。考えたとしても、己の幼馴染みに頼めるようなことではないと、口を閉ざしたかもしれない。…優しい人間。罪を犯す者が必ずしも欲に塗れてばかりいるとは限らない。




淡い朝陽が差し込む。
人が滅びなければ、大陽はいつか人を殺す。それでも遠き未来は所詮他人事、人は目の前のことに気を奪われる。結城のように、明日がないと分かっているのならば尚更だ。
処刑は朝六時執行。結城は四時には目を覚ました。己の居る場所を思い出し強張る表情。そして起き抜けに私の顔を見るなり、彼はその表情を柔らかくした。

「…ずっと起きてたのか?」
「いいえ、仮眠程度は」
「…そうか…」

一晩くらい寝なくとも何ら影響はない。
凝った肩を揉みほぐし、結城のために珈琲を準備しながら、昨夜から考えていたことを尋ねた。

「あなたは何故現在の体制を嫌うんです?」

人として、安穏と死んでいくのが嫌なのか。お膳立てされた平穏が気に入らないのか。蔓延した生温さには悪寒が走るとでも言うのか。そしてそれは、死と同義である反逆を謀るほどのことなのか。
苛ついているわけではない。ただの疑問だ。私が現在居る場所を否定する理由は何なのか、私が何故此処に居るのかも分からないが故の。
結城は微笑する。今となっては、銃を突きつけられたことさえ懐かしく思える。

「お前には言えないよ」
「それは私があなたにとってあちら側の人間だからですか」
「そうだし、そうでないとも言える」

余程訝しげな顔をしていたのだろう。結城は私の眉間を指で突いた。
横から珈琲を引ったくって一気に飲み干す。最後くらい味わって飲めばいいだろうに、彼は思い切り苦そうな顔をした。

「苦っ」
「まだ砂糖を入れてないんです」
「うっかりしたなあ。でもいいか、これでプラマイゼロだ」

彼はにこりと笑って角砂糖を一つ手に取ると口の中に放り込んだ。ついでにもう一つ取り、それを私に手渡す。…?

「たまには甘い物も食べないと頭回らないぞ、羽生殿」
「…どうして」
「昨日、ちょっとな。お前が来るまでにシステムに聞いた。青じゃないって言うなら、今は別の名前があるはずだろうと思って」

アルファベッドだけのものを教えなかったのは機械なりの優しさか。最後の自由を保証するだけあって、こちらのシステムは多少情緒面に関して高度化されているのかもしれない。そんなことを思いながらも、私は何故なのか哀しいようなよく分からないような気持ちになった。
角砂糖を乗せた手のひらを見つめる。結城は迫り来る現実を前に、何もかもひと時の夢だったで終わらせるつもりなのか。

「……でいい」
「ん?」
「青で良い」
「…せい……」

結城は驚いたように私を見ている。これは彼のためではない。私が、私が嫌だっただけのこと。…何がいったい嫌なのか、私自身もよく分からないのだが。
結城は泣きそうな顔をする。それから酷く嬉しそうに微笑んで――、私の肩に触れ顔を埋めた。


そして…それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
冷ややかなシステムの声が、独房内に響き渡った。


『処刑時刻ニナリマシタ。対象者ハ速ヤカニ処刑室ヘ移動シテクダサイ。』


視界が一瞬、暗転する。