02. A daughter of the matricide
















少女の発言を受けてもそれほど取り乱しはしなかった、と私は記憶している。
しかし記憶というものが如何に当てにならないかということを最近の私は理解しつつある。例え私自身が取り乱さなかったと思っていても、周囲からすれば違和感を感じる。それは大いに有り得ることなのだ。
私はひとまず銃を横に置き、少女の向かい側に腰を下ろして改めて聴取を再開した。

「…失礼致しました。神崎さん、お話を窺います」
「お兄さん変わった人ね」
「何故ですか」
「大抵の大人は私のような子供を見たら、ぞんざいな口の聞き方をするわ。大人にとって子供は格下の存在なのよ」

それは私たちのような存在こそ一般市民よりも格下の存在と定められているからに他ならない。私を含め政府の人間は彼らを取り締まる立場でありながら、彼らの自由意志を最大限尊重しなければならないという矛盾した役回りを担っている。だがそのことに対し私が不満を抱いているかと聞かれれば、肯定又は否定のいずれもしかねる。私は深く考える立場にない。
少女ははにかむように微笑んで両手を膝の上に置いた。

「それでお兄さんは私のしたことを聞きたいのね」
「ええ」
「私は…もう知っているとは思うけど、ママを殺したの。私はママのこと好きだったわ。ならどうしてって思うでしょう」
「…」
「ママはね、私には触りたくないって言うの。ママは潔癖性でね、私のことを汚いって言うのよ。好き好んで私を傍に置いてるくせにそう言うの。矛盾してると思わない?お兄さん」
「…ええ」

昔と違って現在は望めば完全な衛生状態を保つことも可能になっている。その反面、潔癖性及び抵抗力の弱い市民が急激に増加していて、万が一ウイルス…毒性の強弱を問わずだ…が散布されるような事態が発生した場合、彼らへの影響は免れないとされている。
この少女の母親も潔癖性とのことでおそらく徹底的にクリーンな生活を送っているのだろうが、彼女は自分の娘が己の潔癖の砦を汚してしまうと考えたのだろうか。この一見して子供らしからぬ子供である少女は、少し前までは清潔さを保つための細々した義務さえ嫌う子供らしい子供だったということなのか。だとしても私には推測することしか出来なかったし、それが正解だという保証もなかった。

「私は外で遊びたかった。外には友達もたくさんいたの。けど…ママの傍にはママしかいないでしょ?私は…ママにばかり振り回されるのにうんざりした」

憂いを帯びた少女の顔は、実際の年齢よりも遥かに歳をとっているように見えた。
…強調される母親の存在。父親…はいない。離婚している。…果たして、子供のうちから犯罪者の烙印を押すのもどうか。いっそ記憶を消した方がこの少女のためになるのではないか。だが、法律で子供を裁くことは禁じられている。
子供の場合、およそ五十三年前に制定された「児童協定」が判断の基準となる。十五歳以下は罰則の対象とはならない。ただし記録は残され、それ以降二回以上同様の罪を重ねると廃棄行きとなる。いわば記憶だけではない、存在の抹消である。尚、子供の場合は合計三回目でアウトになるわけだが、大人の場合は二回でアウトである。彼らは他の市民の自由意志を妨げた罪で裁かれる。
今回のこの少女の場合は反省文を書かせ、送り返すだけとなる。それがこの少女にとって幸せなのか、私には分からなかった。

「…だから殺したの。私は罪になるのかしら」
「それはあなたの反省次第です。反省が見られなければ、刑の執行も有り得ます」
「…でもそれって、本当に反省しているかなんて分からないと思うの」

少女の言葉は正し過ぎる。

「私達は国民の自由を最優先事項と考えておりますので」
「…」
「ご協力ありがとうございました。後ほど、ご自宅までお送り致します」

だがこれはあくまでも仕事だ。
私は少女を待機室へ案内すると、搬送の手続きを取った。昨日まで病床で臥せっていた名残か、頭が鈍く重い。
休憩がてら、食堂へ向かいテーブルを前に座り込むも、食欲が湧かない。

『…何か食べた方が良い』

また幻聴か。しかも現状と噛み合った言葉を発するだなどと、症状は悪化しているようだ。いったい何故、私は見ず知らずの男に食事の心配をされなくてはならないのか。辺りを見回しても、この声が聞こえているらしい者は誰もいないようだ。私は知らぬ振りして席を立った。反発もあった。この声は私の平穏を妨害する。現実を、常識を歪めんとする。

『君は』

煩い。
…駄目だ。私は何を取り乱しているんだ。これは幻聴だ。まやかしだ。幻聴は所詮何も出来やしない。私の内側から生まれているものなのだ。…私の内側から?だが、何故。私はやはり頭がおかしいのか。何故だ。おかしくなる理由等どこにもないのに。
落ち着け。落ち着くんだ。どこにも異常などない。わたしは、

「どうしたの。お兄さん、すごい汗よ」
「!」

驚いた。少女…神崎の出現に。…驚いて、汗を拭った。濡れた。

「良かったらこれ使って」
「いや…、…神崎さん。此処は関係者以外は立ち入り禁止です」

私は神崎の差し出したハンカチを受け取らず、彼女を外へと連れ出した。汗が気持ち悪い。

「家に送り返されるまでに時間があるの。ねえ、座ったら。顔色が悪いわ」
「この後も仕事なんです」
「ふうん。どうしてお兄さんは仕事なんてしているの?」

普通の人は誰も働いていないのに、楽しいの?
神崎はこちらを見上げるように首を傾げている。色素の薄い髪がさらりと揺れる。彼女は心底分からないとでも言いたげな素振りだった。私は黙り込んだ。彼女の言っていることは理解出来るのに、脳の回路が適当な返事を探し出せないようだった。楽しい、?何が、仕事が?

「私にとって仕事は義務ですので、楽しいというわけでは…」

脳が擦れる。仕事は義務だ。楽しいだとかそういう問題ではないのだ。他に理由なんてない。なら何故私はこの仕事をしているのだろう。何故私はただの市民という地位に甘んじなかったのか。その方が楽で良かったろうに。何故だ?
神崎は笑う。

「変なの。まあいいわ。時間まで退屈なの。お兄さん、遊んでよ」

彼女は私の腕を引いて歩き出した。何処へ行こうというのかと尋ねると、「ゲーセン」という返事が返ってきた。私は彼女を思い留まらせ、つれて帰らなければならなかった。けれどそうしなかった。…もしかしたら、動揺していたのかもしれない。この仕事をしている理由を思い出せないということに。高校を卒業した後、私は迷いもせず此処に入所した。それがどうしてだったか……。
視界にゲームセンターが見えてきた。政府は市民が快楽を貪るための施設の整備を怠らない。市民の快楽は、いつの時代もあまり変わることはない。新しい快楽を求める者がいれば、古き良きものに価値を見いだす者もいる。だがいずれも許容範囲である。
ゲームセンターには旧世代の好んだ世界が広がる。神崎はクレーンゲームの前に私を引きずっていった。
ある不気味な人形を指差し、

「お兄さんあれとってくれる?」
「…え?」
「私、クレーンゲームって上手くいったことないの。でもお兄さんは上手そうだから」

クレーンゲームそのものは、高校生の頃にやった記憶があった。なので私は仕方なくカードを切って安っぽいプラスチックのボタンをいじった。だが。
空のクレーンが手前に戻って来た。

「ああ、残念。もう少しだったのに」

神崎が大人びた声色で肩を竦めた。私はカードを懐に戻し、ガラス越しに中の玩具を見遣った。知らないキャラクター。当然だ、時代が違う。しかし、クレーンゲームそのものはそれほど変わらない仕様のはずだ。なのに。
私はクレーンゲームをやったのは今日が初めてだ。…何を、言っているのか。私は高校の頃に友人と此処に来て、遊んで。クレーンゲームも当然やって…やっていない。記憶はあるのにやったことがない?馬鹿な。気のせいだ。久し振りだった所為で記憶が錆び付いているだけなのだ。
思い込む。既視感。気付かないふりをする。現状は維持されなくてはならない。

「お兄さん、エリートさんなのに不器用ね」

汗が滲む。






時間だ、少女は搬送される。輸送機に攫われるように私の前から消える。
私は役所に戻ったのち、ふと彼女の殺した…殺された母親のことを思った。パソコンを起動しデータを引き出す。…No.110201、再生中。あの少女の母親は現在医療機関で身体を再構成中らしい。調査書によれば少女は母親の急所を突いただけとのことで、おそらく再生にそれほどの時間はかかるまい。明日には自宅に帰され、少女との対面を果たす。少女にしてみれば、殺したはずの母親との再会。彼女達は、まるで何事もなかったかのように再び暮らし始めるのだろうか。だとしたら、少女が母親を刺した意味は何だ。綻びは修正され跡形なく消える。…母親には少女に刺された記憶はない。順風な生活を市民に送らせるにはある程度のコントロールが必要であるということだ。つまりは、後に残るのは少女側から見た生々しい記憶とその罪。そしてリセットされた現実。

結果、神崎という少女は解放されない。

私には関係のないことではある。これはあくまで仕事で、私の仕事は少女の話を聞いて反省を取り付ける。それだけなのだ。多少のオプションはあれど、その後のアフターケアは担当外だ。
無論、虐待等が発見された場合には子供の隔離、保護する指示を出すことはあるが、今回のケースはいささか毛色が異なる。母親からの暴力は認められない。言葉の暴力は見られるものの、あの母親は少女を傍に置きたがっている。…母親の権利。しかし少女は、解放を望んでいる。…少女の権利の侵害。
私はしばし考えたのち、担当部署に指示を繋げた。

「No.114109のダミー準備」

ダミーは該当する市民を騙すことになるという意見もないわけではない。しかしやはりここは他に手がないように思えたし、母親が気付かなければ何の問題もないのである。知りさえしなければ、その幸せは持続する。全てが丸く治まればそれで良い。
私は連絡を切ると立ち上がり、次の犯罪者を出迎えるべく定位置に戻った。







業務終了後。頭は鈍く痛んだが、私は少女の母親が居る医療機関へと足を運んだ。
これは本来、立場を逸脱した行為なのだろう。少なくとも、仕事に私情を挟むべきではない。ただ強引にでも理屈をこじつけるなら、彼女の母親もまた、権利の侵害という犯罪を犯しているのである。
母親の身体は既に再生済みとされていた。彼女はベッドに横たわったまま、ぼんやりとした眼差しで私を見上げた。施設内は、僅かに消毒液の匂いが漂っていた。

「…神崎真奈美さん、ですね?」
「……あなたは?」
「名前はありません。あなたを刺した人物の取締を担当しておりました」

犯人としての神崎実穂の名前は出せない。彼女は自分の娘に刺されたという記憶はないのだから。神崎真奈美はそう…と困惑げな顔をして、瞬きをした。当然の反応だ。

「…もしかして、刺されたこと、ご記憶にないですか?」
「いえ…そんなことは」

確か…男が押し入って来て刺されたのでしたわ、と神崎真奈美は言う。どうやらそういう設定になっているらしい。都合が良い。

「ええ。彼は以前からお宅を狙っていたと供述しておりました」
「どうしてですか。うちは普通の……」
「…大変言い難いことではあるのですが、彼はお嬢さんの実穂さんに興味を持っていたようです」
「実穂に?あ、あの、実穂は無事なんですか?」

神崎真奈美は動揺している。一人娘なのだからこれも十分に想定され得る反応だ。

「ええ。実穂さんはこちらで一旦保護した後、無事ご自宅の方へ。…ですが少々気になることがありまして」
「…なにか」
「彼は実穂さんに指一本触れていません。にも関わらず、実穂さんは自身を汚いと嫌悪されている」

私はベッドに臥せっている神崎真奈美と一定の距離を取って対話している。
威圧感を感じさせず且つ離れ過ぎずという適度な距離を保ちながら、彼女の反応を観察する。動揺は続いている。神崎真奈美の瞳は僅かに引き攣り、己の行いを話していいものか思惑している。私は彼女が話し出すのをじっと待った。彼女が自分自身の矛盾に気付いていて、娘を大事に思う気持ちを持っているのなら、話すはずだ。私は彼女にとって他人であり、自分たちの幸福のために働いている政府の人間なのだから。
ただ其処に彼女自身の罪悪感が覆い被さって全てを隠そうとしてしまえば、失敗に終わる。
「…」
神崎真奈美の唇が動く。掠れた音。…それから、はっきりした声。

「…それは私のせいなんです」
「何故ですか?」
「私が、あの子を汚らわしいと感じていたから。…違うとは分かっているのに、実穂があの人との間に出来た子供ではないような気がして」

あの人とは亡くなった父親、神崎道輝のことだろう。

「こう言ってしまうと、私がとんでもない女のように思えるでしょうけど…、実穂が出来る前、私は仮想空間で過ごすことが何度かあったの」

仮想空間は脳内での性交渉を可能とする施設の総称である。分かりやすい言い方をすればバーチャルセックスを楽しむための娯楽施設である。バーチャルであるから、実際に交わるわけではないし、汚れが飛び散るわけでもない。

「それで…実穂はもしかしたらあの人の子供じゃないのかもしれないと思うようになって。そんなこと…有り得ませんよね?」
「勿論です。想像妊娠というケースもないことはないですが、実穂さんの場合は実際に生まれ成長されていますから」
「そう…ですよね。なのに、私、どうしても疑って神経質になってしまって、実穂を傷つけてしまったんです」

項垂れる彼女を見て、私は神崎実穂のダミーは必要ないかもしれないと思った。上手くいけば、彼女達はやり直すことが出来るかもしれない。ただそれは神崎真奈美が完全に心を切り替えた場合のみ有効な発想であり、そうでない場合は再び同様の事件が引き起こされる可能性もある。
私は問うた。

「もともとは実穂さんは施設に預けられていた。何故、引き取ろうと思ったのですか」

葛藤して傷つけてしまうくらいなら引き取らなければ良かったろうに。
すると神崎真奈美は、ぽつりと一言こう漏らしたのだった。


「あの子は私の子ですから」












酒の匂いがする。
「なんだよ、元気ねえなあ」
同期のKは私の頭を乱暴に叩くと、ずいっとつまみの皿を突き出して来た。心無し胡乱な眼で見遣れば、彼は私の前にあったサプリメントをざっと遠ざけた。

「こんな栄養食品ばっかり食ってっと余計貧弱に見えんぞ。ほら、飲め。つまみも食えよ」

どうにもこのKという男は物好きである。私に構ったところで一体何の得があるというのか、よく声を掛けてくる。私は仕方なく、Kが持ち込んだつまみを箸先で摘んで一口食べた。…味が濃い。白菜の漬け物は嫌いだ。日本酒で味を誤摩化そうとしたら、久々に飲んだ所為かアルコールが勢い良く回った。脳味噌が鈍く弛緩する。水が欲しい。コップに水を汲んで来ようと立ち上がろうとして、Kに腕を掴まれ、再び座らされた。

「飲み始めたばっかなのにいきなり醒まそうとする奴があるか、もうちっと飲め」
「私は下戸なんですよ」
「飲めば下戸も下戸じゃなくなる。飲め飲め」

滅茶苦茶だ。この男はもう酔っているのではないだろうか。私はコップに注がれた日本酒に軽く口をつけてから、今日のことを口にした。愚痴りたかっただけなのかもしれないし、好奇心から聞いてみたかっただけなのかもしれない。

「Kさんは、矛盾したことがありますか」

あの後、神崎真奈美は自分は矛盾していると言ったのである。けれど人間はそういうものなのだとも言っていた。
…私は、今日になって自分が矛盾してばかりいるように思えてならなかったのだ。もしかしたら昔からそうだったのかもしれないし、分からない。ただ今日は無性に自分の記憶が疑わしく感じられた。考えたことと、記憶が矛盾していた。…偶然なのだろうか。人間の記憶は、そういうものなのか。
Kはきょとんとして私を見ると、やさぐれたように笑ってみせた。彼は大柄な所為か、どことなく乱雑なイメージが付きまとう。

「そんなもん年中してら。いちいち気にしてたらしょうがねえだろ」

そして適当な男だ。そんなものでしょうかと言えば、そんなもんだと返って来る。
私はコップの日本酒を飲み干すと、一旦コップをテーブルの上に置いた。飲み過ぎると本当に潰れる。が、…すぐさま注がれた。

「…ちょっと」
「変な事件ばっかで疲れてんだろ?飲めばいんだよ飲めば。自制する必要なんてないの」

彼は私の顔を覗きこんで、にいっと笑った。朗らかという言葉はこの男のためにあるようなものだ。またしても仕方なく、Kが日本酒を注いだコップに口をつける。ペースが速過ぎる。世界が回る。座っているのに回るだなんて酷い酔い方だ。いつもはもうちょっと、保つのに。

「お、おーい、H。もう潰れたのか?いくらなんでも早すぎんぞ」

眠い。回ってる。眠い。寝たい。いや、水を飲めばまだ保つだろう。私はKに水を持ってくるよう頼んだ。水道。瞼が重い。駄目だ。横に、



『危ないなあ』



一気に酔いが醒めた。
私は起き上がり、辺りを見回した。自室。居るのは私とKだけだ。やはり幻聴なのか。
Kは驚いた顔のまま、コップを静かにテーブルの上に置いた。静まり返った部屋の中で、その微かな音だけが奇妙に響き渡った。