02. A daughter of the matricide













先日、長谷川の事件を担当した私は著しく体調を崩した。
例の記憶改竄ウイルスの影響であることは想像に難くない。主な症状は吐き気と目眩の神経系。他は特に異常なし。
ただ例の幻聴がいつもにも増して煩わしい。私の名を呼ぶ見知らぬ男。伸ばされる腕。ノイズがかった映像が網膜の裏に張り付いている。映像の中の私も手を伸ばそうとする。…これは私の経験ではない。別の誰かのものなのか…だとしたら何故それが私の意識に混じり込んでくるのか。やはり理解には達しない。情報が少な過ぎるし、主観的過ぎる。

「………    」

ドアの向こうから声が聞こえたような気がして、私は瞼を持ち上げた。誰かいるのか。
ベッドから身を起こし、ドアの前に立つ。今思えば不思議だ。誰か用事があって来たのなら、ブザーを押して知らせてくるはずなのだから。この時点ではブザーも鳴らされていなかったし、ただの通りすがりであったかもしれないのだ。なのに私はドアの前に立った。まるで、何かに呼ばれたかのように。
私はドアを開けた。カメラで確認もしなかったのだから不用心この上ない。そして其処には誰もいなかった。ただ、一枚の紙切れが落ちていた。誰にでも読める巫山戯た英文。同時に耳許でその内容を誰かに囁かれたような気がして、私は辺りを見回した。誰の気配もない。ただこの紙切れを置いて行った人間が、間違いなく私の知らぬ記憶を掻き乱している男であるという確信があった。私は制服に着替える間も惜しんで、その男を捜しに行こうとした。まだ近くにいるはずだ。
しかし、そこへ司令が来訪して私は足止めされた形となった。

「調子はどうだ」
「いえ…あの、司令」
「なんだ」
「途中、誰かと擦れ違ったりは」
「知らんぞ。誰かと会う予定でもあったのか」
「そういうわけではありません。…失礼致しました」

ならばこの紙切れを置いて行った男は何処に消えたというのか。これすらもまやかしだと言うのか。
司令はどこか私の様子がおかしいとでも思ったのか、気遣うように私の肩に手を置いた。
「顔色が悪いぞ。部屋に戻ったほうがいいんじゃないのか」
司令は白髪で四十代半ばといったところだろうか、私が此処で働き出す前から勤めている面倒見の良い人だ。
私は眉を顰めつつも、尋ねてみた。

「司令…司令はご自身の記憶に絶対の自信がお有りですか」
「ん?私の言ったことを疑っているのか?」
「先程お窺いした件とは関係ありません。ただ…他人の記憶が自分の記憶に混じって来たりなどは」

司令は憮然とした面持ちをしている。怒らせたのだろうか。ただ、記憶とは当然こうあるべきだという私の中の概念と他の者の考えにずれがないとも限らない。自分の常識が必ずしも他の人間にとっても同様でないのと同じように。

「普通の人間に他者の記憶が混じることはない。万が一混ざったと思ったとしても錯覚だ。違うか」
「勿論、そう思います」

錯覚…?司令が言おうとしたのは他者から伝え聞いたことを自分のことのように思ってしまうということだ。だが私のケースは錯覚なのか。例え何か別の媒体から得た情報を歪めて取り込んでしまったのだとしても、それを頻繁に繰り返し思い起こすようなことは有り得るのか。
私は司令を見送ったのち、紙切れを再び取り出した。愛の言葉。私の記憶が錯覚ならば、これは何だというのか。第三者による悪戯なのか。ましてや、幻聴まで聞こえるのだから錯覚だとしたら相当の重症だ。夢だけならまだしも、声は現実にまで侵蝕して来ている。診療を受けようものなら精神病患者のレッテルを張られるのがおちだ。私自身、自分が狂っているのかそうでないのか判断に苦しむところだ。

「おい」

自室に戻ろうとして、不意に声を掛けられた。同期の男だ。本名は知らない。自分自身の本名すら知らないのに他人のものを知るわけがない。本名自体は昔はちゃんとあったのだが、この仕事に就く際に記憶から消去された。…此処では専らアルファベッドで呼ばれている。私はHで彼はKだ。アルファベッドの文字と名前の頭文字及び序列とは何ら関係はなく、欠番が出たらまた新しい人間を入れる。

「病気だってのに寝てなくていいのか」

彼は大袈裟に花束まで持って来ている。私は彼を自室に招き入れてからそれを受け取ると、簡単に花瓶に生けてベッドに腰掛けた。彼は喋り出した。

「例のウイルスの件。俺の見張ってた奴も死んだ。話によれば他にも一名犠牲者が出てるらしいぜ」
「出元は」
「不明、だ。上に連絡はいってるらしいが何も情報が下りて来ない。さっき司令と擦れ違ったんだが、お前何か聞いたか?」
「その件に関しては何も」
「なら何の話をしたんだ。随分こうぶすーっとした顔だったぜ」

彼は思い切り口を突き出して見せた。彼は一見大柄で頑健だが、その態度は飄々としたものだ。私は目眩を堪えて立ち上がると、彼のために茶を出した。喉が渇いていたのか、彼はあっという間にそれを飲み干した。

「単に最近誰かに愛を囁かれたことがあるかとお聞きしたんです」
「愛?なんでえまた」

私は簡単に最近起こる現象について話した。この男に話したところで何の害にもならないと踏んだのだ。まさか精神病院に行けとは言うまい。私としては、何か取っ掛かり、突破口のようなものが得られれば何でもよかった。
だが、彼は口を尖らせたまま、「愛ねえ」と呟いたっきり首を傾げている。

「なんでよりによって女性でもなく知らねえ男なんだ」
「自分の記憶だという感覚はあるのですが、その経験そのものに覚えはないんです」
「そう言われたって俺には理解不能だよ。記憶はあって経験がないと。その言われた誰かの隣にでもいたんじゃねえのか」

…一理ある。しかし、紙切れが。あれは偶然の一致なのか。
彼はふうんと私を眺め回してから、お手上げだと言わんばかりに両手を上げた。
「わからん」





翌日になって私は現場に復帰した。
一人目は勉強のノイローゼから殺人を犯した男性である。

「杉田さん。聞いていますか」

先程から杉田はずっと沈黙している。
長く垂れた前髪は鬱蒼とし、その痩けた頬を余計貧相に見せている。
私は目元を軽く揉み解してからもう一度口を開いた。症状は完全に治ったわけではない。

「お話いただけないと、こちらとしてもお帰しするわけにはいかないんですよ」
「……」
「黙秘されるのも結構ですが、時間が長引くだけということを承知しておいてください」

好き好んで此処に滞留する者はまずいない。彼らからしてみれば、自分自身が絶対的な優位にあって、裁かれることはないと知っているのだから長く沈黙する理由もない。ただ時折こうして口下手なのか話せば死刑だとでも思っているのか、なかなか話し出さない者もいるわけだが。
杉田は髪を掻き、俯いたままぼそぼそと話し出した。

「……僕は、今は…とてもすっきりとした気持ちです」
「続けてください」
「おふくろは毎日僕に勉強しろとばかり言っていましたから…いなくなってくれてとても嬉しく思います。これで僕の自由を邪魔する者はいない…」

杉田はにやけている。『おふくろ』のいなくなった日々を空想しているのだろう。視線が虚ろだ。
私は彼の供述を記録しながら質問した。

「ならばお亡くなりになった方に対して謝罪する気持ち等はないわけですか」
「ないですよ。おふくろは殺されて当然の人間だったんです」
「なるほど。彼女はあなたの市民生活の権利を侵害したわけですね。しかしそれはあなたも同じではないのですか」

途端に杉田は不貞腐れた顔をした。いささか強引に話を持って行ってしまったが、そうでもしなければ空想の世界にいってしまいそうな男である。

「それはエリートさん。僕に反省しろって言いたいんですか」
「していただけないようであれば、こちらもそれ相応の対応をとらせていただきますが」

殺人の場合は記憶の消去である。杉田は青ざめて唇を大きく歪めた後、大きな音をたてて立ち上がった。額に青筋が浮かんでいる。私は座ったまま、それを見上げた。市民が暴れた場合、危害は加えず可及的速やかに取り押さえなければならない。

「杉田さん、落ち着いて下さい」
「僕は嫌だぞ!あんな女のために反省するなんて!」
「でしたらこちらで記憶を消去する、という流れになりますが」

杉田は嫌だ、と喚いて彼自身が座っていた椅子を持ち上げようとしたので、私は立ち上がり部屋の隅まで後退した。肩の高さにあるスイッチを押す。すると天井からスモッグが噴射されて、杉田は床の上で居眠りを始めた。私はハンカチで鼻と口を押さえたまま、入り口を開けて執行部隊を招き入れた。杉田は反省を拒んだのだからやむを得ない。一般に罪を犯した彼らは記憶の消去を極端に嫌がるが、記憶がない状態になってもきちんと生活出来るよう環境は整えておくことになっているのだから、それほど不安がる必要はないのだ。なのに彼らは記憶を失くすことを恐れる。何故か。失くしても失くしたと気付かなければ何の問題もないではないか。
私は運ばれて行く杉田を遠巻きに見遣ってから、乱れた机等を定位置に直した。
ドアが開かれて、次の犯罪者が連れて来られる。連れてくる人間とは何の言葉も交わさない。
小さな少女。椅子に腰掛けた彼女に私は問う。

「神崎実穂さんですね」
「そうよ」

少女は落ち着き払った様子で肯定する。調査書によると神崎実穂、年齢七歳。罪状…殺人。親殺し。周囲の証言、あくまでも娘の殺人であることは伏せ、母親が死亡したことに関し。事件前に特におかしな様子は見られなかった。母子ともに大変仲睦まじい家庭であったため、娘が可哀想である。…、…!

私は少女を押さえつけた。
少女の手には、最新式のレーザー銃。何故だ、凶器の類は聴取前に没収されているはず。ましてや、このような子供がどこで。
少女は私の疑問を見透かしたかのように口を開いた。

「もらったの」
「…誰に」
「黒い髪のお兄さんに」
「どこで」
「お外でよ」

少女の顔は陶器のように青白く、人形のように整っている。無表情というわけではないが、その口調や表情からは自分を取り囲む全てに対する諦観が読み取れた。近頃の子供は遊びも快楽も容易に与えられ、不都合のない生活で何一つ思い悩むこともない、思考が単純化する傾向にあると言われているが、この少女に限ってはその傾向に当て嵌まらないように思われたのである。
だが、それよりも。少女のことも無論蔑ろには出来ないことではあるのだけれども。
少女は私の手にある銃を見上げながら微笑した。

「取り締まりのお兄さんにプレゼントしてあげてって言われたのよ」