01. A man who doesn't have memory






記憶の一部分が欠損している。
私は長谷川が浴室に向かうのを目の端で見送ってから座椅子に寄りかかった。
ウイルスが記憶の喪失に関係しているのは間違いない。
視覚から脳へ作用するものだということは、この身を以てして体験済みだ。
おそらく長谷川も私同様、メールを開いて感染したのだ。
だがいったい、何者が何のためにこのようなウイルスを長谷川に送りつけたのか。
長谷川に特定したわけでなく、不特定多数の人間に送ったのか。
長谷川のパソコンのセキュリティは彼自身が良くも悪くも時代錯誤な人間であることからも分かる通り、程度は低い。
しかしそのメールアドレスは他人に推測されやすいものではないし、実質悪戯メールの類いは他に来ていない。
つまり相手の人間は長谷川に限定してウイルスメールを送りつけた可能性が高い。
そしてアドレスを知っているということから考えられ得るのは、長谷川の知人。
が、まだ断定するのは早い。知人はもう一度洗い直すとしても、その他の人間の可能性も否定出来ない。
けれどいったい何のために?長谷川が記憶…事件の記憶を持っていては都合の悪い人物。

いや、と私は思考を整理しようとした。

相手のメールアドレスはフリーメールサービスを介したものだった。
そのフリーメールサービスに登録する際に用いられたのもフリーメールのアドレス。
そこから辿ろうにも、既にそのサービスは停止された後だった。管理者に問い合わせてもデータは削除したの一点張り。
メールが発信されたとされるネットカフェの利用者をリストアップしてみても不審な人物は発見出来ず。
巧妙過ぎる。初め、長谷川の自作自演も考えないわけではなかったが、長谷川のパソコンにウイルスを動かした痕跡はなく、ネットカフェも利用していない。
第一、ウイルスの影響そのものも未だ解明出来ていない。記憶の喪失と一言で言っても、その影響の及ぶ範囲、時間差。
不明なことばかりだ。

長谷川が入浴を終えたようだ。
「羽生さん、一杯どうです?」
彼はビール瓶を手に私の正面にいそいそと座った。短パンにシャツ一枚の姿だ。
私は遠慮しようと思ったのが、なんだかんだと彼は強引でこちらの言うことを聞き入れそうにない。
仕方なく、私は彼の一杯に付き合うことにした。

久し振りに飲んだビールは苦かった。

長谷川は飲み始めて二、三杯でつぶれ、寝息をたて始めた。
私は彼を寝室まで引きずっていき、横たわらせ布団を掛けた。
「…」
畳の匂い。
年老いた彼の身体は見かけ以上に軽く、私は知らず知らずのうちに細い息を吐き出していた。
彼の口から、寝言がぽろりと零れ落ちる。

「……伸久……」

それは、彼の亡くなった息子の名前だった。
彼があまりの愚かさに涙し、見捨てた息子。満足げな横顔。
彼は何故そんなことをしたのか。私は以前、彼を狂っていると思った。
……だが。




何者かは何故長谷川の記憶を消そうとしたのだろうか。
故意的なのか、事件当時の記憶を失った長谷川。事件のことを知られてはならないと思っている、第三者。
…共犯者?記憶を消されたくはない人間…長谷川一人に罪を着せようとした?
殺人自体はシステムにより探知可能だ。自宅や建物内での行動まで把握していないとはいえ、赤外線による体温の変動等は記録されている。
ましてや長谷川の場合路上における通り魔的な犯行。探知は容易だった。しかし第三者の存在…となると果たして。
私は事件当時の現場の映像をシステムより引き出した。
…第三者の存在は確認出来ない。ということは、共犯者はいない…。殺人幇助は?会話の記録はまでは流石に、…いや、会話記録を要求するよりも、長谷川のメールアドレスを知っている人間を探す方が早い。何故気付かなかったのか。
私はシステムに掛け合って長谷川のメールアドレスをキーにネットワークを探索させた。
過去に登録が消去されていたとしても検索結果には表示されるようチェックを外しておく。
私はこれで、フリーメールを送りつけた人間も発見出来るかと思った。何処からメールを送ろうと、その人間が一時はアドレスを記録しておいたのは確かなはずなのだから。ただそれは、メモなどに書き付けられた可能性を覗いての話だ。
長谷川がメモを用いてアドレスを交換し合った人間は、ネットカフェ利用者にはいなかった。無論その利用者周辺の人間にもだ。

つまり私は、ネットカフェを利用しながらも利用者として扱われない、メモすらも用いない、透明人間の寝床を探していたわけだ。
そんな人間が果たしているのか、これまた何らかの政府には知られていないプログラムを利用しているのかどうかは分からないか、その正体を私は掴もうとしていた。長谷川のメールアドレスというキーだけを頼りに。

だが、矢張りというべきか、相手はそれ以上に巧妙だった。
消去した痕跡すら残さずに、相手は私の追跡をかわした。そんな第三者など初めから存在しないと嘲笑うかのように。

そこに、同期から連絡が入った。
『よお、俺だ』
携帯電話越しの彼の声にふざけた気配はなく、私は神経を緊張させた。
『単刀直入に言う。記憶のない犯罪者が増加してるぜ』
「脳へのショック等は」
『ない。いま、お前さんが相手にしてるのと全く同じさ』
連絡を切り、携帯電話を懐に戻す。
記憶のない犯罪者の増加、つまりウイルスの拡大だ。しかしそうなると、長谷川はあくまで第一号であり、特定の個人として狙われたわけではない?
それとも、あくまで長谷川の犯罪に対する目くらましか?…分からない。
仮に前者であるならば、ウイルスの犯人はいったい何のために。

……試されているのか、記憶のない場合の対応を。

記憶がなければ、システムは彼らを処罰することは出来ない。
同時に救済することもままならず。だとしたら、犯人はこれより大きな犯罪を引き起こす可能性がある。
記憶がない状態で、完全なる記憶の消去でもない『廃棄』へと足を踏み入れるかどうか。
廃棄…つまり存在そのものの抹消はこれまで国家への反逆罪でしか行われていない。
それが…記憶のない人間を抹消出来るか?小手試しをしているのではないか?
そうであれば、犯人を早急に確保しなければならない。だが、手掛かりがない。
自由な生活の建前上、いつまでも長谷川に張り付いているわけにもいかない。
…時間がない。どうする。


「羽生さん、ちょっと買い物に行ってきますが…」
「あ…、はい」
「お昼までには戻ります。何か食べたいもののリクエストは有りますか?」

長谷川は昔ながらの財布をポケットに詰め込み、私に笑いかけた。
買い物程度なら見張る必要もないだろう。同期に連絡をもらったことで、私はそこまで彼に張り付く必要を感じなくなっていた。
だが長谷川は私がついてくるのを望んでいるような眼差しで私を見ていた。
…正確には理想の息子の姿を。私は立ち上がった。

私は特に食べたいもののリクエストなどなかった。
ただ、暑かった所為か知らず知らずのうちに冷やし中華に目がいっていたようで、長谷川はそれを買い物かごに放り込んだ。
スーパーの品物は奇麗に並べられ清潔感に溢れており、長谷川は少しばかり浮いていた。
彼は目尻に皺を寄せ、微笑んだ。

「羽生さん、私は嬉しいんですよ」
「…何故ですか」
「息子とはこんなふうに買い物に来ること…いや、出掛けたりすることはなかった。あいつはバイクばかり乗り回して皆に迷惑を掛けてばかりいましたから」
「…」
「それが、私が仕出かしたことが原因とはいえ、貴方のような誰かと一緒に暮らしたりすることが出来て、本当に嬉しいんです」

長谷川は寂しかったのかもしれない。
どんなに物が溢れた現代に暮らしていても、独りになった虚しさは埋められず、時間だけを昔のまま止めようとした。だが、ならば何故殺人なんてことを仕出かしたのか。記憶がなくとも、その芽は以前から出ていたはずだ。 犯罪なんて犯してしまえば現状は一変する。…彼は記憶の消去を望んでいたとでもいうのか?
けれどそれなら、殺人なんてものを犯さずとも、もっと小さな犯罪でも…否、消去を望むだけでシステムは市民の願いを叶えたのに。

ふと、そう思いかけて立ち止まる。
肩入れし過ぎだ。こんな同情にも似た感情を寄せるなど、立場を逸脱している。
彼は犯罪者だ。人々の秩序を妨げた罪人。連続殺人は、その中でもより罪が重い。

「何か欲しい物でもありましたか?」

長谷川も立ち止まり、私が来るのを待っている。
彼はきっと、欲しいお菓子があって立ち止まっている子供を眺めるかのような気持ちで私を見ている。
私は、首を振った。再び、歩き出す。
長谷川もそれを見てから前を向き、パックに包まれたキュウリを手に取った。
冷やし中華に入れる具材を考えているのだろう。私は彼に追いついた。

「おやつにスイカもいいかもしれませんね。一人で暮らしてると、スイカなんて買う機会もないんですが……」

彼はスイカに手を伸ばす。近年主流になった小型のものではなく、昔ながらの大型のスイカに。
私は、「そんなに食べ切れるんですか?」と言いながらも、そのスイカを彼の代わりにカートに乗った買い物かごに入れようとした。
最先端の科学が発達したこの時代になっても、買い物したものは自分で持ち帰らなければならないのかと思いながら。
だがその瞬間、長谷川の喉から何かが押しつぶれたような低い音が漏れた。


「…長谷川さん?」


ぐにゃりと彼の身体が折れる。
思わぬ方向に飛び出した足がカートを引っ掛け、カゴの中身が床に散乱した。
赤々と割れたスイカの身が飛び出し、辺り一面を濁った赤色に染め上げた。

「長谷川さん!」

私は彼の細い身体を抱き起こした。
彼は弱々しい息を吐きながら、私に向かって腕を伸ばそうとした。
見えていないのか、その手は宙をふらふらと彷徨う。

「お、もいだしましたよ……あ、の、ときのことを……」
「黙って!今、救急車を……」
「わ、たしは、…あのこたちが、う、とましか…た」

犯罪者が動機を告白している。
それを聞いてなければならないのに、私はどうすれば目の前の彼を助けることが出来るのかということばかり考えていた。
彼は身体の健康面での問題は何一つなかった!今だって、何故、何が。何が原因で彼が倒れているのかが分からない。

「あの、こたち……をみ、ていたら、……伸久を、お、もいだ…て、し、ま…た、そ、れ、で」
「っお願いですから、黙って、話さないでください」
「のぶひさを、…ころしてしま、った…………わ、たしも、お、ろかなに、んげ……」

宙を切っていた手の指先が、私の頬を掠めた。
私は、その手を咄嗟に握りしめた。彼は、笑って眼を細めた。

「はにゅうさん」

そして何故か、そのときだけ彼の声が妙に鮮明に聞こえて。


「…たのしかっ…た」


握った手が、冷たくなっていった。
……遠くで、救急車のサイレンの音だけが聞こえた。



















『……だが』
私は、彼が息子を愛しているひとりの父親だと思ったのだ。
例えそれが、どんな歪な形であろうとも。