01. A man who doesn't have memory







それからというもの、私は徹底して長谷川の傍を離れようとはしなかった。
彼が散歩に行く時は付いて行き、彼が会話をした人物を一人残らずマークした。
人から人へ、家族関係友人関係隅々まで調べ上げ、記憶の喪失に関連しそうな人間を探し出そうとした。
…だが、一週間経っても、長谷川の交友関係に不審な人物は浮上して来なかった。
人間の記憶がそう簡単に奇麗に消え去るはずがない。
病気でも人為的なものでもなければ、いったいなんだというのか。
彼の不可思議な記憶の喪失は、システムへの挑戦でもあった。
いくら犯罪を犯しても、記憶がなければ裁くこともままならない。
私は行き詰まりかけていた。

「羽生さん」
「何か気になることでも?」
「いえ、そうではなく…夕飯をご一緒していただけないかと」

一週間も経つと、長谷川も慣れて来たのかおどおどとした様子はなくなっていた。
私は彼の申し出を断り、一週間前と同じ返答をした。一週間ほど前、つまり私が彼の家に居座るようになった日にも似たような遣り取りがあったのである。

「食料は持参していますから」

そしてゼリー状の栄養食品と水のみで私は一週間を過ごした。
政府より支給されるそれは、栄養学的には全く問題はない。
だが今日の彼は、以前とは違った、明らかにそれを不服とした態度をとった。

「一週間ずっとそれでは身体に良くないですよ」
「しかし、長谷川さん」
「いいから、こっちに座ってください」

彼は私の腕を引き、ちゃぶ台前の座布団へと座らせた。
いつのまに用意したのか、料理は二人分並んでいた。昔ながらの日本食と呼ばれる代物。
正面に座る彼の顔を見れば、頑固そうな面持ちで口を引き結んでいた。
……何か言いたげだ。

「羽生さん、私は一週間貴方と生活を伴にして来ました」
「…そうですね」
「貴方は私が犯した罪を忘れてしまっているから、私のところに居てくださる。それは分かっております」

私は少しばかり驚いた。
政府の人間に居座られて、「居てくださる」と言う人はそうそういないだろう。
大部分の人間であれば、表面上はどうであれうっとおしいと感じるのが本音だ。
ましてや一週間、長谷川を見張り彼の人柄はおおよそ把握している。彼は嘘はつかない人種だ。
殺人事件とは結びつくはずの無い、気遣いというものを持った弱者然とした男。
それが私の下した彼の人間像だった。

「けれども貴方の生活は私の目に余ります。どうぞ私を見張るなら、見張ってください。ですが食事くらいはちゃんと取ってください」

だが更に彼は、この住居と同じように、昔の日本風の食事…『きちんとした生活』に拘る人だったようだ。
初めは見知らぬ間に罪を犯した負い目もあり、戸惑い、慣れず大人しく引き下がったが、この一週間で忍耐が限界に達したのだろう。
つまり私の栄養食品だけで済まされる食生活が我慢ならなくなったと、そういうことだ。

此処で彼を怒らすのは、あまり得な判断ではない。
私は「分かりました」と彼の主張を受け入れた。犯罪者の出した食事を口にするのはいささか憚られたが、この場合はやむを得まい。
すると長谷川は、急に首を項垂れた。

「すみません、羽生さん。失礼なことを言ってしまって…ですがどうしても亡くなった息子を思い出してしまって…」

データによれば長谷川には十七歳で事故で亡くなった息子が一人いる。
項垂れた彼の目元に、何かがきらりと滲む。私は口を噤んで、彼の話を聞いていた。
息子が亡くなったとき、何故彼は息子を生き長らえさせようとしなかったのだろうか。
現代の医学ではどんな状態であろうとそれは難しくはない。何故、悲しむくらいならそういった手を打たなかったのか。私がそう考えたのを察したのだろう。彼は泣き笑いめいたものを顔に刻んだ。

「息子は生きたいと言いました。私も、現代ではそれも不可能ではないと知っていました」

けれど。次に浮かべられた長谷川の全てを悟ったかのような表情に、私は悪寒さえ覚えた。
人間は、理解できぬものに恐れを抱くらしいが、私自身その瞬間の彼を理解出来ないと思ったのだろう。
何故なら長谷川は、

「ですが私は息子に、生きるな、と告げ、彼の生命を断ち切ったのです」

と言い、満足げに微笑んだのだった。徐々に変化する彼の表情に、私はおぞましさを感じた。
亡くなった息子を思い出すと言って泣き、その直後に息子が死んで満足だと微笑む。
人格が分離しているとしか思えぬ変化。いっそ彼の記憶がそれで消えているのというのなら話が早いというのに、彼は決して多重人格者ではない。
一つの人格を持った一人の人間だ。率直に言うと、私は困惑した。
例え息子が出来の悪い人間だったとしよう。それで彼は息子を見放した。ならば何故今頃になって悲しむ。
本当は生命を断ち切りたくなかっただなどとは言えるはずもない。そんな笑顔をしておいて。

私がそう問い掛ければ、…それもまるで犯罪者に対して詰問するかのようにだ、彼は慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
途端に私は反吐を吐きそうになる。無論実際に吐くような真似はしないが。

「羽生さんはまだお若いですね。しかしそんな若いうちから、見方を凝り固めてしまうのは危険ですよ」
「…どういう、ことですか」

こんなふうに聞いたのは何度目か。彼の言う通り、私はまだ若いらしい。だが。

「私は息子が亡くなったのを悲しんでいるわけではないのです。ただ、あまりにも愚かだった息子を思い出して、そのあまりの愚かさを悲しんでいるのです」

これが普通に連想出来る見方なのか。死んだ息子を思い返して、改めてその愚かさを涙する、侮蔑するなどと有り得るか。
殺した悲しみ…愛情が全くなくなるほど、駄目な息子だったということなのか。
泣くのは自虐、それとも憐れみか。悲劇的な局面が窺えないのは、この人が狂っているからか。

「長谷川さん、」
「息子も貴方のように優秀で真っ当な人間であればよかったのに」

優秀で真っ当?
彼の言葉は静かに私の胸の内に一つの疑問となって沈み込んで行った。
…そんな言葉、言われ慣れているはずなのに、だ。
私は黙り込み、目の前に置かれた箸を手に取った。



一向に解決の糸口が見えない状況。
彼は何故、記憶をなくしたのか。それも一時…殺人事件を起こす前から起こした後までだ。
そんな都合良く、人間の記憶が飛んでなるものか。だが実際に彼は、病気や怪我、ストレスでもない何らかの理由で記憶を失っている。
明らかに作為的だ、と言ってもいい。
だがそれが誰の作為によるものなのか、長谷川自身かそれとも第三者によるものか。
第三者であるとしたら、いったい何者だ。周辺の人間関係を洗っても不審な痕跡は全く残されていない。
ましてや長谷川という男は普段近所付き合い、人付き合いはそれほどしていない。
ここ数ヶ月のスケジュールを調べても、会った人間は限られている。
そもそも記憶を失った方法が分からない時点で第三者を絞り込むのは困難である。

「羽生さん」

炎天下。それでも紫外線はシステムのよって除外されているためそれほどの害はないが…の中、私は公園で鳩と戯れる彼を見張っていた。
けれどいつからそこにいたのか、彼が私の真ん前に立っていた。
慣れない暑さで頭が眩んだのだろうか?
彼はずいっとソフトクリームと思わしきものを私に差し出した。

「お暑いでしょう?どうぞ私のおごりです」
「…私のことはあまり気にしないようにと」
最初に言ったはずだ。
だが彼は、怯む様子もなくソフトクリームを私の手に握らせた。
「早く食べないと、せっかく買ったのが溶けてしまいますよ」

…彼は己の理想の息子と、私を重ね合わせて見ているのかもしれない。
けれど理想に当て嵌まらなかった息子はいらないと断ち切ってしまえる彼を、理解をすることは容易ではない。
一種の潔癖。理解する必要がないことだけが救いだ。私にそこまでの権限はない。

「おや、長谷川さん。今日はお孫さんとご一緒ですか?」
「ああ、荒川さん。…そうなんです、……」

細かい遣り取りまでは聞き取れない。
荒川寿夫。長谷川の家からはやや離れたところに住む、この公園を散歩コースにしている男だ。
長谷川との付き合いは顔見知り程度。
その荒川の視線が、ちらりとこちらを向く。他意のない目。

「お孫さん随分ご立派になられて。今年でおいくつで?」
長谷川の促すような視線。一言だけ言葉を発しろということらしい。
「二十二になります」
「へえ、もう二十歳越えてんだねぇ」

わざわざ本来の年齢を教えなければいけないという決まりはない。
私がお愛想じみた笑顔を浮かべてこちらへの流れを塞き止めると、二人はまた世間話に戻った。
久々に口にしたソフトクリームがやたら甘い。
……長谷川に張り付くようになってはや十日。そろそろ上の方が痺れを切らしてきた頃だった。
個人のパソコンへの侵入はプライバシーの観点から喧しく言われているため、なかなか手が出せないのだが、いい加減良い頃合いだ。
現実世界で記憶の抹消に携わる手掛かりがないというのなら、電子世界における彼の行動を調べなければならない。
もしかすれば、電子上における新たな人間関係も浮上してくるかもしれないのだから。

とはいえ、個人のパソコンにはシステムのセキュリティによってロックが掛けられている。
無論パソコン購入以前に、政府の人間のみが知るパスワードも設定してあるわけだが、その解除場面を、一般市民である長谷川に見られるような危険を冒すわけにはいかない。悪用されかねないし、そもそもプライバシーだなんだと騒がれても面倒だ。

よって私は真夜中、長谷川が寝静まった後に彼のパソコンへのアクセスを実行した。
薄暗い部屋の中、デスクトップの明かりだけが煌煌と輝く。それでも長谷川が起きないよう、多少のアルコールを食事に含ませておいた。
彼の足跡を追跡し、消去されていた履歴の中にも怪しい点がないかを確かめる。
一見すると何の変哲もないパソコンだった。だが。
一通。メールが消去された痕跡があり、私は眼を細めた。
復元ソフトを用い、彼のメールデータを復旧する。件名、本文ともに特になし。
差出人…アドレス帳には登録されていないメールアドレス。ネット上のフリーメールサービスを介したものらしいが。
…添付ファイル。開いてみれば何の変哲もないウイルスが仕込まれていた。
それ自体は適当に処理しておくとして、もう一つ、怪しげなウイルスを摘出。システムに作らせたアンチウイルスソフトでも正体を判別出来ないらしい。…未発見のウイルスだろうか?とりあえずデバイスに入れて持ち帰っておくとする。
このウイルスメールの送り主も一応調べておく必要がありそうだ。
それ以外には何ら異変は見られなかった。
私はパソコンの電源を落とした。





翌朝。
私は長谷川に出された朝食を口にしつつ、昨晩のことを考えていた。
発見されたウイルス。その影響はこれから調べるとして、果たして目の前の男が記憶を失ったことと関係はあるのだろうか。
たかだか電子上で作成されたウイルスが、現実の人間に悪影響を及ぼすことなど有り得るか?
有り得るとしても、どのような段階を経て記憶のメカニズムに乱れを生じさせるというのか。
物質と電子。不可能ではないが…一般市民がそのようなものを作り出すのは可能なのか。
それとも…未発見なだけで、これも一般的なウイルスと大差のない代物なのか。

「羽生さん、今日はちょっと一人で出掛けたいのですが…」

そんな思考を働かせていると長谷川が声を掛けて来た。
一人で出掛けたい?それはいったい、理由は?
問い掛けようとして、私は口を閉じた。彼の行動パターンを思い出す。…仮想空間か。

「…わかりました」

仮想空間というのはいわば人々の性の捌け口だ。
実際に交接するわけではなく、あくまでも脳で性交を行う。似非快楽とでもいえばいいのか。
衣服を汚すこともない、良く出来た空間ではある。
と、同時にそこは二人連れで行くような所ではない。ましてや、私たちのような不自然な間柄では尚更。
しかしながら長谷川に行くなというわけにもいくまい。彼らの欲求を妨げることは法に触れる。
したがって渋々、私は彼が一人で出掛けることを許可した。
彼が道中接触する人間や歩くルートは調べれば分かることだ。

「けれど万が一何かあればこちらにご連絡ください」
「…これは?」
「私の連絡先です」

千切れたメモに乱暴に文字を書き付ける。
彼はそれを受け取り、お昼までには戻ります、と言い残して家を出て行った。
私は食器を片付け、昨夜採取したウイルスの分析をしようと自身のパソコンを立ち上げた。
未発見の代物。だが昨夜、長谷川のパソコンの電源を落とした後、ウイルスの一部を鑑識に送りつけておいたのだった。
そもそもウイルス等は私の担当ではないし、これで話が済めば簡単だと思ったのだ。
そして案の定、メールボックスをチェックすると、鑑識からメールが一通届けられていた。
それを開こうとして、不意に玄関から「おーい」と呼ぶ声が聞こえてきた。

…長谷川は留守であるし、出る必要はないのだが。

わざわざ長谷川を訪ねてくるような人間はそうそういない。
この時代、セールスなどがあるわけでもない。
手元のパソコンで出入り口付近にいる人間の赤外線、No.情報を調べると、『荒川寿夫』と表示された。
…私は立ち上がり、歩いて行って玄関の引き戸を開けた。

「ああお孫さん、長谷川さんいるかい?」
…孫?
「…祖父は現在、出掛けておりますが……」
「ああ、そうなの?残念だねぇ」
荒川は大して残念そうな様子もなく、帰る気配もない。
…来客であれば、一応中で待たせるべきか。…私はこの家の人間ではないのだが。
何故か私は奇妙な悪寒を感じた。長谷川が息子の話をしたときは違った、また別の。
だがその奇妙な悪寒の正体が掴めない。思考がもやもやし、霧がかっている。
「どうぞ中で…」
ひとまず私は荒川を家に上げることにした。ここで邪見に扱っても(この男の)長谷川の印象を悪くする。
しかし、その瞬間、荒川が私の腕を掴んだ。穏やかだった荒川の雰囲気に胡散臭さが混じり込む。

「あんた長谷川さんの孫じゃないんだろ?」
「何をおっしゃいますやら」
「あの人の孫、昔に見たことがあんだよ。あんたとは似ても似つかなかった」

この男は何を言っているのだろう。
私が長谷川の孫でないのは当たり前だ。『初対面だというのに』何を言っているのか。
体内に蓄積した廃棄物の匂いが、男の口から漏れだしていた。ひどく人間らしい匂い。…人工的、無臭に慣れた身には堪える。
彼は妙に白い歯を剥き出しにして笑った…にやついた。

「あんたあれだろう、政府のエリートってやつだろう。長谷川は事件を起こしたんだ…、違うか?」

事件を起こしたとしても周囲の人間に知られることはまずない。
だが傍に民間人でない人間がいれば…勘付く者もいる。面倒な連中だ。
そして彼らの要求することといえば、大抵決まっている。金ではない。
女性の取締官相手であればその身体、男性の取締官相手であれば、純粋ともいえる暴行だ。
生活すべて衣食住は勿論のこと快楽すらも満たされた彼らが望むのは歪んだ願望。
かつて担当したことのある犯罪者が言っていた。仮想空間とは生々しさ、緊張感が違う、と。
ゲームで我慢出来ないのであれば、最先端の医療があるのだから好きに殴り合いでも何でもすればいいものを、自分が痛いと言って嫌がる。
一方的な殴り合いなど了承する人間など、数えるほどにしかいないだろう。もはや殴り合いでもないが。
今度司令に進言しておこう。今後は生々しさも取り入れるようにしたほうが良いと。

「違います。長谷川さんはここ数日の記憶がないことにお気付きになり、病院に来られた。しかし原因が不明……とまで言えばご理解いただけますか」
「原因を調査するために来た?うそくさいな」
「しかしながらそれが事実です」

長谷川は犯罪者である。
よって彼に対する言葉遣いはそれほど装飾する必要はないと判断されているのだが、一般市民である荒川は別だ。
相手が一般市民である限り持ち上げ、こちらは謙らなければならない。
荒川はふーんと納得していないようにわざとらしく唸ってみせた。
大きな目玉でこちらの顔を覗き込む。

「せっかく澄ました顔のにーちゃん一発やれると思ったんだがな」
「申し訳有りませんが、お引き取りいただけますか」
「わかってるよ」

荒川の後ろ姿を見送り、引き戸を閉め切る。
あの口振りではおそらく荒川は何度も似たようなことをしたことがあるのだろう。
記録等に残すわけではないが、今後荒川に近付く機会があった際警戒するに越したことはない。
何にせよ、荒川はウイルスの件とは関係なさそうだった。

しかし、何かが引っかかる。

何故荒川は私を長谷川の孫などと言ったのだろう。
似ても似つかなかった、などと過去形で話したのか。まるで、私と以前どこかで会ったような口振りで。
そうだ、明らかに彼は私を知っている口振りだった。初対面などではなかった。けれどいつ?
私はいつ荒川と長谷川とともに顔を会わせたのか?一方的に知っているだけなら、孫などと関係付けることは…。
……何かがおかしかった。
まるで私が荒川と会ったことを忘れているかのようではないか。
忘れるも何も、…、冷静になって、此処に来てからのことを思い返してみろ。
荒川という男と、会った?いつ。


…………昨日の一部の記憶がない!


思い返してみれば、昨日の昼間の記憶が奇麗に抜け落ちている。その間に荒川と会ったということか。
何故。心当たりはウイルスしかない。まさかデバイスに移すまでの数分のうちにやられたとでもいうのか。
私は鑑識からのメールを放り出していたことを思い出し、急いでそのメールを開いた。
…案の定、メールの本文には、このウイルスが視覚から直接脳に作用するものであると書き記されていた。