01. A man who doesn't have memory









「貴方を愛しているのです」


一人の男が手を差し伸べる。
其処は通っていた学校の校舎でもなく、住んでいた家の周囲でもない見知らぬ場所だった。




「よぉ、どうしたぼうっとして」
第三者の声に我に返る。私は宙に停止していた箸の先端を急激に意識する。
そうだ、今は食事中だったのだ。いつのまにか、瞑想に耽ってしまっていたが。
瞑想…と言ってもよく分からない。ただ近頃よく脳裏に…何処の誰かも知らない男が、突然自分に愛を囁くといったような、奇妙な映像が何処からともなく落ちてくる。過るのではなく、本当に突然降って湧いたような。
そしてそれは私の記憶なのだ。ただ…私には誰かに愛を囁かれた経験など有りはしない。記憶と経験の不一致。何を言っているのか、自分でも混乱してくる。それを所詮錯覚なのだ、と割り切って日々過ごしている。記憶等多少曖昧なところがあって然るべき…仕方のないものだ。おそらく私は一般市民の間に出回る醜悪なゲームをふとした機会があって眼にした。それが記憶に混じり込んだ、それだけの話。

「かあ、やっぱメシは米でないとな」

そして現在、私の隣に座り大盛りのご飯を胃袋に流し込んでいるのは先程声を掛けて来た、同僚である。
私は一般の高校を卒業後、国家取締養成施設…昔で言う公務員養成所とでもいったところだろうか…にて二年間訓練を受け、現在の仕事、犯罪取締官にありついた。仕事内容自体は時折発生する犯罪者達の対応、だ。それは時として穏やかな話し合いでは済まない場合も含む。
一昔前の職業に例えるなら刑事だろうか。だが、多少毛色が異なる。私たちは話を聞いてやって犯罪者達に反省を促すだけだ。国家に対する反逆罪又は特殊なケースでもない限り、一般市民と同一である彼らを追い回したりはしない。
…この国は、一般市民に一端の自由と悦楽を提供している。危害を加えるなどもってのほかだと法律が定めているのだ。
彼らは働くことはせず日々自由気侭に暮らし、苦しみもせず死んでいく。死にたくなければ、最新医療をもってして延命を施す。若返り、再び青春を謳歌する。私たち政府の一部の人間を覗いた人々は、皆、そのような暮らしを享受している。
それが成り立つのも、科学技術の発展があってこそだろう。西暦2XXX年の現在、国はコンピュータシステムによって支えられている。
食べ物も快楽も欲しいものはすべて供給される。環境環境訴えていた時代もあったが、現在は共生どころか完全に隔離されている。生態系によって与えられていたものを、私たちはすべて科学で補ってしまった。しかしそのおかげで、いつしか人々は自然がないのが当たり前だと思うようになっていた。私も同様だ。生まれてからこれまで、自然など見たことがない。有るとしたら、工場で栽培された野菜や果物程度だ。あれらを自然…本来のナチュラルな自然というのならの話だが。…人工ミツバチによって受粉されるそれら。

「なんだ、もう食べないのかよ?」
「時間ですから」
「はあ、あー、ご苦労なこって」

彼は米粒を頬につけたまま、気にした様子もなく食べ続けている。
彼と話すようになったのはほんの偶然…単に入所年月が同じで、その年に入所した人間が少なかっただけのこと。
いったい何が楽しいのか、彼は暇をみては私に話し掛けてくる。余程暇を持て余しているのか。
当然私と仕事内容は同じなのだからそんなわけもなく、私としても別段それが嫌というわけではない。
食堂から出る時、彼が私の残した食事を胃袋を収め、満足そうな顔をしているのが見えた。
…途中で考え事さえしなければ、残すこともなかったのだが。



私は一人の男の前に座った。
調査書によると年齢五十七歳、無職。罪状は連続殺人。
罪の重さから言えば、記憶の消去が妥当なラインだ。
むしろ犯罪記録を残すだけか記憶の消去か。その二択しかない。何故か?善良な一般市民を幸せにすることがこの国の方針だからだ。
反省している彼らに鞭打つような真似はしない。否、出来ない。因みに記憶の消去というのは、器のみを残し人生をリセットさせることだ。
彼らは生きようとすれば何年でも生きられる。記憶の消去はその人がその人であった記憶がないわけで、とても喜ばれるものではないが、国家に対する反逆を犯した者に対する存在の抹消よりは『善良な』刑罰だとされている。記憶がないのだから殺されるのも同義だと思われるかもしれないが、周囲の人間の反応は大きく異なる。彼らは器があるだけでも満足する。それも、疎ましかった中身を取り除いた器であればあるほど。被害者遺族は加害者の記憶を消されただけで満足する。被害者は被害者であるが故に新たな肉体へ移されるからだ。生への執着の薄さ。しかも加害者の記憶の消去をなるべく避けるために、犯罪取締官はなるべく彼らから罪の意識を引き出す。記述する。例えそれが紛い物であったとしても、建前に沿えばそれでいいのだ。法がそう定めているのだから。
理屈としてはそうなのだが、私個人の意見としては特に良いも悪いもない。
決まりがあるのならそれに従うだけ、彼らがどんなに落ちぶれていたとしても、私がいちいち激昂するようなことではない。

「お話をお伺いしてもよろしいですか」

男は私の声が聞こえているのかいないのか、全く反応を示さない。
調書を見遣る。名前…長谷川信匡。コンピュータシステムで成り立つこの国でも、犯罪者の対応は犯罪取締官…つまり人間の仕事だ。何故か。単純に一般市民はテレム…コンピュータの人間対応システムのことだ…よりも人間に対応してもらうことを望んでいる。どれだけ人に近しい対応が出来るようになっていたとしても、所詮機械は機械、という印象が彼らにはあるのかもしれない。そして彼らが望めば、法はその通りにする。彼らのしあわせ、だ。
調書、なんてわざわざ紙を使用しているのも、彼らを安心させるため。時にこの電子の世界に馴染めない、落ち着けない人も国民の中にはいるからだ。
散々システムに甘えた生活をしておいてそれはないだろう、と思うのは、人間としての感覚が麻痺しかけているのかもしれない。

「長谷川さん、聞こえていますか」
「…」
「現法律では黙秘権は認められていません。またこちらとしても、お話頂かなければお返しするわけにもいかないんですよ」

長谷川は口を開かない。
この手の犯罪者にはテレムの方が向いているのだが…。私は、男の顔をまじまじと眺めた。
年齢相応の染み、皺。たるみかかった首の肉。茶色い顔。とはいえ、悪人顔ではない。
どこにでもいる中年男だ。しかし、連続殺人という罪状のわりに、その犯罪者に有りがちな図太さも怯えもそして計算高さすらも、見受けられなかった。
…因みに、一連の連続殺人は、通り魔的に見も知らぬ人間に対して行われている。

「…のです」
「…なんですか?」

長谷川は言った。

「私には、記憶がないのです………」




「どういうことです?」
私は聞き返した。そこへ、背後から伸びてきたメモ。一枚の紙切れとセットで。
それはその男のカルテだった。最新の科学では、記憶を映像化することが可能になっている。
だが、この男にはその映像化され得る記憶がないという。…完全に、殺人を犯した記憶が抜け落ちているのだ。

「記憶がないのはいつからですか」
「つい最近…三日…四日分くらいです…。気がついたら捕まっていました……」

頭をかき、男はどうしたらいいんでしょう?と困惑した眼を向けてくる。
記憶がない。つまりそれは、記憶の消去を実行出来ないということだ。
罪の意識のない人間の記憶を消そうだなど言ったところで、法律は罷り通らない。
しかし、記憶がないと分かり切っている男に対し、取締が行われる必要性があったのか。
私は「失礼、すぐ戻ります」と言い残し、一旦部屋を後にした。
すると、待ち伏せていたかのように司令がふらりと姿を見せた。
…司令は私の上司に当たる人だ。

「どうだ、様子は」
「彼は記憶がないと言っています」
「それはそうだ、彼の記憶は見事に抜け落ちている。映像の乱れもなくな」
「…どういうことですか」

映像の乱れもない、という司令の言葉に私は引っかかった。
通常の頭部強打や精神的な影響による記憶喪失の場合、記憶を映像化しようとしても前後の記憶との境が入り乱れている。
つまり映像が奇麗に途切れてしまっているということは、それらのパターンには当て嵌まらない。
司令は私の質問には答えずに、背を向けた。

「お前はしばらくあの男を見張っていろ」
「…不審な点があるからですか」
「そのとおりだ。仮に何ら問題を見つけられなくとも、記憶が戻るに越したことはない」

不自然な記憶の途切れ方。問題がないわけがない。
私は了承し、部屋に戻った。男は机に腕を乗せたまま、浮かない顔をしていた。

「今日はもうお引き取りくださって結構です」
「あの…」
「しかしながら、無罪放免というわけには参りません。記憶がなくとも貴方が殺人を犯したことはシステムに記録されています」

国民は知らぬことだが、国民一人一人に備え付けのIDNo.というものがあり、自宅以外での行動はNo.でシステムに残される。
露見すればプライバシーの侵害だなどと言いだす輩もいるだろうが、自宅や建物内の行動まで逐一記録しているわけではないし、あくまで国民の保護のためだと言えば丸め込める程度だ。しかしながら行動が逐一されていないとはいえ、生体反応や赤外線を確認することは可能となっているため、殺人やら事故やらあればすぐに分かる仕組みでもある。

殺人を犯した。
その言葉を聞かされた途端に、男…長谷川は僅かながら怯えた様子を見せた。

「あ…の、私は、死刑になるのですか」
「現在の法律において反逆罪以外で死刑になることはまずありません。ご存知ありませんでしたか」
「新聞や、ニュースは…あまり見ないものですから」

聞き流し、要求を通す。

「貴方には記憶が戻るまで、これまでと同様の生活を送ってもらいます。ただし、犯罪者ということですので、見張りがつきます。これは決定事項です」
「…」
「けれど記憶が戻ったからといって厳罰に処すわけでもありませんので、ご心配は無用です。尚、今回は私が同行することになりましたので、どうぞよろしくお願い致します」

長谷川は視線を頼りなげに泳がせ、小さく「…はい」と答えた。身長が私より頭一つ分下だ。
しかしながら、この男を見張ることになったのはあまりに突然の命令だった。準備も何もしていない。
したがって、私は一度この男を先に自宅まで帰らせた。例え途中で逃走しようとしても、システムの追尾があるのだから無駄だ。

私は自分の部屋へ戻り、予めいつでも出掛けられるようにと荷造りしておいた鞄を持ち、長谷川の家へと向かった。
住所に従って辿り着いた家は旧式で、隣近所との落差が激しい。塀にはこれまた今どき珍しいツタが蔓延り、玄関など引き戸だった。
一昔以上前にタイムスリップした気分だ。レトロ…懐古趣味とでも言うべきか。
私は引き戸をノックし、声を掛けた。声が届いているかどうかは分からないが、おそらく聞こえているのだろう。中で気配がした。
どたばたと廊下を裸足で駆けてくる音が聞こえたかと思えば、大きな音をたてて戸が開いた。

「いや、どうも、お待たせしてしまってすみません」

長谷川は頭を何度も下げ、私を中へ招き入れた。ちっとも片付いていないだとか、日本人らしい言い訳をつらつらを並べている。
実際、窓枠に指を這わせれば埃がついたし、あちこちにがらくたと思わしきものが転がっていたが。
丸いちゃぶ台を挟んで向き合うと、彼はお茶を運んできますとそそくさと台所へ逃げ込んでしまった。
どうやら全くこの家はシステムの恩恵を受けていないらしい。だが何故彼は好き好んでこのような埃臭い住居に住み着いているのか。
統計により分かっているのは、歳を取れば取るほど、彼らは旧式の暮らしへと戻りたがるということだ。特に男性は。
このご時世、子供の頃に旧式の家で暮らしていたというわけでもないだろうに、人間とは時に理解し難い行動をしたがるものだ。

「本当に、政府のエリートさんをお招きするには心苦しい住まいですが」
「いえ…」
「私の親父もこんなふうな家に暮らしていたもんで、私自身、新しい家にしようとしても何だか落ち着かなくてですね」

あまりに物珍しげに眺めていたせいか、長谷川は恥ずかしげに頭をかいている。
私は出されたお茶を啜りながら、この部屋に上がり込んだ時のことを思い出していた。
このちゃぶ台を中心に、部屋の右隅にはテレビと本棚。反対側には、積み上げられた本に隠れてはいたものの、パソコンが一台置かれていた。
…ニュースも新聞も見ない男が、パソコンを置いているというのはなんだか奇妙だ。
ネットに繋がっていれば、嫌でもニュースは眼に入ってくるだろうに、余程気に入ったサイトしか訪問しないのか。

「長谷川さん、そこのパソコンはネットに接続してはいるのですか」
「あ、はい。一応繋がってはいますよ」
「そうですか…、本題に入りますが、あなたはご自身が記憶をなくされた切っ掛けに心当たりはありませんか?」

ないのだろう。彼はしどろもどろに何か言わなくてはと戸惑っている。
初めから期待はしていなかったため、話を先へ進める。

「数時間前にも説明しましたが、あなたが記憶を取り戻す前で見張っているのが私の役目です。そして取り戻したとしても必ずしも処するわけではない。そこまではご理解してもらえますか」
「その…なぜ、罰を与えるわけでもないのなら、私を見張る必要があるのですか」
「罪状自体は十分刑罰に値するからです。しかし、刑罰の有無はあなたのご返答次第だ」

もしかすると、理解してもらえなければ刑を執行すると聞こえたかもしれない。
だが訂正するほどのことではない、と私は肩を竦めた。
縮こまりながら、男は首を縦に下ろした。…高齢期を前にした小さな肩、小柄な身体。

「わかりました……その、私はどうしたらいいですか」
「これまで通りの生活をしてくださって結構です。私の存在はお気になさらず」
「あ…は…はい」

人間一人。気にするなというのも無理な話だろう。
私は緩みかけているネクタイを直し、改めて男を観察した。
この任務をシステムのプログラムに任せなかったのは、おそらくプログラムにはない『人間性』を重視した任務だからなのだろう。簡単に言ってしまえば、失った記憶を突いて引っ張り出してこいということだ。プログラムにそんな器用な真似は出来ない。
だが…果たして人間であるとはいえ、そんなことが出来るのだろうか。私はどこか半信半疑だった。
しかし司令がやれというのなら、やるしかない。

「あの…ですが、その、全く気にするなというのも…」
「勿論、記憶に関して気になることがあれば言ってください。あなたの行動に関しても調べはついています」

詳細な人間関係などについては別だが。
すると彼は。

「でしたら…あなたのことはなんとお呼びしたら良いですか」

私は、しばし考えた。
犯罪者の話を聞く際には、アルファベッドの頭文字だけを教えていたが、この男を見張るとなると、外で話し掛けられる場合も考えられる。個人の罪状や罪歴は隣近所に通達されることはまずない。となると、頭文字だけではいささか不審な眼で見られる可能性も…。
そうなれば、男の尊厳に傷がつく。

「羽生とでもお呼びください」
「羽生…さんですか」
「無論本名ではありませんが、呼ぶときに困ることはないと思います」

冷ややかに突き放せば、男は再び小さく縮こまった。
茶を啜る。私は、彼に日常生活に戻るよう促した。


「それでは、どうぞ『再開』してください」