箱庭世界

第三十夜.夜明け






光。

「鷲宮…!よかった、目が覚めたんだな」
「え?」

誰かの声。薄らとまぶたを持ち上げれば、四つの瞳と目が合った。
「…かずお、みきやす…?」
鈍った脳がそれらを彼らと認識するままに名前を口にする。そうだ、和雄と幹靖だ。でも、彼らは。
小柄な少年が憤る。
「いきなり倒れるんで吃驚したんだからな!」
「たおれた?」
「そうだよ!気持ち悪いなら気持ち悪いって言えばいいのに。熱中症だってさ!なあ、みっちゃん」
「うん。でも意識が戻ってほっとしたよ。鷲宮君、随分長いこと寝てたからさ。今日が休日で良かったな」
嬉し気に同意を求める和雄と、そんな彼を見守るように大人びた顔の幹靖と。何も変わらない。何も、あの頃と同じ。
「そんなぼんやりした顔してどうしたの。…まだ気分が悪いのか?…嫌な夢でも見たのか?」
ゆめ?自分は夢を、見ていたのだろうか。長い長い夢。雫がいて。和雄と幹靖は死んで。…とんだ悪夢だ。
「鷲宮?」
…それとも、これが夢か。
「みっちゃん、俺、鷲宮のおばさんに知らせてくるよ」
駆け出す和雄。人の家の中で走るんじゃない。
「ああ。…本当に、気分が悪かったらまだ横になってたほうが良いよ」
甘みを帯びた栗色の髪。柔らかな面差し。生きているのか、目の前の彼は。あれは悪い夢だったのか。問いただしたい。けれど、夢の中の出来事は自分以外の誰も知らない。
「幹靖…」
「!うわ」
こうして抱き寄せた温もりも未だ覚えている。この肩の細さも戸惑うような口振りも散々愛おしんできたはずなのに、それは自分の頭の中で展開されたことに過ぎないのだ。目の前に佇む彼は、他人に愛撫される感覚も、虐げられる快感も経験したことはない。
「なんだよ、鷲宮君。寝惚けてるのか?」
「ああ、かなりな」
「冗談言ってないで、ほら、離れて。まだ怠いだろ」
そうだ、とてもだるい。暑さにやられて身体が草臥れている所為か、…これが現実だと信じきれない所為なのか。夢の余韻から抜け出せないどころか、妄想を現実だと信じ込んでいる。どうやらあまりの暑さに気が違ってしまったらしい。しかし本当の異常者は自分が異常だということに気付くのだろうか。本当は自分が異常ではないと思い込んでいる時点で、自分自身も異常者の仲間入りを果たしてしまっているのかもしれない。陰鬱で甘美な夢に現実を見失っている愚かしい人間の一人。
「なあ、幹靖…俺の鞄を取ってくれないか」
「?うん」
ファスナーを開け、携帯電話を取り出す。おそらくこれは儀式なのだ。これまでが夢で今が現実だと、素直に受け入れてしまうための。正常に戻るための。これで雫が電話に出たならば、素っ気ない態度を取ってくれたなら、すべてが夢だったと忘却してしまえる。彼らの死を丸投げし、平穏な日常の中、密やかに快感を染み込ませ。以前に見た夢とは違う。自分が望めば永遠に続くであろう日々の安定を感じた。居ようと思えばずっと居られる。それはこれが現実だからなのか?
響き続ける呼び出し音。やがて、無機質な声が喋りだす。”現在この電話番号は使用されていない”。
歪な。和雄に連れられて入ってきた母に尋ねた。彼女とは随分久しぶりに会った…。
「岩崎は引っ越したのか?」
そうでないと薄々気付いているのに白々しく。己の願望を映し出したかのようなこの世界に、彼は。母は訝し気に答える。
…岩崎君は随分昔に亡くなったでしょう?
まるで熱で頭がいかれてしまった息子を見るような目で。…いつでも瞳の奥から消えることのなかった侮蔑。恐れ、同情。彼女と向き合って話すほど、心は醒めていくばかりで。
…ああ、駄目なんだよ。その通り、多分頭がどうかしているのさ。引っ越してきた当初、雫が向かいに住んでいたという記憶がある時点でおかしい。この世界において、自分と彼の接点は過去に限定されている。これで彼の目を潰した罪から解放される逃れられると戸惑いながらでもいい、喜べない自分はどうしようもなく。違和感を誤摩化せない、飲み込めない愚かさに嫌気が差す。
…どうしてすべてを夢だと片付けられない。
こんな楽な現実はない。まだ何も失っていない。なのに、どうしても受け入れられない。




ぐにゃりと世界が歪んで見えた。

「鷲宮…!よかった、目が覚めたんだな」
「え?」

誰かの声。薄らとまぶたを持ち上げれば、四つの瞳と目が合った。既視感。
「…かずお、みきやす…?」
鈍った脳がそれらを彼らと認識するままに名前を口にする。そうだ、和雄と幹靖だ。でも、彼らは。
思考が薄い膜の上を滑っていく。
「どうして生きてるんだって顔するなよ。…俺とみっちゃんだって驚いてるんだから」と、…和雄。
「…死んだこと、覚えてるのか?」
「ああ、息が出来なくなったと思ったら、気がついたら自分の家の布団に寝てて。随分リアルな夢だとも思ったんだけれど、聞いてみたら和雄も同じ夢見たって言うんで、こうして鷲宮のところに来たんだよ」と、言葉を引き継ぐ幹靖。
そしたら鷲宮は熱中症で意識不明になってたんだ。そう言って彼は肩を竦める。和雄はべたりと幹靖に張り付いている。目尻が赤くなっていて泣き腫らした後のようだった。あのような死に方をしたのだから当然かもしれない。
「つまりどういうことなんだ…?」
「俺達は夢を共有した。若しくはあの世界と元の世界だと思っていたこの世界は両立していて、何らかの拍子にこちらの世界に戻って来れたってことなのかもしれない」
「何らかの、拍子…?」
…櫻井の、死。それを切っ掛けに重複していた世界が消滅し、かつての世界へと自分達は収束されたということか。整然と辻褄まで弄られ、まるで何もなかったかのように。…いっそのこと、記憶まで消えてしまえばよかったのだ。櫻井が死んで、どうして喜べよう。愛は相手のために死ねるかだと耳にしたことはあるけれど、彼の場合は情ではないか。この際愛だの情だのどちらでも良いけれど、やはり死なれても嬉しいと思えなかった。…とはいえ、彼が死ななければこの世界には戻れなかったのだ。さすれば自分のために捧げられた彼の死に感極まって涙するべきか?馬鹿な、…馬鹿だ。迷惑だ、そんなこと。
唇を噛み締め、ふと浮上してきた疑問を口にする。
「今度こそ、これは現実なのか…?」
「うん。随分と向こうの世界にいたもんだから、俺達もなかなか実感湧かなかったけどな」
「よ、かった」
のかは分からない。けれど、もう二度と会うことは叶うまいと思っていた和雄と幹靖に会うことが出来て、もはや言葉に出来ぬほどの嬉しさが込み上げる。しかし、先程の夢見が悪すぎた所為か、背筋を虫が這うような気持ちの悪さが付きまとう。雫が何処に居るのかさえ分かれば、この感覚もいずれは消えるだろうか。
「…し、…岩崎は?」
「…鷲宮が戻ってきてるんだから、今頃自分の家に居るんじゃないかな。ちょっと様子を見てくるよ」
立ち上がろうとする幹靖。不意に擡げた喪失感に、思わず声を荒げた。
「駄目だ…まだ行くな!」
訝し気に振り返る幹靖。和雄も驚いたように赤い目を見開いてこちらを凝視している。…ああ、本当に夢みたいで苦痛なんだ。
「…鷲宮?」
「…悪い。ちょっと電話してみるから…それからで良いだろ?」
これで彼が電話に出なかったらどうするつもりなのだろう。これは先刻の夢でも言えることだった。万が一記憶の符号と正しくないことが起こったとしてもだ、それは世界の移行の際に、雫が上手くこちらの世界に渡れなかったからという説明で片付けられてしまう恐れがあった。そうなってしまった場合、自分はどうするつもりなのだろう。彼を見殺しにする?まさか。けれど、消えてしまった世界に居る彼をどうやって連れ戻す?
…物事を悪く考え過ぎだ。これだけ整合性の取れた世界なのだ。二人にも記憶がある。…雫もきっと、居てくれる。
電話番号が思うように押せない。漸く発信するも、極度の緊張からか背中がむず痒くてたまらない。
途切れた音。
「…岩崎?」
『ああ』
「…よかった、お前もこの世界に戻れたんだな…!」
思わず携帯を握り締め、電源を落としそうになる。つい嫌な想像をしてしまったが、現実もなかなかどうして捨てたものではない。電源を切らぬよう、携帯電話を左手に持ち替える。周囲に視線を走らせれば、幹靖や和雄が何気ない様子で其処にいる。臆病な感情が心底に潜り込み、歓喜が思考の表面を覆う。
これで唐突に強制終了さえ迎えなければ。
「体調は大丈夫なのか?もう、何ともないのか?」
『…緋田や秋草は其処にいるのか』
「!…ああ、あの世界で定義された死は、この世界では必ずしも適用されるものじゃないらしい」
『…そうか。…春弥、今から俺の家に来てくれないか』
「?あ、うん」
『親は留守にしている。勝手に入ってこい』
返事をしてから、はた、と気がついた。現実…こちらの世界に戻った雫は再び視力を失っているのだろう。でなければ、彼が下手に出るような言い方をするのはおかしい。否、仮に視力のない状態に戻っていたとして、彼が自分相手に諂うことなど有り得ようか。彼らしくもないが…一度得た視力を再度奪われて、精神的に疲弊しているのかもしれない。そう考えると背中に嫌な汗が垂れた。まだどうすれば償えるのか、方法を見つけ出せていない。あの世界では薄れかけていた自分の仕出かした行為の重さが、ずしりと両肩にのしかかってくるようだった。
通話を切り、幹靖と和雄の方へと向き直る。
「岩崎の家に行ってくる」
「まだ顔色悪いし、俺か和雄が代わりに行った方が良いんじゃないのか」と、幹靖。
「いや、俺が行く。…この眼で無事を確認しないと落ち着かない」
それに幹靖や和雄が居ると確かめた上で、雫は自分を名指ししてきたのだ。立ち上がると、彼は静かに頷いて、「じゃあ玄関まで送る」と腰を上げた。和雄が一瞬何か言いたげな眼でこちらを見遣ったが、すぐに眼は反らされた。後ろ手に閉まる扉。
階段を下りる彼の横顔はどこか神妙な雰囲気が漂い、思わず「戻れて嬉しくないのか」と問いただしたくなった。そういえば彼は自分が目覚めて以来、あまり嬉し気な顔はしていない。生きているという事実に戸惑っているだけなら良いのだけれど。
彼の指に自分の指を絡める。彼はこちらを振り返ると、綺麗に微笑して指を絡ませ直した。…その表情から滲み出るのは寂寥感?何故だ。…胸を締め付けられるような感覚に、眼球が火照る。玄関まではあっという間にたどり着き、指は自然とほどかれた。…甘く痺れるような名残惜しさだけが指先に残る。
外へ一歩踏み出すと、懐かしき太陽が全身をじわりと焼いた。眩しくて見ていられない。当たり前のように擦れ違っていく見知らぬ人々の姿に、知らず知らずのうちに息を吐いていた。どう見ても普通の光景だ。当然の、有り触れた日常を切り取った場面。
呼び鈴を鳴らす。鍵のかかっていない扉を開き、つい先日まで勝手気侭に歩き回っていた家に足を踏み入れる。他人の家の匂い。眼の見えぬ彼を慮ってか、廊下や階段には余分な物一つ置かれていない。いつのまに取り付けられたのだろう手すりが目新しい。…あちらの世界に居た頃は、そんなことに一々関心を払っていたかどうか、気がつかなかっただけで余裕がなかったのか。背中のむず痒さが酷くなった。
足裏が馴染まない。疲れているのか、視野に映った影がぶるんと水分を含んでふるえた気がした。この薄気味悪い記憶は当分自分に付きまとうのだろう。自然に回復するのを待つしかない…彼の部屋の扉をノックする。「岩崎、開けるぞ」。

扉を開けると、其処にはまっくろい空間があった。

初めは彼が部屋の電気を付けていないからだろうと思った。しかし、それにしては黒の濃度が高過ぎた。伸ばした自分の腕先さえ見えない。後退して日の差し込む廊下に逃れようとしたけれど、後ろに扉はもうなかった。
「雫…?」
恐怖が全身の皮膚の表面に張り付く。壁。カーペット。何もない、なにも。
不意に柔らかい指が、まぶたを覆った。震撼する神経。押し上げられるように眼鏡が浮いて、柔らかな指が強くまぶたに食い込まんとした。理不尽な圧力に眼球が行き場をなくし、歪みそうになる。ぶるり。自己防衛という名の暴力性が、容赦なく己に攻撃を加える人間を押さえつけた。柔らかい手首。荒い息のまま、身体が過剰な震えを繰り返す。握り締めている手首がへし折れてもかまわないとさえ思っていた。
激しい息遣いの収まる頃、己のまぶたの膨らみに触れた。眼球はちゃんとある。丸みを帯びて其処にある。けれど、引かない痛み。悪寒。

真下で、二つの宝玉が輝いた。

正確にはそれは人間の目だった…途端に身体の奥がざわざわとしだして低い呻きを漏らす。電磁波のような光がまぶたの裏で散った。冷静な自分はこれが変態的な感覚…一般の人間とはずれた感覚であると知っていた。しかし、指先に焼き付いた甘美な感触を忘れられないと叫ぶ剥き出しの自我が急激に膨張し、脳内を渦巻く。どれだけ反省の弁を述べ、理性的に己を留めようとしたところで、幼年時に経験した快感の味は記憶の根底、人格の形成部分に根付いてしまっていて。だからこそ彼は、自分の弁を受け入れようとしないのかもしれなかった。
「しずく」
押さえつけた身体の柔らかさに身震いする。幼い肢体。暗闇の中に退行した彼の身体が薄らと浮かび上がり、思わず言葉を失った。
これはゆめなのか?それともげんじつでかれだけゆがんでしまったのか?
彼と離れていた頃、脳裏に描いたそのままの姿で彼は其処にいた。双眸がダイヤモンドのようにきらめく。彼の手が誘うように自分の手に彼の眦を触れさせた。高揚のあまり冷や汗がどっと噴き出す。突き入れれば生温い感触がするのだろう。骨の硬い窪みがより穴の感覚を深め。愛おしさが体中の神経から溢れて指先を震わせる。もう二度と体験出来ないと思っていた快楽を貪れる。そう思うだけで身体の芯から熱くなる。きっとそのために幼い頃の彼がこうして此処にいるのだ。なんて理想の世界なのだろう此処は。まるで昔に還ったようだ。
遠慮等という言葉も知らず、気持ちのいい泥濘に思うがままに頭から沈み込むような。
興奮のあまり激しく脈打つ煩わしい己の心臓を取り除いてしまいたくなる。しかし同時に背中のむず痒さが広がって、我慢出来ずに片腕を伸ばして掻きむしった。すると、指の間からは数えきれぬほどの虫の死骸がぼろぼろとこぼれ落ちた。地べたに散らばったそれらはからからに乾いているにも関わらず、身体の至るところからぶるりとゼリー状の液体を垂れ流す。初め透明だった液体は、やがて部屋を真っ赤に染め上げた。
転がる死骸に死んでいった彼らの姿が重なって見えた。…欲望に打ち震えていた指先から熱が醒めていく。
彼は不思議そうな顔をしてこちらを見つめている。その瞳に、相手を責めるような色が浮かんだ。
「どうして」
目の前の子供の眼に水の膜が張る。昔はこうして彼の泣きそうな顔を見るのが好きだった。だけれど、必ずしも傷つけたところで自分が満たされることはないと知ってしまった。欲望の趣くまま行動して十分過ぎるほどの悦楽を得たと思っても、時間を経れば経るほど埋められない心の空虚さに目を背けていられなくなる。
彼の頬を両手で包み込む。ごめん、と白々しくてもよかった、口に出来さえすれば。
「俺は、相手を傷つけなくても愛せる人間になってみたい」
自己満足のために自分を投げ捨てるでもなく、相手に致命的な傷を負わせるでもなく。そうなる前に、間違いに気付けるような人間に、それ以外の方法で感情を伝えられる人間に。
不意に彼が身じろぎして下を見た。地面が液体になって揺らいでいく。彼の身体が水面に融けて腕の中から形をなくす。
「雫…!?」



世界が暗転する。



…遠くで、誰かの声が聞こえたような気がした。







耳障りな目覚ましの音で目を覚ます。
皺の寄ったシーツの布地を握り締め、身体を起こす。窓から差し込む朝日。微睡むどころか異様なまでに覚醒しきった脳で思考する。これまでに起こった出来事は…子供の姿で現れた雫のことも含めて夢だったのだろうか。…強烈な既視感に苛まれながら、部屋の隅に投げ捨てられた鞄を拾い上げる。携帯電話を開き、着信履歴等を確かめる。あの世界で自分が発信したであろう記録は残されていない…それに今日の日付は、世界がいかれてから一日しか経っていない。電話をかけることは、憚られた。またしてもこれが夢であったらと思うと怖かったのだ。制服に着替え、早々に学校に赴いた。朝食なんて食べたところで、これが夢だったら意味がない。
教室に着くと、普段通りに登校する生徒達を眺めながら、自分の席で彼らが来るのを待った。それでも、多分、予想はしていた。
「……秋草と緋田は昨日交通事故で…」
HRでの担任の淡々とした言葉。どうやらこの世界において、あちらの世界での死は”自然な死に方”に変更されているようだった。…その説明をしている担任が、否、自分を取り囲むすべての人間が、本当に何も知らないのか、覚えていない振りをしているだけなのかは定かではなかったけれども。ただ、春弥がお前らは目玉のついた下手物だったのだと言ったところで、精神に異常を来していると判断されることだけは間違いなかった。
学校を早退し、帰り道、携帯電話に登録された幹靖と和雄の電話番号にかけてみた。当然のように、誰も出なかった。
代わりにというべきか、家の前に一つの人影。
「岩崎…」
声を掛けると、彼は静かに顔を上げた。手に持たれた杖が何を意味しているのかを気付かぬ程鈍くはない。彼は以前と同じように、この世界にいる限りは盲目の人間なのだ。…自分がそうした。そして、ふと不安が過る。果たして、彼は目覚める前まで自分とともにあちらの世界に居た”彼”なのだろうか。それとも、この記憶を持っているのは自分だけで彼も何もかも知らない又は忘れてしまっているのだろうか。…だとしたらどうする。何が変わる?彼は以前と同様自分を憎んでいるのだろう。もう彼から逃れるつもりはなかった。
彼が沈黙を破った。
「お前はこれで良かったのか?」
「…え?」
「再構築される世界の選択肢は他にもあった。俺の目を潰しさえすれば、お前は別に再構築された世界に居られたはずなんだ」
俯いた彼の肩は、よくよく目を凝らさなければ分からないほど微かに震えていて。ああ…そういうことか、と合点がいった。おそらくこれは夢ではないのだ。また、繰り返された世界も夢ではなかった。選ぼうとすればきっと選べたと。とすると、この世界を選ばないことも、もしかしたら可能なのかもしれない。
「だとしたら、もっと世界を繰り返しさえすれば、彼奴らとお前と両方が居る世界に辿り着けるのかもしれないな」
「…」
…だけれど。
「どれだけ記憶や存在を配置し直したところで、きっと不自然なんだろうな。無理をすれば何処か軋む。だから、…もういい」
自分の記憶を消し去れない限り、違和感はぬぐい去れないのだろう。そして、何度繰り返そうと、すべてが望み通りに収まることはないであろう予感もしていた。
その結果、春弥はこの世界を選んだのだ。自分の仕出かしたことをなかったことにするのではなく、きちんと向き合いたかった。本当の意味で彼までも失ってしまいたくはなかった。
「雫、」
「…昔のことは忘れろ。俺の目のことをお前が気にする必要はない」
「雫?…」
なのに、どうしてそんなことを言う?唐突にこれまでの発言を撤回され、戸惑う。雫は目を伏せたまま、続けて言葉を紡いだ。
「俺にはこの結果を引き起こした責任の一端がある。だから帳消しにしてやると言っているんだ。それでも気に入らないのなら、お前の前から消えてやってもいい」
そう言い終えると、彼は春弥に背を向けようとした。離れていく背中。何故。あちらの世界にいたとき、否、子供の頃から今に至るまで、彼の心情等ろくに考えたことはなかった。あっても自分の仕出かした行為に直結しているときのことばかりで、彼が何を思って過ごしていたかなんて推量することも出来なかった…しなかったのだ。自分に余裕がなかったと言い訳したところで、彼の人間らしさというものに気付かないようにしていた。彼は自分と違い、達観したところから物事を見ているのだと思い込んで。だから彼の言葉が理解出来ない…幼馴染みという近い間柄にいるくせに、自分はそんな基本的なことさえ怠っていたのだ。雫に対してだけではない。誰に対しても、…人間が一人一人考えていることにまで思いを馳せれば、重過ぎて、とても抱えきれないと思っていた。表面的にそれらしく予想してさえいれば十分だと決めつけていた。
だからこそのこの体たらく、この結末なのか。無論、単純に彼からのコミュニケーションがなかったこともあるが…彼に意味がないと思わせたのも自分の態度に一因があったのかもしれない。
彼の言葉に逆らう権利は自分にはないのだろう。
だけれど、
「お前に消えてほしいなんて思ってない」
時には無様に追い縋ることも必要だと知っていた。彼が自分のためにそうすることが好都合だと考えているなら、既に行き違っているのだから。言葉で表現することは得意ではないけれども、言葉にしない限り伝わらないこともあった。
「俺はお前と、ちゃんとした幼馴染みになりたい」

例え身勝手だと罵られたとしても、それでも。






Fin.