第二十九夜.面







春弥が思っているほど自分は真っ当な人間ではないのだ、と雫は思う。
なんだかんだと春弥を責め立てたところで、自分が罪を犯したことも知っていた。昔のことではない、極々最近のことだ。
まず第一に緋田を見殺しにした。神が己の目的のために手段を選ぶ余裕がないであろうと薄々気付いていたにも関わらずだ。
第二に秋草に緋田以外の人間も信用しろという趣旨の発言をしたにも関わらず、自分自身が彼らを信用していなかった。否、信用ならぬと思っていたわけではない、神のことを告げたところで何の意味もないと思っていた。…同じことだ。
そして第三に、春弥に情を覚えたこと。これは非常に腹立たしく遺憾なことには違いない。当初、再び会おうものなら眼を潰してやろうとすら思っていたにも関わらず…無論自分自身への損害を考えれば、多少対応は練らねばならなかった…春弥の態度を量っているうちに、この世界に迷い込んだ。何故迷い込んだ直後に仕留めなかったのか悔やまれるが、数少ないヒントを殺すわけにもいかない。その結果、殺せと言いながらも余計な感情が湧き出てくることになった。
このまま、まともな人間に更生してほしいという気持ちと。自分と同等のところまで引きずりおろしたいという気持ちと。…自分以外の人間に心を許したことに対する苛立ち。三つ目は特に馬鹿げている。あの下衆が自分以外の人間にのめり込みかけたことに苛つくだなどと、焼きが回ったどころか正常な脳内回路が焼き焦げたとしか思えない。彼奴など、永遠に罪悪感を背負って生きて行けばいい。自分の周囲から消え去ってしまえばいい。
…けれども生き延びた場合、自分自身も犯した罪は贖わなければならなかった。









櫻井を殺してまで生きる意味があるのかと問いかけた。
他人の命を奪ってまで、自分の命を長らえさせる。否、櫻井は生きていないのだから命を奪うことにはならないのだ、と告げられたところで、何の意味もない。理屈としてはそうなのだろう。けれど、これまでに春弥が接してきた櫻井という大人でもなければ子供でもない中途半端な輩は、死とは無縁のところにいるように見えた。無駄なことばかりに饒舌で、悪気なく毒を吐くこともあれば、真面目な声色で諭すようなことを言ってみたりもする。喜怒哀楽のうち喜と楽だけをくっきりと浮き彫りにしていて、体温は生身の人間のようで。

空に欠けた月が浮かぶ。
本来自ら光を放つことのないその存在を視認出来る。その間、太陽が姿を眩ましているように見えるのはただの錯覚に過ぎないのだということを、春弥は小学生の頃には既に知っていたように思える。

「櫻井」唇が彼の名を紡ぐ。
甘い髪色に月の青白い光が纏わりつく。彼は遣る瀬無さそうな、それでいて透き通るような微笑を浮かべながら、おいで、と唇を動かした。彼が、春弥の手に握り締められた冷ややかな銀色に気付いていないわけがなかったのだけれど。一歩進み出ると、彼の腕が柔らかい残像を残して春弥の身体に絡み付いた。月の光が伝染し、服の上をなぞる。光は体内に染み入ることはなく、表面上に留まっている。交じることはない。
沈黙する神の視線を感じる。
じり、と僅かな意地の悪さのようなもの。多分、櫻井はわざと神の前で見せつけているのだろうと思う。その証拠に、彼の唇は一瞬だけ皮肉めいた形を作り、それから春弥の髪に口づけた。けれど同時に、彼が春弥に伝えたいことがあるのだということをその手付きや視線から感じ取った。小さい子供に、物事を言い聞かせるような色合いを含んだ眼差し。
神は心なし目を反らしたがっているように見えた。神が春弥達から離れたのち、櫻井は静かに吐き出した。
「僕はこれから死のうと思う」






何だって今更出てこようとするのだろう。自分から投げ出したくせに。勝手に押し付けて行ったくせに。
幾筋かの、眼を凝らさなければ見えない程度の傷が刻まれた眼鏡のレンズの奥で冷える瞳を見下ろしながら、その頬を指先でなぞった。愕然とした面持ちのまま、彼は藍色に近しい双眸を張り詰めさせた。微細に揺れる薄いレンズはデリケートで、突けば簡単に壊れてしまうのだろう。彼がかつて幼馴染みの少年にしたように容易く。もしかしたら彼が眼鏡なんてものをかけているのは、他人にそうされることを恐れているからなのかな、と邪推してみたりする。ただの思考遊びだ。
緩く彼の背を抱いたまま、震えそうになる指先を閉じる。これくらいの嫌がらせ、したって良いだろう。見た目は同じなんだ、ざまあみろ。それに、こうしておかないと、何だか後悔しそうな気がした。この子のことを好きだと思う気持ちは、多分”僕”しか持っていないから、今のうちに抱きしめておかなければいけない。
「なんで」
彼の喉が動揺のあまり震動する。






「なんでそんな簡単に死ぬだなんて言えるんだ…!」
手の中の異物感が大きくなる。こんな物騒な物を持ってきたところで、櫻井を殺せるだなんて思っていなかった。世界のために死ねと言われてどうして納得出来よう。例え自分の所為だとしても、自分がいなければその後どうなるかも分からないのに。
「でも君もいい加減に絡繰りは分かってきているはずだろう。だから此処へ来た」
「だけど俺はお前を殺したくなんかないんだよ!」
櫻井が死ねば万事すべてが上手く解決する。雫が下手物に体内を冒されて死ぬこともなくなる。雫を死なせたくないからこそ、春弥はこうして櫻井の前に立っているのだ。それでも、櫻井を殺したくはなかった。一方を切り捨てて、もう一方を助けることなどしたくない。出来ることなら、両者とも救いたい。これは甘えか。現実を割り切れない子供の考え、我が儘なのだろうか。だったら一生おとなになんてなるものかと考えること自体が子供じみていて、唇を噛み締めた。息苦しい。完全に子供でもなければ大人でもない自分の半端さに胸がむかついた。同じ半端者でもこの世界にいる誰よりも自分は劣っていた。前向きに生きることも出来なければ、死を選ぶことも出来ない。おわりたくない。だけれど誰かを殺してまで生きたくない。雫も櫻井も、失いたくない。
「それは無理だよ」
春弥の心を読み透かしたであろう櫻井が言う。嫌だ、と心が叫んでいるのにどうにもならない現実が立ち塞がる。そして、どれだけくそくらえと罵ったところで、目の前の現実が消えることもない。作り上げられた虚構の骨組みは揺るがない。櫻井を殺さなければ雫が死ぬ。雫は殺せない。責任は取らなければならない。それに、彼の存在は自身を形成するに当たって深いところに根付いてしまっている。依存、しているのか。それに引き替え櫻井は。
「…君の、その考えが正しいよ」彼の肯定と。
「正しいわけがあるか」否定と。
いくら彼が事実上死んでいると聞かされても、すんなり受け入れられるはずがない。目の前に立つ彼は、笑いもするし話すことも触れることも出来る。だが殺した瞬間、彼は何の意思表示も見せなくなる。自分の存在を撥ね付けるようになる。和雄や幹靖のように、動かない。二度と。
怖い、辛い。くるしい。…そんなのは、もう嫌だ。
「おれはお前を、ころしたくない」
恐怖に胸がぐうぐうと押しつぶされ、呼吸が覚束なくなる。駄々を捏ねたところで何の意味もないと分かっているのに、割り切れない。喉がわななく。込み上げかけてきた嗚咽を懸命に飲み下し、不自然に突っ張る肩を握りこぶしを作って引き下ろす。どうしてこれが現実なのだろう。こんなことなら、初めから誰とも知り合わず、一人で居た方がずっと楽だったろうに。そうすれば、誰が死んでも寂しくない。…けれどそれも嘘だ。雫の眼を潰して、自分の価値観が普通でないと思い知って、それならば誰とも深く交わる必要などないと決め込んだのに、心の底には未だに誰かと繋がりたがっている自分がいた。
伸ばされる腕は素直に受け取れないくせに、(裏で嘲笑しているのかもしれない)、自分から踏み込んでもいけぬ、(拒絶されたくない)、何もかも中途半端な、(自分が可愛いだけだ)。
「だから君は僕を殺さなくていい。君自身を殺す必要もない」
櫻井の迷いのない言葉に不安になる。その裏に何らかの覚悟…良い予感なんてしやしない…を感じ取れてしまうからだ。俯けば、月の光に反射して輝く切っ先に、情けない顔をした自分の顔が映る。後ろにぼやけた蜂蜜色。
「君を生かしておきたいと思うのは、僕の意思だから」
「…お前の言うことはいつも意味が分からない」
逃げ出したい。すべてを曖昧にしてしまえる現実が欲しい。櫻井は束の間困ったように笑って、
「僕は君のこと好きだから、生きていてほしいんだ。でも心配しなくても良い」
「さくらい、」
「誰かの手を借りなくとも、死に方くらい知ってるよ。二度目だもの」
刃先に喉元を晒した。柔らかい皮膚の感触。少しでも力を入れれば容易にぱくりと開くのだろう。ああでも意外に骨が邪魔して切れないのかもしれない。…人間の、身体。血管の脈打つ僅かな動きまで伝わってくる。彼はこの瞬間、確実に生きているのに。誰もが皆、彼の生を認めない。和雄や幹靖は彼の姿すら見えなかった。雫や神は、彼は死んでいるけれど、もう一度死なねばならないと考えている。前提の矛盾。気付いていない。何も。
櫻井の生前の事情等知るはずはない。だが、現在目の前にいる櫻井は、少なくとも春弥の知る櫻井である。
「っ…過去のお前がどうだろうと、”お前”はまだ一回しか生きていないはずだ」
「身体が覚えてるよ」
「…そんなことはどうだっていい。第一、誰かのために死ぬなんて馬鹿げてる」
自己犠牲がいったいどうして尊いだろう。美しいのだろう。身を呈して庇うだけなら良い。死ぬ直前にはとてつもない満足感があるかもしれないが、そこで自我は終わりではないか。本当にその瞬間のためだけに死んでいいのか。好いた人間ともっと一緒にいたいと思わなかったのか。
「自分が生き残っても、相手がいなければ意味がないよ」
…櫻井の言わんとすることは、分からないわけではない…むしろ分からないはずがなかった。…けれど。噛み締めた奥歯が歪な音をたて擦れる。
「それでも俺は誰かのために死んだりは出来ない。…大事に思う気持ちがないわけじゃない。だけど、…大切にしてやれない」
愛おしく思うほど傷つける。翻弄したい。自分の存在を刻み付けたい。自分だけを見ていて欲しい。痛めつけなければ、在り来たりで曖昧な甘ったるい関係だけに終わってしまう。…壊す行為自体が愛だというのに。
なのに何故離れる?いなくなる?理解されたい分かってほしい受け止めてほしいのに。
「…君は多分、幼い頃からそういった固有の価値観を抱いて生きてきたんだろうね」
「それの何がいけない?生半可に傍にいるだけじゃ、感情の半分も伝えられやしない」
言葉だけでは駄目なのだ。愛でるだけでは抱擁するだけでは足りない。
「別にいけないなんて言ってない。方法はいくつもあるから。…ただ、君自身も気付いてる」
…傷を刻み込むだけでも、足りない。
分かってくれると思うのは独り善がりで、言葉や身振り手振りを尽くしても、想いのすべてを理解されることはままならない。
「だったらどうしろって言うんだ…相手のためにと自分を犠牲にして…お前が俺のために死んだところで、俺はうれしくない」
「僕だって仮に君に痛めつけられてもうれしくないさ」
喉元の表面に滲む赤い粒。鮮明過ぎる色彩が、現実感を薄める。神の言うように、これが自分一人の妄想ならよかっただろうに。茶番と嘲り笑った、道化じみた人間の姿に自分が重なって滑稽に映る。柔軟さの欠片もない自我を剥き出しに、奇妙に抉れた世界で踊る。
「きっと互いの好意の示し方から言うと、僕らはとてつもなく真逆の位置にいるんだろう。ただ僕は君の考え方を否定するつもりはないし、…こういう考え方もあるんだと知っておいて欲しかっただけなのかもしれない。エゴイズムを発揮する方法はひとつじゃないのさ」

血が、はじけた。

「っ…待てよ!まだ話は終わってない!」
「あまり神様を待たせてもかわいそうだ。それに、後のことを考えるのは生きてる君の仕事だよ」
「櫻井!」
狡い。卑怯だ、こんなときだけ死人ぶるだなんて。

櫻井は唐突に春弥の身体を突き飛ばすと、彼自身の手で深く喉笛を切り取った。噴水のように噴き出す血に、幹靖を失ったときの記憶が生々しく蘇る。絶対的な死の記憶。自分の手の届かない場所へ命がながれていく合図。覆い被さる無力感に、喉が引き攣るような喚き声を上げかけたとき、遠くで傍観を決め込んでいた神の足音がきこえた。
その横顔に、何もかも手遅れだくそったれと吐き捨てたくなる。

ヒュウヒュウと漏れ出す呼気。
無意識のうちに手加減してしまったのか、故意的なのか、即死出来ずにいる櫻井は神邊に向かって僅かに笑いかけて…いくらか無理矢理にだったが…、けれど春弥の知らぬ声色でこう言った。

「僕は 僕だと 言っ たろうに」

本来であればまともに喋ることすら危うい状況であるにも関わらず、不思議と声色には滑らかな繋がりが戻りつつあった。神の横顔が、微かに緩む。まるで探し求めていた何かを見つけ出したかのように。だが、

「別に、君に分かってほしい だなんて思ってない、から良いけれど」

櫻井、の翳りを帯びた、痛みすら覚えよう言葉はするりと春弥の心に傷をつけた。自分が言われたわけではない、けれど神にとってその言葉は胸をえぐるものであることはその横顔から察して余りあった。一方的な依存を突き付けられた人間の表情。ざらりとした苦みが舌の上っ面に張り付く。無慈悲な渇き。
鮮やかな血痕が世界に染み入る。一滴、二滴と視界に広がる赤い膜。








相も変わらず淡白な彼の言葉を聞かされたとき、自分が彼を解放してやることを望みながら、心の奥底では彼に戻ってきて欲しいと願っていることに気付かされた。満たされるには程遠い、ほんのひととき言葉を交わした関係。もっと話してみたかった、一緒にいる時間を過ごしてみたかったと思っていたのは自分だけなのだろうと知ってはいたけれど。
きっと何処かで期待していたのだ、彼が自分をこの世界に引き込んだときから。例え僅かな時を共有したに過ぎないとしても、彼も自分を特別だと感じてくれたのかもしれないと。とんだ自惚れかもしれないと思いこそすれ、浅はかな期待を捨てるには至らずに。気まぐれであろうと何であろうと、彼が自分を巻き込んでくれただけでも良いと思っていた。この世界における”初めての人間”にしてくれただけで。
報われたかったわけではない。しかし。
「櫻井」
血色の悪い顔色に戸惑う。あの櫻井に見慣れ過ぎたのか。溢れる血に動揺しているだけなのか。
櫻井に己の手で死ぬように促さなかったのは、彼が自ら命を絶つ姿を見たくなかったからだ。どうせなら誰かに殺されて欲しかった。自分以外の誰かに。
嗚呼、彼が死んでいく。
感覚があるのか、それとも自分を恨んでいるのか。でも、と彼は息を詰まらせたかのように苦し気に微笑むと、
「     」
と、







世界の色彩が消えた。