第二十八夜.太陽








「太陽を殺せ」
と、告げた瞬間。春弥の眼の色は戸惑いの混じった歓喜から、困惑と恐怖へと目紛しく変化した。
「雫?…何を言っているんだ」
問い返す語調は平静を装っていたが、雫の腕をつかむ彼の表情には明らかな怯えが見て取れた。春弥にとって、現状は青天の霹靂以外の何物でもないのだろう。予想していた通りの反応に、雫は肺から気管に呼気を送り込もうとして、劈くような痛みに息を呑んだ。異物が肺を圧迫しているのを感じる。眼球が霞んで、世界が融ける。触れていた頬から腕を下ろし、ベッドに深く沈み込んだ。眼を閉じる。春弥の顔を見ていると苛々する、本当に。


鼓膜を春弥の声が揺らす。


陰鬱な表情がぐにゃりと歪む。弛んだ視界が音も無く静寂の膜を表層に押し上げる。苦痛から逃避したがっているが故に、冒された眼球が見せる幻か。
幼い子供の姿をした彼が小さな手のひらを握り締め、屈託なく破顔した。純粋に己の価値観を信じている眼差し。名前を呼ばれて顔を上げる。どれだけの間握り締めていたのだろう、雫の手のひらに押し付けられた生命は生暖かかった。柔らかくふやけて、体液をとろりと溢れさせる。
怖気が走った。つらつらと頬を伝い落ちる何か。春弥は恍惚としながら雫の顔を眺めている。子供の域を逸脱した表情。同じ子供でいながら、あまりにも異なる世界に居る彼に、その剥き出しの感情に、心臓が引き付けを起こしたかのように苦しくなる。呼吸の下手な魚のように喘いで、眼球から流れ落ちる水滴を皮膚の感覚で捉える。

拍子のずれた明るい笑い声が谺する。

彼の気違いじみた笑い声を耳にするたびに、自身の神経を引き千切られるような痛みがぷつぷつと湧いた。しかし痛みを訴えたところで、身体には何の異常も見られなかった。春弥と距離を取ろうにも、親同士の仲が良かったがために、子供の仲違いなど戯れ言のように受け流される。そもそも仲違いなどしてはいない、雫が春弥の存在に勝手に苦痛を抱いていただけなのだから。ましてや、両方の親からしてみれば、春弥は厭う理由のない、明るくよく笑う至ってまともな子供だった。…彼の無邪気で残虐な嗜好は、決して親の眼には触れることのない、子供同士のささやかな秘密として保たれていた。例え雫が泣いて帰ったところで、在り来たりな子供の喧嘩として日常は平穏を装い続けた。

しずく、と彼は明朗に発音し微笑んだ。お気に入りの玩具を愛でるように雫の顔を覗き込み、まぶたに触れる。ぐに、と弾力のある指が食い込みかけて、恐怖を覚えて思い切り彼を突き飛ばした。脳裏に粉々になった虫の残骸が過り、全身が震えた。
しずく?
彼の薄暗い声色に顔も上げられず、俯いていた。己の価値観を信じ込んでいる春弥がこれまでにない雫の拒絶に戸惑い、傷ついているのは声色から明白だった。どんよりと重たい雨雲が広がっていく様が漏れ伝わる。細やかな神経が甲高く唸った。指を捩じ込まれかけ、鈍く痛むまぶた。自分はいつか彼に嬲り殺されるのではないかと戦慄する。恐れからか、眼球がじわりと熱くなる。大丈夫だと己に必死になって言い聞かせ、表面に張った水の膜が破れないようにぐっと堪えた。嗚咽を押し殺そうとして唇を引き結び、舌を噛み締める。
彼が小さく息を吸った音が聞こえた。
細く白いものが視界に勢いよく映り込んだ時、平穏な日常において有り得ない激痛が神経を切り裂き、脳を焼いた。指先が痺れ、硬直し、跳ねた。水面を抉じ突かれて溢れ出した涙が切れた眼球に沁みて、神経が、感覚が、何もかもが絶叫した。不意に強要された痛みをどうにか打ち消したくて、ひたすらに彼の名を叫んだ。
「しゅん、しゅんや…っ」春弥、春弥春弥。
間違いなく”自分”の口が吐き出している悲鳴。彼に助けを求めさえすれば、この痛みから解放されると思っていた。春弥は自分を抑圧する存在であると同時に自分より上の人間だと思い込んでいた。彼が彼自身の価値観を何らおかしなことではないと信じ込んでいたように、自分自身も彼や世界に対する認識を絶対的なものと信じ込んでいた。視野の狭さ。実際、ただの子供でしかない彼は何もできずにただ突っ立ってそこに居た。
”もううちの子に近づかないで!”
ぼんやりと、漠然とではあったが、自分を苛んだ痛みは彼の所為だと思っていて、それが母の一言により確信へ変わるどころか、より曖昧なものへと変わった。己を襲った現実…つまりは世界から光がなくなること…は、それまでの日常と比べ、あまりに現実離れしていて。まるで異なる彼の世界に一瞬引きずり込まれただけとでも言うような、それが恒久的に続くことだと思っていなかった。むしろ春弥と引き離されることに違和感と淋しさと、そして確かな安堵を感じていて、失明した事実は子供心に遠回しにされていた。
…それが。

「雫?大丈夫か?…頼むからしっかりしてくれ」

視界に幼い頃よりもずっと大人びた春弥の顔が映る。
だがその表情は情けなく、些細なことにもすぐに泣き出すような子供だった自分自身を思い起こさせ、嫌気が差すものでしかなかった。別れた直後、彼に何があったかどんな心の変化があったかなど知ったことではないが、そのあまりに変わり切った姿を見えぬ眼前に突きつけられるたび、彼に対する失望と昔の自分の非力さに苛立ちが募った。…失明して数日後、彼から受けた傷がようやく真っ当な人生を歩んで行く上で致命的であることを思い知ったとき、いつか捜し出して彼の眼を潰してやろうとまで決意したというのに、再会後の彼は見るに堪えないほど下衆で軟弱な人間と化していたのだ。…会えば下手に出て、へこへこと誠意のない謝罪だけ置き去りにしようとする…自分を抑圧していた彼は何処にもいなくなっていた、この腹立たしさはどんな言葉にしても足りるものではない。
「春弥…」
「しず」
「彼奴を殺せ、今すぐにだ」
春弥の瞳がぐらぐらと揺らめく。…幼い頃の春弥には見られなかった正常な理性の色。どうしてそんなまともな人間みたいになった?お前は人でなしのままでいい、愚直に己の欲望だけを追い求める下劣で救いようもない馬鹿でいい。それなのに。
「…なあ雫、どうしてだ。仮にお前の言う通り、櫻井を殺せば事は無事に解決するとして。櫻井を殺してまで、どうして生きようだなんて思える?」
こいつは自分以外の人間の存在を思い遣るようになった。自分の在り方に疑問を覚えるようになった。下衆のくせに一人前の人間のような。中途半端で生半可な易しさ。弱さ。アレらを殺すなと制止したのは、生温い性格になった春弥が勝手に悩んで自害しないようにとのつもりだった。…櫻井を呼ばれる男を仕留められるのがこいつしかいなかったのと、また……何かを抹殺して、昔に舞い戻って欲しくない気持ちがあったことと。しかしながら結果として春弥に殺せと告げたのは、自分だけが手を汚すことを何処か割り切れず、春弥を同じ場所まで引き摺り落としてやりたいという気持ちがあったからなのか。心のない、打算から謝罪をしようとした春弥と同じように自分の中にも卑怯で醜い部分は潜んでいる。
「お前が櫻井と呼ぶ男は既に死んでいる」
死んだ男を殺せと言う矛盾。
「相手は死人だ。お前が殺したからといって、何ら罪悪感を感じることはない」
本当に罪悪感を感じたくないのは自分自身だろう。
春弥の横に下げられた拳は力を込めすぎて白くなっている。彼の膨れ上がった感情に、心臓に送り込まれる血液が激しくのたうち回るのを感じる。昔のような精神的な恐怖はない。だが、身体は春弥の存在に過剰な反応を示す。これが”対”であるということなら、理不尽にもほどがある。自分がいくら足掻こうと、春弥に及ぼす影響はたかが知れている。
春弥の手首に血管がくっきりと浮かび上がった。喉の奥で押し殺された呻き。
「だけど、櫻井は生きてる」
事実は告げた。それでも、彼の中で、櫻井という男は生きている人間に分類されるらしい。生きている者と実際には死んでいる者とを天秤にかけなければならないというのは皮肉なものだ。だが仮に本当は櫻井が生きているとして、どちらか一方しか生きられないというのなら、果たしてどちらを優先するか。現在の春弥には、誰かを犠牲にしてまで生きるという生命力が感じられない。…生に価値を見出せていない。
…雫とて、これまで一度も死にたいと思ったことがないわけではない。それまでは鮮明に見えていた世界を突然失い、まっすぐに歩くことも叶わず、誰かの手を借りなければしばらくは生活することもままならなくなったのだ、考えなかったわけがない。けれど親の監視もあり、死ぬことすら満足には叶わない。そしてそれ以上に、春弥の眼を潰してやるまでは死んでも死に切れぬと思っていたがために、雫はこれまで生きてきたのだった。それが突如わけの分からぬ状況に巻き込まれ、死ねだなどとそんな不条理な話があるだろうか。春弥の友人達がその不条理に命を奪われた現状においては尚更である。
「生憎、俺には死んでやる理由はない」
春弥は眼を見開き、何か物言いた気にこちらを見遣る。言いたいことがあるならはっきり言え。逐一お前の感情の分析などしていられるものか。主張しなければ流される、相手の思う壷だ。
「春弥。…ちゃんと、これまでの責任を取るつもりはあるんだろうな?」
…お前もそれくらい分かっているはずだろう。









目の前の生き物は何なのだろう、とふと考えることがある。
彼と同じ顔をして巫山戯たことを宣って、彼と同じ顔で子供に他愛も無いちょっかいを出す。そして自分を異物として視ながら、
「神邊」
と弾んだ声色で名前を呼ぶ。呼ばれ慣れた名前に違和感を感じる瞬間。彼と同じ姿形をした青年を拒絶したくなる瞬間。

「神邊」
以前の彼は沈鬱な声色で神邊を呼んだ。
大抵は廊下や階段を歩いていての出会い頭で、彼とは委員会の時に知り合い、何となく気が合い話すようになった仲だった。しかし、普段は授業を受ける教室も異なり、意識的に約束を取り付けるわけでもなし、学生生活において遭遇すること自体は決して多くはなかった。彼は一見して柔らかな蜂蜜色の髪が目立つ男で、初めこそ近寄りがたく思ったものだったが、話してみればやや神経の繊細な、極めてまともな青年だった。勉強も運動も平均以上にこなせる在り来たりな優等生とも称せる人間。神邊自身も教師や周囲からは優良な生徒だと思われていたものだから、共通点は少なくなかった。
けれど。
「櫻井、」
ふと声を掛ける前の彼の横顔は、病的なほど青白かった。目立つ髪色の反面、彼は驚くほど存在感無く其処に居ることが出来た。平凡な優等生にしては妙に気配の希薄な男で、薄っぺらい表現をするならば、家庭の事情などの深い悩みでも抱えているのかと思った。
結果、神邊は単刀直入に切り出した。時折話す程度の大した仲でしかなかったにも関わらず、次第に彼の憂鬱げな側面が気になって仕方がなくなってしまっていたのだ。お節介や好奇心とは違う、自分と似た男の苦悩を和らげたいとの思いもあった。…彼にしてみれば、似ているというのもこちら側の勝手な思い込みでしかなく、真実余計なお世話でしかなかったかもしれなかったが。
陳腐な購買のパンの袋を引き裂きながら、何気ない素振りを装い。
「櫻井、お前何か悩み事でもあるのか」
これでも考えに考え抜いて吐き出した台詞だったのだが、パンと同じくらい陳腐だった。
櫻井は手作り感の溢れる弁当に卵焼きを箸で挟みながら、ぼんやりとした眼差しで神邊を見た。影を帯びた新緑の如き透かした瞳。
「悩み事?」
少しの間があってから、彼はそう繰り返した。そして、唇を笑みの形に歪めた。不健全なまでの健全さに紛れ込んだ、憂慮の切っ先。
「それは君に言わなくてはいけないこと?」
「言いたくないなら、別に良いけど…」
穏やかで弱々しい人格に潜む尖った一面に、思わず怯みかけて口を噤む。せっかく悩みを聞いてやろうとしているのに、その言い方は何だと言い返せるほど親しくはなかったし、自分でも出過ぎた真似、態度かもしれないと思っていたがために、言葉もなかった。
しばらくして櫻井は横で首を振った。彼の横顔は再び陰鬱な影を濃くしていた。沈んだ声色。
「君は言っても信じないよ」
「どうしてそう決めつける?」
「僕が君の立場だったら、間違いなく信じないからだよ」
彼は悩みとやらを説明する前から、否定的な言葉を口にしていた。それほど現実味のない話なのか。一瞬胸の内に困惑が過りかけたが、まずは話を聞いてからだと思い直し、打ち明けるよう促した。そもそも櫻井はつまらぬ冗談を口にする男ではない。彼は肩を竦め、弁当の蓋を閉めた。
「君は人の意識はどこまで有効だと思う?」
「意識?」
「本来自分の中だけで留めておくべき感情や無意識が勝手に漏れ出してしまう。常識的にはまず有り得ない」
哲学的な話でも始めるつもりなのだろうか、と初めは訝しんだ。だとしても、彼の鬱蒼とした面持ちにはある意味似つかわしいとさえ感じた。偏見かどうかはさておき、哲学を語る者に対し明朗快活なイメージはあまり持ち合わせていなかったからだ。兎角、忍び寄る退屈の気配を無視し、黙って彼の話に耳を傾けた。批判も同意もまず相手の話を聞かねば始まらない。
「けれど実際にはその有り得ないことが起こり得る。それが僕の気掛かりなことさ」
「…精神感応とか、そういう部類のことか?」
俗世間で云うESP等の。けれど現在、櫻井の感情や無意識が漏れだしているということはない。彼の表情や仕草から、こちら側が勝手に前面に押し出されているであろう感情の判断を下すだけだ。通常のコミュニケーションの域を超えてはいない。
「今は君に伝わらないように心掛けているから。それに、ESPとは少し違うよ。僕は君の思考を読むことは出来ない」
言うなれば一方的な放出だ、と櫻井は唇を引き結んだ。その瞳は虚無感に塗りたくられ、神邊に対する期待は微塵も感じられない。神邊自身、これまで持ち合わせていた常識を覆すような事実を打ち明けられ、的確な助言をするどころか、彼の言葉を信用していいものかとの戸惑いも大きかった。しかし…櫻井は冗談を言っている顔ではない。情緒に問題があるのだと決めつけるのは容易なことだったが、それではあまりに自分が見識の狭い人間に成り果てるような気がして抵抗があった。半信半疑であろうと、真っ向から彼の発言が錯覚であり嘘だと型に押し込むことだけは避けたかった。…彼を自分の同類として友情を感じていたならば、尚更である。
「ならほんの少しで良い。お前の感情とやらを僕に伝えてほしい。でないと僕もお前の悩みを信用しようがない」
「…分かった」
櫻井は静寂そのもののような声色で了承すると、眼を伏せた。

その瞬間、ぐるりと胃を下から突き上げられるような感覚に襲われた。

強烈な嘔吐感に視界が二重三重に回転する。座っているだけのはずなのに、全身は平衡を失い揺らめいて倒れそうになる。そしてそれ以上に猛烈に神邊の精神を参らせたのは、櫻井の感情と思しきどろりと重く垂れ込める空虚の塊が神経を捻り潰さんとばかりに圧迫してくることだった。
世界が白黒に変わる。横に座っているはずの櫻井のこちらを見つめる冷静な眼差しを遠くに感じる。空が歪んで周囲の人間も歪な液体の形に映る。胸が詰まる。
窒息する…!

「君も逃げ出すのかな」

脳裏に混じった彼の克明な思考。
途端にすべてが元の形に収束し、色鮮やかな世界に舞い戻った。ごぼり、と酸素が口から喉へ、肺へと押し寄せてきて噎せ返る。時間にしてほんの数分、もしかしたら数秒かもしれない間だったろうに、喉は数年振りに生の酸素を通したかのようにひりひりと痛みを訴えた。顔を上げれば、深い森の奥底のような眼がこちらを見ていた。人間らしい感情が抜け落ちた視線。
「大丈夫?」
声を掛けられて、自分が地面に倒れ伏していたことに気がつく。慌てて身を起こすと、彼は弁当の包みを片手にゆっくりと立ち上がった。制服についた埃をはたき落とす動作が異様にもったりと映る。まだ視神経辺りをやられているのだろうか。
「さくらい、」情けないことに声は掠れていた。
「僕は君に分かってほしいだなんて思ってないから。無理はしなくていい」
彼は淡々とした口調でそう言い残すと、立ち去って行った。同時に、昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。
自分の身に起きたことが信じられなかった。けれど櫻井は催眠術も何も使っていない。前もってかけられていたら分からないだろうが、彼にはそんなことをするメリットが全くないのだ。彼の問題は極めて重大だった。
彼は自制しているとのことを口にしていたが、それでは生きにくいことこの上ないだろう。後日、彼は生ではなく死を選んだことを伝え聞いた。
自分が気づかなかっただけで、彼は余程追い詰められていたのかもしれない。彼の精神は想像以上に軋んで悲鳴を上げていたのかもしれない。どちらにせよ、彼の助けを求める意思を知りながら、手を拱いていた自分にも責任はあった。大して親しくはなかったというのは言い訳で、客観的に見遣ればおそらく彼と最も親しかったのは自分なのだ。彼の悩みも知っていた。そして、その悩みの重さを当時は量り損ねた。

彼が命を投げ出した直後、明らかに世界が撓むのを感じた。

当初は彼の死に自分の精神が衝撃を受け、正常な域を逸脱してしまっただけなのかとも思った。
事実、今も自分だけが妄想で作り上げた架空の世界に生きているのかもしれない。
以前感じた覚えのある波が世界を駆け抜け、覚えのある世界が神邊の前に姿を現した。人は異形と化し、世界は死を迎えた彼の精神のように光を見失っていた。何故自分だけがまともな人間の形をしているのかも神邊は理解出来なかった。
…櫻井の精神は器という制御を失くし、外界へと解放されたのだ。
彼はたかだか一人の人間でしかないはずだった。けれどその影響力は凄まじく、神邊は呆然とした。彼の器はきっと大きすぎる精神の重圧に耐えかねて壊れてしまったのだと思った。それ以外、説明しようがなかった。彼は生まれながらも不運な人間だったのだ、と。
しかし同時に、目の前の世界の居たたまれなさに神邊は眼を背けたくなった。死して尚、彼は逃れたかったはずの世界に囚われている。すべてを浸食してしまった責を背負わされている。そして彼自身、そのことに気付き死んでも死にきれなくなっている。
その何よりもの証拠が、目の前にいる男だった。
彼は誰もいない公園で、ぽつりと一人突っ立っていた。月明かりに透ける中途半端な身体。
「…君は誰?僕は、」
「櫻井」
…第一声に、頭を殴られたかのような衝撃を受けたことは言うまでもない。
彼は櫻井だった。だが、彼は記憶を一切失っていた。
「なら君は?」
何の悪気もなく問われた言葉は刃となって胸に突き刺さった。だけれど何も覚えていない彼を責められようはずがなかった。彼はすべてをこの世界に放り投げてしまったのだ。後には何も残されていない、器。
それでも彼が少しでも自分のことを覚えていてくれれば、思い出してくれればと期待せずにはいられなかった。
「神邊遙」
…期待はすぐに失望へと変わる。

かつて櫻井であった彼にとって、この世界がどういう認識をされているのか興味があった。
僅かにでも認識におかしなところがあったならば、櫻井は櫻井であると確認出来るような気がした。しかしながら、彼の記憶はそれらしい形をもってして再形成されているようだった。聞けば聞くほど彼にとって自分は他人でしかなく。自分にとっても彼は櫻井とは別人であると認識を抱き、強めるだけだった。彼は櫻井とは違い過ぎた。
「神邊!君のいた世界はすごいね、まともな形をした人間がたくさんいる!」
時折擦れ違う世界に、彼は感嘆の声を上げる。嬉々とした表情。重ね合わせることも出来ぬ面影。…どうやら世界は一時、二重構造になっているようだった。もはや抜け殻と化した元の世界にいる人間も未だにいる中、自分はこちらの世界にいち早く取り込まれてしまったようで。
幾日も経過し、彼の戯れ言に飽き始めていた頃、彼はこんなことを言った。
「君は触れても透けもしない、この世界に初めて存在するまともな人間だね。きっと最初に降り立ったってことは何か特別な意味があるんだよ」
「…どんな意味だろうな」
「…さあ?」
櫻井はあっけらかんとした口振りで唇をつり上げた。けれど、微かにだが漏れた彼の薄い膜のような感情に、自分の心臓の奥底がざらつくのを感じた。無意識の感情。今すぐ目の前の男を引き倒して、以前の彼を根こそぎ引きずり出せたら。荒んだ意識。歪んだ自分。この紛い物の男の傍にいることで、どんどん自分が堪え難いものへと変わっていく。この男も櫻井には違いない。けれど、ああ、この男は邪魔だと醜い自分が唸った。以前の不安定で理知的な彼が本当の彼で、今目の前に居る男は彼の形をした偽物に過ぎない。入れ物が同じであっても、中身が違えば意味はない。
彼を早く楽にしてやりたい。彼とて自分の影響で世界が歪んでいる…言葉にすればなんてリアリティのない…ことを、堪え難く思っているはずだ。その一心で、彼を殺そうとさえした。
…神邊?
彼は頸を絞められながらも、無垢とも言い得る瞳でこちらを見上げた。まるで絞殺という行為が稚児の戯れでしかないとでも言いたげに。…無論、彼と同じ顔をしたこの男を殺すことを、神邊の身体が拒絶した所為もあるのだろう。例え中身が異なろうと、躯は彼のものに違いない。否応無しに突き付けられる忌々しさに、腕が震えた。
…そんなときだ、この世界に闖入者が現れたのは。
こればかりは巡り合わせと説明する以外にすべはない。それとも櫻井の死後、暴走する能力は滞りなく継承されるよう予め設定されていたのか。櫻井と同類の子供が紛れ込んできた。表面的な要素を寄せ集めただけではない、根本的な、本質的な意味での同質。他者を蝕むほどの精神的な影響力を持った人間。強烈な感情の発露、浸食が可能な生き物というべきか。…そのあまりに一方的なその立場を揶揄し、太陽という呼称をつけた。逆に、精神的、肉体的な浸食を受けやすい人間を月と称した。端的なあだ名だ、どちらも。非常識な櫻井の存在をどうにか理解しようとして、それらしい理屈を捏ね回した。あくまで神邊自身は傍観者でしかない。彼の支えにもなれず、殺すこともできず、ただ存在するだけの役回り。…だが、同類である子供なら、櫻井を殺すことが出来ると踏んだ。
例えこの男の中に、彼が居たとしても。


「…分かったよ」


この男と馴れ合うことに意味はなかった。
櫻井…もはやこの名称を使うことさえ烏滸がましい…は薄氷の如き怜悧さを全身に纏わりつかせながら、神邊をついと見遣った。今にも音をたててひび割れそうな予感さえする。しかし神邊には罪悪感等欠片もない。目の前に立つ男は櫻井でありながら、既に神邊の知る櫻井ではないのだ。一度は惑わされたが…外見が同じだけの別人。…内外が一致しないことに、これだけの面倒が生じるとは思ってもみなかった。
遠巻きに映る一人の子供の姿。…漸くだ、漸く櫻井の魂を解放してやることが出来る。