第二十七夜.切望










呆然と立ち尽くす一人の子供。
身近な人間の死を受け止め、過去に犯した責を担わなければならない背中は細く、未だに青い柔らかさを残している。
「雫…!」
世界が撓む。名前を呼ばれた少年はぴくりとも動かない。死んだわけではなく、気絶しているだけだ。そして現状は、体内に蓄積された毒素が櫻井の存在に著しく反応、活発化し、彼の身体への負担が急激に増したことにより引き起こされた事態に他ならない。月と称されし少年は陰の物を抱え込む。…櫻井とは相性が悪い。…彼の”対”が櫻井でないからこそ尚更。異物だ。
青白い形相の今にも発狂しそうな春弥に声を掛ける。…少年は彼にとって最後の砦だ。死亡しようものなら、彼は気を違えるかもしれない。
「お亡くなりにはなってないけれど、弱っているみたいから、部屋で休ませてあげたほうがいいよ」
「櫻井、雫は大丈夫なのか…!?」
「…もうしばらくは大丈夫だけれど、あまり無理は利かないよ」
彼は眼鏡の奥の眼を大きく見開き、ふるふると震わせた。遠からず限界は近付いて来ている。櫻井の言葉が暗に意味することを彼は正確に認識したのだろう。信じたくない、とその瞳は訴えかけている。だが、信じようが信じまいが結果は変わらない。人の命を奪うのだ、それなりに代償はある。
泣きそうな顔をしている少年の頬に手を伸ばす。出会ったときからこの少年には己に近しいものを感じていて、だからこそ接触したわけなのだけれど。実際関わってみると、歳の近い弟のように感じ、自分に弟がいたらこんな感じなんだろうと感慨深くなった。
…先程、彼の幼馴染みから読み取った思考の欠片。…神の、意志。
「…”僕”は君には生きていて欲しい」
「…櫻井?」
「岩崎君を休ませておいで。…此処で待ってる」
遠ざかる背中。地面を神の気配が這う。彼は傍観している。彼は立ち上がり、櫻井を見遣る。遮断された思考の向こうで、彼は何を想うのだろう。



…初めてこの世界で意識を得たとき、彼だけがまともな生物の形をして其処に居た。
「…君は誰?僕は、」
「櫻井」
彼は教える前から櫻井の名前を知っていた。何故知っているのだろう。けれどさらりと答えられると、彼が自分の名を知っているのも当然のような気がして、何がどう当然なのかも合点が至らぬまま、中途半端に収まった気持ちで彼の顔を見つめていた。端正な顔立ち。この夜に覆われた世界に居るようになって長いのか、黒目は常人よりも大きく見える。櫻井は問うた。
「なら君は?」
彼の唇が綺麗な弧を描き、彼自身の名を紡ぐ。
「神邊遙」
まるでこちらの反応を窺うかのように、一字一句、丁寧に発音する。櫻井は純粋に女性のような名前だと思ったが、それ以上に初めてまともな生物…奇妙なアメーバ状の生物はたくさんいた…に出逢えたことをとても嬉しく思った。この光のない世界に自分は独りではないのだという極めて単純な事実。それだけで心が救われるような気がした。
けれど。
「神邊、あれを見てごらんよ」
とある日のこと。櫻井の眼は世界に透け映る何人もの制服姿の大人の姿を捉えた。青と光の入り交じった不規則な映像の乱れ。触れようとしても手は通り抜けるばかり。より覗き込めば、大勢の人の姿があった。
「ねえ、神邊。僕は不思議なんだ。だって君はあちらの世界の人間だろう?」
「…そうだよ」
「なのに君はこちら側の世界にいる。君に望みがあるのは何となく分かるけれど、それって何?向こうでの生活を投げ出せるくらいのこと?」
彼の思考は読み難く、読もうとすれば自分の思考が破裂しそうな危うさを孕んでいた。情報量が多いというよりも、尋常でない拒絶反応が出ているというべきか。だがいったい誰の。彼が櫻井を拒絶しているのか、櫻井が彼を拒絶しているのか。
「僕は君の思考を読みたいのに」
「…お前には僕の思考は読めないよ。お前自身が読みたがってないんだ」やるせない彼の気持ち。
「…分からないよ、神邊」
わからない。そう繰り返せば、彼は穏やかな表情のまま、ほんの一瞬だけ、瞳に剣呑な色を走らせる。彼と壁を感じる瞬間。

「神邊、君は中途半端だよ」
「何が、どう半端なんだ」
「上手くは言えないけれど、君の感情は滅茶苦茶だ。どうしてそう方向性がはっきりしていないんだろう?」
神邊は訝しげな顔をして、櫻井を見遣る。距離。距離。距離。彼と自分が違う生物だと思う刹那。彼は先程から鉄棒に腰掛けたまま…逆上がりが出来なかったからだ…、眉を寄せた。怒っているような困惑しているような、表情さえ曖昧な。優等生のように邪気のない顔をしたかと思えば、仏頂面になったりと彼の表情は両極端だ。おそらく素に近いのは後者なのだろうけれど。
「多分君たちの世界特有の感性なんだろうけど…多面性ってやつ?そんなに感情があったら疲れてしょうがないだろう」
「お前にだって感情くらいあるだろう」
「あるけどさ、君たちほどの反動はないよ。だってそんなの必要ないんだもの」
悲しいとか寂しいとか負の感情と呼ばれる代物があったとしても底は知れていて。それなのに神邊の曖昧模糊とした感覚を探ると、やたら奥深いところまで沈み込んでいってしまって、こちらの気が滅入ってしまう。思考が分からない分、何をそんなに考え込んでしまっているのかも解けないから余計気分が悪くなって。
「そこいらのアメーバを飲み込んでる気分になる」
「飲み込んだことがあるのか?」
「あるわけないじゃないか。彼らは居るだけで湿った息吐き出してるってのに。健康に良くないよ」
「湿った息?」
彼と話していると改めて自分が感性だけで生きているような気がして、言葉に困ってしまう。語弊が足りないのか。説明する必要がなかったからか。
「彼らは元人間なんだよ。思考の断片が残っているのがあるから多分そう。だけれどやたら陰気でね。どうしてだろう」
「思考が陰気なのか?」
「存在が陰気なんだ」
やはり上手く説明出来ない。そんな陰気な元人間ばかりの世界に、何故自分だけ違う姿でいるのだろうとは思う。もしや自分も本当は彼らのようにアメーバ状なのかもしれないが、神邊の反応を見る限りそれはなさそうで。亜種なのだろうか。よく伸び縮みする彼らと、重みの抜けやすい自分。全く似つかない。だがそれ以上に、神邊の属するあちら側の世界の人間とはもっと似つかない。見た目はよく似ているのに。彼らはちゃんと其処にいる。

当てにならない時間軸。両立しない世界。斑な映像を眼に映してから、あちら側の世界が少しずつ歪んでいくのが視えた。軋んで軋んで、けれど綺麗にこちら側の世界と重なる。現在はこちら側の世界が優勢なのだと、誰に教えられたわけでもない、自然とそれがありのままの現実だと理解する。思えば自分がいつ生まれたのかも知らないのに、脳内にはそれらしい記憶が澄ました顔をして居座っている。不快ではない。乱れもない不自然さもない己を形成する記憶。…遡れない記憶。
此処はもはや現実だ。



「でも君は元の世界を願っているんだ」



いくらこちらの世界に身を置いていても、彼は元の世界を望んでいる。
櫻井は振り向き、腕を組み立つ神に微笑みかけた。あの少年の幼馴染みの思考を読み辿れば、神の望みは自ずと明らかになる。ただしそれは未だ不透明な。
心が疼く。彼らと出逢って自分もだいぶ人間らしくなったということか。
「知らなかったよ、君が僕を殺したがっていたなんて」
一時は互いに唯一の存在だと思ったのに、残念だ、と言葉を唇に乗せる。抑圧した響き。こんな昂る感情は知らない。必要なかった。負の感情なんていつも投げ捨てて、周囲の生物に食わせていた。自分だけは解放されていたのに、彼が再び縛り付けた。
神邊が口を開く。
「櫻井、お前は何故生きている?」
「…君はいつも崇高なことを考えるのが好きだね」
屁理屈ばかり捏ねて、漏れ出す感情の説明をしようともせず。彼はあちらの世界の生き物だからと納得しようとしてきたのに、あの少年達の感情や思考は驚く程読めて。彼だけが歪で、櫻井の腕から擦り抜けては逃れてゆく。ようやく知れたと思った意思が自分を死なせたいだなんて、笑えない。
「神邊、考えてもみなよ。僕は死ぬ理由なんてないんだ。だから生きているんだよ」
現在在る状態を継続する。それの何がいけない?この一体化した世界で、彼は自分の存在を不自然だと定義したのだろうか。なんて勝手な神だろう。項垂れた腕の指先が震えた。彼と居ると自分は沈んでばかりいる。引き摺られる?
「ならお前は死ぬ理由があれば死ぬのか?」
「神邊…」
それが、今ではこの様で。自分の気持ちを言葉にして認めてしまいたくない。折れたくない。彼の言葉一つに傷ついて、負の感情に囚われる自分を受け止めたくない。受け流して、後から思い返して何でもないことだったと笑い飛ばしてさえしまえば。今、このときだけを堪えれば感情は徐に消えていくのに。
「神邊」
彼の眼に自分という生き物はいったいどのように映っていたのだろう?
「君は僕に理由を与えてやるから死ねと言いたいわけか」
「そうなるな」
彼の思考は読めずとも、彼の感情は読んでいる。彼は決して冷たいだけの人間ではなかった。それなのに、今の彼は冷淡な台詞を吐き捨てながらも、平静を保っている。動揺はない。何も、ない。人間らしさの欠落?否、彼は。櫻井は思わず浮かびかけた、歪んだ笑みを噛み殺した。
「君にとって僕は何?ただの他人、それとも異物?違うだろう、そんなんじゃない」
「櫻井、」
「いくら僕が君にとって何の価値もないただの馬鹿であっても、ぬか喜びしては落胆する君の態度には憐れさえ催すさ」
周囲の生物達が興奮している。落ち着きなく蠢く眼球は充血し、溌剌と輝く。…身体の全神経から、彼らが神邊を厭っていることが伝わってくる。彼は半端者だ。
…僅かな戸惑いが、伝染した。
どれだけ怜悧な言葉を吐こうと平静なはずの彼が動揺したことが、何よりも己の発した言葉の正しさを証明しているようで、櫻井は唇を引き結んだ。自分に否定的な言葉を吐くのは、誰かに自分を肯定して欲しいからだ。甘え、慰み。だがそれらは自分を思い遣ってくれる相手に対してでなければ意味はない。櫻井は神邊が己の言葉を否定しはしないだろうと頭の何処かでは理解していた。そうして理解していながら自分を卑下したのは、微かに残る淡い期待を完全に叩き潰してしまいたかったからだ。少しだけでもいい、彼にとって自分が特別な存在でありたいと願う自分自身を。
何故だろう。共に在った時間は振り返れば瞬きをする程度の短い間だったのに、何故こうも彼に焦がれているのだろう。
神を視る。眼球の表面に広がる”ぶれ”。記憶の回路が千切れかける。痛い。…だめだ、
「…神邊、僕は僕だよ」
唇が櫻井の声で他人の言葉を吐き出す。いやだ、まだ持っていかれたくない!
心臓そのものを打ち壊しそうな強い動悸に肩を抱え込み、酸素を追い求めるように呼吸を繰り返した。神邊はいま、どんな顔をしている?見たくない、…読んではいけない。もう喉元まで込み上げて来ているのに、無駄に足掻こうとする。
気付いていて、知っていて、それでも自分を明け渡すのは話が別だろう!多分、気を許せば全てを持っていかれる。彼を特別に思っているのは、自分だって同じなはずなのに。浅い?薄い?何が、どうして。
彼の眼に映る、隠し切れぬ期待の色。
「神邊、僕は、」
君にとって”入れ物”でしかないのだろうか。










もうしばらくは大丈夫だ、と櫻井は保証した。けれど。
言外に含まれた言葉に気付かぬ程、春弥とて鈍くはない。雫も近いうちに、和雄や幹靖のように春弥の前から消える。
「雫、頼む、早く目を覚ましてくれ…」
それともこのまま目も覚まさずに逝くつもりなのだろうか、と考えてぞっとする。「しずく」。呼びかける。反応はない。もうしばらく、もうしばらくと櫻井は言ったのだ!彼が意識を取り戻さない間も、時間は刻々と過ぎる。無論、目を覚ましたところで彼の生命が持続されなければ、意味などなきに等しい。死ぬ前の僅かな会話を望んでいるわけではないのだ。春弥には雫が生き延びるという現実が必要だった。それはこの先、果たされなければならない未来だった。
けれども雫は死ぬのだ。何処で道筋を間違えた?いつ現実はねじ曲がった?自分が知らなかっただけで、この現状すらも予定調和に過ぎないと云うのか。春弥は慄然とした。わけも分からず巻き込まれて、わけも分からぬまま死んでいく。そんな理不尽が罷り通るこの世界はいかれていた。それは、今更過ぎる結論でもあった。唐突に迸る恐怖に、春弥は堪え切れず意識のない雫の腕を掴んだ。
「雫!雫…!」
何の根拠もなく、彼だけは大丈夫であると信じていた。繊細な容貌とは裏腹に、彼の精神は生命力に溢れていたからだ。それなのに、死は容赦なく彼を攫っていこうとしている。理由すら分からない。ただ、雫がこの世界において”月”と称されし性質を持つということが事の引き金になっているであろうことは、櫻井の言葉から容易に推測出来た。いったい何故、雫がそんな奇妙な性質を授けられてしまったのか、見当もつかない。偶然だとしたら、割り切れなかった。幼馴染みである彼を大事に想う気持ちもある。だが、それ以上に、この世界に自分だけが残されるという恐怖に春弥は戦慄を覚えた。もしも元の世界に戻れたとしても、其処に雫や彼らの姿はないのだ。それはとても恐ろしいことで、春弥は心臓の芯から冷えていくような感覚に囚われた。
積み重なる喪失感の渦に投げ出され、呼吸も出来ず溺れそうになる。矮小で無力な自分が剥き出しになる。
「俺を置いていくなよ…」
…これまで、漫然と生を求めていた。日常に渇いた満ち足りなさを感じながら、どうにかしてその飢えを凌ごう潤そうとして生き続けてきた。死ねば渇きは満たせない。春弥にとってはそうして生きることが普通であり自然だった。だけれど、いつのまにか春弥の生きる世界において、生は当たり前ではなくなっていた。和雄や幹靖、そして雫までもが死んでいくのに、自分だけが生きていることが不自然で気持ち悪くて仕方がなかった。恐ろしくてならなかった。
「…しゅんや」
「!」
深く透き通った瞳が春弥を見上げた。交錯する視線。
春弥は己の心臓が大きく脈動する音を聴いた。ちり、と指先が痺れる。青と緑の線で視界が、輪郭が歪んだ。爆発的な歓喜に潜む違和感。…なんだ?
「…よ、かった、雫、意識が戻ったんだな」
「春弥…」
僅かに掠れた声色。彼は指先で春弥の頬を優しくなぞった。
「太陽を殺せ」