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第二十六夜.陰陽








水飴のようにとろけている。
這い蹲って這い蹲って、緩慢に突き進むそれらの体内に潜む蟲の死骸。違和感を感じる前に、春弥は重たい瞼を下ろし、ひたりと張り付く冷たさを貪る。力を入れ過ぎた指先には繊細な棘が刺さる。はぐれた熱。麻痺した痛み。このまま眼を開けずにいられたならば、彼らの死を忘れてしまえたならば、どれだけ楽だろう。…じっと立ち止まっている分には、この世界ほど優しい場所はない。無限にそして無為に、流れ続ける時間。人々は物言わぬ下手物に成り果てた。
春弥は思う。これで大勢の中に埋もれる自分を知らずにいられる。自分の価値を見失わずに済む。絶対的な数が多いほど、価値は薄れていく。凡庸な存在は凡庸であるが故に、価値がない。凡庸がなんだ、必要のない人間などいないという希望に縋れど、春弥は通常の世界において自身を必要とする人間を見つけられなかった。…別に家族と仲が悪かったわけではない。ただ深く相容れることがなかっただけである。繊細な生物を弄ぶこと。一人遊びが好きだったわけでもない。ただ自分の嗜好は普通ではないと思い知らされた。価値どころか害しかなかった。頭を下げ続ける親の横で、自分の存在の低俗さに気付かされた。彼らは叱るどころか、不気味なものを見るような目をしていた。…そう、それはまるで下手物に成り果てた彼らを見るような眼差しで。よそよそしい関係。それ以降、平穏な家庭を装った。相容れることなど有り得ない。
一人宙にぶら下がる。
どうせ分かり合えないのだから一人でも良かった。不便のない程度に友人関係を築ければそれで良かった。なのに自分は苛ついた。仲睦まじげな和雄と幹靖の二人の関係に嫉妬したのだ。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、除け者にされていると感じる自分は醜かった。そして差し伸べられた手を素直に取れない自分に苛ついて、そんなふうに感じさせる彼らに屈折した感情を押し付けた。自分達は協力しなければならない状況にあったというのに。しかし、だからこそ示したであろう幹靖の中途半端な態度に、春弥は付け入った。和雄を除け者にしていくのは気分が良かった…、例え自分が必要とされない部類の人間であったとしても、性行為を通じて相手に自分を必要とさせることが出来ると知った。しらじらしく友情を育まなくとも、快楽で縛り付けてさえいれば。
それがいつしか物足りなくなった。彼の優先順位の一番に、自分が刻み込まれていなければ気に入らないと感じるようになった。所有欲でも独占欲でも意味は同じだ。彼の優先はいつでも春弥以外の人間に向けられた。無論弱者を保護したいと考えたのもあったのだろう。けれどそれ以前に、彼は春弥との性的な交わりを回避したがっていたように思えた。そして、交われば貪欲に快感を貪るにも関わらず、行為前に逃れたがる彼の態度は春弥の神経に障った。受け入れる側である彼の羞恥や戸惑いが分からなかったわけではない。ただ、行為どころか自分との関係性や存在まで拒絶されているようで、気分が悪かった。しかしいくら拒否されようと、春弥が彼と繋がる手段は他になかった。もはや、穏やかな関係だけでは収まりがつかなかったのである。彼は唯一、春弥の存在を肯定し得る存在だった。手放したくなかった。
彼は春弥を好きだと言った。
こんな自我の塊のような人間の何処が良かったのだろう。生易しい彼は身体を重ねた所為で湧いた情を、愛情と錯覚したのかもしれない。だけれど、そう言われた瞬間、春弥は強烈な嬉しさと喪失感に見舞われた。彼は死のうと考えるほど衰弱していた。喜びが緩やかに込み上げつつあった反面、自分では彼を思い留まらせることが出来ないかもしれないと思っただけで、歯痒さと無力感に押し潰されそうになった。ようやく彼を渇望する自分自身に気付けたというのに、彼は死んだ。自己肯定の為のなのか、愛情なのか、または友情なのかは分からない、ただただ好きでもっと触れていたかった、もっと一緒にいたかったという想いばかりが残された。
忘れてしまえばいっそ楽になれる。だが此処で立ち止まっていれば、忘れることなどないということも分かっていた。本当に忘れてしまいたければ日常に忙殺されるに勝る手段はない。逆に停滞した日々に浸っていれば、思考も大きく移ろうことはない。…日常に戻ることを望まないのは、心の奥底では、彼のことを忘れたくないと思っているからなのだろう。この世界に埋もれてさえいれば、忘れた振りをしながら彼らの死に永久に沈んでいられる。非日常でしかなし得ない。
けれど春弥を支配するのは悲しみだけではない。どう足掻いても打ち消すことの出来ない憤りが、胸の中を浮遊し掻き乱す。
あの生命体は、何故彼の命を奪ったのか。元人間のはずのそれらは、器だけでなく知性まで下等生物に成り下がったのか。考える力が全くないというなら許しもしよう。けれどあのとき、生命体は確実に春弥に向かって笑いかけたのだ…気色の悪い笑み。覚えのある悦楽の表情。かつての自分も、卑しく生命を仕留めては、嫌がる雫に見せつけていた。壊れたそれらは美しい。嫌悪に震えるヒトの表情を眺めるのは愉しい。自分と何が違う?あの生命体もまた、春弥の絶望を味わって悦んでいたのだ。嗚呼、虫酸が走る。自分はこんなにも醜いのだと客観視する。
漠然と、彼を殺したのは自分の所為なのかもしれないと思う。巡り巡った縁が無関係であった彼を巻き添えにした。
雫の言葉を思い出す。お前にはお前の役回りがある。だがいったいいつ?伝え聞かされた神の言葉を信ずるなら、幹靖や和雄は死ぬ役回りだったとでもいうのか。

「…冗談じゃない」

静寂に声が落ちる。全く以て冗談では済まされないことだ…しかし事実彼らは死んで。全てはあの生命体が絡んで。つまりこの世界の直接的な危険は人間であったはずのあれらである。
以前、櫻井はこう言った。
「アレは人の醜い感情が好きなんだ。」と。
元より、彼はこの世界や奇態な生物と化した人々のことについて知っている口振りだった。今回のことも、彼は和雄のとき同様に知っていたのだろうか?
畳に張り付いたままの腕がぴくりと動く。思い出したくない、けれど忘れたくないと思いながら、未だにみっともなくもがき続けようとする自分がいた。仮に櫻井が知っていたとして、彼を責めたとしても何一つ事態は変わらない、彼が帰って来ることはないというのに、何故諦められないのだろう。無駄な徒労を重ねようとするのだろう。縮こまり、耳を塞いでしまえば楽になれる。…それでもまだ、彼のことを忘れたくない。己の気の済むまで、彼の幻影を追いかけていたい。
冷たさから身体を浮かす。ふらりと自分の足で立ち上がる。潰れかけても、ぺしゃんこにはなれない。大人しく世界の一部に収まるには、まだ未練があり過ぎる。


櫻井、と名を呼んだ。
近所の神社に佇んでいた彼は、春弥を認めるなり目を細めて微笑んだ。蜂蜜色の髪が月の光に反射して鈍く光る。
「家出るときに、時計見た?君みたいな子供が起きてていい時間じゃないよ」
「生憎…体内時計の調子も悪いしさっぱりだ。何時だ?」
「丑の刻。魑魅魍魎が跋扈する時間帯らしいけど、彼らは大人しいものだね」
櫻井は境内の階段に腰掛けると、階段をぺちぺちと叩いた。隣に座れと言いたいらしい。春弥は目許を歪めながら、彼の横に腰を下ろした。横目で彼を睨む。
「俺はあれらが大人しいとは思わない」
「一部を見て全部を否定するのは偏見ってやつだよ。でもまあ、一部が過激なのは僕も否定しないけどねぇ」
「…お前はアレが人の醜い感情に引き付けられると言ってたな」
「言ったよ。だから秋草君はお亡くなりになったんじゃないか。さぞかし彼は美味しかったんだろうね。骨まで残らず食べたくらいだし」
「幹靖は?」
「他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだけれど、彼の場合はそれほど食はそそらなかったみたいだね」
櫻井は飄々とした口振りで彼らの死を語る。春弥はコンクリートの剥げかかった階段を見下ろしながら、己の奥歯の軋む音を聞いた。両腕が何かを握り潰したいと言わんばかりにそわそわする。行き場のない怒り。
「ならどうして殺した?」
緩慢な瞬き。彼はずい、と真顔で春弥の顔を覗き込むと、人差し指を唇に当てた。
「僕は基本的に告げ口みたいな真似は嫌いなんだ」
「それはどういう、」
「何故か僕は”神”様の思考だけは記憶に留めておけない。けれど彼が望んでいることは知っているから」
すうっと肩に触れていた温もりが離れて、春弥はふと、目の前のまやかしじみた青年にも体温があるのだと思った。当然のように享受し、失ったときに気付くもの。二度と取り戻せないもの。春弥は目を閉じた。
「なあ櫻井。お前は何が言いたいんだ?何を知ってるんだ」
同じ言葉を話しているはずなのに、異なる意味合い。紡ぎ出される言葉は上っ面を滑り流れていく。掛け違えた数々の言葉の挙げ句に積もる虚無。曖昧な故に交われないもどかしさに春弥は呻いた。擦れ違いたくない、語弊なく分かり合いと思うのは馬鹿げているのか。
櫻井は足許でくすぶる影を見下ろしながら、手のひらを膝の上で所在なげにぱたつかせた。
「僕は別に人と人とが分かり合うのは不可能だとは思ってはいないよ。言葉の限りを尽くせば、もしかしたら分かり合えるかもしれない」
彼は春弥の内心の葛藤を読み取ったかのように…事実彼は読み取ったのだろうが…見解を口にした。
「でも、理解し合えたとお互いに思ったとしても、人の考え方や価値観なんて目には見えないところで変わり続けるものだから、次に会ったときには別人になっているかもしれない。大体人は自分の基準に照らし合わせて物事を捉えてしまうし、…僕らが一緒にいること自体が一瞬のことだから、気付かないだけでね」
従って、久し振りに再会したら相手の考え方の違いに戸惑うこともあるわけで。
「君に聞かれたから答えるんであって、僕は本当はこういうことを改めて考えるのは得意じゃないんだよ。…だから僕だったら、分かり合うとかよりは、致命的、決定的に価値観が擦れ違わなければそれでいいよ」
櫻井のどこかもの哀しげな横顔に、思わず黙り込む。少しずつだけれど、分かっては来ていた。朗々としているはずの彼がこんな顔をするのは、あの神と称されし男について考えているときなのだと。そしてそれはとても不愉快なことだった。おそらく春弥が神よりもこの雑草男寄りの立場にいるからなのだろう。
「…神は何を望んでいるんだ」
「”神”様は、」
櫻井は言葉を区切る。顔を上げた彼の視線の先を追って、春弥は唖然とした。緩やかな階段を下りた先に立つ雫の姿。
「岩崎…」
「鷲宮、そいつは其処に居るのか?」
…いざ雫と櫻井が対面するかもしれないと思うと、春弥は震撼した。頭の中で喧しく警鐘が鳴り響く。この二人を近づけてはいけない。しかし雫は何故彼のことを…、そうか、吹き込んだのは神か!そうなれば雫のことだ、春弥と櫻井の遣り取りくらいは聞いていたろう。言い逃れは出来ない。
「…櫻井に用なのか」雫には彼の姿は見えていない。
「お前も薄情な奴だな。墓参りくらいはしに来ると思ったんだが」
淡々とした声色。見えていないはずなのに、彼は櫻井のいる方向を睨んでいる。春弥は雫に腕を振り払われて、無意識に彼の腕を掴もうとしていたことに気がついた。
「鷲宮、そいつを押さえろ」
「何言ってるんだ」
「俺には見えないから押さえろと言っているんだ」
雲行きが怪しいどころかどす黒い。春弥は左右に首を振った。雫は無表情のまま舌打ちし、動いた。きらめいた銀色に春弥は反射的に櫻井を押し伏せた。後頭部を鋭利な刃物が掠める。錯乱したかとも思える行動だが、雫の眼は理性的な色を保っている。動揺は欠片も見られない。
戸惑い、困惑しているのはむしろ春弥の方だった。
「岩崎何を…!」
「丁度良い、そのまま動くな」
冷静過ぎる彼の態度に春弥は恐怖すら覚えた。現状を飲み込み切れぬまま、それでも雫の行為が一方的過ぎるのだけは理解出来て、春弥は櫻井を庇うように立ち上がった。
「岩崎ちょっと待てよ、事情くらい説明しろ…!」
「後で説明してやる。だから退け」
何が彼を駆り立てるのか。闇夜に彼の瞳は宝石のような光を放っている。雫から眼を放せないまま、春弥は櫻井の声に耳だけ傾けた。
「大丈夫だよ。当たらない」
「だけど…!」雫が相手では不安にもなる。何せ彼は”月”なのである。
いつまでも退かぬ春弥に痺れを切らしたか、雫は一歩踏み出した。…彼は何らかの目的があって櫻井を襲おうとしている。春弥を忌々しく思っている彼のことだ、このまま邪魔をし続ければ、春弥自身の急所を外して刺すくらいはしてのける可能性もあるかもしれない。
「…岩崎…?」
…だが、不意に雫が口を押さえた。
端正な顔立ちが歪んで、眼光が切羽詰まった色合いを帯びる。いわさき、と春弥はもう一度彼の名前を呼んだ。背後から櫻井の手が伸びて、春弥の両眼を覆う。何故眼を塞ぐ?櫻井、櫻井!
耳許で櫻井の声が響いた。雫に向けた言葉。
「あまり無理したら駄目じゃないか。君は”月”なんだから」
べちゃりと何かがコンクリートに垂れ流れる音。何が起こっている?何が!雫の返事が聞こえないことに強烈な不安を煽られる。
「変態した彼らは陰性でね、負の感情だけでなく、陽性のものにも反応する特性があるんだよ」
櫻井は何を言っている?春弥は彼の手のひらを引き剥がそうとしたが、彼は断固として春弥に目の前の光景を見せまいとするかのように、指先から力を抜かない。頭を抱え寄せられたまま、春弥は彼の声を聴いた。
「それにしても、君は随分月らしくなったものだね、神の所為かなあ…陰の物に取り殺される日も近そうだ!」
殺される?櫻井は何を。脳が彼の言語を理解することを拒絶したがっている。あまりにも不都合で招き入れたくない情報。雫が死ぬ?まさか、馬鹿な。
「っ櫻井…!お前は何を言っているんだ」
「僕は君が何を知っているんだと迫ったからこそ、こうして説明しているわけだけれど?」
明るい髪色が塞がれた視野の端に映る。緩む視界。倒れ伏した雫の姿。櫻井は小刻みに肩を震わせ。
「残念だよ…神邊」