第二十五夜.刹那







「……幹靖?」


春弥の肩に回されていた腕がするりと力なく落ちる。
疲れて眠ってしまったのだろうか。…彼は人の死に関わり過ぎている、少し休んだ方が良い。春弥はふと、彼の背を抱く自分の腕を滑り落ちる、ぬるりとした感触に気付いた。鮮やか過ぎる赤色。それは背を遡り、彼の頸から滴っている。詰め襟から覗く白い首筋に突き刺さる黒く細い線のようなもの。映える血流。生命体の、断片。
気色の悪い悪寒が全身を駆け抜ける。瞼が引き攣る。
「み、きやす…!」
裏返る声音。意思を持つ生命体はするりと彼の頸から抜け出し、悪意を秘めた形相でいやらしく笑ったように見えた。拳で叩き潰せば、木っ端微塵に弾け飛ぶ。何故、何故だ。頸部からは噴水のように血の華が咲き乱れ、春弥の頬を濡らす。
いくら揺さぶっても、ぴくりとも動かぬ彼の身体。弛緩しきった指先。春弥の心臓は震えた。
「っ幹靖、幹靖…っ!起きろ、起きろよ!」
胸の中で恐怖が膨れ上がり、瞬く間に充満する。恐れが手足を麻痺させて、彼に触れているはずの自分の手がまるで他人の物のように思えてくる。そして彼もまた、生の側に立つ自分を頑なに拒絶し始めていた。冷えていく体温。彼の生命が染み込んで、床の木目が色付いていく。両手で頸を押さえ込んでも、指の隙間から逃れゆくものは止められない。春弥は彼の胸に顔を埋め、漏れ出す嗚咽を必死に堪えた。

…ふらりと立ち上がり、ドアを引き開ける。薄暗い廊下が、妙によそよそしい。これは本当に現実なのか。一歩一歩と足を進めるたび、歪な血痕が床を蝕む。春弥は無様に側壁に寄りかかり、喚いた。
「櫻井!…櫻井、…っ雫、いないのか、雫…!」
いないわけはない。彼はこの広々とした家の中にいるに違いないのだ。けれどあまりに膨張し過ぎた恐怖や不安、そして憤りに、春弥の思考は冷静さを失いかけていた。
「しず…!」
「人の名前を馬鹿の一つ覚えみたいに呼ぶな、このたんさ…」
階段を上ってきた雫の姿が視界に映るなり、春弥は少しばかり安堵し……これで彼の死を知る者が自分一人ではなくなったのだ…、身を起こした。雫も春弥を見るなり、事態を察したようで、ドアが開けっ放しになっている部屋へと足早に入って行った。春弥も後へと続き、血の海と化した寝室へと再び足を踏み入れる。
青白い頬。真っ赤に染まり果てた部屋に佇む雫の姿はどこか浮世離れしており、一流の画家に描かれた宗教画のようですらあった。
「…頸を貫かれて、多分即死だった」
「…」
「なあ…、…雫。…なんで幹靖は死んだんだろう?…アレは元は人間なんだろ?…どうして…」
指先が亡くなった彼の血でぬめる。彼を抱き寄せたときの生々しさが蘇り、胸を鋭利な感情が突く。淡い微笑みが脳裏を過った。
『俺…鷲宮が……』
硬く噛み締め過ぎた奥歯が軋んだ音をたてる。…どうして死んだ?…信じたくはない。けれど否応無しに突きつけられた現実が、春弥の瞼を無理矢理抉じ開け、この現実から逃れさすまいとする。一度離したはずの手を、春弥は再度彼へと伸ばした。冷え切った、けれど確かについ先程まで一緒にいた彼の、亡骸。血さえ拭き取れば、まだ綺麗なまま、生きていた頃のままだ。
雫は春弥に背を向け、ドアノブに手をかけた。
「…気が済んだら、声を掛けろ」
静かに閉められたドア。しかしドアの向こうに彼がいる気配は感じられて、春弥は幹靖の手に触れながら、ゆっくりと膝をついた。雫の残酷過ぎる優しさ。離れたくはない、けれど直視すればするほど彼の死を思い知らされずにはいられない。
「気が済むわけなんて、ないのにな」
穿った見方をしていたのは自分の方だった。









春弥は打ちのめされている、と雫は思った。
彼があの青年を気にかけていたのは知っていた。今回のようなことが引き起こされれば、彼が致命的とまではいかずとも多大な精神的ダメージを受けるであろうことも想像に難くはなかった。でなければ、無慈悲な神がわざわざ煽るようなことはしなかったはずだ。
「全く以て最低な神だな、お前は」
「僕としては出来れば今回のようなことはしたくなかった。彼が可哀想だからね」
どの口が言うか。神は曖昧な微笑を浮かべつつも、鮮烈な眼差しで雫を見遣った。遠回しに責められているようだ、とも思う。実際、彼が今回の件を引き起こしたのは雫の所為だと思っていることに違いはなかった。
「君がもう少しきちんと手綱を握ってさえいれば、事を荒立てずに済んだんだよ」
「余計なお世話だ」
神の言葉はいちいち神経に障る。否、正確には神の言葉がではなく、仄めかされる存在にだ。全く気に入らない。そしてどう足掻こうと、状況は神にとって都合の良い方向に進んでいる。雫もまた、神の示す道筋が最も適当であると判断したがゆえにこうして此処に突っ立っているわけだが。ただ、求める結果が同じであろうと過程が気に食わないということは多々あることだ。神にとっては、結果が全てだ。
雫は踵を返し、寝室から出てきた春弥を顔を合わせた。かれこれ三時間。予想していたよりは短かったが。
彼は「もういいよ」と中身の詰まっていない声色で告げた。血と涙に塗れた酷い顔だ。だが澄ました顔をしていられるよりはずっと良かった。庭に穴を掘っておくよう促し、入れ替わりに寝室へ入る。…本当ならこの青年もまた、無事に再生された世界に戻れたかもしれなかったが。
「緋田、すまない」
彼の片割れが亡くなったときとは異なり、今回は故意的に与えられた死だった。
雫は彼の身体の下に腕を通し、無理矢理抱え上げた。春弥にやらせようものなら下手すると発狂しかねない。背丈の似たような男を抱え上げるのは楽ではなかったが、一輪車だとかそんな便利なものはこの家にはない。引き摺っていくのもどうかと思えるし、他に方法はなかった。死んだ者を担ぐことに抵抗がないわけではなかったが、それよりは申し訳のない気持ちが上回った。ましてや、死のうが生きようがこの人間が見知った青年であることに変わりはない。
庭まで運び出すと、穴の前で立ち尽くす春弥の後ろ姿が見えた。現状では火葬などはできない。ガソリンをかけて燃やせないこともなかったが、綺麗に燃える保証もなければ、春弥の精神が持ち堪えられるかも分かったものではなかった。けれどそれは言い訳で、単純に雫自身がそうすることに対し冒涜を感じていただけなのかもしれなかった。本来それが冒涜を感じるべきことなのかどうかは分からない。兎角今は一旦埋めておき、後で埋葬しなおしてやるしかなかった。
「…鷲宮、後は俺がやっておく。お前はシャワーを浴びて寝ろ」
「…いや、俺はやらなきゃならないことが」
「それは今でないと駄目なのか」
春弥は何か強烈な感情に追い立てられているように見受けられた。…アレに対し疑念を感じているのか。元人間が、自分達を襲うこと。元人間とはいえ、アレらの自我が必ずしも正常であるとは限らない。欲望に支配されるものがいれば、影に紛れてじっとしているものもいる。考える能力自体の有無も個体による。そして神に扇動されたもの。
彼がそれらについて対応を迫られるとしたらまず向かうのが…、…、だがそれはこちらの都合が悪い。せめて埋める時間程度は確保しなければならない。生憎気長に待ってやるほど体調が良いわけでもない。せっかくの機会を逃すのも憚られる。
「鷲宮、お前は少し休め」
「…俺は」
…ひと突きし、地面の上に倒れ込んだ春弥の身体を引き摺るように玄関へと追いやる。…寝室はまたしても変えなければ使えそうにない…確か一階に和室があったはずだと靴を脱いで、彼を運び込んだ。汚れたままだが別にかまいやしない。彼を畳の上に寝かせたまま、雫は庭先へと戻った。







隣の席には、和雄が座っていた。
「鷲宮、やっと起きたのかよ?もう授業終わったぞ」
彼はせっせと帰り支度をしている。…壁に掛かった時計を見れば午後三時十五分。いつのまに寝てしまったのだろう、昨夜、夜更かしし過ぎて寝不足だったのかもしれない。窓から見た夜の色が、今も瞼の裏に焼き付いている。
「ああ、…全然ノート書いてない、…和雄」
「もうすぐテストなんだから貸せるわけないだろ」
「ちょっと今、簡単に写すからさ」
「俺、今日用事があるんだ。頼むんならみっちゃんに頼めよ」
「…幹靖に?」
和雄はそそくさと帰ってしまった。後ろを振り返れば、まだ残っている鞄。…まだ幹靖は学校にいるらしかった。トイレだろうか。それにしても、和雄が幹靖と帰らないなんて珍しいこともあるものだ。机の中の教科書類を鞄に詰めていると、幹靖が教室に戻って来た。満面の笑み。
「あっれ、もしかして鷲宮くん俺のこと待っててくれたわけ?」
「授業のノート、お前に見せてもらえって和雄に言われたんだよ」
「なんだ、期待して損したなぁ。ノートなら別に良いけど、代わりに漫画貸してくれよ。鷲宮くんの家、俺の帰り道にあるんだよ」
テスト前なのに漫画なんか読んでいる暇があるのかと思ったが、何だかんだで幹靖のことだからどうにかするのだろう。頷きかけて、ふと思いついたことを口にした。
「それならついでに上がってけよ。お前が漫画読んでる間にノート写させてもらうから」
幹靖は少しばかり意外そうな顔をした。まさか春弥からそんな申し出をするとは思わなかったのだろう。普段の春弥からは、出来れば彼と関わりたくないというオーラがむんむん漂っているはずなのだ。彼は何度か瞬きをしたのち、破顔した。
「そんないきなりお邪魔するのも…鷲宮くんの家、親御さんとか居ないのか?」
「ああ、仕事だ」
鞄のファスナーを閉めて、席を立つ。
学校から家までは自転車に乗りさえすれば近いもので、あっという間に到着した。どうも我が家に戻るのは久々な気がする。ただそれ以上に、自分の家に彼が来ていることがおかしな感じだった。家の横に自転車を止めさせ、玄関の鍵を回し開ける。そわそわと少々落ち着きのない幹靖を後方に、春弥は自分の部屋まで平常心で歩き進めた。適当に座っているように指示し、階段を下りて麦茶をグラスに注ぐ。
部屋に戻ると、少しばかり縮こまっている幹靖が居て、春弥は苦笑した。
「別に誰もいないんだから緊張しなくても良いだろ」
「いや、そうなんだけどな。やっぱり人の家だし」
妙なところで律儀だ。てっきり机の引き出しを探るくらいはやりかねないとも思っていたのだが。
グラスを乗せたお盆をテーブルの上に置いて、幹靖から授業のノートを受け取る。彼は一言断りを入れてから、ぱらぱらと漫画本を読み始めた。春弥もノートを写し始めたものの、あまりに静かなので音楽でも流した方が良いか?と尋ねるも、彼は別に良いと漫画から目を放そうとしない。それならそれで良いか、と春弥も再びシャーペンを動かす。六時間目の担当教師はやたら黒板に書くものだから、ノートを写すのも一苦労である。
それから十五分程度が経過し、春弥はシャーペンを動かす手を止めた。麦茶を喉に流し込み、幹靖に視線を送る。
「なあ、幹靖」
「んー?」
「お前、好きな奴とかいないのか?」
彼は漫画のページを捲る手を止め、春弥に笑いかけた。
「なに、鷲宮くんは気になる子でもいるの?」
いるんなら協力してあげるよ、と彼は眼を爛々とさせる。彼も年甲斐に漏れず、その手の話題は好きらしい。というよりも、春弥と陳腐な話題をすることが嬉しいのか。春弥はシャーペンを置き、微笑した。得体の知れない悲しみが胸の奥に留まる。知らず知らずのうちに飛び出す言葉。
「お前だよ」
「…鷲宮くんでもそんな冗談言うんだな」
彼は困ったように笑って、漫画に視線を戻そうとする。春弥は彼の腕を取り、
「俺はこの手の冗談は嫌いだ」
「え、でも…」
「…俺はお前が好きなんだ」
何故なのだろう。鼻がつんとして泣きそうになる。いま、この手を放してはいけないような気がする。放したら、もう二度と。
押し付けた唇。握り締めた腕はまだ温かく、彼は確かに此処にいるのに。
「ん、ん…ん…!」
絡んだ舌の感触が脳幹を痺れさせる。もがく腕さえも押さえ込んで、春弥は唇を離した。机の椅子に腰掛け、抱いた熱を持て余す。
「なあ、幹靖。俺は本気なんだ」
「ほ、本気って…、俺も鷲宮くんも男だろ」
「一度だけで良いんだ。そうしたら諦めるよ」
まさかこんな下衆な台詞を自分が口にする日が来るとは思わなかった。しかしもはや、留まれそうになかった。
「お前の気持ちも分かるさ。けど一回…今日だけで良い。そうしないと俺も諦めきれないし、もしかすると和雄に何か仕出かしてしまうかもしれない」
実に最悪な提案だと思った。外道過ぎる、低俗な悪党かと思えるような。勿論本音ではなかったけれど、そのくらい言わないと彼が自分から歩み寄ってくれるとは思えなかった。…案の定、彼は顔色を変えた。
「鷲宮、本気で言ってるのか?」
「さっきから本気だと言ってるだろ」
「…じゃあ言い直すけどな、正気なのか?」
とうとう正気まで疑われて、春弥は笑い出したくなった。けれども、残念なことに正気と狂気の境界線はいつでも曖昧なものなのだ。
「別に俺は男が好きなんじゃない。お前だから言ってるんだ。それなのにそこまで酷い言われ方をするとな…」
春弥は俯く。すると幹靖もやや勢いを削がれたようで、態度が目に見えて軟化した。
「ああ、いや、それはつい、鷲宮…くんが和雄を引き合いに出すからで」
「悪かったよ」
「…俺はどうしたら良いんだ?」
生温い彼はしゅんとした様子で春弥を見上げた。そこで突き放さないから…馬鹿を見る。
「一回、…抜いてくれるだけで良い。咥えろとかそんな無茶は言うつもりはないし、舐めてくれるだけで良いんだ」
「…鷲宮、のを?」
春弥は椅子に腰掛けたまま、スラックスのファスナーを下ろし、そそり立った性器を剥き出しにした。彼は明らかに怯んでいる。
「…駄目か?」
表情に迷いの色が見える。きっと彼のことだ、春弥の体面と、それから撤回したとはいえ、和雄のことを気にしているのだろう。和雄はあんな性格だから、過去に苛めの一件や二件あったことだろう。もしまた同じような目に彼が遭わされれば、幹靖とて良い気持ちはしないはずだ。
…彼は怖ず怖ずと、椅子に腰掛ける春弥の膝元へ近付いて来た。視線は未だに、「本当にするのか」と訴えかけている。春弥は頷いた。
「…頭押さえつけたりするなよ、絶対だからな…」
春弥とて下手に突っ込んで嘔吐されても困るのだ。手を机の上に乗せて、もう一度頷いた。
「…っ」
彼の舌が性器に触れて、擡げかかっている欲望が茹だるように熱くなる。ぎこちなく添えられた左手が、彼の戸惑いを映し出しているようだった。
「…もっと、そっちじゃない。裏を舐めてくれ」
「……ッ」
彼は春弥の指示に嫌悪感も露に従いながら、裏筋に舌を這わせた。好き好んで同性の性器を舐める者などそうそういないだろうし、毎日風呂に入っているとはいえ、一日経っているのだ。あまり清潔ともいえないのだから、無理もない。
しかし…受け身過ぎても落ち着かないものだ。…春弥は荒ぶる呼吸を押さえ、手を彼のワイシャツの中へと差し込んだ。時間はない、と頭の中で誰かが喚き立てている。
「ん、ん、ふ…っ」
「口は止めるなよ」
胸の突起を指の腹で撫でると、びくりと彼の肩が震えた。男同士でも感じるんだなと感心しながら、ぷくりと膨らみかけた突起を摘んだり、転がしたりする。すると、みるみるうちに硬くなってきて、頬も薄らと上気してきた。
「ふぅ、う…っん、ん…っ」
「…幹靖」口が留守だ。
「分かって…る、けど…っ」
彼は懸命に春弥の性器に舌を這わせながらも、もどかしげに腰を揺らした。右手は彼自身の股間に伸びている。…緩やかに勃ち上がっている性器。春弥はそれに気付かぬ振りをしながら、胸の突起を嬲り続けた。けれど乱れる彼の存在自体が、春弥の中心を昂らせる。
春弥は息を詰めた。横にあるティッシュケースに手を伸ばし、幹靖を引き剥がす。…別に彼の顔にぶちまけても良かったのだが、髪にへばりついて帰るに帰れなくなっても困る。丸めたティッシュをゴミ箱に捨て、春弥は半ば呆然としている幹靖をベッドに引き連れて押し倒した。
「え、あ、鷲宮…っ、や、くそくが違うっ」
「約束?男のペニス舐めながら興奮するような奴には、躾が必要だろ」
舞い上がる高揚感の裏側で急激に膨れ上がる焦燥。スラックスを引き下ろし、それらを振り切るように、白く締まった尻を打った。
「……ッ!や、やめ…っ」
「この歳にもなって尻を叩かれるのはどんな気持ちだ?」
打たれたところの皮膚は赤くなっている。けれど彼の性器は萎えるどころかそそり立ったまま、涎を垂れ流し続けている。春弥は手を止めず、何度も何度も無防備な双丘を打ち続けた。
「っあぅっ、ぅう…っ」
僅かに甘さの混じった呻き声。…彼はこうされるのが好きなはずだった。
「叩かれるだけじゃ物足りないだろ」
春弥はじんじんと感覚の麻痺してきている右の手のひらを解すように一舐めし、左手指で彼の秘部をこじ開けた。柔らかい内壁を押し擦る。
「っひ…、や、あ…!ぁ、…っ」
彼はすっかり涙目になっている。それもそうだろう、誰もクラスメートの家に行ったら性器を舐めさせられて、挙げ句、下の口に同性のものを捩じ込まれるとは思うまい。春弥は彼の内側をくちゅりと掻き回しながら、繰り返し右手を振り上げた。打ち付けるたび、彼はきゅうきゅうと春弥の指を締め上げる。
「あ、あ…っや、ん…っあ、あぅ…っ、鷲、宮…っ」
頬が薄らと上気した彼の顔。指先から伝わる熱。熱い、身体。不意に、先程までとは比べ物にならぬ強烈な焦燥が駆け抜ける刹那。春弥は身を起こし、浅く呼吸を繰り返す彼の唇を塞いだ。何故なのか、生温い涙が溢れてくる。これ以上になく愉しく心地好い瞬間であるはずなのに、自分はどうして泣いているのだろう。彼も戸惑っている。
「っ…鷲、宮…?」弱々しく、自分を呼ぶ声。
「好き、なんだよ…っ、俺は、お前のことが」
何を言っているんだ。…せっかく彼がこうして此処にいるのに。もっと手酷く痛めつけて、自分の元へ縛り付けておかねばいけないのに。…知らない振りをしていれば、良いのに。
「それは、さっき聞いて…」
「なのにお前に言えなかった、最後の最後にお前に言われるまで気付かなかった…」
ああ、そうか、
「鷲、」
「馬鹿だ、俺は……」
俺は……

静まり返る世界。
彼は妙にリアルに衣服を整えて、悲しげに笑った。



「鷲宮は馬鹿だよ。夢の中にさえいれば、ずっと一緒にいられたのに」



薄まる、影。

瞼を持ち上げる。手を伸ばせば、冷えきった畳が広がるばかりで。
生温い涙が、頬を伝った。