第二十四夜.空白









瞼の裏に焼き付いた光景が離れない。
春弥は手のひらを緩めたり握ったりしながら、彼が感じたであろう感触を思い描いていた。豊潤な生命体を握り潰す感覚。歪な内蔵が飛び散ってのたうち回る。彼が親を殺した瞬間。アレは人間だった…いなくなったと思われていた人々は、形を変えて其処に居たのだ。
「緋田の父親は人間を喰らい、正常な知性を喪失していた」
淡々とした声色。雫はアレが幹靖の”本物”の父親であると知っていたのだろうか。知っていた上で、彼に殺すように告げたのか。
「殺さなければ、緋田が殺されていた」
そうかもしれない。けれどならば何故、父親はすぐに己の息子を殺そうとしなかったのか。幹靖は日々彼に付きっきりと言っても過言ではなかった。殺す機会はいくらでもあったはずだ。久し振りに対面した息子と交流したいという父親らしい理性が、僅かに残っていたということなのか。
「さあな。俺はアレが何を考えていたなんて知るわけがないし、心理を推量出来る程親しかったわけでもない」
雫はテーブルの頬杖をついたまましれっとそう言うと、心無し疲れたような表情をして隣の部屋を見遣った。彼が眠っているはずの部屋。親の死に、疲労の蓄積していた彼は狂乱したため、雫の手によって気絶させられたのだ。雫がぽつりと呟いた。
「アレが本物であると知らないままに出来ればと思ったんだが、…間違っていたのかもしれない」
「…岩崎…」
彼が春弥の前で弱音を吐いたのは、これが初めてのことだ。春弥は感慨深いような、心臓を凍てついた手で鷲掴みにされたような衝撃を受け、俯いた。額からは嫌な汗が噴き出し、呼吸が引き攣る。
雫は春弥にとって絶対的上位にいる強い存在だった。どれだけ耐え難い逆境にあろうとも決して倒れ伏すことなく、己を見失うこともない。必ず春弥の世界に居て、春弥が底の見えぬ泥沼に引きずり込まれそうになろうものなら、問答無用で引っ張り出してしまうような。無論、それは春弥の願望が造り上げた虚像である可能性もあった。けれど虚像であろうと何であろうと、それが目の前にある世界の事実、春弥にとっての真実だった。
だから雫は崩れ落ちてはいけない。彼は春弥の動揺を見て取ったのか、毅然とした態度で言い放った。
「緋田の意思は無視して、殺すべきだった」
「…それは、極端じゃないのか」
彼は幹靖の父親を自分が始末すれば良かったと言っているのである。幹靖に相談すれば必ず彼は自分の手でどうにかすると言うだろう。本物であろうと偽物であろうと自分の父親に擬態しているのだ、当然だろう。だが雫が勝手に宣告もなく手を下してしまいさえすれば、彼が後から何を言ったところで意味はない。偽物だったと聞かされれば彼も納得するほかない。多少の反発を抱かれようと、今回のように彼が心に深い傷を負うようなことはなかったはずだと。雫はそう言いたいのだ。
だが、それではあまりにも。
「勝手過ぎる」
「…」
「それにやっぱり…何かあれば岩崎が片付ければ良いという考え方は、俺は賛成出来ない」
雫の眉間に険が寄る。しかしここで怯んでは意見が通らない。
「どうしてお前だけにアレ殺しを任せなければならない?お前が月だからか?月だから何だって言うんだ」
「黙れ」
「黙らない、お前だって口に出した時点で気付いてるはずだ。お前は人を殺してるんだ。いくら正当防衛といったところで、人殺しには変わりない」
雫の冷徹な視線が痛い。散々虫螻を嬲り殺してきた人間が言っても、全く説得力がないのは春弥自身分かっている。人間だけ特別扱いするつもりなのか?そうだ、どれだけ奇麗事を宣おうと所詮春弥は人間なのだ。だからといって他の命を軽視しているわけでもない。むしろ命に対しては平均的な人間よりも敬意を抱いているつもりだ。だが今、春弥が言いたいのはそんなことではない。もっと単純な。
「お前だけに負担を背負わせるだなんて、俺は嫌だからな…!」
別に痛みを共有したいとかそんな御題目を並べたいわけではない。雫が辛いなら自分もとかいう美しい自己犠牲精神があるわけでもない。ただ苦しんでいる彼を後目にのうのうと生きることになるであろう自分が、彼の隣に居るだろうにあまりにも矮小で役に立たない自分が、耐え難くて仕方がない。まるで必要とされていない自分の存在が甚だしくて、情けなくて、苛立たしい。
がたり、と椅子が動く音。
「…いわさ」
「…黙れと言ったのが聞こえなかったのか」
雫の左腕が伸びて、テーブルの向かい側にいる春弥の襟首を掴み上げる。また殴られるのだろうかと、内心身構えた。けれど頬を強打するはずだった彼の右手は春弥の眼鏡を掠め取り、かしゃんとテーブルの上へと投げ置いた。奪われる呼吸。
「っんぐ、ぅう…っ」
彼の無駄にねっとりとした舌技に、春弥は呻いた。手癖の悪さは春弥も相当なものだが、雫もなかなかどうして劣らない。息を弾ませる春弥とは対照的に、彼は澄ました顔で身体を起こした。
「お前は大人しくしていればいい。お前にはお前の役回りがある」
「…それは神が言ったことなのか」
雫は静かに眼を閉じる。隠し切れぬ翳り。
「…ああ」
彼は何を考えている?












……

……………ちゃん

誰かに呼ばれているような気がする。
しとしとと降りしきる雨の中、ふと足許の水たまりを見下ろした。打ち付ける水滴が水面に輪を描いて広がっていく。誰かのぼやけた輪郭。小さな手。酷く懐かしくとても恋しい淡い影。ああ、そんなところにいたのかとしゃがみこんで指先を伸ばす。触れたい。触れられない。届かない。…もう少し、もう少しだけで良いから手を伸ばして欲しい。そうすれば届くかもしれない。
『みっちゃん』
彼が微笑んで、気泡が舞い上がる。彼の指に突き破られた水面が、微かに喘ぎ乱れる。掴まれた手首はひやりと冷たかった…彼の生命は尽き果てている。途端に崩壊する涙腺。これが夢だということは分かっていたけれど、胸が締め付けられた。
「…かずお…」
映し出される幼き面立ち。思えば当たり前のように傍にいたから、少しくらい離れたところで何の問題もない、気持ちさえ通じ合っていればそれで良いと思い込んでいた。けれど、思い込みは所詮思い込みでしかなく、自分は彼の気持ちに気付いてやれなかった。傍にいるという約束を守れなかった。
「お前がいないと、寂しいよ…」
冷え切った彼の腕に縋り付き、情けなく泣き喚く。頼むから、お願いだから置いていかないでくれ。
『…みっちゃん』




本当に依存していたのは俺の方だったのに。




引き剥がされる幻。
瞼を覆っていた腕を掴まれて、蛍光灯の光に眼球が焼けそうになる。思わず眼を背ければ、熱いものが頬を流れ落ちた。霞む視界。明る過ぎる部屋。彼はもう何処にもいない。いるはずがない。
「大丈夫か?」春弥の、声。
和雄は死んだのだ。いくら信じたくないと駄々を捏ねたり、嘆き悲しんだりしたところで、死んだ者が還ってくることはない。そんなこと、とっくの昔に理解していた。だからこそ、出来るだけ彼のことを思い出さないようにしていたのに。
「…和雄」
「み、」
「…和雄にあいたい…」
眼球が熱い。嗚咽が込み上げて来て、息苦しい。これまで圧殺していた感情が、夢を切っ掛けに一気に溢れ出して溺れそうだった。声帯が意味もなく彼の名を呼び続ける。寂しい、さびしい。本当は春弥に聞かされたときも、彼が死んだなんて信じたくなかった。どうして選りに選って自分の知らないときにいなくなってしまったのだろう。後から死んだと聞かされて、いつのまにか日々に彼がいないようになっても、そんなの素直に受け入れられるはずがないではないか。
「っ…和雄はもう死んだんだ…!」
諌めるような春弥の声色。潜む憤り。
「わ、かってる…」
本当は分かりたくなどない。だけれど何処を探しても彼はいなくて、自分の名を呼ぶ声もない。いっそこの世界でない元の世界に戻ったのだと思い込めれば楽だったろうに、自分はもうこの世界が現実の世界であると知ってしまっている。彼という存在に再び巡り会うことは二度とない。
彼だけではない、美緒も父も母も、この世界からいなくなってしまった。…追い詰めただけでは飽き足らず、とうとうこの手で息の根を止めた。

『み…きやす…』

弾力のある柔らかな躯がゴム風船のように内蔵もろとも弾け飛んで、自分の名を呼んでばらばらになった。
冷静になれば、どうしてそれが父を射抜いて、自分を庇ったかなんて考えることもできたはずだった。
けれど突然父を殺されて、どんな姿をしていようとあれが父だと思っていたから、頭が真っ白に染まり。
全てに気付いたときには、何もかも遅過ぎた。

乾いた涙の跡がぱさつく。拭った手の甲も同じようにすうすうした。
「…」
「…幹靖?」
訝しげな春弥の表情。彼はこんな状況になっても、自分を見捨てないでくれている。優しい男だ。だけれど、本当はそんなこと、初めて会ったとき…はいささか大袈裟だとしても、学校に居る頃から知っていた。ちょっかいを出せば嫌々ながらも付き合ってくれて嬉しかった。
「悪い、少し疲れてるみたいだ…ちょっと休むよ」
「あ、ああ…」
…けれども、いつまでも彼の優しさに甘えてばかりいるのは忍びない。
布団を被り、眩し過ぎる光を遮断する。彼の気配が遠のいた。きっと今回の件を彼の幼馴染みは気に病んでいる。一言、彼の所為ではないと伝言を頼めば良かった。…いつだって気付かずに後悔する。だがそれさえも、もはや今の自分には似つかわしく思えた。
スラックスの後ろのポケットから、折りたたみ式のナイフを取り出す。己の父親の偽物と対峙しようというのに、まさか何の準備もしないで行くわけがない。異形と化してしまった父相手には何の役にも立たないだろうとは思っていたが、無駄にはならなそうだ。
美緒が突然命を断って以来、生きている者が死を願うことは傲慢であると思い続けて来た。おそらくそれは、彼女を追い詰めたことに対する罪悪感からきていたのだろう。そのこともあって、和雄が死んだときも自分の感情と向き合うことは避けていた。…深く考えてしまえば、冷静でいられなくなることくらい分かっていたからだ。けれど父の欲望に晒され…彼は息子である自分を弱らせて犯して殺そうとした…、母の体液で己の手を汚して、…もう疲れてしまった。心にぽっかりと空いた穴は寂しさを湧き上がらせるばかりで、塞ごうにも塞ぎ切れない。
死んだ後に何かが待っているだなんて思っていない。無心論者だ。地獄も天国も在りはしない。ただ、本音を言えば、水面に映る和雄の腕を取りたかった。彼の幻を腕に抱き寄せたかった。
鉛色に輝く切っ先。

「幹靖!」

弾き落とされる凶器。甲高い音をたてて床を転がる。確かに彼は部屋を出て行ったのに。シーツに押さえつけられた両手首の骨が、折れそうな程に軋んだ。
「鷲、宮…」
「…なあ、いま…何しようとしてたんだ?…」
異常なまでに落ち着いた声色とは裏腹に、手首を握り締める手はぶるぶると血管が浮き出ている。もしも素直に頷けばこの場で殺されかねない…矛盾している、と思った。
「死のうとしてたのか?なあ、幹靖?…どうなんだ!」
「…鷲宮、手が痛い」
「…あれは誰が何と言おうが正当防衛だ。お前のお袋さんだって、ここで死なれちゃお前を庇った意味がない…」
血の巡りを阻まれた手が白く鈍い。彼の瞳は怒りに満ち溢れている。彼は泣きそうな顔をしている。生命の閃き。
…流されやすく誰かに縋らなければ生きられない自分と比べて、彼はなんて自我の強い、生きることに貪欲な人間なのだろうと思う。彼が感情のままに生を邁進するのとは正反対に、自分は誰かを理由にしなければ、生に対する執着さえ持てずにいる。
多分…そんな彼がずっと羨ましかったのだろう。だから嫌がられていると分かっていても、ちょっかいを出し続けて、反応してくれると嬉しくなって。彼に抱きしめられたり口付けられたりすると、温かい気持ちになって。そのたび、すとんと胸に居座っては形を成していった感情。
「俺…鷲宮が好きだよ」
もっと早く気付いてさえいれば、和雄も含めて穏やかな時間を過ごせたかもしれないのに。そう言うと、彼の瞳から怒りの色は消え失せて、泣きそうな顔だけが残った。手首を握り締めていた手が、蕭やかに解ける。
「…まだ遅くなんてない。神の口を割らせさえすれば、また普通の日常に戻れるさ。…だから死のうだなんて思わないでくれ」
「そう、なのかな」
それでも失われた命は戻っては来ないのだろう。歯切れの悪い返事をすれば、痺れを切らしたように抱き寄せられる。
「っ、俺がずっと傍にいてやるから…っ…頼むから、俺の前からいなくならないでくれ」
震える肩。どちらかと言えば、いま、崩れ落ちてしまいそうなのは彼の方だと思いながら、その肩に顔を埋める。こうしていれば、ぽっかりと空いた穴を少しの間だけ誤摩化していられるような、自分はきっと疲れ過ぎているだけなのだと言い聞かせることが出来るような気がした。彼の言葉一つで、生かされている。単純でいつまでたっても脆い命。
「鷲宮…」
「駄目だ、死ぬなんて許さない」
ムキになる彼の態度に、思わず苦笑する。単純過ぎて嫌になるけれど、何だか自分は大丈夫そうだと思えた。落ち着いて、ちゃんと休息さえ取れば、雫と彼の横で並んでやっていける。 …これも彼の生きる力を分けてもらえたおかげなのかもしれない。人の温もりに今更ながら気付かされることは多い。
鷲宮、と仕切り直しに心の中で呼びかける。強張ったままの彼の肩にそっと手を乗せ、一言感謝の気持ちを伝えようとした。
「…ありが」とう、と。
けれど終わりの方、喉から漏れたのはひゅうと空気の通り抜けるような音で。あれ、どうしたのだろう。声が出ない。それに、急に彼の横顔が霞んで、



「…幹靖?」