第二十三夜.亡骸









明けない朝はないというけれど、いつかこの長い静寂が破られるときが来るのだろうか、この世界にも。
項垂れる闇夜が窓の外から食卓の場に忍び寄ってくる。もう慣れたもので、わざわざ口に出す者は居ない。これは夕食を装った朝食である。単純明快でわけの分からぬ一文。調理された食事を義務的に喉に流し込みながら、幹靖は昨夜雫に言われたことを思い出していた。
――父親を殺せるか。
仮に幹靖が殺せないと言ったならば、彼は自分の手を汚そうとするのだろう。しかしそれ以前に、あの父が本当の父親であるという保証はどこにもなかった。親子なら分かるはず…そんな奇麗事も、幹靖は夢の見過ぎだと一蹴したい気分だった。長い時間共にあったとしても、真面目に向き合って来なければ親子だろうとなんだろうと他人と何ら変わりないのだ。むしろ他人以上にたちが悪い。兎角現状、幹靖は己の父親が本物の父親であるという確信がなかった。しかし父親でない場合、一体彼は誰だと言うのだろう。何が目的で自分達に近付いたのか。…聞いてみれば分かることだ。
右斜め前に座る雫は、食欲がないのか珈琲一杯にバターロールが一つだけと相当な小食だ。一方、目の前の椅子に腰掛ける春弥はやたらサラダばかり食べている。ベジタリアンではなかったと思うが、焼かれた目玉焼きにはまだ一口も手をつけていない。ちなみに今朝の朝食を拵えたのは雫であり、そのため彼自身の分はちゃっかり減らしてあるというわけだ。
そして自分の隣は空席になっていて誰も座っていない。
食後。父の分のお粥を作る幹靖のもとへ、春弥が寄ってきた。雫は早々に二階へ引き上げている。
「お前の父親のことだけど」
…同じ話題をするにしても、彼より雫の方が一足早かったようだ。幹靖は春弥に微笑みかける。
「昨日、岩崎にも言われたよ」
「…岩崎はなんて」
「偽物の父親を殺せるか、ってさ」
春弥は口をへの字にして唸った。どうやら雫だけでなく、春弥にまで気を遣わせてしまっているらしい。…少しだけ、美緒の気持ちが分かったような気がした。けれど、これはあくまでも親子間での問題だ。雫が言うのだから偽物なのだろうが、彼の手を借りる程のことでもないだろう。もしも向こうに殺意があったならば、既に殺されていてもおかしくないのだから。…そう、殺意がないのなら何か事情があるのかもしれない。話し合いで穏やかに解決出来ればそれに越したことはない。
「大丈夫だよ、鷲宮が心配するほどのことじゃない」
けれど本当に…彼は偽物なのだろうか、と幹靖は思う。雫の能力を疑うわけではないが、偽物が果たして妻を恋しがったりするだろうか。幹靖を見て容姿が似ていると零したりするのだろうか。それさえも彼の策略ならば、やはり悪意があるのかもしれないが。
ふと春弥の顔を見る。
「鷲宮?…」
…不満そうだ。彼は一友人である幹靖に「俺の傍にいろ」と言い出すくらいなのだから、面倒見は良い方なのだろう。逆を言えば、頼られないと文句の一つでも言いたくなるような性格か。とはいえ、彼の眼には余程自分が頼りなく映っているようで、同じ男としては少々複雑な気持ちだった。
どうしたら安心させてやれるのだろう。…いつも受け身だからいけないのだろうか。
幹靖は春弥の肩に触れると、彼の頬に軽く口付けてみた。…春弥は瞬きすらしない。せめてうんとかすんとか言ってくれないだろうか。……初めこそ意外に平気なものだなと思ったけれど、真顔で見つめ合っているうちに徐々に恥ずかしくなってきた。顔からは火が出そうだし、背中の鍋も吹き零れそうだ。
「あの、鷲宮。とにかく、大丈夫だから、な?」
「…お前、いま俺にキスしたのか?」
「あ、うん」
改めてキスしたとか確認しないで欲しい。確かに一瞬触れるか触れないか程度の、本当に軽いキスではあったのだけれど。美緒のことがあったため女子とも付き合ったこともないし、これでも自分から誰かに口付けたのは初めてなのである。春弥は当然知る由もないだろうが。
…春弥の顔が赤い。
「ば、かじゃないのかお前」
「ええ?」
まさか馬鹿と言われるとは思ってもいなかった。しかも彼の反応も予想外だ。どうしてそこで赤面するのか。彼は口を押さえたまま、よろめいて幹靖の腕をがしりと掴んだ。
「まずい、朝っぱらからたちそうだ」
…とんでもないことを聞かされたような気もするのだけれど…聞き間違いだろうか。ひとまず鍋の火を止めよう。お粥に乗せる…水菜は切らしている。彼も腕を放してくれない。仕方なく振り返ると、待ち構えていたような彼の唇とぶつかった。腕を掴む手とは別のもう一方の手で、頬を包み込まれる。舌の絡む欲情そのものの口付けに、ああやっぱり、と昨日も感じた気持ちを胸の内に確かめる自分がいて、嬉しいような切ないような不思議な感傷に襲われる。…どうしたって、彼に頼るのは良くない。
引いた糸を手の甲で拭い取って、今度こそ鍋の火を止める。このまま事を運びたがっている彼には申し訳なかったが、物事には優先順位というものがある。
「ごめん鷲宮、ちょっと行って来るから」
「…、…ああ」
彼は机にへたりと座り込み、不完全燃焼な顔でひらひらと手を振った。それから。
「…何かあったらちゃんと呼べよ」
人の好い言葉を吐く。

階段を上り、ドアをノックする。
「悪い、遅くなって」
お盆を父の前まで持って行き、腹を空かしているであろう彼のためにスプーンで茶碗のお粥をすくった。話を聞くのは食事を終えてからで良いと思っていた。けれど彼の眼の色が違うのを見て取って、スプーンを持つ手をゆっくりと下ろした。さりげなく微笑む。どうにも…嫌な予感しかしない。昨日…春弥との行為の後に顔を会わせたときは何ともなかったというのに。
「…どうしたんだ?親父」
「昨日はどうだった」
「…何がだ?」
彼の骨張った手が伸びて、手首に触れる。それを静かに見下ろして、彼の言葉の続きを待った。お粥は横に置いておく。
「お前も随分といやらしいことを覚えたみたいじゃないか」
予想はしていたとはいえ…、…本当にこれが父親の言う台詞だろうか。それも娘を性的被害に遭わされた親の。…最低だ。
幹靖は羞恥にも似たいたたまれなさと嘆かわしいほどの失望感に、精神が醒めていくのを感じた。この男が、雫の言うように本当に偽物であれば良いのに。
「…あんた、本当に俺の父親なのか?」
「当たり前だろう。あの銀髪の子に何か吹き込まれでもしたのか?」
いやに饒舌だ。彼の指先が頬に触れかけて、思わず払いのける。これ以上、偽物であっても父の零落れる姿を見ていたくない。事情を把握するだけして、適当な対策を練ろう。それが一番良い。
けれど今度は払う間もなく、肩を押さえ込まれた。信じられないほどのもの凄い力で覆い被さって来る。とても昨日まで弱りに弱っていた人間とは思えない。
「放せ!くそ…っ」
「やれすっかり醜くなった理江とは違って、お前は美味そうだよ。もう我慢出来ん」
彼はじゅるりと舌舐めずりし、左腕を幹靖の頸へと伸ばした。溶け出す指先。どろりと垂れた黒いヘドロが頸を絞め上げ、幹靖は呻いた。信じ、られない。全身に鳥肌が立ち、息が詰まる。
「これでこそわざわざ逢いに来た甲斐があるというものだろう、我が息子よ」










「お前、なにこれ俺を太らせようとしてるわけか?」
春弥は目の前のショートケーキを指差す。昨日の羊羹に引き続き糖分過多だ。櫻井はにへらあと笑う。
「なあに言ってるのさ。普段から苛々している君のためにわざわざ持って来てあげているのに」
「普通苛々してる人にはカルシウムだろ?」
「いやしかし、甘いものを食べながら苛つく人もそういないと」
まあ今日の君はそれほど苛ついているようには見えないけれど、と彼はチョコレートケーキを切り分ける。
「あはぁ、ホールにすれば良かったかな」
「誰がそんなに食うんだ」
「君と僕と…君の幼馴染みとご友人」
「…岩崎は食わないだろあれは…」
けれど、幹靖だったら食べるかもしれない。学校に居た頃よくパシリにされていたため、彼の嗜好は大体分かっている。そして比較的買わされる頻度が高かったのはジャムパンであることから、きっとケーキもいけるだろう。…ああ、ホールにすれば良かった。とりあえずショートケーキが二つあるので一つ取っておいてやろう。
「君が優しいと鳥肌立ちそうになるよね」
「言ってろ」
「なら僕も友達思いの君に優しくしてあげよう。チョコレートケーキ半分あげるよ」
これで一人一個と半分で平等だろう?と櫻井は微笑む。錯覚かもしれないけれど、空間に溢れ返る温もり。人から与えられる思い遣りはむず痒く感じられて、わざと捻くれたことを言いたくなる。
「確かに優しくされると鳥肌が立ちそうになるな」
「ひどいなあ」
彼もわざとらしく口を尖らせる。彼には春弥に思っていることなどお見通しなのだろう。穏やか過ぎて気色の悪い時間。けれど春弥はこの時間を嫌ではないと感じるようにもなっていた。この世界では心臓に悪いことが多過ぎて、何も起きていない時間というのは貴重なのだ。だが。

「…あ」
穏やかな時間はいつでも長くは続かない。

「ん?」
「…何だか、おかしいかも…しれない」
櫻井の顔色が悪い。突如として見舞われた悪寒に、春弥は身震いした。これが間違いようもなく現実。…言われてみれば、”奇妙な気配”がする。周囲を見回すと、それぞれの影が禍々しく伸びていた。ぶるん、と湧き上がる水滴。
「櫻井!」
数え切れぬほど発生する生命体に全身が総毛立つ。慌てて櫻井の腕を掴めば、彼の額には尋常ではない脂汗が噴き出していた。戦慄く唇。
「これは、ちがう、気持ち悪い」
「…何が!」
「…はる、か」
”はるか”?誰のことだ。しかしそれよりも今は避難することの方が大事だった。しかしいったい何処に避難すれば良いと言うのだろう。春弥が櫻井の腕を引こうとすれば、彼はそれを拒んだ。頭を振る。
「僕は平気だから他の子のところへ行った方が良い」
「平気だとかは自分の顔色見てから言え、この馬鹿!」
「大丈夫、接触されないようにしておくから。…ほら、良いから早く行きなよって」
するりと掴んでいた櫻井の腕がすり抜ける。卑怯だ!けれど確かにこれなら彼が被害に遭う恐れはない。…苦しげなのが気にかかるが、雫や幹靖のことも放ってはおけない。春弥は生命体に足を取られないように気をつけながら、廊下を跨いだ。向かいの部屋から雫が飛び出す。彼も非常に顔色が悪かった。見れば彼の出て来た部屋には一匹も生命体が残っていない。
「またお前消したのか…!?」
この状況下では自殺行為だ。つい非難するような言い方になるも、
「今は二階に行くのが先だ」
雫に睨まれはっと我に返った。そうだ幹靖は無事なのか。一階には下りて来ていないらしく、不安は強まる。足の裏の影が不意に踊り、粘着質な紐が足首に絡まった。蠢く。薄気味悪くそれらは生きている。
「鷲宮!」
雫は舌打ちし、春弥の足首に纏わりつく生命体を素手で引き剥がした。彼の手の中でそれらは醜い音をたてて潰される。歪む表情。何故そんな顔をするのかと問う前に、雫に腕を引かれて春弥は階段を駆け上がった。廊下に侍り溢れる生命体。けれど雫が躊躇なく一歩踏み出すと、それらは潮のようにざざざと引いた。逆に春弥には愛おしげに寄って来る。なんて不愉快なのだろう!懸命にそれらを払い除けながら、春弥は彼の後に付いて幹靖が居るであろう部屋に飛び込んだ。

部屋の中心には、醜悪な生命体が這い蹲っていた。

人体の頭部や手足が繋がっているべきはずのところからは、薄黒く透けた生命体が無数に生え出している。それらが幾多もの眼球をぎょろりと覗かせながら、蜘蛛の巣状に混じり合って部屋中にびっしりと張り付く様は、化け物としか表現出来ない領域に達していた。
そしてその生命体の枝の一端に、頸から吊られている幹靖の姿があった。喉元を押さえる指先がぴくりと力なく動く。春弥は頭がかっと熱くなるのを感じた。
「幹靖…!」
「…待て」
駆け寄ろうとしたのを雫に制止され、春弥は動揺した。雫は間違ったことは言わないが、この状況で待つことなど有り得るのか。特に幹靖の場合は窒息しかけているのだから一刻の猶予も争うというのに。呼吸停止しても人工呼吸をすれば良いだとかそういう問題でもない。
けれど春弥が逡巡している間にも、事態は動いた。
真ん中にいた人体の核を、別の小さな生命体が貫いたのだ。部屋全体の圧迫感が薄れ、幹靖は床の上に強かに崩れ落ちた。噎せ返る。
「親、父…」
核を失い、見る見るうちに嗄れていく父親の亡骸を、彼は呆然とした面持ちで見つめていた。…それから何を思ったか…朦朧とした意識の中で父の仇をとでも思ったのか…傍に這っていた小さな生命体を鷲掴みにし。


潰した。


あっという間だった。
醜い生命体と化した彼の父親は、核を打ち落とされ、ぬるりと床に飛び散った。
父親を射抜いた小さな生命体も核を握り砕かれ、濁った溝水のように溶けて床に染み込んだ。けれど完全に染み込む前に、それは女性の声で幹靖の名前を呼んだ。
「…あ、」
それはそれは愛おしげに、子を想う親のように。
彼は全てを理解した。


「う、…あ、ぁああ、ああああああぁあ…!」


狂ったように泣き叫ぶ彼の姿に、春弥はどうしたら良いのか分からなかった。ただその身体を押さえていたら、「舌を嚼ませるな!」と叫ぶ雫の声が聞こえて、彼が死にたがっていることを唐突に理解した。春弥は彼を死なせたくなかったため、ただ雫の言う通り彼の口の中に指を突っ込んで、痛かったけれど舌だけは噛み切らせないようにした。そのうち指の感覚がなくなってきた頃に雫が彼を気絶させて、事無きを得た。多分、得たのだ。
世界の生命体はいつのまにか沈静化していた。












まるで自分の体内を無遠慮に弄られるような感覚に、吐き気が込み上げて来る。
内蔵や胃、心臓までもが好き勝手にもぎ取られてしまいそうな不安に怯えながら、櫻井は目の前の青年を見上げた。視線が冷冽な面差しとぶつかる。彼と向かい合っていて、背筋が寒くなるのは初めての経験だった。
「…神邊、どうして…」
「確かに僕が干渉出来る範囲には限度がある。が、これくらいなら、やってやれないわけじゃない」
「…君は、どうかしているよ…」
櫻井は膝に乗せた拳を握りしめながら、唇を引き結んだ。神邊の考えが全く理解出来ない。否、彼の目的や心理が読めないわけではない。けれど何かに邪魔をされ、読んだ心理は理解する前に消し去られてしまう。ただどんな事情があろうとも、彼の行為は立場を逸脱している。過干渉だ。
「気分が悪そうだな」
心臓は煩わしいほど激しく脈打っている。吐き気のする彼の行為に、全身が拒絶反応を示しているのだ。視線を合わせるように目の前にしゃがみこんだ彼に感じたのは…恐怖、だろうか。手のひらに滲んだ汗が冷たい。
「櫻井」
内面の深奥を侵蝕されるかのような声音に躯が顫動する。彼のことを好いているのに、彼をとてつもなく遠ざけたがっている自分がいる。彼に対する申し訳なさが意識の隙間から染み出てくるような…、…なんだ?何故彼に申し訳なく思うことがあるのだろう。むしろ現状は彼こそが仕出かした行為を謝罪すべきで。
頸をなぞる彼の指先は頗る冷たく、まるで死人のそれのようだ。
「けれどもしこれが、全てお前のためだと言ったらどうする?」
お前のため?彼は何を言っているのだろう。第一、他人のためだと嘯く奴ほど、結局は自分の為なのだ。自己満足。自己愛。そんな一方的な自己を押し付けられて喜ぶほど、お人好しな性分は持ち合わせていないというのに。さすが神の字を担うだけあって、考え方が自己本位だ。
「お前にとっては迷惑以外の何物でもないんだろう」
分かっているなら大人しくしていればいい。彼は、何を求めてこの世界で足掻き続けているのだろう。お前のためと言われたところで、何が何だか分からない。そう言って問いただそうかとも思ったのだけれど、彼は妙に淋しげな横顔をしている。もしも櫻井が性善説を推進する余裕のある人間であったなら、彼の言うことを理解出来ない自分が悪いと思い込んでしまったことだろう。迷惑を承知で働きかけようとしているのだから、彼は彼なりに苦しんでいるのだろうと絆されて。
けれど今回の扇動…彼の行為によって植え付けられた不信感は、そう簡単には拭えそうになかった。
「僕には君が理解しがたいよ」
「そうだろうな」
先程見た表情が嘘のように、彼は打って変わって冷淡な態度を露にする。自分から突き放したにも関わらず、胸が抉られるような後悔に櫻井は思わず俯いた。悪いのは、彼のはずだろう。そう自分に言い聞かせたところで胸の痛みが薄れることはなく、奥歯を噛み締める。こんな想いをするくらいなら、彼の言葉を聞き入れる振りだけでもすれば良かったのか?違う、それは違うはずだ。なら、どうすれば良かった…どう言えば良かったのだろう。
神邊はもう櫻井には見向きもせず、遠ざかっていく。櫻井自身、彼と遠ざかりたかった。だからこれで良かったはずだった。けれど本当にそれが自分の意思なのか、もはや分からなくなっていた。