第二十二夜.蛇口











問い掛ける。
「…なんで、こんなことしたんだ」
すると春弥は幹靖を見据えたまま、彼の赤紫色に変色した手首をそっと掴んだ。寄せられる唇。皮膚の表面に押し付けられた熱さが、じわりと幹靖を冒す。交錯したままの視線。彼の熱を帯びた吐息が、幹靖の鼓膜を刺激する。
「キスしたい」
「もう、してる」…手首に。
「お前の唇にしたい」
どうしてそんなことを言うのだろう。先程までの性行為も…否、性行為ですらなかった。彼は一方的に幹靖をいたぶった。それが、分からなかった。これまでの性行為で彼は必ず挿入はしていて、だからこそ幹靖はその行為を彼の性欲処理だと思っていた。それなのに、今日の彼はひたすら幹靖に屈辱的な快楽を強いた。
「…俺の質問に答えてない」
「…分からないのか?」
彼は笑っている。だけれど瞳の奥は全く笑っておらず、実に不愉快そうだと幹靖は思う。彼はゆっくりと覆い被さってきて、眼鏡のレンズの向こうから、こちらをじっと見下ろした。”分からないのか”?何が。彼はいったい何を分かれと言うのか。性欲処理が目的でない性行為。触れた唇。春弥のこうした言動や行為は、自分達の間に愛情が介在しているかのような錯覚を引き起こす。
頬から耳朶を彼の指が優しくなぞる。重ねられた唇よりも気恥ずかしくなるその動き。唐突に、脱ぎっ放しだったスラックスを履きたくなる。けれど彼の腕に腰を抱かれて、現状の生温さにそのまま溺れそうになる。流されている自覚はあった。むしろ自分という人間はいつでも流されてきたような気さえしていた。それでも今だけは共有した熱に浮かされながら、何故自分は当たり前のように彼と触れ合っているのだろうかと束の間の停滞に浸る。今更過ぎるけれども、どうにも違和感の拭いきれない関係性。男である自分が誰かに触れられる、身体を委ねるということ。
何故春弥を拒絶しないのだろう。快楽で飼い馴らされて、頭がまともに働かなくなっているのだろうか。学校に居た頃は、彼に寄り添う自分の姿など想像も出来なかったのだけれど。むしろ、春弥が自ら幹靖に触れようと思うだなどと、誰が想像出来ただろう。
太腿の裏側を撫でる彼の指先に、細微な電流が走る。一方、唇は耳朶を掠めて、新たに熱を移す。彼に触れられると身体の全てが性感帯になったような気がしてくる。事実、彼の存在は甘やかな毒に等しかった。僅かに、息が上がる。
そして耳に響いたのは、予想していた以上に低い声色。
「…苛つくんだよ。お前が傍に居ないと」
「鷲、宮」
「だから誰かの傍にいたいなら、俺の傍にいろ」
………春弥は時折真面目な顔で、馬鹿げたことを言い出すから敵わない。しかも本人は至って真っ当なことを言っているつもりなのだ。…傍に居ないと苛つく?この間まで近寄るなと言わんばかりの顔をしていたくせに。人の心はそんな簡単に変われるのか。分からない、…分からない。快楽とは別の、眼球の奥が熱くなるような感覚も、喉が引き攣るような感覚も。畜生。
「…どうかしてる」
軽く押し付けられるような口付けに、心が弛緩しそうになる。違う、一瞬だけれど緩んだ隙間に彼はもう入り込んだ。酸素を奪われて、息苦しくなる。腹に押し当てられた彼の熱に、安堵と緩く甘やかな快楽が忍び寄る。意識とは別に、身体は期待にのぼせ上がる。
どうかしているのは今更で、そう気付いたときにはどうしようもなく遅かった。











櫻井は羊羹に楊枝を突き刺す。
羊羹は彼の開かれた口の中へと飲み込まれて、咀嚼される。一回、二回、三回、四回。
春弥は水まんじゅうに楊枝を突き刺す。
水まんじゅうは彼の開かれた口の中へと飲み込まれて、咀嚼される。一回、二回、etc。
そして彼は心中毒づく。結局父親が優先か。そりゃあ生きているわけだし世話をしないわけにはいかないのだが。
「どう思う?」
「彼は君ほど子供じゃないんだよ」
「そうかもしれない」
子供は自分を中心に物事を考えがちだ。然すれば大人は他人のことも含め物事を考えられる人間ということになるが、その分自分が後回しにすることも珍しくはないのだろう。ああなんてもどかしい生き方だ、と春弥のような人間からしてみれば思ってしまう。相手の都合ばかり慮っていては、自分が疲れてしまうだろうに。ましてや幹靖の場合、彼自身に手を出そうとした男を世話しようと言うのだから、いくら大事な父親とはいえ酔狂にも程がある。その父親も父親で、実の息子に手を出すなどと…雫の意味したこととは別の意味で頭が腐りきっているとしか思えない。今すぐ鼻から管でも突っ込んで脳味噌を洗浄をしてやりたい気分だ。
「親子の縁てなものは、そんな簡単なものじゃないのさ。きっとね」
それに邪魔だからってさらりと消せるものでもない。櫻井は口をもぐもぐさせては息継ぎをするように話す。咀嚼している最中に口を閉じているのはマナーとして当然だが、おかげで会話のテンポが悪い。歳を経るとそんなこともおかまいなしに捲し立てるご婦人も少なくないと聞くが、そういった点では櫻井もまだ若い。と、子供と言われたことに対する意趣返しのつもりで内心呟く。何の意味もない。けれど、櫻井は春弥の心情を読み取るときがあるので、もしかしたら気がついたかもしれないという少しだけ浮ついた気分になる。悪戯を仕掛けてはしゃいでいる子供のような。…やはり子供なのかもしれない。春弥は水まんじゅうを口の中に置くと、ちらりと櫻井を見た。けれど彼は憂いを帯びた面持ちで羊羹を見つめている。…つまらない以上にらしくない。
「どうしたんだ」と、尋ねたのは反射的にだった。
「何がどうしたって?」
櫻井は一転して明るく笑う。極端な切り替えは変わらず奇妙な不安感を感じさせる。
「何だか落ち込んでるように見えたんだ」
「…僕が?…まあもしかしたら、落ち込んでるところもあるのかもしれない」
まるで他人事のような言い草だ。ふぅむ、と彼は唸りながら、春弥の取り分に楊枝を突き刺した。
「別になんてことはないんだけど、”神”様が最近冷たくって」
「神が?」
前々から思ってはいたが、神とこの雑草である彼の間には歴とした交流関係が成立しているらしい。いくらか次元の違いを感じるけれど、それがこの世界での自然な有り様なら聞き手の春弥としては受け入れるほかない。というよりも、そうしないと話が進みそうにない。…神が冷たい、何故。あの偽善者面した神も、櫻井の前ではある意味自然体だということか。
会話が一旦途切れる。それで?と春弥が先を促すと、彼は大きく欠伸した。
「別にそれだけ。ただ僕は、君のことが羨ましいのかもしれない」
「はあ?」
「君はまだ間に合うから」
…何のことかさっぱり分からない。櫻井は元々脳内で自己完結しながら話をするところがあるため、聞いている立場からしてみれば、ぼろぼろと大事なことを捉え損ねている気がしてならない。一を聞いて十を知れだとか、そんなものある程度の予備知識があってこその発想だと思わざるを得ない。
「櫻井?」
「なに?」
「正直なところ、俺はお前の言いたいことの半分も理解出来てないかもしれない」
…真顔で告げることでもない。しかしそう言うと櫻井は含み笑いをして、春弥の髪を無造作に撫で回した。…こうした子供扱いにも大分慣れてきてはいたものの、それが嬉しいかと聞かれると素直に頷けないものがある。春弥はしばらく俯いたまま、されるがままに撫でられていたが、彼がぴたりと腕を止めたのに気付いて顔を上げた。
「櫻、」
「ちょっと肩貸してよ」
…不意に抱きつかれて息が止まりそうになった。肩口に埋められた蜂蜜色の髪がさらりと揺れ、春弥は呆然とその色を見下ろしていた。決して力強い抱擁ではない、表面同士が軽く触れ合う程度のそれ。恐る恐るその背中に腕を回せば、彼は小さく笑って身を離す。邪魔な距離感。
「ねえ、多分僕は君のこと好きだよ」
「…それは」
「そう、それは恋愛感情だとかそういうものじゃない。まあ君も高校生なんだし、それくらいの違いは分かるね」
透明な瞳で彼は春弥を見る。精神の汚れなど微塵も感じさせぬような眼差しに、心の奥底が静かに穴を開けて沈む。漏れる気泡。馴染まぬ静謐に心がざわつく。…屈折していないものは苦手だ。同じ美しいものであっても、雫の持っている強靭で澄んだ冷たさとは異なり、それは叩けば簡単に砕け散る。砕けた欠片まできらきらと輝くように。それが、…見ていられない。
「…分かるさ」
ぎゅっと眼を瞑り、胸の内側を掻きむしりたくなる衝動を堪える。人間の本質は脆弱である…が個人差もある。だからこそ生きていく過程で、各々が何重もの扉を造り上げて基盤を強固なものへ変容させる。だが時折、角度によっては無防備な奥底が透かし見えてしまうこともあって、春弥はその瞬間が酷く苦手だった。自分が対象の人物よりも忌々しく思えてくる。本質そのものが中途半端に薄汚れてきた自分が劣っているように感じる。目映く白々しいそれ。強烈な羨望と罪悪が入り交じる何とも言えぬ不愉快さ。おそらく春弥がたった今櫻井に感じたものと、…これまでに何度か幹靖に感じた甚だしさとはよく似ているものだ。
ただ雫や櫻井、幹靖に対して抱いている感情はそれぞれ違う。一応どれも好きの部類には入るのだろうが…櫻井の言いたいのはその辺りなのだろう。そしてきっと春弥も、櫻井と同じ意味で彼のことを好いている。上手くは説明出来ないけれど、何故か春弥は櫻井をいつのまにか信頼していた。初めのうちは警戒さえしていたというのに。…つまりはそういうことなのだ。慣れもあるがそれよりも。
けれど彼の中の彼は言う。
「…でも君は、憐れな子供だ」











「緋田」
食器を洗う彼の背に雫は声を掛けた。振り向いた彼の手は洗剤の泡に塗れている。…覗く紐痕。顔を見れば目尻も薄らと赤く腫れている。
「どうしたんだ?岩崎」
喉飴を舐めているらしく、彼はやや話し難そうに口の端を持ち上げた。
「お前の父親について話がある」
「…ああ、」
「お前はアレを本当に自分の父親だと思っているのか?」
彼は食器に付いた泡を洗い流し、水道の蛇口を閉めた。裏表のない澄んだ瞳と相対する。平静さに縁取られた苦笑。
「確かに随分とタイミング良く此処に現れたものだと思ったよ」
「不審に思っているなら何故甲斐甲斐しく世話をする?姿見が酷似しているからか?」
「俺には岩崎のように特殊なものを見透かす能力はないから、それらしいものはそれらしく対応しないといけないんだよ」
この場合のそれらしいは本物らしいと符合するらしい。だとすれば偽物である可能性も念頭に置いているようだが。…それ自体の意味は成さぬとも、伝えておくことに意味はあるか。
「ならその父親は偽物だと言われて殺せるか」
「…まあ正直しんどいだろうとは思うよ」
「殺さなければ殺されるのはお前かもしれないぞ」
雫自身が手を下しても良かったが、それでは目の前の彼の意に沿わないだろう。翳る表情。己の父親の真偽だけではない。死の話題に関連付けて彼が思い出すとすれば、あの幼い少年のことだろう。…依存関係というものは、必ずしも一方的なものではない。特に片割れの死因に深く関わったならば、忘却することは容易いことではない。
「…偽物だとしたら…一体彼は何のために現れたんだと思う?岩崎」
「それは本人に聞いてみれば良い。答えればの話だが」
「…近いうちにそうさせてもらうよ」
今日はもう遅いから、と彼は言葉を濁す。出会った当初の明るさが鳴りを潜めているのも、その心労を思えば仕方のないことだった。空元気ではあっても穏やかな態度を保てるだけ、あの春弥よりはまともな人間である。ただまともな人間が生きやすいかと聞かれれば、必ずしもそうではない。雫は壁に掛けられた時計の針を確認すると…現在は午後八時だ…踵を返した。
胃から込み上げて来るものがある。
洗面所へ早足で駆け込み、指を口から喉元深くまで突っ込む。薄黒く汚れる洗面台に俄に湧き上がる嫌悪感。蛇口を捻って水で流し、何度かうがいを繰り返す。処理が追いついていない。…相性が悪い。
身体の内側で蠢く感覚に虫酸が走る。脳裏に過る一つの後ろ姿。しかしあれには無理だ。…こうなれば自分で。
鏡に映る神の影。
「辛そうだね」
声色だけの慈しみ。冷めた表情は駒を見定める観察者そのものに等しい。ひりひりと痛む喉。
「だがもうしばらく様子を見ようか」
全てを知る神はいつでも傲慢な態度を崩さない。迷えば神は神にあらずとでも言うように。