第十九夜.馬鹿







骨が食い千切られる音が響く。
和雄が狂ったような笑い声を上げながら、削れていく様を春弥は唖然として眺めていた。助けなければという思考が働かないほど、それはあまりにも異様でおぞましい光景だった。アレが寄ってたかって和雄の手足や頭部を飲み込んでいく。転がりおちた眼球もぐちゅりと舐めとられた。…声も出なかった。
化け物の気配を感じたのか、やってきた雫さえも沈黙している。
しかし持ち前の冷静さで彼は春弥よりも早く我に返り、眼前の生命体…寄り集まって肥大化した…の中に手を突っ込んだ。消化液の匂いなのか、ぷぅんと悪臭が部屋全体を包み込み、春弥は吐き気を感じた。雫は僅かに眉を寄せながら、ぬぷりと生命体の体内から溶けかけた一本の腕を取り出した。…和雄の腕。悲しいとか辛いとかそういうわけではなく、春弥は目尻に涙が滲みそうになった。虚無。雫は「…もうない」と呟き、生命体の核…心臓を握り潰し、彼自身の腕を引き抜いた。生命体は崩れ落ち、消え去る。雫の腕は突き入れていた部分だけ薄黒く影が浮き上がっていた。
「…岩崎」
「…秋草の腕は庭にでも埋めておけ、…緋田には見せるな」
頷いた。雫は気絶したままの幹靖を引きずり抱えると別室へと向かった。春弥はただ一つ、残された和雄の腕にそっと触れた。…まだ温かいが、消化液に塗れて冷たくなりつつある。春弥は大して和雄のことは好きではなかった。けれども、何故なのか鼻先がつんとした。途方もない現実が其処にはあった。…彼はこの事実を知ったら泣くかもしれない。
腕をシーツに包み、庭へと運ぶ。気味が悪かった。しかし唯一の”彼”だった。スコップで穴を掘り、シーツごと埋めた。土がさらさらと和雄を埋めていった。スコップで土の表面を撫で、春弥はしゃがみこんだまま俯いた。あっという間だった。人間がいくら他の生物よりも優れていると驕ろうと、その身体が壊れるのはあっという間だ。…足下の土やコンクリートの方が遥かに頑健で、生き物とはなんて脆いものなのだろうと思う。けれど、本当はそんなことはどうでも良くて。

和雄が死んだ?

春弥を覆う一つの影。
「…岩崎…」
投げて寄越されたのは、一本の線香とライター。
「せめて上げといてやれ」
雫なりの優しさか。春弥は黙って頷くと、盛り上がった土にぷすりと線香を差し込んだ。正式な作法など頭の何処かへと消え去っている。独特の香りが舞い上がり、春弥は幼い頃にあった祖父母の仏壇のことを思い出した。両親は掃除も何も放ったらかして、その仏壇の存在自体を忘れ去っているようだったため、春弥は子供心に祖父母に同情したものだった。だから時折、線香をあげては母親に煙たがられていた。
「…岩崎」
「なんだ」
「…お前は死んでくれるなよ」
冷静なのは良いが、先程のようにアレに腕を突っ込むような無茶はしてほしくない。下手をすれば雫まで喰われていたのだ。
すると雫は少しばかり意外そうな顔をしてから、「ああ」と答えた。おそらく彼の中では、春弥は雫が死にさえすれば過去の罪から逃れられるとでも思っていると、思われているのだろう。確かにそうだ。だが雫は春弥にとっては幼馴染みであり、…決して死んで欲しい対象ではないのだ。…そう思っていることを彼に理解してもらおうとするのは、傲慢でしかないのだろうか。
雫は言う。
「お前は…俺に死んで欲しくないと思っているわけか?」
「当たり前だろ」
「俺が不運にも命を落とすようなことになれば、お前の重圧は一気に消えるわけだが」
それともお前には罪悪感なんてもの、最初からないか?雫は抑揚のない声色で吐き捨てる。違う。違う。春弥は立ち上がり、雫と対峙した。だが、何を言えば良いのだろう。口だけなら何とでも言える。行動で示さなければ。しかしどうやって。
「…違うんだ、岩崎」
「何が違う」
「…、…俺はお前に何をすればいいんだ?」
考えるのを放棄して、尋ねるのは卑怯である。けれど春弥に問題の主導権がない以上、彼に教えを乞うのが最も適当な方法ではないのだろうか。雫は冷徹な面差しを春弥に向ける。
「お前の罪滅ぼしのために、どうして俺が考えなければならないんだろうな」
「そうしてくれないと、俺はお前が何を望んでいるのかが分からない」
「口にしたところで、お前は本気で俺の望みを叶える気があるのか?無理難題だったらどうせ逃げ出すくせに」
ならせめて初めからお前に出来ることを、挙げてみせればいいだろうに。雫は言う。…どうしてこう彼は理屈を捏ねるのだろう。春弥もなかなかどうして理屈屋なところもあるかもしれないが、遠く雫には及ばない。
「仮に俺がお前のために何かしたいと思っても、お前にとってそれは俺の自己満足でしかないんだろ?結局責任逃れでしかない」
「…口先だけの謝罪とどちらが良いかは、馬鹿のお前でも分かるだろう」
「…そうだけど…岩崎は俺を必要としてないだろ。…俺はお前が喜びそうなことなんて何一つ思いつかない」
雫は何か考えているかのように春弥を見ている。まるで見定めているかのような、けれど諦めの入り交じったかのような。彼は「馬鹿が…」と呟き、春弥に背を向けた。確かに馬鹿なのは否定出来ないが、彼は望みがあるのなら何故言ってくれないのだろう。…どうせ逃げ出すのだから言っても無駄なこと、なのか。スコップを拾い上げ、彼の後に続いて家の中へと戻る。
二階。布団に臥せっている幹靖の姿を見て、和雄の腕の生々しい感触が蘇る。…薄れかけたのち、より鮮明に刻まれた現実。…幹靖はもう目が覚めているようだった。何処へ行ったのか、雫の姿はない。トイレだろうか。いくら雫が常人離れした容姿の持ち主でも、トイレぐらい行くだろう。春弥とてそこまで夢見ているわけではない。
「和雄は?」
紛うことなき第一声がそれなのか。それとも彼なりに、何か感じるところでもあったか。倒れたら当然傍にいるであろう和雄の姿がないと。幹靖は目映い電灯の明かりを避けるように腕で両目を覆いながら、言った。
「…死んだのか?」
「幹、靖」
「死んだのか」
繰り返された言葉は断定の意味を持ってして彼と春弥との間にすとんと落ちた。さわ…と空気に混じって消える。幹靖の声に、震えはなかった。だが春弥はどうしても、和雄の最期を説明する気にはなれなかった。おそらく幹靖にとって、彼の最期は惨過ぎる。…何故、アレは和雄を喰ったのだ。今まで大人しくしていたくせに、いきなり何故。油断させるという高度な知恵でもあったというのか、あの下手物に。
「幹靖」
頭の横に投げ出された手のひらを、握りしめていいのかどうか春弥は迷う。性行為のときは平気で手くらい握ることもできるというのに、こうした一種デリケートな状況ではどうしたら良いのか分からなくなる。彼との距離を計れなくなる。それだけではない。
和雄は死んだ。この奇妙な世界で死んだのだ、きっと元の世界に居るのだと。言い聞かせたら彼を慰めることは出来るだろうか。
「鷲宮、そんな顔するなよ」
「え?」
どんな顔をしていただろう。逆にするりと手の甲を撫でられて、春弥は彼の顔を見た。彼の眼は春弥を見てはおらず、窓の外を見つめている。
「別につまらない意地を張ってるわけじゃない。でもこういうのは慣れてるから、お前が心配しなくてもいいんだよ」
慣れる?何に、人の死に?春弥にとって、身近な人間が死んだのは今回が初めてのケースだ。祖父母のことは記憶もあまりなく、辛いと思うことはないけれど。こうした人の死もいつかは慣れるものだというのだろうか、彼は?分からない。分からないけれど、納得出来ない。
たくさんの生命を潰して来た春弥だからこそ思う。死に慣れては駄目なのだ。死の一つ一つに、確かな重さと意味がなくては。
「駄目だ…」
「…鷲宮?」
「慣れたら、駄目なんだよ」
己の手を撫でていた彼の手を握りしめ、春弥は唇の端を戦慄かせた。これだから情緒不安定と罵られるのだ。嫌になる。けれど。
「死んだのは和雄なんだぞ。お前の、…、分かってるのか?」
「…分かってるよ」
「和雄に一番近かったのはお前だろ…!それなのに、慣れてるから平気だとか…本気で言ってるのか」
鼻がつんとする。幹靖が心の底から和雄のことを平気だと思っているわけがない。しかし嘘でも大丈夫だと言ってしまえる彼に、春弥は無性に苛ついた。もどかしくなった。親友が死んだのだろう。そんなときくらい取り乱して泣けばいいのだ。涙が出ないほど空虚に塗れているなら、そう口にすればいい。実感が湧かない?なら今すぐにでも墓を掘り返して腕を持って来てやる。
何が慣れているだ。大丈夫だ。馬鹿なのか。信じたくないのなら、信じたくないとそう言えばいいのに。
「だって死んだんだろう、鷲宮。いくら俺がこの眼で見ていないと言ったところで、お前が嘘つくわけないものな」
「…そうだよ」
「なら和雄は死んだんだ。俺がどう取り乱したところで帰って来るわけもない。美緒も和雄も、もう帰って来ないよ」
だから平気だ、と彼は繰り返し口にする。春弥は幹靖の手がへし折れそうなほどの力で握りしめながら、唇を引き結んだ。










身体が軋む。壁に凭れ掛かり浅い息を吐く。体内を蠢く不快感。
「…いい加減辛いだろうに、君も頑張るな」
「黙ってろ神」
「早く助けを求めれば良い。そうすれば其れもなくなる」
神は窓枠に腰掛けたまま、悠長に彼の苦しむ様を眺め見ている。風に揺られてワイシャツの襟がはためき、ぱたぱたと音をたてる。今日は風が強い。荒れているな、と神は呟いた。吹き荒ぶ風に雲は押し流され、瞬く間に形を変える。鈍く輝く月は身を隠すこともままならぬまま、人の視線に晒される。でこぼこと醜い表面を露呈する。
「君もいつかはそうなるかもしれないよ」
「…神の宣うことは崇高過ぎて、下々の人間には理解出来そうにないな」
神の長々とした語りを彼は聞き流す振りをする。嫌でも耳には入って来るが、阿呆らしくて聞いていられない。それが本音である。果たして無駄なことばかり話す神の真意は?彼は胸の部分を押さえたまま、神の優等生的な顔を見上げた。おそらくこの顔を見れば誰もが素晴らしい人格者だと思う顔だ。少なくとも、第一印象では如何にも善良であると言わんばかりの雰囲気を醸し出している。しかし雫には、この神は決して弱きを助け、強きを挫くというありがちな精神は持ち合わせていないように見える。何せ眼前に顔色の悪い人間がいても、手を差し出すこともしやしない。
「なかなか君も頑固で参ってしまうよ」
憂いを帯びた口調で片手を額に当てながらも、膝にはコンビニ弁当を抱えている。箸をぱきりと割り、冷えた白米を食べ始める様子は、とても神には見えない。雫は壁を背にフローリングの上に座り込みながら、目を閉じた。瞼を通して電灯の光が赤銅色に映る。その色がまるで、あの生命体の中で脈打っていた血管のようだと彼は思った。









「櫻井!」
翌朝、一階に下りるなり突っ立っていた青年に、春弥は声を荒げた。その襟首を引っ掴み、玄関の外へと連れ出す。
「…どうして何も言わなかった?」
「何が?」
「アレが増殖してたことだよ!」
思い出すだけでも吐き気がする。和雄の身体に何重も重なって張り付いていたアレは、ぎょろりとした目を春弥に向けたのだ。肉体を食いちぎる歯さえ剥き出しに、あれらは歪な笑い声を木霊させていた。和雄の声をも相まって、春弥は己の目だけではなく耳をも切り落としたくなったほどだ。
櫻井は相も変わらず軽い調子で、わざとらしく肩を竦めた。
「僕はちゃんと前に言ったじゃないか。危ないよって」
「あのときはまだあんなものは…!」
「アレは人の醜い感情が好きなんだ。誰だって好きだろう?人の不幸は」
うふふ、と櫻井は特有の笑い方をする。春弥もさすがに今回ばかりは神経が逆撫でされるような感覚を覚え、掴んだままの襟首を絞めた。
「おえ、暴力反対、全く君はすぐそうやって人に暴力を振るうんだよね…!」
「お前がこんなときにげらげら笑ってるのが悪いんだろうが!」
「だからってねえ、口で言えば良いんだよ。すぐ手が出るのは君の悪い癖だね」
なのに肝心なときには思い切りが悪いんだから、と彼は言う。どういうことかと聞き返せば、彼は腕を広げて春弥をぐいいと抱きしめた。櫻井の肩に顔を押し付けられ、窒息しそうになる。
「悲しいときにはこうして抱きしめてあげると良いのさ」
「…は、はあ?」辛うじて声が出せる。
「辛いときや嬉しいとき、まあなんでもいいとき。子供でも大人でも抱きとめてあげれば安心するんだよ」
耳許で話す櫻井の声は妙に優しい。例えるなら子供をあやすときの声色に似ていて、春弥は以前散歩のときに感じた、安堵と屈辱の入り交じったかのような感情が蘇ってくる感覚に襲われた。櫻井は自分を子供扱いしている。外見から判断しても、どうせ二つか三つしか違わないだろうに。それともこの世界で、彼は現在の姿を維持したまま、何十年も生き続けているのだろうか。…いつ死ぬかも分からずに?
「それでお前は俺に何が言いたいんだ?」
彼の身体を突き放して尋ねる。
「うわ鈍い。だからさあ、君はあの子が死んで、悲しんでるはずの緋田君を慰めたかったわけだろう?なのにどうしたら良いのか分からなかった!ああ何たるヘタレ小僧!お友達が悲しんでるのに見て見ぬ振り!」
「…ならどうしたら良かったって言うんだ。彼奴は慣れてるから平気だって言ったんだ」
「バッカだなあ。そういうときこそハグじゃないか。散々セックスしてるくせにそんなこ、」
「お前声でかいっての!ちょっとは控えろ!」
いくら櫻井の声が他の人間には聞こえないとはいえ、外で堂々と話されたい内容ではない。春弥は櫻井を通りに連れ出しながら、ずれかけた眼鏡を直した。
「…だってお前、そんな男同士で慰めるのに抱きしめるって…」
「君は頭の中が欲に塗れ過ぎなんだよ。普通に残された友人同士で抱きしめ合う、…おかしくないよ?」
「そう、か…?」
確かにスポーツのチームメイト同士等で抱きしめ合っているのはよく見るが。
「だって…まああまり思い出したくはないかもしれないけれど、君のお友達の秋草君と緋田君だってよくハグハグしてたじゃないか」
…言われてみればしていたが。けれど和雄と幹靖の場合それが自然体になりつつあったわけで、春弥と幹靖が抱きしめ合っていたら、まず尋常ではない気がする。これは単に、春弥が彼をその手の対象として意識し過ぎているだけなのだろうか。抱けば、服の下のしなやかな肢体を想像せずにはいられないがために。
「…あれ、人じゃないのかな?」
歩きながら、櫻井が前方を指差す。春弥も倣って前を見遣れば、道路の片隅に男性が一人倒れていた。駆け寄って顔を覗き込む。…知り合いではない。が、生きているようだ。
「…櫻井、手伝え」
「はいはい」
春弥も大人に成りかけているとはいえ、それでも成人男性を一人担ぐのは楽な作業ではない。彼は櫻井に一方の肩を担がせると、家までの道のりを戻り始めた。

家に連れ帰り、居間で雫に事のあらましを説明する。
一目見て雫は春弥が一人で運んで来たのではないことを察したようだったが、そのことに関し言及してくるようなことはなかった。
ただ一言、
「捨てて来い」
「岩崎?」
彼は非人道的と思われる言葉を吐き捨てた。初め、春弥の聞き間違いかと思ったが、彼の表情がそれを正解だと告げている。春弥は頭を左右に振ってから、意識のない男性をちらりと見遣った。…特に変わった様子はない。なのに雫は捨てて来いと言っている。いくら雫とはいえ、理由もなく同類を捨てるような要求をするとは思えないが。
そこへ階段を下りてくる足音が聞こえて来て、春弥は思わず視線をそちらに向けた。もう起きて来て良いのか、と暗に非難を込めてさえいた。彼が春弥に心を許し切っていないことは昨日の件で明らかになっている。実に不愉快だ。と、同時にやはり心配する気持ちがあって春弥は内心もやもやしていた。彼になんと声を掛けたら良いのか分からずに、ひたすら彼の顔を遠目に凝視することになってしまう。
しかし幹靖の視線は完全に春弥を通り越していた。視線の先が意識不明の成人男性にあるのかと思い、春弥は口を開きかけたが。
「…この人は、」
「親父」
「え?」
幹靖は一直線にこちらへと歩み寄ると、襟首を掴み上げて男性の顔を覗き込んだ。信じられないものを見ているかのような顔をしながら、懐へと手を忍ばせ男性の免許証を探り出す。彼はしばらくそれを見つめたのち、春弥に声を掛けてきた。
「鷲宮くんが拾って来たのか?」
「あ、ああ」
「ならちょっと運ぶの手伝ってくれ」
幹靖の発した第一声により、春弥は現状を理解している。だが、本当にこれで良いのだろうか。苦労しながらも階段を上り、春弥達が使用している寝室とは別室に布団を敷くと、春弥はその男性の身体を布団の上へと横たえさせた。触った感覚も、やはり何ら異常はない。櫻井とも違う、普通の人間の感触だ。けれど雫は先程…。
「俺はもう少し此処に居るから」
「…ああ」
心無し淡々とした幹靖の態度に春弥は怯みながら、階段を下った。待ち伏せていたらしき雫が、冷えきった声色で言い放つ。
「何故あんなものを拾ってきた?」
「あんなものって…」幹靖の…父親らしいが。
雫はそんな春弥に対し蔑むような面持ちのまま、背筋に怖気の走るような言葉を吐いたのだった。
「あんな腐り切ったもの、ろくなことにはならないぞ」