第十八夜.断絶










「初対面でこう言うのも申し訳ないけど、酷い顔だなあ」

そう言って彼はポケットからハンカチを取り出し、和雄の顔を拭った。
しばらく懸命にごしごしと拭っていたようだったが、諦めたように和雄の鼻血のついたハンカチを再びポケットにしまいこむ。
「顔を洗ってくるべきだ。ほら、立った立った!それとも何、立てない?」
彼は手を和雄の目の前でひらひらさせ、掴むよう促した。それでも和雄は伸ばした瞬間引っ込められて、容赦なく蹴り倒されるのではないかと恐怖する。実際、普段苛めてくる級友達からも、甘い態度を見せられたのち嬲り倒されるということをよくされた。しかしそうして躊躇しているうちに、彼に腕を引っ張り上げられた。水道まで連れて行かれ、ほら洗え洗えと適当に示される。洗い終えると先程までとは違うハンカチを差し出された。男子が使うにはどうかと思われる小花柄の代物。まだあまり使われていないようで綻び等は見られなかった。誰かから貰ったのだろうか。
「使わないの?」
「あ、いえ、すいません、借ります」
さっと受け取り、もったいないと思いながらハンカチを顔の水滴で湿らせる。彼がはあ、と呆れたように溜め息をついたので、思わずびくついた。
「あ、あの!本当にすいませんでした、洗って、否、クリーニングして返します…っ」
「いや別に、今返してくれて良いよ。それと俺は君の先輩じゃないよ」
初めは先輩かと思ったものだった。大人びた顔立ちだったのもあったけれど、でなければ、苛められている自分を助けてくれるはずがないと思ったのだ。同級生は皆、和雄が苛められていると知っていた。そして遠巻きに眺めているだけだ。
「秋草くん、二組だろ?俺は一組だから知らないんだろうけど」
「あ、ああ」
「前々からちっこいのが居るなあと思ってたんだ」
彼はぱっと和雄の手からハンカチを掠めとると、丁寧に折り畳んでポケットに収納した。






「かずおー!こら、昼の時間だぞ!」
昼休みに弁当の中身をぶちまけられて、更にその落ちた具を口に捩じ込まれそうになっているとき。彼は空気も読まずに現れて、和雄ではなく落ちている具材に対して「もったいない!」と言葉を吐いた。しかも弁当にぱぱぱっと入れ直し、「これで今日の餌代が浮くな」などと微笑んでいる。彼は当時学校で猫を飼っていて、拾った弁当とそのおまけのように和雄を引き連れて、猫のもとへとよく行ったものだった。
「あの、幹靖くん」
「なんだァ、硬いな和雄。よし、草雄、いっぱい食べるんだぞ!」
「草雄ってなんだよ人の名前勝手にアレンジしてつけるなよ!」
「いや…秋和じゃちょっと渋過ぎるかなって思ってさ…。それに少し和風な名前にしたかったというか…こいつを初めて見たとき草餅食べてたというか…」
彼は実に巫山戯た男だった。






「みっちゃん」
「んー?」
「あんまり俺と居ない方が良いよ、みっちゃんまで苛められるから」
沈みゆく夕日を眺める彼の横顔に話し掛ける。彼は自転車を押し転がしながら、徒歩通学である和雄の隣を歩いていた。しらっとした表情で笑う。
「まぁた何を言ってるのかな和雄くんは」
「だってさ…」
「俺は和雄が好きだから一緒にいるんであって、苛めとか知ったこっちゃないよ」
「けど…!」
彼は気を遣ってそんなことを言っているのだと思った。彼だって苛めが怖くないわけがないのだ。それなのに、自分が彼の隣に居る所為で巻き込んでしまうとしたら。だけれど、夕焼けに照らされて柔和な微笑を浮かべている彼の顔を見ると何も言えなくなる。
「大丈夫。例え苛められたとしても、俺には和雄がいるからね」
「…!」
「和雄だって、俺がいて良かったって思うだろ?」
彼は実に巫山戯ていて、馬鹿なのだとこのときばかりは思った。他の誰もが自分の存在を黙殺又は潰そうとする中で、彼だけが自分を認めてくれたことが嬉しくて嬉しくてならなかった。












開かれたドアの向こうに立つ幹靖の眼は充血していた。
「おい…これで冷やせよ」
濡れタオルを渡し、彼がそれを目許に押し当てるのを眺める。彼と和雄の遣り取りはドア越しに聞いていたのだが…和雄の行動は春弥の想像を遥かに越えていた。今年になって引っ越して来た春弥は詳しい事情を知らないが、まさか和雄が幹靖の妹を犯したと言い出すとは思わなかった。嘘か本当かは別として、幹靖に与えるダメージは相当なものがあったはずだ。現に彼は今、冗談一つ言おうとはしない。
「鷲宮」
「あ、ああ」
「有難う」
掠れた、けれど妙に落ち着き払った態度で彼は春弥に礼を言った。その声色に情事を連想してしまうあたり、春弥の頭は相当沸いているらしい。今更である。幹靖はこちらを見ようとはせず、春弥に背中を向ける。
「和雄が美…俺の妹に手を出したはずはないんだ」
「…」
「別に何ら根拠があるわけじゃない。ただ和雄は…」
そんな奴ではない、そんなことはしない、信じている。彼が恥ずかしげもなく口にしそうな言葉。以前の彼なら言わなかったであろう言葉。何故なら普段の学校生活で、彼らが心の底から本音をぶつけ合うことはまずないからだ。薄皮一枚隔てた、若しくは何重もの層を重ねた上での会話。イッツコミュニケーション。綺麗ごとは怠惰で薄汚れた日常には必要ない。…だから春弥が知らなかっただけで、彼には元々率直で生真面目な部分があったのだろう。
人が持つ多面性に春弥は時折酷く不安になる。その人のことを知っているつもりが、実は知らなかったりする。自分が一方的に理解していると思い込んでいるだけなのかもしれないと。だが、元より人との関係とは兎角独り善がりになりがちなものだ。長居付き合いになればなるほど、いつのまにかこびり付いた先入観で人を見る。春弥はそれが嫌で嫌で仕方がない。現実が露呈したとき、己の浅はかさを思い知らされる。
少なくとも、世界が変容してから、春弥は己の認識が必ずしも現実と噛み合っていないことを知覚させられた。
まともだと思っていた和雄は嫉妬深く、幼い。逆にろくでもなしと思っていた幹靖は意外と穏やかである。というより、以前までは幹靖がふざけていても真面目に話していても癪に障った。それがどうしたことか、身体を重ねた二人にありがちな情が移ったというべきか、見方は温くなっている。現状彼との間柄は平穏である…春弥とて彼が逃げなければ無理強いすることはないのだから。そう、春弥は彼の他者には晒せぬ一面を暴き、上位に立つことで心の均衡を保っているのだ。
話を戻そう。幹靖は実に理性的で常識がある。それに他者を攻撃することより保護することを好むため、結果被虐的なのだ。
だから和雄を信じるだなどと綺麗ごとをあっさり言ってのける。春弥とて言えないわけではないが、おそらく彼よりも軸はぶれている。他人を受け止めることはとても危険なことだからだ。受け止め損ねれば怪我をする。春弥は怪我はしたくない。だからさせる。
「和雄は不潔な行為を望まないだろうから」
かもしれない。だがそれは、彼の中の理想で組み立てた和雄でしかないのかもしれない。ただ、偶像を奉り上げるにも過程は必要だ。幹靖はその過程を信じたかったのだろう。それと和雄が幹靖が非難したことから。
和雄は同性との行為に及んだ幹靖に抗議した。和雄は同性同士の性行為に嫌悪感があり、信頼していた幹靖が汚れた行為に染まっていることを許せなかった。或いは、彼自身気付かぬうちに幹靖に邪な感情を抱いていて、幹靖が他者…春弥と交わったことに嫉妬し、自分の感情に気付かされて激昂した。将又純粋に彼が春弥に取られたような気がした…。
「…俺は和雄に謝ってこようと思う」
「…何故?」
「…上手くは言えないけど、俺は和雄の知らないところでこそこそしていたわけだから」
秘密主義は信頼の敵か?
秘密のない間柄など極めて不自然だ、と春弥は思う。幹靖と春弥のしたことが和雄の信頼を裏切ることであれば、和雄と幹靖の間柄は随分と閉鎖的な代物だと思える。己の知らないところで相手がしていることは許せない。全てを知っていなければ駄目。知らなければ不安なのだ。密着し過ぎた恋人の典型のような考え方だ。必ずしも否ではないけれど、必ずしも素晴らしいことでもない。
「幹靖は俺に抱かれたことが和雄に悪かったと、本気で思ってるのか?」
「…だって普通じゃないだろ」
「性行為はスキンシップのようなものであって、何も悪いことじゃない。それに友情は一対しか築いてはいけないという決まりもないだろ」
それとも和雄はお前の恋人なのか?と、春弥は微笑する。分かっている。恋人ではなくとも和雄は幹靖の特別なのだ。保護下にあると言っても良い。そしてこれまでは唯一の対だったのだ。唯一が絶対でなくなるとき、その関係は僅かなりとも軋みを生む。それが今だ。和雄は嫉妬に狂い、幹靖はそれを宥めようとする。互いの優先順位が一番であれば再生は可能なことなのかもしれない。だがそれ以降も、和雄の束縛は続く。依存の度合いが深く、和雄は一度置いて行かれた側だからだ。
「お前の中には和雄しかいないのか?岩崎もこの間言ったろう。他の面子とも協力しろと」
そのときから限定的過ぎる関係は禁物だと。
「和雄も…お前が自分だけでなく、俺や岩崎と関わる必要があると、いい加減理解する必要があるんじゃないのか?」
「そうかもしれないけど、…鷲宮とのは行き過ぎだとは」
「俺はそうは思わない」
冷静さを欠いているという自覚はあった。何故なのか、今更彼に自分との関係性を否定してほしくなかったのだ。強要した行為を春弥は後悔していなかった。あの行為がなければ、春弥はいつまでも彼と一線を引いて接していたはずだ。慣れ親しんだとしても、何処か信用出来ずに。
「俺はお前が嫌いだった。だから抱いたんだ。お前のことを身体の内側まで知り尽くさなければいけないと思った」
「…それで何か変わったのか?」
「お前と居ても嫌じゃないと思うようにはなった。それどころかお前のことを考えると触れたくてしょうがなくなる。今だって本当なら」
幹靖は眉を寄せながらも耳を赤くしている。ふと春弥も思ったままに口に出してみて、何故だか自分がこの生真面目な場面で、もの凄く恥ずかしいことを言ったのかもしれないと考えた。
すると幹靖はわざとらしく咳払いし、部屋のドアノブを掴んだ。
「とにかく、和雄には謝ってくる」
「…仕方ないな」
幹靖も和雄のことに関しては聞き分けが悪い。分かっていたことだ、そんなことは。











手のひらから逃げ出した温もり。
嗚呼、と心が呻いている。その呻きはどんどん大きくなって、鼓膜を内側から突き破られそうになる。
彼が悪いのだ。自分を裏切ったりするから。春弥の名前なんて出したりするから。自分が隣にいたのに。隣に居たのに、ずっと。
目を覚まして覗き見てしまった行為。彼は春弥しか見ていなくて、何度も「鷲宮」と口にして。自分の存在なんか、忘れてしまったかのように。別に彼が春弥とどうしようとどうでもよかった。けれど彼にとって自分は何なのだろうと思い知らされて。自分は彼が居なければ駄目なのに、彼は自分が居なくても良いのだと言われているようで。いつだって彼に依存していたのは自分だと分かっていたから。
だからせめて、彼に恨みの感情だけでも向けて欲しくて、口走った言葉。だけれど彼は激昂するどころか泣いて。自分はちゃんと彼に信頼されていたことに気付いて、それを裏切ってしまったことに嘆いて。彼の泣き顔なんて初めて見たものだから、どうしたらいいのか分からなくなった。ごめん、と言いたくなって、気付けば逆の言葉を吐き出していた。多分どうでもいいと思いながらも、春弥を羨ましいと思う気持ちがあった。狡い、と。
けれど結局彼は受け入れてくれずに。何故春弥は受け入れられて、自分は駄目だったのだろう。拒否されたのだろう。分からない。分からない。いいや分かる。彼は自分よりも春弥のことが好きなのだ。だからだ。だから。彼は和雄を見捨てる気なのだ。そのつもりがなかったとしても、先程の遣り取りで彼は自分に失望したに違いない。ああ駄目だ。どう考えたって駄目なのだ。彼は自分から離れていく。
…いやだ!そんなこと。
彼は自分の傍にいなければいけなかったのに。どうして離れようなんて思うのだろう。どうして春弥の方が良いだなんて思うのだろう。離れる?そんなこと許せるはずがない。だって傍にいるって約束したではないか。なのにどうして彼は自分から離れる遠ざかる逃げていく?嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き。居るって言ったくせに!春弥だって彼のことを嫌っていたくせに。どうして連れて行こうとするのだろう。
除け者にしないで。置いて行かないで。
彼が恋しい、憎らしい。傍に居て欲しい。どうして春弥とあんなことをしたんだ。汚い不潔だそんな大人みたいなことして。まだ高校生なのに。女の子だったら妊娠してもおかしくないのに。春弥となら出来ても良いと思ったわけ?こんないかれた世界なんだ本当に出来たらどうするつもりだったんだ。そうだこの世界は普通じゃないんだだったら出来ちゃってるかもしれないんだ、駄目だそんなの駄目だ。まだ早過ぎる高校生なんだから。それに春弥とのなんて認められない。性行為。妊娠。胎児。腹が膨れて内側から貪り喰われていく。そうだ、そうだ。彼が危ない。
今まで守ってもらっていたのだ、彼を守らなければ。

流さなければ。

彼が異物に冒される前に助けてあげなければ。

扉を叩くノック音。
「和雄、俺だよ」
彼は戻って来た!
そうだきっと彼も自分に助けを求めているのだ。春弥に無理矢理種を散布されたものの、自分ではどうにも出来ずに思い悩んでいる。春弥はなんて汚らわしい男なのだろう。友人だと思っていたのに見損なった。最低な男だ。きっと買い物に行った際にろくでもない薬でも持ち帰って来たのだ。でなければ彼が春弥などに従順に抱かれるわけがない。
「いま開けるよ」
「否、和雄が嫌ならこのままでもいい。俺の顔も見たくないだろうし…」
彼は春弥を庇っているのだろう。和雄が今見たくないのは春弥の顔だけだ。幹靖とはむしろ早急に顔を会わせなければならない。的外れな誹謗中傷をしたことを謝らなければならない。悪いのは春弥だ。そして彼を救わなければ。
開く扉。彼はやや安堵したかのように和雄を顔を見る。
「和雄…」
「みっちゃん、今度は俺がみっちゃんを助けてあげるよ」
「和雄?…」


壁に立てかけてあった杖を彼の腹部にめり込ませる。


無防備だった腹はずいずいとそれを飲み込んだ。血を吐いて踞る彼を見下ろして、「これだけじゃ足りないかな」と呟く。何せ春弥の子供だ。この程度では死なぬ程にしぶといかもしれない。もう一度腹を圧迫してみる?…そうだ!直接潰せばいいのだ!腹を抱え込んで起き上がる気配のない彼のスラックスを引きずり下ろし、杖を奥深くまで一気に差し込む。彼が死にそうに呻くのが聞こえたけれど、これも中の害虫を殺すためなのだ。しかしどの辺まで差し込めば良いのだろう。腹部が膨れ上がるまで?こうか?こうだろうか。「死ぬ」「頼む」「やめてくれ」と切れ切れに懇願する彼の声。彼はなんと慈悲深いのだろう。だが春弥の子供など死んでしまえば良いのだ。出入りする杖が、腸液でぬるりと光っている。当然だ。本来男の此処は異物を受け入れるように出来ていない。それを春弥は無理矢理に。…許せるわけがない!
深く深くめり込ませ、和雄は荒い息を吐いた。幹靖は気絶している。
物音を聞きつけたのか、間もなくして扉を開けた春弥が間抜け顔をして惚けているのを見て、口から笑い声が溢れ出した。
可笑しい。可笑しい!ざまあみろ。だけれど力を込め過ぎたのか、手足が動かない。視界が霞む。自分の笑い声がどんどん遠くなっていく。
「和雄……!」
と、叫ぶ春弥の声が聞こえて、視界が千切れた。最後口だけが残されて、笑い声ごと喰い尽くされた。