第十七夜.発露









「よお、神よ。お前もしつこいな」
月の青年は嘲る。しかしながらその表情は、退屈しのぎに丁度良いと言わんばかりの笑みを浮かべている。






見知らぬ家のベッドに沈みながら、幹靖は外の雨音を聴いていた。
皺の寄った制服を心無し整えつつ、眼を閉じる。頭の頂点から足のつま先まで、自己嫌悪の雨粒に打たれるかのような。思い出すだけでも顔が火照って、神経が耐え難く引き攣り悲鳴を上げる。妹のことを思って春弥との関係を断ち切ろうと決めたばかりだったのに、このざまだ。身体のあちこちに彼に愛撫された記憶が刻みついて離れない。何度も彼を受け入れた所為か、身体の奥はじんじんとした感覚に囚われている。しかし彼を非難することは出来なかった、初めは確かに彼が無理矢理始めたことだったが、途中から彼が欲しいと口にしたのは幹靖自身である。妹のことを意識しながらも、そんな淫らな要求をしてしまえるほど飢えていた。尻を少し触れられただけで、否、この数日彼を受け入れていなかっただけで、身体の奥が熱く疼いて仕方がなかったのだ。淫乱と罵られても返す言葉もない。叩かれたときも、痛みと中にいた彼の感覚に下半身が甘く痺れてしまって、当然非難するべきことをむしろしてほしいと思ってしまったり。とんでもない。自分が以前彼に犯されたとき以上に信じられない。自分は被虐趣味でもあるのだろうか。実に認めたくない。けれど身体がふしだら過ぎて認めざるを得ない。
幹靖は両手で顔を覆う。
普通に学校に通っていたならばこんなことにはならなかっただろうに。もともと春弥のことは嫌いではなかったけれども、だからといってこのような関係には間違っても発展していなかっただろうに。何故なら春弥は自分にも和雄にも興味をあまり持ってはいなかったからである。あれだけ分かりやすい態度をされていれば馬鹿でも分かる。だけれど興味を持たれていなかったからこそ、どうにかこちらを振り向いて欲しかった。…こんな形ではなくもう少し健全な形で。そもそも春弥は自分を変態だと罵ったが、春弥とて男を襲おうと思うのだから相当変態だ。人の…トイレをしているところを眺めて楽しもうだなどと考えるところからして変態だ。見られて興奮しただなどと人を貶めるにもほどがあるが、誰だってあれだけじっと自分の一物を見つめられれば変な気分にもなるはずだ。…違うのだろうか。やはり自分に妙な性癖があるだけなのだろうか。
幹靖はベッドを転がる。腰が痛い。そういえば春弥は何処へ行ったのだろう。和雄も。…和雄?そういえば此処は何処だろう。彼と交わったのは畳の上だったはずで、いつのまにこのベッドの上に。春弥は同じくらいの背丈の人間を担げるほど、強靭な肉体は持ち合わせてはいなかったと思ったが。違う、今はそんなことは良くて、和雄は。別室で春弥と一緒にいるのだろうか。まさか春弥は、和雄にまで手を出したことがあるのだろうか。そもそも春弥が何故自分に性的な行為を及ぼうと思ったのか理解出来ない。偶然タイミング悪く居合わせたからか。だとしたら随分と無節操な男だ。和雄が無事なのかと心配になる。携帯。…ポケットに入っていない。脱ぎ散らかしたときに落としてしまったのだろうか。けれど今こうして服は着ているのだから、春弥が気付かなかったはずもないだろうに。
ドアが開く。幹靖は視線だけそちらへと向けた。春弥だった。
「…和雄は?」
「…先に帰ったって連絡があった」
「またどうしてそんな」
言いかけて、もしや和雄に見られたのではないかという不安に駆られる。
幹靖と春弥がいないのを置いてかれたと勘違いして帰ったのなら良いが、そうでなければ。…直視したくない現実。腰だけでなく頭も痛い。曇りのない現実を捉えようとして頭を振ると尚更。春弥が隣に座る。彼の瞳は底の見えぬような深い色を称えている。無愛想なだけかと思えば、優しげな色を浮かべたりすることもある。だが本人が聞いたら嫌がるかもしれないが、彼からは負の気配を感じる。それは負の感情が彼から人へと連鎖するということではない。彼一人が負で、他者は一方的にそれを感受させられる。重たい感覚。彼は怜悧な眼差しで幹靖を見る。…彼の幼馴染みである雫とよく似た面差し。彼らは冷ややかに横たわる海の底の如き静けさを共有しているように思う。
「幹靖」
柔らかく押し付けられる唇。彼はキスという行為が好きなのだろうか。触れるだけのそれと、互いの舌を絡ませ合うそれと。彼の舌が唇をなぞると、ふるりと悪寒に似たもので身体の芯が熱く痺れそうになる。彼としたくなる。随分と馴らされたものだ。身体が彼を覚えてしまった。
「なあ…」
「ん?」
「好きって言ってみてくれないか」
何故。彼は自分のことが好きなのだろうか。それはない。…好いてもいない相手にそんなことを言われてどうする。雫は彼が不安定な人間だと言っていたような気がする。春弥は自分の存在を肯定されたいのだろうか。
「…鷲宮」
彼は待っている。幹靖とて春弥のことが嫌いなわけではない。一応友人としては好きな方だ。だから、肯定してほしいのならしてやってもいいと思った。彼は言葉遊びのつもりなのだろうけれど、幹靖は友人として心から言ってやった。
「好きだよ」
言った瞬間、喉が渇いた。緊張?何故だろう。再び唇を重ねられて、「ん」と吐息が漏れる。彼がもう一回と呟いた。そんなに何度も心を込めて言えるかと思ったのだけれど、息継ぎの狭間に懸命に声を発した。
「…好き」
「もう一回」
「好き」何だか恥ずかしくなってきた。
…繰り返される口付けに、呼吸が苦しくなる。まるで恋人同士のようだと酸欠の頭で思う。
やがて解放され、膝を抱える。感化された性感。じゅくじゅくと疼きかけた情欲を冷まそうと眼を閉じる。持て余す熱。春弥には気付かれたくない。彼とは対等でいたいのに、自分だけがどんどんいやらしい身体になっていくようで耐え難かった。軽蔑されたくなかった。
彼の手が何気なく自分の膝に触れる。それだけで、もう少し、もう少し内側を触れて欲しい、あそこを掻き回してほしいと思ってしまう。どうしてこんな淫らなことばかり考えてしまうのだろう。以前は性欲を意識したことすら滅多になかったのに、どうかしている。本当に。以前の自分に戻れるものなら戻りたい。現状はどう考えてもおかしい。思考回路がいかれているとしか思えない。
冷静にならなければ駄目だ。そうだ、今は彼が隣にいるから妙な気分になっているだけだ。冷静に…、
「っんん…ッ」
彼の手がスラックスの上から性器を鷲掴みにする。卑怯だ、こんなのは。もううんざりするほどしたではないか。
「こっちも好きだろ?」
「…好き、だよ…」畜生。こいつ最低だ。
「どうされたい?」
揉み込まれてはしたない声が漏れる。駄目だ。前を弄られると後ろまで疼いて。彼の手一つでこれほどまでに翻弄されている自分が情けない。畜生。後ろが切ないだなんて思いたくもない。足りない。足りない…!こんなことでは駄目だと分かっているのに。情欲が溢れてたちまち身体が熱くなる。
どう言ったらいいのか分からずに、彼の手を自分の尻へと導く。指先が入り口周辺に触れた瞬間たまらなくなって、彼の手、指先に入り口を擦り付けたくなる。
熱で溶けていく。彼との関係も思考も身体も。スラックス越しに押し擦られるところから痺れて鳥肌さえ立ちそうになる。
「ここは?」
指一本に身悶えている様は阿呆のように見えることだろう。ひくつく其処を彼の指がなぞるだけで全神経が粟立ち、半ば自棄になって何度も「好き」と口にした。春弥の顔は明らかに歓喜に綻んでいて、一度彼に人権とは如何なるものか知っているかと尋ねてみたくなった。












大量の食料をごとりと置き、春弥は玄関でへたりこんだ。非常に疲れた。それもこれも和雄が荷物を置いて帰った所為だ。
だが春弥以上に幹靖は顔に疲れの色を濃くしている。荷物はともかく身体のあちこちが痛いのだろう。だがあまり遅くなっても雫や和雄に心配をかけてしまう。春弥は立ち上がり、幹靖の腕を掴んで引っ張り立たせた。
「今日はもう休めよ。和雄には適当に言っておくから」
「…ここで有難うと礼を言うべきなのか、俺には分からないよ…」
若干声は掠れているが、減らず口を叩く元気はあるらしい。春弥は仕方ないな、と彼の腕を首の後ろに回し、彼の腰を抱きかかえた。至近距離に彼の薄く開かれた唇が見えて、思わず口付けたくなったものの、さすがに玄関ではまずいかと自制した。それでも秘かに彼の頬に自分の唇を触れさせる。春弥自身、何故これほどまでに彼に手を出したくなるのか分からない。彼の容姿に欲情するということはあるけれど、なんというべきか、もはや癖になってしまっている感がある。人間、癖になるとなかなかやめられないものだ。幹靖を二階の布団に横たえさせ、春弥はその脇に座り込んだ。疲れた顔をしている彼を見遣り、その形の良い唇から、自分を好きだと言わせたことを思い出す。別に深い意味があったわけではなかったのだけれど。起き抜けに和雄の名前を出す彼に苛ついたのは事実だ。それで。…それで、なんだろう。自分はいま、何を思ったのだろう。
「…鷲宮」
「和雄」
ドアのところに和雄が立っていた。彼は眠っている幹靖を見下ろすと、「何かあったの?」と不機嫌そうな面持ちで聞いてきた。…やれやれ、不機嫌な顔は雫の専売特許だろうに。春弥は胡座をかいたまま、微笑した。これが笑わずにいられようか。春弥の予想では、和雄は気付いているに違いないのだ。幹靖はどう思ったか知らないが、そうでなくては和雄が一人で帰るなど有り得ない。
「いや…疲れが溜まってたみたいで、眠いから寝るって言ってた」
「そう…昨日、みっちゃん嫌な夢見てたみたいだったから」
「…ふぅん?」
自分に犯される夢でも見たのだろうか。否、さすがにそれは春弥の傲慢だろう。それに幹靖とて必ずしも嫌がっていないのだから、悪夢という括りに含められても困る。春弥は眼鏡越しに和雄を顔を捉えた。
「ところで、先に帰るのはかまわないんだが、荷物くらいは持ってっといてくれよ」
「うん…鷲宮」
「なんだ?」
「…」
彼はじっと春弥の顔を見据えたのち、さっと頬を赤らめて部屋を出て行った。…聞きたいのなら聞けば良いものを。別に誤摩化したりはしないのだから。
しかし幹靖は困るだろうなと思いながら、春弥はふと壁の隅を眺めた。蠢いているものがある。以前は幹靖に庇われてばつの悪い思いをしたものだったが。だがそれは春弥が近寄る暇もなく、すうっと消えて壁に溶けた。…やはり、好んで害を及ぼす生命体ではないのか?
幹靖のもとへ戻り、彼の首筋に視線を落とす。だいぶ薄れた痕。顔を寄せて、舌先を這わせたのち、軽く吸い上げた。…幹靖は気付くだろうか。
「鷲宮」
声に反応して顔を上げる。雫であった。彼は幹靖の顔色を確認したのち、春弥に視線を振った。硝子玉。春弥を不安定にさせる眼。
「お前は罪の贖い方を考えたことがあるか」
「罪の贖い方?…」彼の話はいつだって突然だ。
だが急に何を言い出すのだと、春弥に雫を非難する権利はなかった。彼との間には、消えることなく横たわる深い溝がある。目を反らそうにも反らし切れぬ、鋭利で不可解な傷跡。彼の眼球を一度は深く貫いた、禍々しい記憶。柔らかい硝子玉の感触。指先がぬるりと生暖かいものを。
雫は春弥に購いを求めているのだろうか。
「岩崎…」
そして考えたことがあるか、と問われれば答えは「NO」だった。
人の目玉を抉っておいて、そんなことすら考えたことがないのかと春弥は自分自身に愕然とした。何故ならこれまで彼は自分が子供だったことを言い分に罰されることもなく、逃れに逃れ、どうすればではなくどう言えば許されるのだろうと考えてばかりいた。口先だけで適当に誤摩化して、彼の心情を窺い、あわよくばそれだけで容赦してもらおうとさえ考えていた。…口先だけで謝れば済むと最初から思い込んでいたかのように。
けれどそんなわけはなかった。と、春弥はたった今気がついた。幼馴染みだと、昔のことなのだから半ば時効だろうという甘えがあった。しかし彼の眼の時効は生命を全うしたときだ。現在こうして見えているから良い?違う、違うそれは。
春弥の中にはある罪の意識は実に軽薄なものだったのだ。申し訳ないと思っていながらも、それが心の奥底からである自信などこれっぽっちもなかった。自分は本心から思っているのだ、と自己暗示をかけているだけなのかもしれなかった。そうして偽ってさえいれば、自分が真っ当な人間でいられるとでもいうように。
額面だけの謝罪では意味がない。けれど春弥のこれまで行なうとした謝罪は全て額面のみの、良心の損得から計算されたものだったのである。何故か。春弥自身、自分の行なった行動の重大さは理解している。しかしながら、それを飲み込んで咀嚼することは拒否した。人間として処理出来る感情には、限度があった。簡潔に言ってしまえば、春弥の精神はそこまで強靭であるとは言い難かったのだ。
だから深く考えることはやめて、理性だけで表面の事柄のみを受け止めた。現在も。
「岩崎!」
雫は踵を返し行ってしまう。彼は本当に贖いを求めているのか?またしても制御のかかった頭で考える。その時点で駄目なのだと分かっていても、春弥にはどうすることもままならない。









みっちゃん、と自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、瞼を持ち上げた。少し休むだけのつもりだったのに、いつのまにか眠っていたらしい。横に座っている和雄の顔を見上げて、あれ、と思う。
「和雄、…鷲宮は?」
先程まで其処に居た気がしたのだけれど。うつらうつらしながら、彼の高くも低くもないそれでいて心地好い声を耳にした覚えがある。
すると和雄はくしゃりと笑みを浮かべて、それが何だか彼らしくない意地の悪いもので、幹靖は寒気を感じつつ身体を起こした。
「和雄?」
「…みっちゃん。俺、見てたんだよ」
「…何を?」
彼はこんな顔をするような人間だっただろうか。可笑しげにつりあげられた唇は、綺麗というにはあまりに歪な弧を描いている。お前にそんな笑い方は似合わないよ、と口にしようとしてから、幹靖は彼の言葉の意味することに気がついて、心臓の鼓動が早まるのを感じた。思い出した。
「鷲宮の、気持ちよかった?」
「和…」何故。
「気持ちよかったんだろ。鷲宮に突っ込まれてよがり声あげて、何度もイってさ」
「和雄!」
何故そんな言い方をするのだろう。
あまりに下卑た言い方に耐え難くなり、思わず和雄の言葉を遮る。頬が赤くなるのを隠せぬまま、強張った肩が震える。鷲宮との性行為自体が男同士であり決して健全なものではなかったのは事実だが、それを和雄の中傷される謂れはなかった。ましてや、和雄にそのような下品な言葉は吐いて欲しくなかった。
けれど幹靖が声を荒げると、和雄も野卑な笑みを消して逆上したかのように語気を強めた。
「みっちゃん、鷲宮のことが好きなわけ?」
「俺は…」
昼間のことが脳裏を過る。すぐさま否定しなかったことに和雄の形相が変わった。
「っみっちゃんは不潔だよ!…っ、自殺したとかいう妹だって、好き好んで男の咥えこんだんだろ!とんだ淫乱兄妹だ!」
和雄の言葉を聞いた瞬間、頭が熱くなって何も考えられなくなった。声を出すことさえ出来ぬほどの怒りが全身を駆け巡る。相手は和雄だ。怒っては駄目だ。けれど、どうしても許せないという気持ちが幹靖の身体を動かした。和雄の襟首を掴み、布団の上に押し倒す。あまりの激情に呼吸さえも苦しくなる。和雄はけらけらと笑った。
「怒ったんだ?怒ったんだみっちゃん」
「っどうしてお前が美緒のことを知ってるんだ!」
確かにテレビで報道されてはいたけれど、名前は伏せられていたし、和雄は近隣に住んでいなかったはずだ。それなのに。
和雄は嫌な笑い声を漏らす。
「馬鹿にするなよ。そのくらいのこと知ろうとすれば簡単なことだろ…それに…」
あはは、あははと彼は繰り返し空虚な笑い声を上げる。幹靖は深呼吸しながら、必死に冷静になろうと努めた。和雄は自分と春弥の行為を見て動揺しているだけなのだ。だから、

「その美緒ちゃんとかいう子を滅茶苦茶にしたのは俺だもん。処女でさ、きゅうきゅう締めてきて本当に気持ちよかったよ!」

笑い声が止む。すう、と和雄と幹靖の間を静謐が過ぎ去った。和雄は無表情に落ちて来た水滴を拭い、幹靖の頬を優しく撫でた。
「うそだ」
引き攣った笑い顔。和雄は緩やかに身を起こし、彼の目尻をなぞった。
「だから知ってた連中に苛められてたんだよ。強姦魔ってね…他の連中は冗談だと思ってたみたいだけど」
「嘘だ…」
そんなこと、信じられるはずがない。中学高校と一緒に過ごしてきた和雄は、そんなことするような奴では。
力が抜ける。押し倒されて、薄い布団に沈む。
「ちょうどいいじゃん。みっちゃんも妹さんみたく俺に抱かれてみれば?」
歪な笑みを浮かべる彼の顔。スラックスのファスナーに手を掛けられた瞬間に嫌悪感が溢れ出し、なりふり構わず和雄を押しのけた。油断していた彼は簡単によろけて、幹靖は逃げるように部屋を飛び出した。途中春弥に引き止められたが、それさえも突き放して、使われていない個室へと入り鍵を掛けた。
悲しくて気持ち悪くて吐きそうだった。