第十五夜.睡夢








夜の闇に消える青少年達の後ろ姿を見送ると、甘ったるい髪色をした青年はポケットからペロペロキャンディーを取り出し、封を開け思い切り齧り付いた。
「青い春というのはいつの時代も素晴らしいものだね」
砕けた欠片が地に落ちて吸い込まれ、地面はキャンディーのような虹色に染まる。彼は再びポケットに手を潜り込ませると、オブラートに包まれた寒天菓子をその手のひらに乗せた。そして徐に放り投げられた菓子を受け取ったのは一人の青年。櫻井は唇をつり上げる。
「君もそう思うだろう、”神”様?」
「だから」
神と呼ばれし青年が、眉を顰めて菓子を眺め回すと、櫻井は「そのまま食べればいいんだよ」とオブラートごと飲み込む仕草をしてみせた。一見して包み紙のようにしか見えないものを飲み込むことに抵抗を感じるのは、それほど不思議なことではない。知らないことや理解出来ぬものに人は好奇心や恐怖、不快感を抱くものだ。おそらく神と思しき青年はあまり昔の菓子に縁がなかった人間…と表現すべきかは別とし…なのだろう。
「”神”様はさ、あの子供達が憐れだとは思わないのかな」
「何のことだかさっぱり分からないし、僕はそんなものじゃないと」
「だって君、名前で呼ぶと怒るじゃないか。は…」
「苗字で呼べと言ってるんだ」
「神邊はこの世界から抜け出したいの?」
櫻井の喉がごくりと上下する。飲み込まれた砂糖菓子は何処へ流れ着くのか。彼は不格好に砕けたペロペロキャンディーを神邊にぶらりと突きつけると、べたついたものを拭い取るように舌舐めずりした。夜にふさわしからぬ鮮やかな紅色。
神邊は櫻井の瞳を見据える。
「…櫻井」
「ん?」
「僕はお前のことが嫌いだ」
彼の言葉は前後の脈絡のないかのように思えた。しかし櫻井は笑い出し、手に持っていたペロペロキャンディーを地面に投げ捨てた。すると、飢えた生命体がうにゅりと何処からともなくうねり出てきて、一斉に砂糖菓子に集った。あっという間に菓子はじゅぶじゅぶと貪り喰われ、消えていく。
それから彼は腹を抱えたまま、涙を拭った。
「残念だなぁ、僕は君のこと結構好きなのに」









和雄は学校にいた。
授業終了のチャイムが鳴り響き、各々の生徒達は教室からぱらぱらと散り出て行く。
和雄もノートを机の中にしまいこみ、隣で寝ている春弥を揺り起こす。
「鷲宮、鷲宮…授業終わったよ」
「…ん、ああ、ごめん」
「みっちゃんも、いつまで寝てるんだよ」
「…起きたくない」
斜め後ろで突っ伏している幹靖の頭部を突つく。二人して不真面目にもほどがある。和雄は未だに顔を上げようとしない幹靖の髪を引っ張った。
「ッいった、和雄っ、分かった分かったって」
「お昼だよ。早く食べようよ」
その様子を春弥は無表情に眺めている。彼はいつもそうだ。表情の変化に乏しくて、時折何を考えているのか分からない。接していて少し不気味に思うこともある。勿論、本人には口が裂けても言えないことだけれども。
誰かの腹が鳴る。和雄ではない。春弥は顔色すら変えない。ということは。
「みっちゃん?」
「あ、…はは。朝ご飯食べて来なかったんだよね。あれ、鷲宮くん何処行くの?お昼なら俺のも買って来てよ」
黙って席を立とうとした春弥に幹靖が声を掛ける。春弥は幹靖を嫌そうに見下ろして、それからふと目許を和ませた。
「分かったよ」
「うわ、やったね。あーっとお金ならちゃんと後で払うから。えっと…」
…違和感。幹靖は嬉しそうな顔をしてジュースやパンの名前を列挙していく。和雄はすうっと二人から遠ざかる。机と机の距離が妙に遠く感じる。何だろう。春弥は頼まれたものが多過ぎて覚え切れないと文句を付け、幹靖はしょうがないなあと億劫そうな素振りで立ち上がる。
みっちゃん。
声が喉から出なかった。覚え切れないならメモを渡せば良いじゃないか。鉛筆とメモ用紙なら持ってるよ。和雄は金魚のように喘ぐ。やっとのことで立ち上がった頃には、二人は教室を出て行こうとしている。まだ呼びかければ間に合う。まだ。
「     」
ずぶんと足下がぬかるんで和雄は床下に潜り込んだ。黒く黒く一面黒く。水たまりに足を突っ込む。スラックスに水が跳ねた。雨が降っている。傘を差さなければ。和雄は傘を差す。でもまだもう一本持っている。みっちゃんの分だ。心が跳ねる。交差点を曲がれば彼が待っている。ほら居た。信号のすぐ真下。
けれど彼のところには雨が降っていない。何故だろう。和雄は傘を持て余す。いらなくなってしまった。俯いてコンクリートの地面を見下ろせば、自分の影がぐにゃりと伸びた。伸びた影は彼のもとへ彼のもとへ彼のもとへ。彼は手を振った。
「和雄!」
だけれど信号は赤になった。どうして先程まで青だったのに渡らなかったのだろう。彼との間には一本の道。自動車がびゅんびゅん交錯している。そのうち一台が向かって来て、和雄を跳ねた。
ひゅぅううううんと頭の中心が冷えた気がした。
和雄は布団に寝ていた。横には幹靖が座っていた。外は真っ暗だ。
「眼が覚めたのか?」
ああそういえば、と和雄は現状を思い出す。学校なんて行っていたのは数週間前の話だ。今はこうして彼らと共に閉じられた生活をしている。とても危ない世界。だからなのか、身体中がむずむずする。腕にはアレが絡み付いている。振りほどけない。彼は気付いていないらしく濡れタオルを絞っている。
「幹靖」
何処からともなく春弥の声がして、幹靖は和雄から視線を反らす。待って。待って!彼は立ち上がる。和雄も立ち上がる。そして彼の腕を掴んだつもりが、ぬるんとアレが彼の脇腹を貫いて。
ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた


和雄は飛び起きた。


「っ…っちゃん、みっちゃん!」
寝ている幹靖を揺さぶり起こし、寝ぼけ眼のまま上半身を起こした彼の胸に抱きつく。尋常でない和雄の様子に、幹靖もいささか慌てたようだ。
「和雄、おい、どうしたの」
「う、え、…みっちゃんが」
「…俺?」
感情が昂っているのか、涙が止まらない。ぶわりと噴き出しては彼のシャツを濡らしていく。夢だ。彼はこうして此処にいると頭では分かっていても、夢の余韻が和雄の心を不安定にする。暗い不安の波が押し寄せては和雄の心をざらりと乱す。
「みっちゃんが死んじゃった…」
「……そりゃあ随分と縁起でもない夢を見たもんだ」
自分が死んだと言われて、さすがに幹靖も閉口したようだ。けれど彼はすぐに和雄を安心させるように微笑んで、和雄の額に己の額とを合わせた。涙に塗れた頬を両手で包み込む。
「夢だよ夢。俺はちゃんと和雄の傍に居るよ」
「そ、だけど。でも鷲宮が…」
「鷲宮?」
幹靖はきょとんとした顔をしている。和雄は思わず泣き叫びたいような気分になった。そのうち彼は夢のように自分よりも春弥を優先するのではないかという恐怖に。きっとそう言ってしまえば彼は「そんなことないよ」と否定するのだろうけれど。…そうだ、いつだって彼は和雄の望むことをしてくれるというのに。…どうしたらこの胸の不安を取り除くことが出来るのだろう。春弥よりも誰よりも優先されたい。実際に彼は和雄を優先してくれているはずなのに何故。
幹靖の腕がそっと和雄の肩を抱く。
「とにかく…今日はもう寝よう。不安なら添い寝しててやるからさ」
「…うん」
二人では少々狭い布団に潜り込み、彼にぴたりと身を寄せる。温かい。眠りにつくまでのこの時間が、永久に続けば良いのにと思ってしまう。
それが無理だと分かっているからこそ。











「お兄ちゃん、髪結んで!」
もうすぐ中学生になるだろう美緒は、未だに幹靖にそう言っては櫛とヘアゴムを突きつけてくる。両親は共働きで彼女の要求等聞き入れている暇もないので、その役回りは必然的に兄である彼に回って来る。
「来年中学生なんだろ?いい加減自分で結んだらどうなんだ」
「中学生になったら自分でするからまだ良いんだもん。今日は三つ編みでお願い」
「…はいはい」
彼女は歳のわりには比較的幼かったのかもしれない。自分一人で育ったような顔をし始める同級生もいる中で、彼女はまだまだ家族に甘えていた。度が過ぎていたというわけでもなく、それもある意味年相応の甘え方ではあったのだが。当時中学生であった幹靖は、そんな妹と距離を置きたい気持ちがあった。妹だけでなく、家族全員と。特にやさぐれたり反抗していたりはしなかったものの、彼は彼なりに多感な時期というものを迎えていたわけだ。
髪を結び終えると、彼は「終わったよ」とうたた寝している美緒に声を掛けた。昨日友達から漫画を借りたと言っていたので、夜更かししていたのかもしれない。美緒はぱっと瞼を持ち上げると、「お兄ちゃん有難う!」と言って慌ただしく家を出て行った。小学校は中学校よりも登校時間が早いのだ。幹靖がやれやれと思いながら朝食の席に着いた頃、彼女は通学班の子供達と合流している。普通の日常。トーストの焦げた香りも目玉焼きの半熟具合も何も変わらない。
そう、何も変わらないはずだった。
遅れながらも彼も中学校へと登校し、退屈な授業をやり過ごし、当時はまだ部活にも入っていなかった彼は真っ直ぐ帰宅の途についた。
ただいつもと違ったのは、帰り道で妹の美緒と出会ったこと。
「こっちは通学路じゃないだろ?」
「友達の家がこっちにあるの。夕飯までには帰るってお母さんに言っておいてね」
彼女は三つ編みを靡かせつつ、楽しげな足取りでてってと駆けて行った。日々の生活の閉塞感に苛まれつつあった彼にとって、彼女の笑顔はきらきらと輝いて見えた。距離を置きたいと思いながらも、中学生にもなればきっと自分や家族に反抗するようになるのだろうと、どこかしら残念に思う気持ちになることもあった。
そんな夕暮れの日だった。彼が妹を見送ったのは。
そして当然のように、夕飯前には彼女が帰って来るものとばかり思っていた。考えるまでもなく、それは当然のことだったので疑うことすらしなかった。しかし、夜九時を過ぎても玄関で馴染んだ物音が響くことはなく、仕事から帰って来て入浴を済ませた母も「変ねえ」と遅い帰宅を訝しんだ。家の中に留まる静謐を切り裂いたのは、一本の電話の音だった。…どうせ友人宅で長居し過ぎた美緒が電話して来たのだろう。彼はそう思おうとした。僅かに嫌な予感がしていた。
電話は病院からだった。
怪我をしていると聞かされ、彼は母親と共に妹を迎えに行った、病院までは自動車で二十分程度に距離にある。けれど途方もなくその二十分が長く感じられて、彼は息を潜めた。
病院に到着し、指定された病室へと向かう。ベッドに美緒はいた。頬は痛々しく晴れ上がっていた。事故にでもあったのか。暴行を受けたのか。彼は母親の隣で聞いていた。母親は取り乱していた。彼は美緒のすぐ傍に近寄り、彼女に声を掛けようとした。反応はなかった。
医師は言う。美緒さんは性的な暴行を受けたようだと。そんな馬鹿な、と彼は医師に詰め寄ろうとした。美緒がどうしてそんなことをされなくてはならない。他にも女子児童はたくさんいたはずで。それにそう、彼女はまだ小学生なのだと。おかしいではないかという言葉が喉元まで込み上げてきていた。けれど彼は、母親が大きく膝から崩れ落ちるのを見た。彼女は彼以上に現状を嘆いていた。だからこそ、自分だけでもしっかりしていなくてはならないような気がして、彼は堪えた。
その話は帰宅後、すぐに父親にも伝えられた。
父親も母親も号泣した。「傷物よ」と母親は言った。中学生だった幹靖にもその意味は理解出来て、その言い方に彼は無性に苛立った。反応こそなかったが、美緒もその場で聞いていたというのに何てことを言うのだろうと憤りを感じた。その場で抗議したものの、後日母親は、
「どんなに言い繕ったって、世間様はそうとしか見てくれないのよ」
と悲しげに言った。言い返そうにもどう言ったらいいのか分からず、彼は黙り込んだ。これでは美緒を傷物だと認めていると同じことだと分かっていても、喉から言葉が出て来なかった。悲しく、そして無力だった。部屋に閉じこもる美緒に、声を掛けてすらやれなかった。
いったい何と言えば良かったと云うのだろう。「汚されてなんかいない」。美緒は美緒のままだろうに。けれど彼が否定したところで、両親も、世間も、彼女を腫れ物のように扱った。彼の中途半端な態度も、彼らの腫れ物扱いと何ら変わりなかった。
「…お兄ちゃん、私って傷物なの?汚いの?」
「美緒…」
家に押し掛けるマスコミ。小学生の性的暴行事件。おまけに犯人は未だ捕まらないときている。格好のネタだ。世間に晒される「傷物の娘」。テレビではニュースキャスターが怒りの言葉を口にする。そう思うなら今すぐこの放送をやめろ!けれど本心から傷物でないと思っているのなら、そこまでして邪魔することはないじゃないかと受話器の向こうで下卑た記者が口にした。思わず叩き切ったのち、彼は跪いた。認めたくなくとも、彼の中にも襲われたことを恥だと肯定する概念が存在していた。それは美緒を一家の恥と思っている両親と同じだった。涙が出た。止まらなかった。どうしたらいいのか分からなかった。
…今思えば、彼だけでも何事もなかったかのように接してやれば良かったのだ。
けれど家の中で擦れ違えば、美緒は恐怖からか身体を震わせた。彼女にとっては、彼も自分を襲った卑劣な男と同じだった。「同じ性」。すぐに謝ってはくるものの、無理をしているのは明らかで、彼は男という生き物を初めて疎ましく思った。なんて馬鹿な生物なのだろうとやり切れない思いに駆られた。
そしてある日。美緒は自分の腹部に鋏を突き刺して死んでいた。
彼女の死体の傍には、彼宛のプレゼントが転がっていた。…彼女が事件に巻き込まれた日に買っていたものが。
”誕生日おめでとう”
事件のいざこざで、忘れ去っていた彼自身の誕生日。
「美緒……」







「…みっちゃん、みっちゃん」
「…和、雄?…」
ぼんやり映る和雄の顔。差し伸べられた手。反射的に払い除けて、我に返る。
…夢を見ていたのか。ひやりと濡れて冷たい頬。…何故今頃になって思い出すのだろう。夢で泣くなんて和雄のことを言えたものじゃないなと思いながら、窓の隙間から漏れ出す冷気に身を震わせる。間もなくして和雄の手を拒絶してしまったことを思い出す。
「あ、悪い。和雄、つい…」
「…嫌な夢見たんでしょ、全然気にしてないよ、みっちゃん。…」
和雄は俯いたまま微笑んでいる。どうやら怒ってはいないようだ…幹靖は布団から抜け出し、顔を洗うために洗面所へ向かおうとした。見てはいないが肌の感触からいって相当酷いことになっている。すると和雄がひょっこり後を付いて来て、部屋の中に春弥も雫も居ないことに気がついた。…一人にしては危ないか。
洗面台。鏡を見つめ、つくづく今の自分に嫌気が差す。美緒にあのような死に方をさせてしまったのに、自分は何をしているのだろう。